益子探訪2017



 益子探訪2017〜濱田庄司参考館、ワグナー・ナンドールアートギャラリー、西明寺
 ・焼物の有名な産地の多くは西日本にあるが、益子は関東にあって著名な焼物の産地である。
とはいえ、何分神奈川県からは、遠隔地であり、出かけてみたいと思ったことはなかった。
この間、2008年に出版された下村徹「ドナウの叫び ワグナー・ナンドール物語」(幻冬舎)という本を読み、ワグナー・ナンドールというハンガリー出身の彫刻家のギャラリーが益子にあることを知り、機会があれば一回出かけてみたい、という気持ちになったものの、実現しないで推移していた。
東西冷戦の終結により、ポーランド、チェコ、ハンガリーなどが共産主義の鉄の鎖から解放され、東側陣営の"東欧"から本来の"中欧"(Mitteleuropa)諸国が復活した。戦後これらの国の国民を苦しめた共産政権とソ連軍の蛮行を想起し、「本当によかった」、という感想を持った。
その2年後に、ハンガリーのブダペストや古都エステルゴムを訪れる機会があった。当時の経済情勢は厳しかったはずであるが、国民生活の状況を肌で感じる、などということは足かけ3日程度の滞在で分かるはずもなく、ただ、ブダペストの町では、フォリントの信用が地に落ち、専らドイツマルクが好まれている実態に接し、自由主義経済として自立していく道の険しさを想像せざるを得なかった。このときの好感度の高かったハンガリー経験が、この本に関心を持った理由だったと思われる。
・その後、終末期医療とスピリチュアル・ケアに尽力している益子の西明寺という寺院の住職に関するテレビ番組を見るに及び、ワグナー・ナンドールのギャラリー、古刹西明寺と陶芸家濱田庄司参考館を巡るという形での、日帰り益子行きを計画した次第である。
ルートは、在来線を利用し、大船(東海道線)⇒小山(宇都宮線)⇒下館(水戸線)⇒益子(真岡鐡道)と、4時間弱を要し、往復で8時間近くを乗り物の中で過ごした。新幹線利用でも片道15分早まるのみである。
早朝に当地を出発しても、益子到着は11時頃となり、陶器市の期間中に行ったところで、店舗を見る時間は殆どとれないことから、むしろ混雑する陶器市開催期間を外し、10月中旬に日程を設定した(2017年秋の陶器市は、11/2〜11/6)。

 [ も く じ ]

濱田庄司記念益子参考館

ワグナー・ナンドールアートギャラリー

西明寺


 濱田庄司記念益子参考館
・益子の地名は、中世から戦国末期まで、宇都宮氏の郎党益子氏がこの地域を支配していたことによる。
益子において、陶器の製作が始まったのは江戸末期であるが、甕や擂鉢、土瓶などの台所用日用品・生活雑器がつくられていた。益子ではとりわけ土瓶の生産が盛んだった。
大正の末になり、柳宗悦やバーナード・リーチと親交のある民芸運動の陶芸家、濱田庄司(1894〜1978)が益子に本拠を置き、益子の土を生かした独特の花器・茶器などの作品を作り出し、全国的に知られるようになった。
濱田が益子を選んだのは、その直前まで滞在した英国が、田舎を大事にしていることを目の当たりにし、自分も「日本の田舎を大事にしよう。そのうえ焼物屋というものは、田舎にあって、まだ純粋で筋の通ったものがあるはずだから」(濱田著「無尽蔵」1974)、と考えたからだという。また、濱田の作品の中には、沖縄陶器やちむんの雰囲気を感じさせるものがあるが、若い頃沖縄の壺屋焼を学んだことと関係があろう。
「私の陶芸の仕事は、京都で道を見つけ、英国で始まり、沖縄で学び、益子で育った。」(「無尽蔵」)
濱田は、第1回(1955年)の重要無形文化財保持者(人間国宝)、1968年の文化勲章受章者である。また、1961(昭和36)年の柳宗悦没後、日本民藝館(東京駒場)の第2代館長に就任している。そして、1977年(昭和52)年には自ら蒐集した(参考にした)日本国内外の民芸品を展示する"濱田庄司記念益子参考館"(ホームページは、こちら)を開館した。
・現在の益子には、多種多様な作風の陶芸家が窯を構え、その数は現在約250という。陶器店は50店。
春・秋の年2回陶器市が開かれており、来場者は、期間の長い春を中心に年間60万人以上が訪れる、全国的にも規模の大きい陶器市だ。

濱田庄司記念益子参考館の画像 (写真はクリックで拡大します)
正面アクセスと1号館
   
参考館正面
左が受付・売店、右が1号館
  参考館入口
木造瓦葺平屋建の長屋門
書は濱田庄司氏
  参考館入口の配置図
   
1号館入口  1号館展示室内部  同左
1号館内部(1949年の写真)
(左から濱田54才、柳宗悦60才、
河井寛二郎59才)

2号館、3号館
   
2号館(石蔵)  2号館入口  2号館内部
(西洋・オリエントなどの蒐集品)
   
2号館内部  3号館(石蔵)  3号館内部
(日本、中国・アジアなどの蒐集品)
 
3号館内部  同左・沖縄の厨子甕(注)
(注)風葬後洗骨した遺骨を納める容器。柳宗悦や濱田庄司らにより、沖縄陶器としてその芸術的価値が認められるようになった。

濱田庄司館
   
濱田庄司館を望む  濱田庄司館全景  濱田庄司館入口(長屋門)
   
濱田庄司館内部
濱田庄司の作品や交流のあった
作家の作品を展示
  同左  同左
濱田庄司館内部

4号館(母屋)、登窯
4号館は、「上ん台(うえんだい)」と呼ばれた濱田庄司の別邸を展示棟としたもので、家具や食器類などの蒐集品を
展示。土間は、濱田デザインのテーブルや椅子などで、珈琲、紅茶、抹茶等を提供する茶房になっている。
   
4号館
1942移築した茅葺母屋(342.67u)
(1850年頃築)
  同左  同左
   
4号館の前庭  4号館内部  同左
   
4号館内部  登窯(塩釉窯、1954築造)  登窯(益子町文化財、1943年築造)


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 ワグナー・ナンドールアートギャラリー

・ワグナー・ナンドール(1922〜1997)は、ハンガリー出身の彫刻家である。ワグナーは、幼少の頃、祖父からロシアに勝った日本のことを聞き、新渡戸稲造の「武士道」を、著名な医師だった父親からは「老子」を贈られたことにより、日本に大いなる関心持っていた。
彫刻や絵画に抜群の才能を持っていたワグナーはブダペストの美術大学へ進学したが、在学中第二次世界大戦に従軍し重傷を負い、戦後は共産主義支配の下、1956年のハンガリー動乱に際してスウェーデンへ亡命した。過酷な亡命生活の中で日本人女性秋山千代と出会い、障碍を乗り越え1966年に結婚、1969年には日本(栃木県益子町)へ移住し、翌年アトリエを建設、生涯日本で活動した。この間、1975年には日本に帰化し、日本名を和久奈 南都留と称した。
なお、ワグナー・ナンドールの祖父は、オーストリア・ハンガリー帝国の皇帝フランツ・ヨーゼフのハンガリーにおける侍従武官長、祖父の弟は、19世紀末から20世紀初頭にかけて活躍したウィーン分離派の建築家、あのオットー・ワーグナーである。
・ワグナー・ナンドールアートギャラリーは、ワグナーがアトリエの敷地内に構想していた、「禅の廊下」と呼ばれる展示室(200年9月完成・開館)、並びに野外の彫刻群などの総称である。益子の陶器関係の店舗などが集まっている通りを少し外れた丘の上にある。
一般公開は、陶器市の期間を含む春秋の年2回、各1ヶ月間行われている(4/15〜5/15、10/15〜11/15)。
なお、当ギャラリーの建物内は、全て撮影禁止であり、職員の案内の下で、一定の順路に沿って見学するようになっている。作品展示室の内部については、ホームページで閲覧できる。
時間があれば、千代夫人に貴重なお話をお伺いできたのであろうが、スケジュール的に無理だったのが残念だった。ここでは、最近の大変よくできたインタビュー記事を紹介しておきたい(こちらから)。夫人は、とても88才に見えず、穏やかな笑顔が印象的だった。


(写真はクリックで拡大します)
   
正面アトリエ・DVD視聴室とテラス  学生寮  母子像
   
茶室入口  茶室と池  1階展示室("禅の廊下")入口
   
2階展示室  展示室出口側  2階展示室(出口側から)
手前は宮本武蔵像
   
2階展示室全景  芝庭と滝を望む  詩人 ヨーゼフ・アティラ像
・益子での生活が安定したワグナーの代表的な作品として、<哲学の庭>と呼ばれる彫刻群がある(1977年制作開始、1994年完成)。
ワグナーが、その思想を具現し、彫刻家としてなすべき仕事として取り組んだもので、平和を希求し、日本人と世界に告げるものとして制作された。
哲学の庭のワグナーのメッセージ。
「私は文化、宗教などの相違点よりも各々の共通点を探しているのです。 共通点を通してしかお互いに近づくことは出来ないのです。」
 以下は、<哲学の庭>に関するワグナーによる解説である(ホームページによる)。
「第一の輪は、中心点に集まる完全な輪で、これは異なった文化を象徴する人々で、思想を作り世界の大きな宗教の祖となった人物像です。各宗教の中心は、それぞれ、神、仏、イシュタール、アラー等々、名は異なりますが、それ自身違いはありません。
哲学の庭-1(クリックして拡大) 哲学の庭-2(クリックして拡大)

 第二の輪は、文化、時代は違っても同じように悟りの境地に達して同じようにそれぞれの社会で実践し同じように成果を得た人々、すなわちガンジー、達磨大師、聖フランシスがこのグループです。
 第三の輪は、法の輪で、異なった時代に於いて各々法を作り、現存する法律の主流を作った人物、ハムラビ、ユスチニアヌス、聖徳太子像です。
 この道は人類の進歩を示し、時代と共に新しい人類共通の法を作る問題を投げかけ、考える道を開いています。私は悲観論者ではありませんが、21世紀になってもこの問題は解決されるとは思いません。 しかし私はこの方向に向かって進むべきだと確信するのです。」
   
聖フランシスコ  達磨大師  ガンジー
   
ユスティニアヌス  ハムラビ  聖徳太子
 
アブラハム  モーゼ
<哲学の庭>は、2001年10月、ワグナー・ナンドール関係者の尽力により、ブダペストのブダ地区ゲレルトの丘の一角にも建立された。また、2009年に日本とハンガリー外交関係 開設140年・国交回復50周年の記念事業の一環として、レプリカが、東京中野区の<哲学堂公園>に設置されている。

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 西明寺
・西明寺は、益子町中心部の南2km程の山腹にある真言宗の寺院である(山号独鈷山、院号善門院)。
天平年間(729〜749年)行基の開山、紀有麻呂の開基によって創建されたと伝えられる名刹であり、坂東三十三箇所第20番札所となっている。
境内は、天然記念物の椎林叢、ブナなどの樹木に覆われた"獨鈷山"という小さな山であり、当山全体が"県立自然公園"に指定されている。また、中国原産の珍しい"四角竹"の竹林もみられる。
益子駅からは、益子の中心部へ向かう途中の城内坂という信号を右に入る。農道を拡幅したような狭い県道から境内に入ると、まず普門院診療所(後述)があり、さらに鬱蒼とした森の中を登ると中腹の駐車場広場に着く。広場の周辺に信徒会館、庫裏、休憩所が置かれている。休憩所は、獨鈷處(どっこいしょ)という名前で軽食・喫茶が用意されており、札所の窓口が設置されている。当山の御朱印は、人気のようだ。
なお、西明寺のホームページはここから

診療所〜中腹広場
(写真はクリックで拡大します)
   
普門院診療所
19床、緩和ケアも行う。
  中腹の広場=駐車場と信徒会館  天然記念物の楠(広場の脇)
   
庫裏  獨鈷處
休憩所で、喫茶・軽食を提供
  札所
   
四角竹の竹林(参道階段右手)
四方竹とも、中国南部原産
  四角竹  四角竹切り口

参道〜楼門(山門)
   
参道の階段登り口  天然記念物椎林叢の説明板  参道周辺の椎林
   
参道周辺の椎林  楼門(室町時代)
唐様式、国指定重要文化財
  楼門の扁額

三重塔、鐘楼堂、弘法大師堂
三重塔は、益子城主益子家宗の建立で、和様、折衷様、唐様の三様式。相輪には、「天文七歳二月吉日」の銘があるという。天文7年は1538年。関東甲信越四古塔のひとつであり、国指定重要文化財。
   
三重塔  三重塔相輪  鐘楼堂
梵鐘は、1671(寛文)鋳造。
 
弘法大師堂(江戸中期)
全て近郷の信者から寄贈された、
石造りの弘法大師像。
  高野槙(本堂横、向かって大師堂の左)
天然記念物 樹齢800年、高さ30m。

閻魔堂
西明寺で一番有名なところ。通称笑い閻魔と呼ばれる閻魔大王の左に悪童子、右に善童子が、それら三体の左に「奪衣婆」(だつえば)、右奥に地蔵尊と五体の仏像が並んでいる。恐ろしい姿の「奪衣婆」(だつえば)は、亡者の衣服を剥ぎ取って、三途の川の岸辺に生えている衣領樹という木にかける老婆だそうだ。また、閻魔は、地蔵尊の化身と言われ(悪魔が脱天使というのに似ている ?).、救いのためには地獄にも行くということを示しているらしい。扉は閉鎖されており、左の格子から見学する。
   
閻魔堂(寄棟造り、茅葺、江戸中期)
(西明寺ホームページによる)
  閻魔堂内部  笑い閻魔
 
善童子右奥の地蔵尊
(格子から覗くとこれが限界)
  左奥に奪衣婆

本堂他
1701(元禄14)年の大改修で現在の形になった。本堂内部の本堂厨子は、国指定重要文化財。
内陣に安置されている仏像は、いずれも鎌倉時代の作で、聖観音菩薩、馬頭観音菩薩、千手観音菩薩、延命観音菩薩、如意輪観音菩薩、勢至菩薩の6 体。
   
本堂  本堂扁額  本堂前で高僧が祈る場所のようだ
   
悲母観音(本堂裏)  萬霊供養塔(本堂前)  水子供養
(参道階段登口右の竹林の中)
・さて、当山の住職は、医師でもある田中雅博という僧侶が務めていたが、2017年3月に亡くなった(1946年生まれ、享年70才)。
田中前住職は、父である当寺院住職の勧めにより慈恵医科大学を卒業、内科医師として国立がんセンターで、進行がんの患者を担当し、死と向き合う経験をしていた。36才のときに当時の住職が亡くなり、急遽住職を継ぐことになったため、がんセンターを退職、大正大学仏教学部に編入学し、博士課程まで修了した人物である。
・前住職は、仏教は釈尊以来いのちの苦しみのケアを行い、病の人に安心(あんじん)を与えるのがその役割であり、江戸時代までは、病者を癒す役割を果たしていたという認識の下、寺が医療を担っていた仏教の伝統を復活させたい、との強い思いを持っていた。病室において、不治の病の患者が、医師と修道女に見守られている、ピカソ16才の作品「科学と慈愛」(1897)を理想としていたという。
そして、1990年には、その理想、すなわち「仏教と医療の再結合」を実現すべく、境内の一角に入院病床を備えた仏教ホスピスとしての診療所(普門院診療所)を設け、終末医療とスピリチュアル・ケアの活動を続けてきた。境内近傍には、介護施設も設置。
この間、1992年には、尊厳死と臓器提供を望む患者の意思を実現し、その行為が医学界や宗教界から猛烈な批判を浴び、訴訟を起される事態にまでなったが、6年後に臓器移植法が成立し、不起訴になった。結果として、尊厳死と臓器移植を我が国の社会に定着させる先駆者の役割を果たした。
・前住職は、スピリチュアル・ケアは、医学の分野ではなく宗教者の担うべき分野であり、それがないことが我が国医療の唯一の欠点である、欧米の医療機関に必ず配置されている、スピリチュアル・ケアワーカーを日本でも制度化するべきであると、強く主張してきた。
わが国ではキリスト教系の病院やホスピスが少なくなく、それらの施設では、聖職者がチャプレンとして配置されているが、仏教(寺院)系の医療機関にあっては、スピリチュアル・ケアに真剣に取り組んできたわけではないようだ。ただ、わが国でも東日本大震災以降、東北大学を中心に、チャプレンを邦訳した「臨床宗教師」の必要性が主張され、宗教・宗派に偏らない形で「日本臨床宗教師会」が設立されている(注)。2018年からは、同会による資格認定制度が発足する運びとなっているという。
     (注)2016年2月設立、事務局は東北大学、会長は、島薗 進上智大学教授。島薗教授は、宗教学者(東大名誉教授)で、
        上智大学グリーフケア研究所長。田中前住職は、同会の顧問を務めていた。

わが国では、仏教が医療やいのちの苦しみへの対応(スピリチュアル・ケア)から離れ、「葬式仏教」視されていることは、紛れもない事実であり、病院に僧侶が現れたら、"縁起でもない"と、違和感を持たれ、「お寺で病院??」という怪訝な反応をする向きもあるのではないか。まず、その克服が必要であろう。このような中で、西明寺は稀有な存在と言えよう。
・NHKでは、過去何回かにわたって、田中住職兼医師の活動を取り上げてきたが、末期がんに侵され、余命2〜3ヶ月とされた2017年1月に、Eテレの番組「こころの時代」で、「いのちの苦しみに向き合って〜がんになった僧医の遺言」というタイトルでの放映があった。前住職の半生を中心に、自らががん患者として主宰する、「がん患者語らいの場」(メディカルカフェ@西明寺)という最近の活動などを、1時間に纏めたもので、日本の仏教界にも立派な方がおられるものだ、と感動させられた番組である。

田中前住職の主張とその活動、そしてがんを宣告されたからの生き方等については、下記の著書を参照されたい。
[田中雅博僧医の著書]
1 「いのちの苦しみは消える 医師で僧侶で末期がんの私」(2016.3、小学館)
2 「軽やかに余命を生きる」(2016.5、 角川書店)
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