長崎世界遺産2016

 長崎 2016・世界遺産など



  [ も く じ ]

はじめに

世界遺産「高島炭鉱」

 1.高島炭坑 2.端島炭坑(軍艦島) 

世界遺産「長崎造船所」

長崎市街(1)

 1.南山手(グラバー園、大浦天主堂) 2.桜町、長崎駅周辺 

長崎市街 (2)

 1.平和公園と城山小学校 2.浦 上 (1) 3.浦 上 (2) 

外海、西海 (西彼杵半島)

 1.外海とド・ロ神父 2. 外海の世界遺産候補と関連施設 3. 西 海 4. 西彼杵半島の産業施設 




 はじめに

長崎の世界遺産
 2015年7月、「明治日本の産業革命遺産 製鉄・鉄鋼、造船、石炭産業」というタイトルの世界遺産が登録された。その構成資産には、長崎において日本の近代化を産業面から牽引した、かつての石炭産業の跡や現在も稼働している造船設備とその関連資産などが含まれている(公式ホームページは、こちら)
 実は、長崎では「産業革命遺産」が話題に上る前から、長崎に熊本・天草を加えた地域におけるキリスト教関連遺産の世界遺産登録へ向けての準備が行われており、文化庁の審議会も「長崎の教会群とキリスト教関連遺産」として、いわゆる「信徒発見」150年に当たる2015年のユネスコ推薦案件とすることに決定していた(関連ホームページはこちら)。
 ところが、同年の推薦案件決定の最終段階において、内閣官房の意向により「産業革命遺産」に決定された。政治が前面に出たという印象である。我が国では、世界遺産登録を観光客増加を梃子とする地方振興のためのものと考える向きが多く、登録案件が多くの県にわたる「産業革命遺産」の方が、「地方創生」の趣旨に沿ったものと考えたのであろう。

「教会群」は再申請へ
 一方、「教会群」に関しては、2016年登録案件としてユネスコに推薦され、 ICOMOS(ユネスコ世界遺産委員会の諮問機関)の現地調査も行われたが(2015年9月)、説得性に難があったようであり、取り下げの上、再申請を行うこととなった(2016年2月9日閣議決定)。
 長崎県の発表によれば、2016年1月のICOMOSの「中間報告」において、以下のような指摘があった。
すなわち、「『教会群』には潜在的に顕著で普遍的な価値があると考えられるものの、個別の構成資産が、全体の価値にどう貢献しているか、評価基準を満たしているかどうかの証明が不十分であり、2世紀にわたる禁教という日本のキリスト教コミュニティの特殊性に焦点を当てた形で推薦書を見直すべきだ」、「速やかな再推薦がなされ、良い結果が得られるよう、ICOMOSは、アドバイザリー・ミッションの派遣を含め、助言と支援を行う用意がある」、というものである。
教会堂が全て破壊されたことから、禁教期の目に見える遺産は少なく、構成資産が信徒発見後の教会堂が中心になっている点を突かれたようだ。県としては、ICOMOSと アドバイザリー契約を結び、指摘の線に沿って、構成資産の見直し、推薦書の練り直しなどを行い、2018年の登録実現を目指すとしている。時期はともかく、明快で迫力のある説明振り(ストーリー)が提示されれば登録は可能ということであろう。

「観光開発の手段化した世界遺産」は反省を
 「教会群」の関係自治体は、今夏の登録を前提に、ガイド養成や、駐車場・案内施設の整備などの準備を進め、集客に期待していたところであり、登録申請取り下げの事態に衝撃を受けるとともに、落胆の声が出ている。例えば、長崎市観光政策課は「登録されれば、来年度、観光客が11〜16万人増えると試算していただけに残念」、としているそうだ。
先に触れたように、我が国では世界遺産登録を地域開発の一手段としていることは紛れもない事実である。そして、必ずと言ってよいほど話題になるのがその経済効果である。地元のシンクタンクによれば、「教会群」の経済効果は「200億円は下らない」という。自治体、観光関連業者等はそれに期待しているわけだ。そこには観光開発による負の側面に関するアセスメントという観念はない。
 今回の申請取り下げを巡っては、そもそも世界遺産登録を観光開発の手段として位置づけることへの反省の機会と捉えるべきではないか、と思うのであるが、そのようにはなりそうもない。因みに、先年取下げの措置をとり、再推薦の見通しもない鎌倉でさえ旗を降ろす気配はない。
世界遺産に登録されると、それっ、とばかり物見遊山気分で押しかける観光客も如何なものか。
・実は2008年に、「教会群」の登録準備はかなり進んでいるような印象があり、登録が決まると観光客で混雑すると思い、予てから行ってみたかった五島列島へ出かけた。世界遺産候補旧五輪教会堂(注)のある久賀島へ行けなかったのが残念だったが、他の4 島は回ることが出来た。
   (注)以下で「世界遺産候補」とは、2016年登録案件としてユネスコへ推薦されたいわゆる暫定リストに掲載された施設を指す。
今回は、長崎市内における上掲二つのジャンルの世界遺産(又はその候補)の一部と関連資産を巡ることにした。

「明治日本の産業革命遺産」長崎市内 位置図



2016年推薦「長崎の教会群とキリスト教関連遺産」 構成資産位置図


「長崎の教会群」その後の状況(1017.2.19追記)
 「長崎の教会群」は、申請取下げ後の再検討の結果、これまでいわゆる「信徒発見」以降に建築された「教会堂」が中心であったものを、禁教期のキリシタン潜伏「集落」を前面に出し、構成資産を一部見直しのうえ、タイトルを「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」と変更した(2016年9月)。
2017年2月には、政府の正式推薦状がユネスコに提出済みであり、再度のイコモス現地調査を経て、2018年夏の世界遺産委員会で登録の可否が審議される見込みである。
  新たな世界遺産候補「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」の構成資産は、下記の通り、6市2町(長崎市、佐世保市、平戸市、五島市、南島原市、新上五島町、小値賀町、熊本県天草市)に所在する12資産で構成されることとなった。従前の「田平天主堂」と「日野江城跡」は、禁教期との関連が薄く、候補から外された。
1.原城跡(南島原市)  2.平戸の聖地と集落(中江ノ島)(平戸市)
3.平戸の聖地と集落(春日集落と安満岳)(平戸市)  4.天草のア津集落(天草市)
5.外海の出津集落(長崎市)  6.外海の大野集落(長崎市)  7.野崎島の集落跡(小値賀町)
8.頭ヶ島の集落(新上五島町)  9.奈留島の江上集落(五島市) 10.久賀島の集落(五島市)
11.黒島の集落(佐世保市) 12.大浦天主堂(長崎市)



 世界遺産「高島炭鉱」

 明治維新後の比較的短期間に、我が国が非欧米地域において初めての近代的国家を確立したことは、世界史に特筆すべき事実であり、これを産業面から支え、その基盤となったのが、製鉄・鉄鋼、造船、石炭産業という基幹産業群に他ならない。「明治日本の産業革命遺産 製鉄・鉄鋼、造船、石炭産業」が、世界遺産とされた意味は、ここにある。  
  世界遺産に登録された旧三菱「高島炭鉱」には、二つの炭坑があった。すなわち、高島炭鉱高島坑及び端島坑(いわゆる「軍艦島」)である。
高島は、長崎港南西約15km(航路約20km)の離島であり、端島はその先3kmの人工島である。
高島炭鉱で出炭される石炭は、いずれも良質な強粘結炭であり、製鉄原料や鋳物用原料炭として八幡製鉄所などへ供給され、明治以降の我が国近代化・富国強兵に寄与するとともに、戦後は産業復興に重要な役割を担ってきた。

1. 高島炭坑

・高島では、1695年に石炭が発見され、18世紀初頭に採炭が始まったとされており、幕末の1868(慶応4)年には佐賀藩とトーマス・グラバーの共同事業が開始された。その後、官営を経て1881年以降、大手資本による我が国最古の炭鉱として、三菱財閥が本格的な採掘を開始した。
この間、1869(明治2)年に日本最初の蒸気機関による立坑を開坑、地下43mで着炭し「北渓井坑(ほっけいせいこう)」と命名された。北渓井坑の石炭技術は、日本の炭鉱事業近代化の先駆けとなったといわれており、「高島北渓井坑跡」として世界遺産に 登録された。

・高島坑は、端島坑が1974年に閉山した後も稼行を続け、赤字に苦しみながら1986年に閉山した。閉山までの高島坑の累計出炭量は、およそ40百万トンに達する。 閉山後の島内の炭鉱跡地は、いくつかの坑口跡が残っているものの、立坑櫓や巻揚げ機など炭砿を象徴する設備を始め、従業員用社宅などを含め、何も残っていない。
 歴史的事実としては、高島坑の方が、歴史も古く、累計出炭規模も端島坑の2.7倍近くに及び、我が国における採炭技術上の意義も大きいことから、常識的に言えば、高島の方が注目されて然るべきである。
しかしながら、専ら「軍艦島」として端島が注目され、多くの見学者が訪れているのに対し、「高島北渓井坑跡」へは、世界遺産登録後の週末でも見学者は1日5〜6人程度にとどまっているという。立坑の井戸跡のみで見学対象として迫力に欠けることに加え、長崎港からの定期船(1日9往復)を利用し、港から徒歩25分の距離があるというアクセス問題もあろう。
長崎市高島炭鉱史料館
・高島港に隣接して長崎市高島炭鉱史料館が設置されており、北渓井坑跡からの出土品などのほか、高島、端島両坑の歴史に関する展示が行われている。
長崎港から軍艦島クルーズ(後述)を運行する4社のうち、1社が高島へ寄港し、史料館見学をコースに組み入れている。ここで予備知識を得て、軍艦島を見る、というのは大変オーソドックスな考え方だとは思うが、滞在時間がせいぜい正味20分程度であり、しかも当館は無人で特に説明もなく、展示の前を通り過ぎ、雰囲気に触れるだけで船へ帰る、というのが現実であろう。外部展示の軍艦島の模型見学に時間をかけている向きが多いが、この模型には解説がない。
他の3社は、関心は廃墟観光にあるのだから、ここへは寄る必要なし、という割切りなのだろう。荒天で軍艦島に上陸できないときに、寄ることにしている船社もあるようだ。
(写真はクリックで拡大します。)
   
高島港桟橋  軍艦島クルーズ船
"ブラック・ダイヤモンド"
  長崎市高島炭鉱史料館
   
屋外展示・軍艦島模型
(中央が第二立坑櫓)
  同左・斜坑用人車  同左・バッテリー・ロコ(機関車)

<室内展示>
   
北渓井坑跡コーナー(2階)  煙道遺構(こんにゃく煉瓦積)の写真"  煉瓦積み遺構の写真
   
1階エントランスから  技術コーナー展示の様子  同左
   
2階技術コーナー展示の様子  急傾斜炭層の切羽における
コールピックによる採炭の写真
  2階軍艦島コーナー

2. 端島炭坑(軍艦島)

軍艦島とは
 「端島」は、海底炭坑掘削のために海上に築造された人工島である。外見が軍艦に似ていることから、大正初期に「軍艦島」と呼ばれるようになったが、上空からの写真を見るとむしろ空母に見える。

端島で採炭が始まったのは1870年であるが、1890年に端島の北で高島炭鉱を経営していた三菱に売却され、爾来高島炭鉱端島坑として本格的な生産が始まった。
出炭規模の拡大に伴い、当初の岩礁から、逐次周辺を埋め立てながら護岸堤防の拡張を繰り返し、現在の形になったものである(南北480m、東西160m、面積63千u)。当坑で出炭される石炭は、本邦における最も良質な強粘結炭とされていた。
狭隘な人工島のため、大正以降我が国で初めてという高層鉄筋アパートが建設され、最盛期の1960年には人口5,151人を数える世界一人口密度の高い町であった。

閉山とその評価
 「軍艦島」としての注目度の高さに鑑み、以下端島坑の閉山に至る事情を整理しておく。
・端島坑の自然条件は炭層が急傾斜で機械化採炭には不適であることに加え、深部化に伴い岩盤温度の上昇、ガス湧出量の増加、自然発火傾向の増大等、厳しさを増し、採掘条件は急激に悪化していた。このような状況下、1964年の水没事故により、操業停止、深部放棄に追い込まれた。当時の採炭レベルは9片(かた)SL(平均海面下)-940mで、10片のSL-1,010mレベルの坑道を掘進中であった。

・一方、予てから次期採掘フィールドとして掘削を進めていた、近くの「端島沖区域」についてはSL-1,000m以深と深部化が著しく、到底採算には乗らないことが判明し、この区域での採掘は断念し、西方沖に開発を進めていた「三ツ瀬区域」の残炭量を有利稼行した上、閉山するとの方向となった。
 三ツ瀬区域は、第二立坑-340mレベルからの水平坑道2,345m先で着炭した比較的緩傾斜のフィールドであり、端島としては初めてドラムカッターによる高能率機械化採炭が実現し、1972年には戦後のピーク出炭量である35万トンを記録した。
しかしながら、同区域は海底下の浅部区域で、-340mを基準として浅部へ向けて展開する形となっていた。そして、1973年9月、採炭切羽が海底下120mに近づくに及び、安全に採掘し得る炭量が枯渇し、砿命が尽きたと判断され、1974年1月に閉山した。

・閉山時、当坑の収支は黒字の状態(政府の石炭対策織込み後)だったが、このタイミングで閉山したことは、労・使にとって幸いだったと思う。他の炭鉱では、無理な採炭を重ね、結局大事故・大災害で多くの犠牲者を出した挙句、閉山に追い込まれるケースが多かったのである。我が国最後の大型新鉱開発として1975年から営業出炭を開始した北炭夕張新砿のガス突出事故(1981年)がその典型であろう(犠牲者93名、1982年閉山)。
なお、端島坑閉山時の従業員規模は約2000人を数え、累計出炭量は、1570万トンであった。
   [参考文献] 三菱鉱業セメント編「高島炭坑史」(1989) 上掲「断面図」は同書による。


軍艦島の現況
 島内のレイアウトについて、簡単に触れておこう。
島は、中央の明治期以来の小高い山により二分されている。すなわち、炭坑の中枢部門たる総合事務所以下、繰込所、入昇坑設備を始め、石炭生産に関わる全ての陸上設備や石炭搬出設備並びにドルフィン桟橋が野母半島側の南東半分に集中し、いわば業務ゾーンを形成していた。一方、住居、福利厚生、利便施設が外洋に面した反対側に配置されていた。海に面して高層住宅群を配置したのは、波除けの意味合いがあったようだ。学校、病院は、島の北東端、プールが南西端に置かれていた。
 上掲の閉山時のレイアウト図を参照しつつ、軍艦島の現況を見てみよう。

・海上から見た軍艦島
 高島を出港すると、小さな島が見えてくる。軍艦島から700m程の「中ノ島」という無人島で、明治中期に炭鉱があったが、短期間で閉山し、その後は、軍艦島関係の墓地と火葬場が置かれていた島である。
他社船が桟橋に停泊しているので、島に向って右から左回りに島の外周を見ながら一周して、桟橋へ向かう。
(写真はクリックで拡大します。)
   
手前「中ノ島」と軍艦島を望む  桟橋のある南東側全景
(野茂半島側、業務ゾーン)
  北東側全景(左学校RC7F
手前病院RC4F)
   
北西側(半島の反対側で外洋に面す
住宅、福利厚生、利便施設を配置)
  住宅群  30号棟(RC7F右)と31号棟(RC6F左、
住宅・浴場・郵便局)
   
南西端付近  南端付近  総合事務所前

・ドルフィン桟橋と周辺、護岸
 水深が深く、潮流も早いため上陸には苦労したようだ。ドルフィン桟橋は過去2回破損しており、現在の堅固な桟橋は1962年に構築されたものである。
上陸に際しては、本船が用意した上陸用のステップを渡し、スチールの手摺りを嵌めて安全に下船できるようになっている。海上の橋を渡り、護岸をトンネルでくぐって島へ入る。ただし、風速5m超、波高0.5m超の場合は、ドルフィン桟橋が使用できなくなるため、季節によりかなりの変動はあるものの、相当程度上陸できない場合がある。
   
堅固につくられたドルフィン桟橋
(本船が接近中)
  本船が用意した手摺り付のステップ
を渡って乗降する様子
  海上の橋を渡り、護岸をトンネルで
くぐって島へ入る
(明治期の石積みの護岸が見える)
   
護岸と積出し桟橋跡  崩壊した護岸とその内側  護岸内側の瓦礫
中央の構築物は積出し設備跡
   
明治期の石積み護岸遺構
(内側、総合事務所前)
  同左  同左

・島内の主な遺構
 島内の見学ルートは、南側外周部の一部に限定され、内部には入れない。見学通路は、舗装がしてあり、歩きやすい。車椅子の見学も可能である。
 ところで、坑内掘り炭鉱は、閉山すると坑口は密閉され、主要な生産設備である地下設備(切羽や坑道など)は、完全に「埋め殺し」状態になる。地上設備としては通常、管理事務所や繰込み所、入昇坑設備(立坑、巻揚機)、通気設備(扇風機など)、選炭や搬出用設備と港湾関係設備などが残される。
しかしながら、炭鉱の地上設備で、最も目に付く立坑の櫓は、ここでは見当たらない。閉山時の配置図によれば、人員の入昇坑あるいは入気の役割を担う第二立坑へ向かう「二坑口桟橋」という南北にかなり長い建物があったが、繰込み所から階段で登って来る部分が残っているだけである。これ以外の生産関連の設備としては、貯炭場のベルトコンベアーの支柱部分が残っている他、廃墟化した仕上工場、ブロワー室、選炭場の建物の一部が残っているだけである。
   
総合事務所前(赤煉瓦の建物)  繰込所からの階段と僅かに残る
第二竪坑へ向かう桟橋
山上は、貯水槽と灯台(閉山後設置)
  同左を拡大
   
貯炭ベルトコンベアの支柱の列  ブロアー機室  選炭機建屋
   
端島小中学校(RC7F、1958築)  3号棟
(職員社宅RC4F20戸、1959築)
  30号棟(鉱員社宅RC7F140戸、
1916築=最古)、左は、31号棟
プールの跡
世界遺産として保存すべき "産業革命遺産" とは何か
・坑内掘り炭鉱の歴史的価値、すなわち世界遺産としての価値を明らかにするには、残された生産関係の設備を丁寧に保存、場合によっては復元すること、それによって厳しい自然条件下での石炭採掘の技術・設備、保安、労働等そのありようを浮き彫りにすることによってのみ可能と言える。端島においては、地上の生産設備に加え、立地特性から島を形成する護岸が加えられる。
 しかしながら、上の画像に見る如く、現状は原爆で倒壊した長崎市内の映像を思い起こさせるほど廃墟化が進んでいる。台風を始めとする自然の力は、原爆にも匹敵する凄さであることを示す遺構を見たというのが率直な印象である。一体どこが明治の近代化の基盤となった世界遺産としての石炭産業設備なのか、単なる廃墟ではないか、という感じを持つ方が自然であろう。
・とはいえ、堂々世界遺産に登録されわけであり、今後その趣旨に沿った保全に努めることが不可欠である。問題は、その方向である。
ポイントは、石炭生産において重要な要素である「人」、「石炭(すみ)」、「空気」に即して、現在残されている施設を、それぞれの流れに即して位置づけ、保全することである。
「人」:坑内に入る場合、繰込み所で必要な装備を身に着け、二坑口階段を上り、「桟橋」を通って第2立坑へ向かう。ここまでの施設はわずかではあるが、残っているので、これ以上破壊されないよう確実に保全する。立坑櫓や巻揚室は影も形もないがやむを得ない。
「石炭」:切羽で採掘された石炭は、最終的に第2立坑から地上に搬出され、「選炭」の上、ベルトコンベアにて貯炭場に運ばれた。第1見学広場前には、選炭機室の建屋が辛うじて残っている。貯炭ベルトコンベアの土台は比較的目立つ形で残っている。石炭は、護岸際の積込室から、クレーンで本船に積み込まれたが、積込室の基礎らしい構築物は残っている。
「空気」:空気がなければ、坑内作業は1秒たりとも出来ない。「通気」に関する施設としては、やはり第1見学広場前にブロワー機室建屋の一部が残っている(排気に関しては、第4立坑であるが、何も残っていないようだ)。
世界遺産として保全すべきは、以上の施設しかないのである(護岸を別として)。  
 因みに、今回同時に世界遺産に登録された三井三池炭鉱の場合を見ると、炭鉱のランドマーク的存在である立坑櫓及び巻き揚げ機室が、軍艦島と違って、放置されることなく良く保存されており、国の重要文化財に指定されているほどである。しかしながら、当坑においては、閉山した後、地上の建物、機械設備などを保存するという観念はなく、また市街地に近ければ周辺環境への影響などから取り壊しが行われるところ、そのようなこともなく放置され、結果として島全体が廃墟化したという実情の結果なのである。
保全費用の考え方
・ところで、長崎市は、世界遺産としての保全にかかる費用について、生産設備のみの10億円台から、アパートなどの建物を含む現状通りの保全を前提とする最高158億円という膨大な金額まで、いくつかのケースについての試算を公表している(2014年3月)。ここでは、世界遺産としての保全費用と、観光資源としての軍艦島全体の保全費用という考え方が区別されていない。もともと、「廃墟」=「観光資源」=「世界遺産」といったシェーマがあったよう窺え、何故に端島が世界遺産たるのか、よって何を保存すべきか、といった基本的考え方が希薄だったのではないか。そうでなければこのような試算は出てこないと思われる。
而して、軍艦島の世界遺産をどう保全するか、という課題について、上述の産業遺産をいかに保全するか、という観点よりも、観光的に集客効果の大きい高層アパートの保全策に関心が向いていると言わざるを得ない。
・離島である以上生産に不可欠で、上記3要素の「人」の生存にかかわるとはいえ、閉山後放置し、廃墟化した社宅(建設は大正期以降)や学校の建物は、本来世界遺産の趣旨からは外れるものであり、「軍艦島」全体が世界遺産であるかの如き印象を与えるのは、世界遺産としての本質を見誤らせるものである。観光資源として価値があることとは別問題である。
結論としては、世界遺産の趣旨から外れた資産の保全に多額の予算(税金)を投ずる理屈はなく、アパートに関しては、東京の同潤会アパートより古い建物もあるわけで、建築遺産として、産業遺産=世界遺産とは別途の議論をするべきである、ということになる。
なお、その後の調査の結果によると、最も古い30号棟(1916年築、地上7階、地下1階建)他数棟につき、現在の技術では保全不可能との報告がなされている(2015年5月)。
廃墟を見る視角〜明治の産業遺産よりも昭和の産業構造転換の影としての遺産
 現状の軍艦島に、世界遺産と言えるような資産が残っているかどうかについては 疑問を持つにせよ、廃墟化しつつも現在残っている産業革命遺産の趣旨に沿った施設について、これ以上廃墟化することのないよう、保全することは当面の課題であろう。
しかしながら、軍艦島の遺構は、明治の産業革命遺産もさることながら、そしてアパート群が演出する異様な外観の観光資源としての価値による観光は論外として、戦後の我が国産業の構造転換の象徴として見るべきものなのである。すなわち、エネルギー革命に伴う我が国産業構造の転換例は、石炭産業のみならず、繊維、アルミ精錬などいろいろな業種を挙げることができるが、石炭の場合ほど厳しい環境におかれた産業はない。
資本や労働が簡単に変化するという経済モデルからしか経済を見ていない学者やエコノミストは 、「構造転換の結果」などと言って済ましてしまうであろうが、ここは生身の人間が多数従事し、戦後復興と高度成長の礎となった我が国石炭産業が、エネルギー革命により衰退して直面した、最も苛烈な構造転換の影の部分の現場なのである。世界遺産云々とは別に、かつて日本を支えた石炭鉱業という基幹産業の廃墟が残されているのは、産業遺産としてそれなりに貴重なものであることは間違いない。また、そのような観点からすれば、30号棟が日本で一番古い鉄筋コンクリート造りのアパートである、といった事実は大きな意味を持ち得ないことは理解できよう。
軍艦島クルーズと長崎港
・端島はを所有することとなった長崎市は(注)、廃墟を観光資源として積極的に活用すべく、見学通路等を整備し、2009年4月から、島内の一部に上陸が可能となった。
     (注) 2001年、当時の高島町に無償譲渡された。同町は2005年に長崎市へ編入された。
それ以来、折からの廃墟ブームにより、更に世界遺産登録を受け、見学者が著増している。民間の船会社による"軍艦島クルーズ"も盛況である。
軍艦島クルーズは、現在長崎港から、4社が毎日午前、午後の2便態勢で運航しているが、出発する桟橋はそれぞれ違うので注意を要する。また、端島対岸の野母崎からも1社が運航している。
一方、このクルーズ船に乗ると、長崎の町や産業施設等を海上から展望することができるので、長崎港巡りを楽しむこともできる。
・長崎港は、幅500m程度の入口から奥に入った静かな良港で、1571年開港した。長崎港入口の両岸は、2005年開通した女神大橋で結ばれている。
     
長崎客船ターミナル前
(中国の客船と港巡りのクルーズ船)
  長崎客船ターミナル前から
稲佐山を望む
  女神大橋を望む
橋の向こうに香焼のドックが見える。
・女神大橋から港外へ出てすぐ右が神ノ島地区で、南端の神ノ島教会先の岬に建てられた聖母像は、長崎港へ船舶が入るに際してのランドマークの一つとなっている。フランシスコ・ザビエル渡来400周年を記念して1949年(昭和24)に建てられた、高さ約4.6mの大きな像である。神ノ島教会は、1876(明治6)年にできた、長崎では大浦に次ぐ古い教会である。現在の教会堂は、1897年(明治30)に完成したものである。 
なお、 神ノ島は元来長崎港入口近くの周囲1km程の小さな離島であったが、1960年代に埋め立てにより本土とつながった。江戸時代には、交通不便のためキリシタン潜伏の島であった。
・神ノ島の先(南)に、三菱の大型ドックがある香焼島が見える。香焼島とその沖の伊王島は2011年に架橋によりつながった。伊王島は、かつて日鉄伊王島炭坑が操業していたが(1972年閉山)、その後第三セクター方式によるリゾート開発を手掛け、曲折を経て、現在は「長崎温泉やすらぎ伊王島」として営業している。
 長崎港に入港しようとする船からは、白亜のゴチック様式の教会堂がよく見える。1890年に建設されたレンガ造りの教会堂が、その後の台風で使用不能になり、1931年にコンクリート造りにより再建されたものである。この島も潜伏キリシタンの島であり、現在でも住民の6割がカトリックである。
 1970年に公開された山田洋次監督の映画「家族」の冒頭で、主人公の家族(出演:倍賞千恵子、井川比佐志、笠智衆)が、北海道で働くために船で伊王島を離れる場面が描かれているが、炭鉱の閉山に伴い、離職者がヤマを離れる光景とダブる。事実、2年後に現実となったわけである。
   
神ノ島教会とマリア像  三菱造船香焼ドックを望む
(軍艦島クルーズ帰途の船上より)
  伊王島沖ノ島天主堂
伊王島大橋

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 世界遺産「長崎造船所」

・長崎港に入ると、左手奥の稲佐山の麓の長崎湾に面して三菱長崎造船所がある。
江戸幕府は、開国に際して海軍を創設することに なり、1855(安政2)年出島近くに長崎海軍伝習所(注)を開設すると共に、オランダの技術指導により1861年に造船所(長崎製鉄所)を完成した。当時は、蒸気機関により工作機械を稼働させ、船舶修繕を行っていた。  (注)築地軍艦操練所が幕府の海軍教育の中核となり、1859年閉鎖
その後、1884(明治17)年には官営から三菱の経営となった。
船舶建造設備としては、1号ドックが1879年、2号ドックは、三菱移管後の1896年、世界遺産の3号ドックの完成は1905年である。(注)
    (注)幕府はフランス人技術者の指導により、横須賀にも製鉄所(造船所)を建設した。横須賀製鉄所では、1871年に1号ドック
      が完成した後、海軍省所管を経て横須賀鎮守府直轄となる1884年までに急速にドックの整備を進め、3基のドックが完成し
      ている。これらのドックは、現在でも米国海軍横須賀基地にて稼働している。今般の長崎3号ドックより古く、世界遺産級の
      設備と言ってよい。


・三菱重工業(株)長崎造船所関連の世界遺産登録構成資産は、以下の5件である(カッコ内は完成年)。
   第三船渠(1905年)、ジャイアント・カンチレバークレーン(1909)、旧木型場(1898)、
   占勝閣(1904)、対岸の小菅修船場跡(1869)。
このうち、第三船渠、ジャイアント・カンチレバークレーンは、現在も稼働中であり、占勝閣は迎賓館として利用されている。公開されているのは、「長崎造船所史料館」になっている旧木型場と小菅修船場跡のみである。
今回は、長崎駅からのシャトルバス利用により史料館を訪れた。第三船渠とジャイアント・カンチレバークレーンは軍艦島クルーズの船上から確認できたが、天候のためもあり、占勝閣、小菅修船場跡は確認出来なかった。
(旧木型場=長崎造船所史料館)
・旧木型場は、1898(明治31)年に鋳物工場に併設する「木型場」として建設されたものであり、長崎造船所に現存する最古の建物である。
1945年8月空襲の至近弾や原子爆弾の爆風にも耐え、風雪に磨かれた赤煉瓦は、日本の近代工業の黎明期を偲ばせるものがあるとされている。
長崎造船所史料館は、長崎造船所が日本の近代化に果たした役割を永く後世に残そうと、1985年に旧木型場を史料館として改装の上公開したものである。
冒頭に述べたように、明治政府は長崎と略同時期に横須賀にも造船所をつくったが、こちらは横須賀鎮守府所属として艦船の建造を目的としたのに対し、長崎は民営化し、我が国造船重機工業のリーダーとして、その発展に大きく寄与したと言ってよい。その意味で、一見の価値ある資料館である。展示物等については、当館ホームページに詳しく掲載されている。
なお、 当史料館には、幕府が1857年にオランダから輸入し,当所で稼働していた竪型研削盤が展示されている。その後他の事業所へ移り、通算100年にわたって稼働したもので、日本最古の工作機械として、国の重要文化財に指定されている。
・世界遺産登録後、個人の見学者は、1日6便の長崎駅発着の専用シャトルバス利用者に限るものとされており、バス便のグループごとに説明が行われる。ただ、個人見学者はそう多くはないようだ。確かに、見学客が押し掛けるようなテーマではないのだろう。筆者の見学時は、大型バスに1人だった。なお、事前予約が必要であり、施設維持管理費として800円を要す。往復90分、見学は50分。
(写真はクリックで拡大します。)
   
岩崎弥太郎像  史料館入口付近から内部を望む  天井
   
中央吹抜け部のトラス構造
2本の支柱は明治初期英国から輸入
した鋳鉄柱
  日本最古の工作機械(重要文化財)
1857年幕府がオランダより購入
  木型場で製作された木型天井
(舶用タービン軸受押え用)
   
スペイン向けタービンローター破片
(1970年高速回転中破裂の大事故)
  関西電力尼崎1号タービン
(1939年から1974年まで稼働)
  中国電力小野田3号タービン
(1953年から1985年まで稼働)
見学者用シャトルバス
(乗客<見学者>は1人だけだった )
(第三船渠、ジャイアント・カンチレバークレーン)
・第三船渠は、長崎湾の入り江を利用する形で、建造能力3万重量トンの当時としては東洋最大規模の船渠として1905(明治38)年に完成した(竣工時のサイズは、長さ 222.2m、幅 (渠底部) 27.0m、深さ12.3m)。現在は、建造能力9万5千トンに拡張され、稼働中である(長さ 276.6m、幅 (渠底部) 38.8m、深さ12.3m)。  なお、明治時代に開渠した第一船渠(1879)、第二船渠(1896)はそれぞれ1963年、1972年に閉渠した。
・ジャイアント・カンチレバークレーンは、1909(明治42)年、同型としては日本で初めて設置された電動クレーンである(英国アップルビー社製、吊上能力150トン)。現在も機械工場で製造した蒸気タービンや大型船舶用プロペラの船積み用に使用している。
 
3号ドック(自衛艦が入渠している)  ジャイアント・カンチレバークレーン

小菅修船場跡については、公式ホームページを参照。 当該ホームページにおける、占勝閣を含む長崎造船所に関する部分はこちらを参照。何れも上質な画像を閲覧することができる。

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 長崎市街 (1)

1. 南山手(グラバー園、大浦天主堂)

(グラバー園)
 グラバー園は、1859(安政6)年の長崎開港後に来日した英国商人グラバー、リンガー、オルトの旧邸(何れも重要文化財)があった敷地を長崎市が取得し、市内の歴史的建造物を移築した一種のテーマパークである。
 グラバー園へのアクセスとしては二つのルートがある。
一つは、大浦天主堂前電停から天主堂へ上る手前のグラバー通りからの、いわば正門(第1ゲート)から入るもので、もう一つは電停石橋(終点)から斜行エレベーターと垂直エレベーターを乗り継ぎ、第2ゲートから入場するものである。

世界遺産・旧グラバー住宅
 当住宅は、英国スコットランド出身のトーマス・ブレーク・グラバー(T.B. Glover、 1838〜1911)の住居で、現存する日本最古の木造洋風建築である。「明治日本の産業革命遺産 製鉄・鉄鋼、造船、石炭産業」の構成資産として、世界遺産に登録された。
グラバーの息子の代になり1939年に三菱重工業株式会社長崎造船所に売却されたが、同社は1957年に長崎造船所開設100周年を記念して長崎市に寄贈し、翌年から一般公開された。
グラバーは、明治政府の産業殖産の政策に協力し、造船、炭鉱、水産、鉄鋼、ビールなどの産業分野の我が国への導入に尽力した。
 世界遺産関連の業績としては、高島炭鉱の開発(1868年)と、小菅の近代式修船場建設が挙げられる。また1865(元治2)年、わが国の鉄道開通の7年前に大浦海岸に蒸気機関車を試走させた。
 ただ、グラバーが「明治日本の産業革命」に大きな貢献をしたことは間違いないにしても、その個人の住宅が何故世界遺産になるのであろうか。「現存する日本最古の木造洋風建築」が、建築遺産でなく産業革命遺産とどうつながるのであろうか。どうもこの世界遺産は、論理構成が弱い、結構いい加減な面がある、という印象は禁じ得ない。
(小さな画像はクリックで拡大します)
   
旧グラバー住宅内部  同左  同左(温室部分)
   
旧グラバー住宅  同左  同左(客用寝室)

旧リンガー住宅
 グラバー商会に勤務の後、ホーム・リンガー商会を設立し、幅広い事業を展開した、フレデリック・リンガー(F. Ringer 1838〜1907)の石造りの洋風住宅(1869年築)。二男シドニーが引き継いだが、1965年シドニーは長崎市へ売却し、英国へ帰国した。
 
旧リンガー住宅  同左
旧オルト住宅
 オルト商会を設立し、製茶業を営んでいたウィリアム・ジョン・オルト(William J. Alt 1840〜1905)が幕末から明治初年にかけて3年間住んでいた。長崎に残る最も規模の大きい石造建築で、幕末明治洋風建築の中でも出色の建築とされている(1865年築)。
1903年以降リンガー家の所有となり、フレデリック・リンガーの長男一家が太平洋戦争勃発まで住んでいたことから、リンガー(兄)邸ともいわれている。国内企業の所有を経て、1970年に長崎市が買い取った。
   
旧オルト邸  同左  同左
旧三菱第2ドックハウス
 1896年に三菱造船所第二船渠の建造に伴い、船渠の傍らに建築された、明治初期の典型的な洋風建築。1972年三菱造船から長崎市が寄贈を受け、現在地に移築復元されたもの。
グラバー園第2 入口入ってすぐ左のグラバー園敷地最上部に位置し、建物前方の広場からは長崎港、三菱重工の造船所などが展望できる。耐震工事中のため内部には入れなかった。近くに、幕末の兵法学者・砲術家高島秋帆の指導により造られた大砲が展示されている。
   
グラバー園第2入口
(斜行エレベーター利用のルート)
  旧三菱第2ドックハウス  高島和砲
(高島秋帆の指導により造られた)
その他の建築物
旧ウォーカー住宅は、大正年間に英国人実業家ロバート・ウォーカーJrが購入した木造瓦葺平屋建の住宅で、戦後母屋の一部が市に寄贈され、1974年に当地へ移築したものである。1883〜1902(明治16〜35)の建築とされている。
旧長崎地方裁判所長官舎は、原爆の被害を受けずに残った唯一の洋風官庁建築で、現在の桜町小学校近くにあったものを、1979年に当地へ移築した(1883=明治16年築)。
旧スチイル記念学校
1887(明治20)年、東山手の旧英国領事館跡にスチイル記念学校として建てられ、昭和初期まで英語教育を特徴とする学校の校舎だった。その後長崎公教神学校などの変遷を経て、1972年に海星学園より保存のため長崎市が寄贈を受け、翌年現在地に移築し復元したもの。
旧自由亭
日本人初の西洋料理店シェフとなった草野丈吉のレストラン「自由亭」として、1878(明治11)年に諏訪神社下に建築された木造2階建の洋風建築。1886年草野の死去後、建物は検事正官舎として使用された。1973年に検察庁より長崎市が譲り受け、1974年に当地へ移築復元された。現在は、2階が喫茶室として利用されている。
   
旧ウォーカー住宅  旧長崎地方裁判所長官舎  旧スチイル記念学校
旧自由亭

(世界遺産候補「大浦天主堂と関連施設」)
大浦天主堂
・大浦天主堂は、江戸末期の開国後、1865年に西洋人の信仰のために建設されたゴシック様式の教会堂であり、 地元では当時「フランス寺」と呼ばれていた。正式名は日本二十六聖人殉教者天主堂で、二十六聖人の殉教地である長崎市西坂に向けて建てられている。
完成間もない1865年3月17日、浦上信徒がここを訪れて信仰告白を行ったことから、長い禁教時代を通じて信仰を守ってきた信徒の存在が明らかになった、いわゆる「信徒発見」(信徒からすれば「神父発見」)の舞台となった場所である。ただ、それは、余りも過酷な「浦上四番崩れ」(後述)の予兆でもあった。昨年が信徒発見150年目に当たることは既に述べた通りである。
なお、正面入り口に置かれた美しい白亜のマリア像は、信徒発見を記念してフランスの信徒から贈られたもので、「日本之聖母像」と命名された。
 当教会堂は、長崎地方に教会堂が建設されていく起点ともなった重要な教会建築であり、現存する最古の教会として(注)、1953年に国宝に指定されている。
 (注)開国後外国人居留地において教会建築が許可され、最初に建築されたのは横浜で(1862年)、現在の横浜中華街朝陽門(山下公園側)近くにおいてであったが、1902年に山手町に移転し、関東大震災で倒壊した。
(写真はクリックで拡大します。)
   
天主堂正面  「信徒発見」のレリーフ  「日本之聖母」像
 
聖母像上部  聖母像下部

・当教会堂は観光地の寺社並みに拝観料を徴収する珍しい教会堂である。ここは狭い聖堂に修学旅行生や一般観光客など年間60万人が訪れる長崎の観光名所となっており、自主的な献金が期待できるわけではない以上、観光施設並みの料金を徴収し、維持費に充てようというのはやむを得ない措置であろう。
教会とは、祈りの場として、聖堂内では静粛を求められるものだが、ここでは信徒発見の様子をスピーカーで流し続けており、祈りの場というより観光施設と自ら認めているということだろう。現にここではミサなどは特別のとき以外は行われず、別途参道入口近くに大浦教会が建てられている。
海外でも、著名な大聖堂ては大抵入場料を徴収している。因みに、長崎で最も規模が大きく、著名な教会は浦上天主堂であるが、浦上では内部に入ってすぐの、いわばエントランスロビーから中は立入禁止で、献金箱が置かれている、という状況である。
 なお、2015年7月から料金は倍になった(大人300円→600円)。2016年に世界遺産に登録されることを前提に、施設の改修・維持費用に充てるために引き上げたが、登録は先送りされてしまった。登録までに、しっかりと補修して頂きたいと思う。
旧羅典神学校、旧長崎大司教館
・旧羅典神学校は、1875年に建設された司祭養成のための学校であり、ド・ロ神父が設計した。1926年までラテン神学校校舎兼宿舎として使用。以後司祭館や集会所にも使用された。
わが国初期の木骨煉瓦造り(地下1階、地上3階建て)で、国の重要文化財に指定されている。
「キリシタン資料室」が設置され、その部分が公開され、大浦天主堂を訪れた後の順路になっている。
・旧長崎大司教館は、ド・ロ神父最晩年の設計、鉄川与助の施工管理で1915年に建設された。ド・ロ神父は、この建物の工事現場で転落し、その怪我が原因で亡くなった。
建物は大浦天主堂の前面に位置し、煉瓦造り、一部木骨煉瓦造り地下1階、地上3階建てである。歴代司教の住居であった。
   
旧羅典神学校  同左  同左
 
旧長崎大司教館
(2017年3月まで工事中)
  背後から見た天主堂

(南山手レストハウス、祈念坂)
・天主堂の左脇に祈念坂と呼ばれる細い坂道がある。この坂道は、天主堂参道の喧騒が嘘のような、いつも静寂なところで、遠藤周作が長崎に来ると朝夕欠かさず散策したという、お気に入りの場所である。
祈念坂の頂上に、大浦展望公園という小さな公園があるが、この場所は、スカイロードを利用すると、斜行エレベーターを降りて右手すぐという位置になる。
・大浦展望公園に隣接して「南山手レストハウス」がある。幕末の1865(慶応元)年の建造。外国人居留地初期の住宅にみられる石造の外壁で、グラバー園内の重要文化財3棟にはない石柱と木柱が併用された造りが特徴である。復元の上、2003年から一般公開され、観光客が気軽に休憩できるレストハウスになっている。
   
祈念坂坂上を示すプレート  坂上から祈念坂を望む  大浦展望公園から東山手の街並み
を望む(斜行エレベーターが見える)
 
南山手レストハウス
(南山手乙27番館)
  同左内部の様子

2. 桜町、長崎駅周辺

(サント・ドミンゴ教会跡資料館)
 2002年に長崎市役所隣の桜町小学校を建て直すに際し、発掘調査をしたところ、石畳、排水溝、地下室などの遺構が見つかった。この地は、かつて長崎代官屋敷のあった場所であるが、代官屋敷の前はサント・ドミンゴ教会という教会があり、その遺構であることが分かった。同教会は、薩摩で宣教活動をしていたドミニコ会の神父が、1609年に同地を追放された際、現川内市にあった教会堂を解体して長崎に運び、代官村山等安が寄進した土地に移設したものであるが、1614年に破壊された。この時代の教会の遺構は珍しく、貴重なものとされている。当初は、発掘調査終了後埋め戻す案もあったが、小学校校舎の1階部分を資料館として整備し、一般に公開することとした。
2016年登録推薦リストには入っていないが、本件のような約400年前の禁教時代の数少ない教会遺構は、今般のICOMOSの指摘の趣旨からすれば、当然入れるべきではなかろうか。現地を実際に見学し、一級の遺構だと感じた。
資料館は、教会遺構に加え、教会時代に続く長崎代官末次(1676年密貿易発覚で失脚)、高木両家(〜幕末)の屋敷時代の出土遺物等も展示している。
(写真はクリックで拡大します。)
   
資料館入口
(1階が資料館で、2階以上は教室)
  入口から見た教会跡
(奥に出土品の展示室がある)
  展示室前から見た教会跡
   
大型石組地下室(教会時代)
(用途不明、花十字紋字瓦・陶磁器
などが出土)
  井戸(高木屋敷時代)
(切石を隙間なく積み上げてある)
  石畳(教会時代)
(石畳は異国様式を伝える遺構)
   
排水溝(教会時代)  土坑と礎石跡(教会、末次屋敷時代)
(教会時代の穴に末次時代の礎石が
重なっている)
  花十字紋瓦(展示室)
(80点もの出土をみた)
 
花十字紋瓦の例(展示室)  同左

(長崎歴史文化博物館)
 2005年に、長崎県及び市の共管という珍しい運営形態により開設された歴史博物館であり、メインテーマは「近世長崎の海外交流史」である。桜町小学校の北にある。設計は黒川紀章。ディスプレイと管理・運営は、乃村工藝社(指定管理者)が行っている。
建設地は、かつての長崎奉行所立山役所のあった場所で、奉行所が一部復元されている。建設時に、旧長崎奉行所の石段や庭園などの遺構が出土した。石段は補強し、エントランスとして活用されている。
 外から当館を眺めると、その規模と豪華さに驚かされる。内部も立派な造りだ。
「歴史文化展示ゾーン」と「長崎奉行所ゾーン」からなり、復元された奉行所の構えが正門になっている。ただし、博物館は、奉行所正門の向って左側へ道路側を回り込んだ所にエントランスがある。
 開港した近世以降の長崎の歴史を理解し易いように展示してあり、観光客を含め、分かり易い、長崎学習のためのいわば学習型の博物館と言えようか。重要文化財もいくつかあるものの、解説のパネル、写真が多く、施設の豪華さや規模と内容に若干落差を感じた(被爆して貴重な資料が失われたこともあるかもしれない)。同じような感想を持つ市民の意見も耳にした。
再現した代官所の「お白州」で、長崎代官による裁きの模様を寸劇で再現していること、職員が呼び込みをしているのには驚いた。見学したときは、寸劇の観客は一組3人だけだった。勧誘されたが遠慮した。公立の博物館でこんなことをやるのか、という感は免れない。土曜の午後だったが、見学者は少なく、寸劇も誘客効果はないよう窺えた。
(写真はクリックで拡大します。)
   
奉行所入口へのアプローチ  奉行所入口
(色変わりした石垣が遺構)
  奉行所正面
   
奉行所横の庭とイベント広場  レストランなどの建物  博物館入口への周回路
   
博物館入口  奉行所玄関内側から正面を望む  お白州・裁きの寸劇
(この後代官が登場した)
 
奉行所内部の様子  幕末に輸入されたオランダ製置時計
(長崎小曾根家伝世)
 
狩野内膳作の南蛮屏風(南蛮貿易の様子を描いたもの)
(手前左隻)
  同左(手前右隻)神戸市博物館所蔵の複製

(聖福寺)
・歴史文化博物館近くにある黄檗宗の寺院である(1667年創建)。
黄檗宗は、江戸時代になって、明から渡来した僧によって始められたもので、長崎には寺院が多い。興福寺(1624年)、福済寺(1628年、原爆により壊滅)、崇福寺(1629年)の、いわゆる長崎三福寺に当山を加えて長崎四福寺と呼んでいる。
境内は、山門、天王殿、大雄宝殿、鐘楼、方丈の建物で構成されており、黄檗宗寺院特有の伽藍配置をよく継承するものとして、建築史的価値の高い貴重な建造物という。山門、天王殿、大雄宝殿、鐘楼は、聖福寺4棟として、国の重要文化財に指定されている。
   
聖福寺山門(1703築)
(中央大額は黄檗宗開祖隠元の書)
  天王殿(1705築)  鐘楼(1716築、初代住持の名から鉄
心の大鐘と呼ばれる長崎最古の鐘)
   
大雄宝殿(1697築、仏殿)  惜字亭(1866築、中国人製の煉瓦
による文書焼却炉)
  石門(17世紀半頃築、廃仏毀釈に
より廃寺となった崇岳神宮寺の石門)
・大雄宝殿横から墓地への上り口に「鬼塀」がある。廃仏毀釈により廃寺となった当寺の末寺の瓦で構築したもので、名所になっている。聖福寺は、さだまさしの作品を映画化した「解夏」のロケ舞台になっているが、この鬼塀の前が度々出てくる。
・大雄宝殿前の庭には禁教時代の悲話が秘められた「じゃがたらお春」の石碑がある。1639年キリシタンの禁教政策の一環として、イタリア人航海士と日本人マリアとの間に生まれたお春も15歳で母、 姉と共にジャカルタ(じゃがたら)に追放された。以来長崎の幼なじみの「おたつ」に望郷の思いを手紙に綴り、長崎へ送ったといわれている。 この石碑の裏には、お春を哀れんだ歌人吉井勇の歌が刻まれている。
「長崎の鶯は鳴く 今もなほ じゃがたら文の お春あはれと」
   
鬼塀  同左  じゃがたらお春の碑

(西坂公園、日本二十六聖人殉教記念碑・日本二十六聖人記念館・同記念聖堂)
・日本二十六聖人とは、1597年2月に豊臣秀吉の命令によって長崎で磔の刑に処された26人のカトリック司祭と信者達。当初24人が京都で捕縛され、片方の耳たぶを削がれて市中引回しの上、処刑地長崎へ徒歩で向かった。途中で2人が加わり26人となった。うち日本人は20人、スペイン人司祭、修道士など外国人は6人である。
26人は、1862年に教皇ピウス9世により聖人に列せられたことから、日本二十六聖人と呼ばれるようになった。
秀吉によるこのキリシタン処刑は、大規模な殉教の嚆矢であり、その後も西坂での処刑は続き、最も規模の大きい「元和の大殉教」(1622年)では、55人が斬首と火刑により処刑された。
処刑方法は、当初の火刑、斬首から1633年以降は、最も残酷な刑とされる「穴吊り」になった。
 穴吊りの刑とは、拷問によっても棄教しない者に対する最後の手段として、全身を縛ったうえ、汚物の入った穴の中に逆さに吊るす刑で、全身の血が頭に溜ってすぐ死ぬことのないよう、こめかみに傷をつけ数滴ずつ血が垂れていくようにし、苦しみもがかせるという惨刑である。壮絶なキリシタン弾圧で知られる長崎奉行竹中采女正(重義)が考案した拷問の中でも最も凄惨な刑であり、人間とはこんなことを考えつくことが出来るのか、人間が人間にこのようなことができるのかと呻いてしまうほどである。
・二十六聖人の殉教は、その直後にルイス・フロイスにより、ローマ教皇庁へ詳しい報告がなされており、元和の大殉教についても、オランダ商館員やイエズス会宣教師によって詳細が海外に伝えられたため、日本よりも海外においてよく知られていた。 そして、上述のように1862年に26人の殉教者が聖人に列せられ、また、同年にはフランス人外交官レオン・パジェスによる「日本二十六聖人殉教記」が刊行されているのであるから、その3年後の信徒発見が大変な驚きをもって受け止められたのも、当然であろう。
穴吊りの刑などを含め、今でも日本人には余り知られていない事実ではなかろうか。
 因みに、イタリアのチヴィタヴェッキアという町の日本聖殉教者教会は、1865年に建設された大浦天主堂(日本二十六聖人殉教者教会)の前年に献堂されている。当教会聖堂内部の壁画は長谷川路可画伯の制作によるもので、西坂における殉教の様子に加え、祭壇上には和服のマリア像が描かれている。
チヴィタヴェッキアは、中世以来ローマの外港として栄えた港町で、支倉常長も1615年に当地へ上陸している。
・西坂公園は、1962年二十六聖人の列聖100年を記念して、この地に日本二十六聖人記念館、同殉教記念碑および記念聖堂を建設し、一帯を公園として整備したものである。
記念聖堂(聖フィリポ教会)は、ガウディを日本に紹介した今井兼次の設計で、尖塔がバルセロナのサグラダ・ファミリアによく似ている。
   
西坂公園入口  日本二十六聖人殉教記念碑
(ブロンズ像の制作は舟越保武)
  日本二十六聖人記念館レリーフ
「長崎への道」(今井兼次作)
(拡大画像の注参照)

 
雪のサンタ・マリア
(潜伏キリシタンに伝えられていたもので、 1973年
外海の農家で発見、記念館所蔵・撮影了承済)
  二十六聖人記念聖堂

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 長崎市街 (2)

 世界遺産候補大浦天主堂を舞台にした「信徒発見」は、浦上四番崩れにつながり、浦上信徒の建てた浦上天主堂は、原爆により完成後僅か30年余で灰燼に帰した。その意味で、原爆と世界遺産、浦上キリシタンのことは避けて通れないテーマである。

1. 平和公園と城山小学校

(平和公園)
 平和公園は、記念像地区、原爆投下中心地地区、長崎原爆資料館地区の三つのゾーンからなる

記念像地区
 平和祈念像があり、毎年8月9日に慰霊祭が行われる場所で、参拝者の他、平和公園で最も来訪者の多いゾーンである。2013年に、松山町交差点に面して、記念像地区へ向うエスカレーターが完成し、この地域へのアクセスが大変楽になった。屋根付き2段階で、高低差16.5mを難なく上り、数分で「平和の泉」の前まで行くことができる。高齢者や身体の不自由な人だけでなく、暑い中訪れる人たちにとっても頗る有用な施設だ。
・正面平和祈念像は、長崎出身の彫刻家北村西望制作になる、高さ9.7メートル、重さ30トンの青銅製の像で、神の愛と仏の慈悲を象徴として、天を指した右手は“原爆の脅威”を、水平に伸ばした左手は“平和”を、軽く閉じた瞼は“原爆犠牲者の冥福を祈る”という想いが込められているという。像の前が式典広場になっている。
・戦前この地域には、長崎刑務所浦上刑務支所があったが、原爆により庁舎は全壊し、職員、受刑者及び被告人(81人)等134人全員が即死、炊事場の煙突のみが残った(長崎造船で労役に服していた約500人の受刑者は難を逃れた)。式典広場に向う通路の左右に、建物の基礎部分を見学用に整備してある。
・平和の泉は、平和祈念像を正面に臨むこのゾーンの南端に置かれている、直径18メートルの円形の泉である。水を求めて叫びながら死んでいった原爆犠牲者の霊に水を捧げて、冥福を祈るとともに、世界の恒久平和と核兵器廃絶の願いを込め建設された。
被爆し、赤ちゃんを抱えた産後の母親と共に、浦上から山の中へ逃れていた、 山里国民学校の児童山口幸子さん(9才)が、「原子雲の下に生きて」(永井隆編、後述)に寄せた手記の一節が刻まれている。山口(のち橋口)さんは、2016年4月に90才で亡くなった。ご冥福をお祈りします。
原文は、以下の通り。
    「のどが乾いてたまりませんでしたので、水をくみにいったら、油のようなものが一面に浮いていました。それは空から降ったも
    のだそうです。はじめは気味が悪くて、飲まずに帰りましたが、どうしても水が欲しくてたまらず、とうとうそれを油のういたまま
    のみました。」

(小さな画像はクリックで拡大します)
   
松山町交差点前の平和公園入口
(右側に防空壕跡が発見された)
  平和の像   折鶴の塔
(平和の塔の左右に建立されている)
 
旧浦上刑務所跡
(平和の像へ向かって右側の部分)
  平和の泉・石碑の文面
・平和の泉と刑務所跡の間が、慰霊碑のゾーンになっている。
戦災復興記念碑は、1946年に始まった「戦災復興計画基本方針」に基づく長崎の復興事業が完了し、「戦禍の街は、今や希望と繁栄に輝く平和都市として再現された」ことを記念して、1975年に建立されたものである(富永直樹作)。2人の子ども像は、永井隆博士の遺児をモデルにしたという。
長崎の鐘は、1977年、被爆33回忌を迎えるに当たり、動員学徒、女子挺身隊、徴用工、一般市民の原爆殉難者の冥福を祈り、この鐘を鳴らし続けて恒久平和の確立を世界の人々に訴えるため、遺族、被爆者、およそ21,000世帯の拠出金により建立した。
 このゾーンには、外国から寄贈されたモニュメントが数多くあるが、かつての共産圏からのものが目立つ。全てが東西冷戦期に贈られたのもので、この間に贈られた11基のうち7基を占めている(注)
   (注)チェコスロバキア、ブルガリア(以上1970)、旧東独(1971)、旧ソ連、中国(以上1985)、ポーランド(1986)、キューバ(1988)。
   
戦災復興記念碑
(富永直樹作)
  長崎の鐘   長崎の鐘・石碑部分

原爆投下中心地から原爆資料館へ
 平和公園のエスカレーターを下りて、松山町の交差点を渡ると原爆投下中心地地区に入る。
原爆投下地点に黒御影石の石柱が建てられ、周囲はこの上空約500mで炸裂したことを表す同心円の広場になっている。石柱前の原爆殉難者奉安箱には原爆死没者名簿をマイクロフィルム化したものが納められている(2015年7月末 168,767人)。
また、原爆投下中心地の石柱と並んで、浦上天主堂の遺壁が移設されている。聖堂の南側の一部で、後述する遺構の撤去に際し、この部分だけこの地に移築・保存することとしたものである。説明板に天主堂の被爆全景写真がある。
ここは広々とした広場で、他には、周辺に植樹と 被爆50周年記念事業碑(母子像)、保存された被爆時の地層があるだけである。
松山町交差点側と対角線の反対側にある出口を出ると、原爆資料館前の地域となっており、多くの慰霊碑が建てられている。
<原爆投下中心地地区>
   
原爆投下地点の石柱と
原爆殉難者奉安箱
  原爆投下中心地   浦上天主堂遺壁
   
浦上天主堂遺壁(裏側)  倒壊した浦上天主堂の写真
(説明板による)
  被爆50周年記念事業碑(母子像)
(富永直樹作)
被爆当時の地層の展示
<原爆資料館と周辺>
   
原爆資料館正面  展示室エントランス  被爆時計
   
被爆した天主堂の模型  展示室出口  平和の母子像 
   
電気通信労働者慰霊碑   平和を祈る子像(長崎平和の折鶴会)
(中田秀和作)
  長崎原爆朝鮮人犠牲者碑
城山小学校
 城山小学校(旧城山国民学校)は、松山町電停西の小高い丘の上にある。爆心地から最も近い(西500m)小学校であり、校長以下教職員31人、在籍児童の約8割にあたる1,400人が爆死した。ただし、学籍簿が焼失したため正確ではないようだ。学校関係者以外では、当校で業務を行っていた三菱社員等158人中138人が犠牲になった。
一部校舎は戦後も改修して使用していたが、1984年の校舎新築に際し、遺構として残されたが現在の「被爆校舎」であり、1階を平和祈念館として公開している。今回は休日のため閉館していたので見学はできなかったが、当校のホームページに紹介されている。
校門前の坂道は、「平和の泉」の碑文が掲載されている「原子雲の下に生きて」(講談社)の印税で植樹された桜の並木道になっており、「永井坂」と呼ばれている。
   
被爆校舎入口   被爆校舎  平和祈念館
   
亀裂の入った柱の一部   永井坂  被爆直後の写真

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2. 浦 上 (1)

(浦上四番崩れ)
・長崎駅の北、銭座電停前の高台に「聖徳寺」という浄土宗の寺院がある。江戸時代には近隣の浦上村住民(キリシタン)の檀家寺でもあった。
一方、浦上の信徒たちは、大浦天主堂での「信徒発見」を受けて、厳しいキリシタン禁令のなか、12〜15坪程度の藁葺の民家を礼拝堂とした秘密教会を4カ所に作り、密かに大浦天主堂から宣教師を招き、信仰活動を続けていた。しかしながら、2年後には聖徳寺での仏式による葬儀を拒否し、自葬することを表明するに及び、1867(慶応3)年8月幕府の一斉摘発を受けることとなり、主だったキリシタンは捕縛された。これが「浦上四番崩れ」の始まりである。
大浦天主堂の聖職者や切支丹たちは、徳川幕府が崩壊すれば禁教は緩められると期待していたが、明治政府は神道を国教とし、異国から入った仏教、儒教をも排斥する政策をとった。棄教を断固拒否する浦上の住民に対しては、幕府瓦解直後の翌1868(慶応4)年から、1870(明治2)年にかけて、村民3,400人近くを西日本各地へ村ごと根こそぎ総流罪にした。
流配地における浦上村民の処遇については、最も寛大な薩摩藩から、最も過酷な津和野藩まで、かなりの差があっが、棄教させるよう政府から指示されていたことから、手法の差、程度の差はあれ、棄教を迫られることとなった。津和野藩のような酷いところでは、 水責め、雪責め、氷責め、火責め、飢餓拷問、箱詰め(三尺牢)、磔、親の前でその子供を拷問するなどその過酷さと陰惨さ・残虐さは旧幕時代以上といわれる拷問が行われた。
その後、政府は海外諸国の激しい抗議と条約改正の障害になることへの恐れから、態度を緩和させ(津和野では1日1合3勺の飯が2合→3合になった如し)、1873(明治6)年になって、262年間続いたキリシタン禁制の高札が廃止された。流配は中止されるまで最長5 年に及んだ。
しかしながら、この流配により、直接的な拷問のほか病気などを含め、全体では600人以上の住民が流刑地で死亡、千人余が棄教した。
浦上信徒は、この流配を「旅」と呼んでいる。
因みに、廃仏毀釈によって、仏教界も大きな打撃を受けたが、僧侶は神官に職を変えるか、還俗の道を選び、信仰を守り抵抗するようなことはなかった。
    [参考文献] 大佛次郎「天皇の世紀 9 武士の城 旅」(1972、朝日新聞社) 大佛の見解の要旨は
末尾参照

(浦上天主堂)
・浦上天主堂は、嘗ての庄屋屋敷の地を買い求め、信徒たちが20年近い年月をかけて1914年に完成したものである。当地は、禁教時代を通じて踏絵という精神的苦痛を余儀なくされてきた、浦上信徒にとって聖地と言える場所であり、天主堂は浦上信徒の心の拠り所であった。
爆心地の北東約500mの天主堂は、完成から31年後の原爆投下により倒壊し、浦上信徒12,000人のうち、8,500人が犠牲になった。
平和公園、浦上地区

・浦上天主堂は、原爆遺構として、1950年代前半までは広島の原爆ドームと並ぶ存在であったが、1958年に解体・撤去が決定され、1959年に再建された。
東西冷戦激化の下、第五福竜丸事件(1954年)を契機とする我が国の原水爆禁止運動や反米感情の盛り上がりを食い止めたい米国政府が、有力な原爆遺構を一刻も早く除去したいとの意向を持っていたことが背景にあったことは間違いない。
そのための一法として、米国側は、長崎市とセント・ポール市が姉妹都市関係を結ぶという提案を行い、田川務長崎市長が訪米することとなった。米国滞在中に、天主堂遺構が話題になり、有形無形の力が働いたと想像される(証拠はない)。
一方、浦上の信徒としては、10年以上に亘り教会を持たない状態が続いており、一刻も早く信仰の拠点であるこの場所に教会を持ちたい、という気持ちを強く持っていたことは想像に難くない。同じ被爆地の広島では、既に1954年に世界平和記念聖堂が完成していた。これに対し、市議会や一般市民には、教会遺構の保存を訴える声が強く、教会建設のためのの代替地の提案もあったようであるが、信徒のこの地に対する強い思いを背景に(むしろ原爆を忘れてしまいたいといった複雑な感情もみられた)、山口愛次郎カトリック長崎大司教(浦上山里村出身)は、この地における再建を決意したのではなかろうか。大司教は、1955年から56年にかけて、教会の再建資金の寄付を募ることを目的に訪米し、滞在は10か月に及んだ。
市長並びに大司教の相次ぐ訪米から帰国の後、遺構の取り壊しと新教会建設に、大きく舵が切られたという。
・当初、取り壊しの方向にあった広島原爆ドームが最終的には保存され、「世界遺産広島原爆ドーム」のような形で、残されたことと対照的と言うほかないが、浦上天主堂遺構が残されなかったことを惜しむ声が今でも多いという。闘病生活を送る長崎医大教授永井隆博士(1908〜1951)のところへは、ローマ教皇の特使やヘレン・ケラーなどが見舞いに来るなど、被爆地長崎は国際的にも知られていただけに、残されていればそのインパクトは国際的な規模で広がり、広島を大きく凌駕するものとなることは間違いなく、それだけに米国は嫌がり、早く原爆の痕跡を消したかったのであろう。
(写真はクリックで拡大します。)
   
浦上天主堂全景   浦上天主堂南側  浦上天主堂正面玄関
被爆遺構(1) 聖堂外壁、庭の遺構
・天主堂の正面の入口には被爆した「悲しみの聖母」「使徒聖ヨハネ」像が掲げられている。前者は指が、後者は鼻が欠けたものの、奇跡的に破壊されずに残った(原爆投下時は旧浦上天主堂の南側入口にあった)。
玄関入口上アーチ部分中央の「十字架のキリスト」像は原爆で破壊したため複製したもの。旧天主堂の面影を残している部分という。
   
悲しみの聖母   使徒聖ヨハネ  正面玄関アーチ部分
・また、聖堂の正面左手表庭に、熱線で黒く焼け焦げ、鼻、指、頭部を欠いた聖人の石像がある。 そのほかにも遺構があり、一部は、信徒会館2階原爆資料室にも展示保管されている。
   
中央イエスの聖心像
右聖セシリア像、左の像は不明
  左手表庭の被爆像  同左
 
信徒会館前の遺構   原爆資料室展示の遺構
被爆遺構(2) 鐘楼、アンジェラスの鐘他
・天主堂の双塔にあった二つの鐘楼のうち,北側のものが天主堂下の小川に落ちた(鉄筋コンクリート製直径5.5m、重さ50トン)。川の流れを変えて保存してきたが、土砂に埋もれてきたため天主堂の敷地内斜面に引き上げて保存してある。聖堂へ上る坂の途中から近くへ行けるようになっている。
アンジェラスの鐘は、一つだけが奇跡的に瓦礫の中から発掘され、1945年12月の焼け野原でのクリスマスミサで鳴らされたという。久々の鐘の音は、原爆により心身ともに深い傷を負った信徒の人達の心に沁み込み、皆感動したに違いない。今も鳴り続けている。破壊された小さい方の鐘の残骸は、原爆資料室に展示されている。
・また、1929年以来イタリアから贈られた高さ2mの木造マリア像が、祭壇に置かれていた。その頭部を、浦上出身で被爆後長崎を訪れた復員神父が、瓦礫の中から発見した。この被爆マリア像は、その後純心女子大などで保管されていたが、1990年に浦上天主堂に返還された。2005年に、聖堂南側に「被爆マリア像小聖堂」という小さな聖堂をつくり、その祭壇に置かれている(画像なし)。
毎年8月9日夜行われる松明行列は、浦上信徒が聖座に被爆マリア像を載せ、浦上天主堂から平和公園までの約1キロを、祈りながら歩くものである。
   
川に落ちた北側の鐘楼
(左の川に落ちていた)
  同左  破壊されたアンジェラスの鐘
(原爆資料室展示)
拷問石、信仰の礎碑
・「拷問石」は、浦上四番崩れで萩藩に送られた浦上信徒がその上に座らされ、拷問・説諭を受け棄教を迫られた花崗岩の庭石である。
雪の中の苛烈な拷問である「寒晒しのツル」の話は、よく知られている。22歳のツルは腰巻一枚の裸にされ、寒風の中、石の上に正座させられ、夜になると牢に戻すということを繰り返していた。一週間目には姿も見えなくなるほど大雪に埋もれ、18日目には雪の中で倒れたが、絶命を免れた。何としてもツルは棄教しないことから、役人は諦め、女たちには御用がなくなったという。浦上に生還したツルは、岩永マキの主宰する浦上の十字会(現お告げのマリア修道会)に入り、一生伝道に従事し、1925年(大正14年)に亡くなった。
この「拷問石」は萩流配時の牢番長が、帰還後自宅へ持ち帰り、庭に置いて犠牲者の霊を慰めていたもので、子孫が2008年に浦上天主堂に寄贈した。
・「信仰之礎」碑は、浦上四番崩れによる流配から浦上へ戻った信徒たちが、信仰復帰50年を記念して、1920年、天主堂前に建立しものである。
 
拷問石   「信仰之礎」碑

(こうらんば墓地)
 こうらんば墓地は、浦上から聖フランシスコ病院へ上る手前にあるカトリック墓地で、浦上四番崩れの「旅」から生還した高木仙右衛門や、岩永マキの墓(お告げのマリア修道会墓)がある。
 
高木仙右衛門の墓   岩永マキの墓
(右側の墓名碑に霊名マリア1920年
没と記されている)
・高木仙右衛門(1824〜1899)は、浦上キリシタンの代表的人物で、その屋敷は、聖フランシスコ病院の北側、現在のお告げのマリア修道会十字修道院の場所にあり、信徒発見後につくられた秘密教会のひとつ、「聖ヨゼフ堂」があった。
高木も、1867年8月の一斉摘発により捕縛され,津和野藩へ流されたが、仮借のない徹底的な拷問に耐え抜き、生還した。帰郷後は、伝染病患者の救護や孤児救済事業に全財産を投じ、教会建築にも尽力した。
・岩永マキ(1848〜1920)は、岡山藩流配による拷問、飢えと苦役に耐えて長崎に帰った。帰還後は、ド・ロ神父のもとで、流配経験のある他の3人の女性と共に、当時大流行した赤痢や天然痘患者の救護活動に従事した。
その後、孤児養育の組織を立ち上げ、長きにわたって養育院の院長として、少なくとも1,834名の孤児の母となり、多くの孤児を自分の戸籍に入れて育てた。岩永らの活動は、次第に組織化され、現在のお告げのマリア修道会に継承されている。
 
聖ヨゼフ堂跡
(十字修道院内)
  岩永マキ胸像(同)

(聖フランシスコ病院と秋月辰一郎医師)
・浦上天主堂の北1km程の丘の上の聖フランシスコ病院のある場所には、戦前カトリック・フランシスコ会の神学校があった。戦時中は軍部に接収されるのをおそれて結核療養所「浦上第一病院」に転換していたが、原爆により外壁を残して壊滅した。
戦後、当初は神学校に戻す方針だったが、病院開設以来医長を務めていた秋月辰一郎医師(1916〜2005)の訴えにより、その敷地内に建設されたのが聖フランシスコ病院(当初は診療所)である。
・秋月医師は、自らも被爆しながら、原爆投下直後の火災など大混乱の病室から、一人の犠牲者も出すことなく入院患者の避難をやり遂げた。そして、原爆投下翌日から建物も設備も薬品も全て失った、余燼くすぶる廃墟の中で診療を再開し、詰めかける被爆者の治療、更には往診までも行った。この間、フランシスコ会の修道士・女、神学生たちの献身的な協力があったことも幸いしたといえよう。
 秋月医師の「死の同心円」(1972、講談社)は、被爆直後からの秋月医師を中心とする病院スタッフの貴重な記録であり、医師の記述ならではのリアルに迫って来る被災者の惨状・苦しみは、原爆被害の実相を浮き彫りにするものである。記録の少ない原爆投下直後の状況を知るに逸することのできない、知ることの重みを痛感させられる書物である。被爆60周年の2005年に制作された、長編アニメ「NAGASAKI1945 アンゼラスの鐘」(虫プロ)は、この著書を基に秋月医師の被爆直後から40日間の苦難に満ちた懸命な診療活動を描いたもので、国連本部でも上映された。
   
被爆した聖フランシスコ病院   被爆したタイザンボク  秋月医師著「死の同心円」

(永井隆博士の関連施設)

如己堂
・永井隆博士が、被爆後亡くなるまで長男誠一さん、次女茅乃さんと共に住み、闘病生活の傍ら著作活動を行った二畳一間の小さな木造の家である。当時のままの白い聖母子像など、内部の様子を庭から見学できる。「如己堂」の名は、博士が「聖書」の言葉、「己の如く隣人を愛せよ(如己愛人)」から名づけたもの。場所は、爆心地の北北東約620mになる。
博士の妻緑夫人の先祖は、代々この地域の潜伏キリシタン地下組織の「帳方」を務め、ここに屋敷があった。敷地内に「帳方屋敷跡」の碑が建っている。因みに、帳方とは組織の最高責任者のことで、年間の教会行事の日や祝日を定めた教会暦を所持し、祈りや教義を伝承していたという。
・以前如己堂見学の折、永井教授の診療科婦長として、原爆投下直後の修羅場で救助活動に携わった、久松シソノさん(1924〜2009)と偶然お話しする機会があった。本の中の登場人物としてしか頭になかった方にお会いできたことに、驚きかつ感動したことを思い出す。「語り部をしているんです」と仰っていたと記憶する。
   
如己堂   如己堂内部  帳方屋敷跡の碑
長崎市永井隆記念館
1950年に永井博士が如己堂の敷地に作った、子供のための図書室を前身として、1952年に市立図書館が開館した。その後、博士の遺品や写真の展示も行うこととし、1969年に「長崎市立永井記念館」と改称した。現在の「長崎市永井隆記念館」は、2000年に全面改築の上、改称したものである。
1階の展示室には、緑夫人の遺品である高熱で溶けたロザリオが展示されている。この前に来ると、原爆の凄まじい熱線と放射線を想像し、また、大学内で重傷を負いながら被爆者の救助活動に追われ、一段落するまで自宅(跡)に帰れなかった永井博士が、黒い塊となった夫人の遺骨をこのロザリオで確認し、遺骨をバケツに収集した、という光景が頭に浮かび、立ち尽くしてしまう。
   
永井隆記念館正面   永井隆記念館内部  緑夫人遺品・高熱で溶けたロザリオ
 
永井博士の色紙   古関裕而(「長崎の鐘」の作曲者)
の色紙
(山里小学校)
・山里小学校(旧山里国民学校)は、如己堂の北、爆心地から約700mの場所にある。原爆投下時の在校者32名のうち、校長以下28名が亡くなった。校内の隅の崖には、18カ所の防空壕が掘られ、避難所となっていたが、この日も一部職員や近所の住民が新しい防空壕を掘る作業をしていた。
児童は夏休みで登校していなかったが、在籍児童数1,581人のうち、約1,300人が自宅やその周辺で死亡したと推定されている。
防空壕は、被爆遺構として保存されているほか、校舎の一角には「原爆資料室」が設置され、一般に公開されている。ただし、防空壕は、綺麗に整備・保存され、当時の面影はない。
   
長崎市立山里小学校   校舎裏の防空壕  防空壕内部
(手を加えてはいないとのこと)
   
平和の鐘(毎月9日の朝鳴る)   原爆資料館   原爆資料館内部
・また、正門を入って左の「あの子らの碑」を中心とする一帯を「あの子らの丘」と呼び、平和学習と平和祈念行事の場としている。
「あの子らの碑」は、永井博士が生き残った37名の児童たちの体験記を編集・出版した「原子雲の下に生きて」(講談社)の印税により、1949年に建てられたものである。また、永井博士の作詞になる「あの子」は本校の第二校歌とされ、8月9日の平和祈念式典でもたびたび歌われている。
 「原子雲の下に生きて」(現在はアルバ文庫)では、被爆当時4才から11才の児童の、原爆投下の瞬間とその後の体験が綴られているが、このような残酷で生々しい原爆体験の記録は外にないのではないかと思う。
山里小学校のホームページ には、「平和のゾーン」という項目があり、被爆の記録など、原爆に係る詳しい記述がある。
   
あの子らの丘   あの子らの碑   永井博士の自筆の碑
・学校前の通りは、永井博士が植えた桜並木に因み、永井坂と呼ばれている。桜は既に終わっていたが、並木の雰囲気は想像できた。
筒井(旧姓永井)茅乃著「娘よ、ここが長崎です」(1985)には、彼女が大学を卒業し、長崎を離れる列車の中からこの桜並木が見えたという記述がある。当時(1964年)は、今のようにビルやマンションなどもなく、よく見えたのであろう。
茅乃さんは、2008年永井博士の生誕100年の前日に、兄誠一さんと同じ66歳の若さで亡くなった。原爆投下時、祖母と共に郊外に疎開していたが、投下後の自宅へ戻ったりしており、お二人の早い死は何らかの形で原爆に関係しているように思えてならない。
・2015年8月9日に放映された、NHKスペシャル「"あの子"を訪ねて〜長崎・山里小 被爆児童の70年」は、「原子雲の下に生きて」に手記を書いた児童たちが、孤児になるなど辛い思いで戦後を過ごしてきた70年を浮き彫りにしたドキュメント番組である。「戦争より、戦後の方が辛かった」、「年月が解決するというけど、私には解決しない・・・死ぬまで背負っていく」という悲痛な叫びには、胸が痛む、などといった陳腐な言葉では表現できない思いである。茅乃さんは、「原子雲の下に生きて」に手記を書いた一人であり、被爆35年1980年当時の旧友との感動的な再会場面が映されていた。
   
永井坂   "あの子"歌詞   アルバ文庫版"原子
雲の下に生きて"
(1995)

3. 浦 上 (2)〜長崎大学医学部、山王神社、坂本国際墓地

(長崎大学医学部)
 長崎大学医学部の前身旧長崎医科大学は、長崎医学専門学校が、1923年に国立大学に昇格したものであり、1857(安政4)年にオランダ軍医ポンペが幕府医官への講義を開始した医学伝習所を前身としている。歴史的には、東京大学医学部の前身たる西洋医学所(1861設立)よりも古く、我が国西洋医学の草分けである。
 爆心地の東550mに位置していたことから、原爆投下により、全ての校舎・施設が一瞬のうちに倒壊・炎上し、教官・学生・看護婦等関係者898名、入院・外来患者を含めると1,100名近くが犠牲となったとみられている。
(小さな画像はクリックで拡大します)

左:被爆後の長崎医大全景(「長崎医科大学と原爆-被爆60周年記念誌」2006年8月)
右上:長崎大学医学部正門
右下:戦前の金属製の門柱を復活(内門)

 被爆当時、医大の正門は、現在の裏門の場所にあった。裏門横には、当時の石造りの正門が被爆遺構として保存されている。爆風により前に9cmずれ、台座との間に隙間ができ、前へ傾いている。戦前は、この門の内側に金属製の内門があったが、軍に供出され、被爆時はコンクリート製になっていた。金属製の門は、現在の正門に復元されている(上の画像)。
裏門を入って右手奥、正門からは正面のポンペ会館の裏に、「グビロが丘」(虞美人草の咲く路の丘の略)と呼ばれている小高い丘がある。ここは、即死を免れた多くの重傷者が逃げのび、命を落とした場所で、医大関係者の慰霊碑が建立されている。
   
被爆した旧医大正門   被爆した旧医大正門側面   前に傾いた旧医大正門側面
   
旧医大正門図解
外門と内門がある。
  倒壊したコンクリート製内門  ポンペ会館(コンベンション施設)
   
グビロが丘への登り道
(ポンペ会館裏)
  グビロが丘の慰霊碑  慰霊碑裏面の永井博士の書
・正門を入って右、良順会館裏の「ゲストハウス」は、元配電盤室であり、分厚いコンクリート造りのため、爆心地近くでほぼ原形のまま残った貴重な建物である(1931年築)。1965年に改修され、医学部や病院職員等の宿泊施設として利用されている。
・被爆当時の学長角尾晋教授(内科学)は、1945年8月7日、東京出張の帰途広島に寄り、被災直後の広島市内の惨状をつぶさに視察して長崎に帰ったが、9日病棟での診察中に強烈な爆風により重傷を負い、22日に亡くなった(52才)。
1978年8月9日に医大の後身である長崎大学医学部の記念講堂前庭(旧医大正門を入って左)に角尾学長の銅像が建立された。角尾学長は、長崎医大発足間もない1924年に第一内科を開講し、我が国における肝臓の臨床研究の第一人者だった。
   
良順会館   ゲストハウス   同左
   
記念講堂   角尾教授像   角尾教授直筆碑
 ポンペ広場の前は、中央に原爆復興50周年記念モニュメントの建つ、芝生広場になっている。
また、あまり知られていないが、医学部の構内に「原爆医学資料展示室」が設置されている。原子爆弾による後障害の治療並びに発症予防及び放射線の人体への影響に関する総合的基礎研究を行うことを目的に、1962年に設立された「原爆後障害医療研究所」の内部組織で、血に染まった白衣などの資料のほか、原爆が人体に与える影響などについて詳細に紹介されている、自由に見学できる施設である(入場無料)。修学旅行で毎年見学に訪れる中学校などもあるようだが、もっと知られてよい施設である。
熱帯医学研究所の熱帯医学ミュージアムとともに集約・リニューアルして発足した「医学ミュージアム」の中にある(今回は土曜日で閉鎖していた)。
   
原爆復興50周年記念モニュメント   原爆犠牲者銘板   原爆医学資料展示室案内板

(山王神社)
 山王神社は、長崎大学病院の南、爆心地から800mの位置にあり、社殿等全てを焼失した。
鳥居は4基あったが、そのうち二の鳥居が爆風により片方の柱が吹き飛んだ状態で立っており(倒壊部分は参道脇にある)、当神社の原爆遺構として「一本柱鳥居」(地元では「片足鳥居」)と呼ばれている。
 境内の入口に南北に向かい合って2本のクスノキが立っている。原爆の熱線と爆風により、死に絶える寸前となりながらも豊かな緑を取り戻した樹齢500〜600年の大クスノキで、被爆クスノキと呼ばれている。胸高幹周は、南側8m、北側6mで、樹高はともに20m前後の大木である。
正面向かって右(南側)のクスノキの方がダメージが大きかったようで、傷口が樹脂で埋められている。また、階段を上ると、爆風によって空洞の中に入った沢山の石を覗くことができる。木の根元には、2006年の治療の際に取り出された石が置いてある。
   
山王神社片足鳥居(二の鳥居)   二の鳥居倒壊部分   同左
   
二の鳥居倒壊部分   山王神社正面   同左(正面向かって右)
   
右の木の空洞の中の様子   右の木の空洞から取り出した石   被爆クスノキ(正面向かって左)
 
本殿   本殿前から一本の木に見える被爆
クスノキ(地元の方が教えてくれた)
(坂本国際墓地)
山王神社南の丘にある外人墓地で、1888(明治21)年に開設された。その後、1903年に北側部分が増設された。グラバー家の墓地は、北側の墓地にある。埋葬者数は、英国人103、米国人73、フランス人56、ドイツ人29等、全部で14ヶ国325人(不明含む)という。
南側墓地の入口手前の公園の奥に、「長崎市名誉市民永井隆の墓」の碑があり、永井博士夫妻が眠っている。パウロ永井隆、マリナ永井緑と刻されている。墓碑の傍らには、博士の生地島根県三刀屋町から贈られた御衣黄という緑色の花をつける桜が植えられていた。如己堂にも植えられている。
   
永井博士墓地   永井博士夫妻墓碑   御衣黄
   
坂本国際墓地南側入口   坂本国際墓地北側入口   グラバー家の墓、右グラバー夫妻
左グラバーの子息倉場富三郎と妻

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 外海、西海 (西彼杵半島)

 長崎県西部の東シナ海に面した西彼杵半島は、いわゆる「平成の大合併」により、西海橋で佐世保市につながる北側が西海市、南側が長崎市となっている。この半島は、過疎地の色合いが強い地域であったが、過疎対策としての産業立地や、動物園、テーマパークの開園などの地域開発により、現在では道路整備なども進み、昔に比べると面目を一新している。
長崎市域のうち東シナ海に面する外海(そとめ)と呼ばれる地域は、2005年以前は外海町と称していた。

1. 外海とド・ロ神父
 外海に関しては、ド・ロ神父なしに語ることはできない。
フランス・ノルマンディの裕福な貴族出身のマルク・マリー・ド・ロ神父(Marc-Marie de Rotz、1840〜1914)は、1868年に来日し、浦上(一時横浜)で教会の仕事(印刷、建築など)や医療活動に従事していたが、1878年に外海地域出津(しつ)地区の主任司祭になった。
 外海は、長崎へは近いものの、陸路は閉ざされていたため、禁制下における潜伏キリシタンの里となっていた。また、外海の海岸は殆どが急峻な崖で耕地にも恵まれず、極めて貧しい半農半漁の地域だった。
 ド・ロ神父は、極めて貧しかったこの潜伏キリシタンの里の人達のために、農業、土木・建築、医療などを教えるほか、養蚕業、マカロニや素麺の生産事業をも興すなど、この地域の産業・社会福祉のために、その莫大な全財産を捧げ、この地で生涯を終えた。
   [参考文献] ・片岡弥吉「ある明治の福祉像 ド・ロ神父の生涯」(1977、日本放送出版協会)
           ・森 禮子「神父ド・ロの冒険」(2000、教文館)

2. 外海の世界遺産候補と関連施設

(世界遺産候補「出津教会堂と関連施設」)
出津教会堂
 出津教会堂は、ド・ロ神父の設計・指導により1882年に建設された教会堂である。
煉瓦造瓦葺き平屋建てで、外壁は白漆喰を使用している。角力灘からの強い風を意識した造りで、教会建築としては、軒高を非常に低くしてあり、その代りか正面の鐘塔が大きくかつ高くなっている。2度の増築を経て1909年に、二つの鐘塔を持ち、祭壇部が半円形という、現在の独特の外観になった。なお、正面の鐘塔上のマリア像は、ド・ロ神父がフランスから取り寄せたものである。また、用地の取得を始めとする必要な費用は、他の全ての事業同様ド・ロ神父の私財をもって賄われた。
2011年に国の重要文化財に指定された。
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正面   奥の鐘塔側   奥の鐘塔下の聖母像
(ルルドのマリア)
   
側面   ド・ロ神父と助手の伝道師中村近蔵   正面と左の塔の像

旧出津救助院
 外海は貧しさゆえ、孤児や捨子が多いことに加え、海難事故で残された家族の生活は悲惨な状態にあった。このためド・ロ神父は、1883年に授産場、マカロニ工場などの建物からなる救助院を建設し、授産活動を開始した。この間、1880年には孤児院を開設している。
また1885年に、当時盛んであった鰯網づくりのため、授産場の向かいに木骨煉瓦造りの工場を建設した。その後、工場は廃止され保育施設となり、現在は「ド・ロ神父記念館」になっている。
旧出津救助院の施設は、1967年に県指定の、2003年には国の重要文化財に指定された。また、世界遺産登録を念頭に施設の保存修理を行い、2013年より一般公開している。
・救助院の中心となる授産場は、1階外壁には「ド・ロ壁」(後述)と呼ばれる石積み及び木造の2階建で、1階では、神父の指導に基づいて織布、編物、素麺、パン、醤油の製造などを行った。2階は織物の作業場と、救助院に入った修道女及び14〜20歳までの女性たちの共同生活と祈りの場となっていた。
現在は、1階が当時の作業に使われた道具類などの展示室になっている。2階は祭壇が置かれた祈りの場になっているが、見学はできる。以前ド・ロ神父記念館に、神父がフランスから持ってきたオルガンがあり、150年近く経っているのに正確な音が出るのに驚かされた。ハルモニアと呼ばれるそのオルガンは、現在はこの2階に置かれている。因みに、このオルガンを記念館を訪れた人たちのために弾いて下さるシスターのことが新聞や観光案内などに掲載され、よく知られるようになった。シスター橋口という方で、現在98才でお元気とのこと。喜ばしい限りだ。
 マカロニ工場は、授産場の東側の道沿いにある煉瓦造りの建物である。マカロニ工場の前から、ド・ロ塀の石積壁がある。「当時、日本で石積みの接合剤として使用されていたアマカワが雨に打たれるのに弱いのを見たド・ロ神父は、代わりに赤土を水に溶かして石灰と砂をこね合わせたもので接合し、地元の自然石を不規則に積み重ねた丈夫な「ド・ロ塀」を考案したと言われ、授産場の基礎や壁体の大部分に使用し」た(旧出津救助院ホームページによる)。
 旧製粉工場では、水車小屋を使って製粉し、そうめんなどの製品を作っていた。現在は、当施設ゆかりの品を扱う売店(入口の左側、2階部分)になっているほか、食の体験活動の施設として利用されている(1階部分)。
・ここで製造されたシーツやマカロニ、パンなどは外国人居留地向け、素麺や醤油などは内地向けに販売された。素麺は「ド・ロさまソーメン」として、現在も当地の特産品である。
   
旧出津救助院入口   旧出津救助院俯瞰   授産場
   
授産場1階作業場の様子   同左   旧製粉工場(旧修道院)
   
旧薬局   旧マカロニ工場   旧マカロニ工場とドロ塀

ド・ロ神父記念館
 旧鰯網工場にド・ロ神父の遺品を一堂に集め、その偉業、遺徳を永久に顕彰することを目的として1968年11月に開設した。その後、建物の老朽化に対応して文化財保存修理を実施し、創建時に近い形に修復し、同時に展示改修を行い2002年5月に開館した。
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ド・ロ神父記念館入口   内部の様子   同左
   
地下貯蔵庫(いわし網生産施設
祭礼用ワイン貯蔵施設等諸説あり)
  足踏み糸車(フランス製)   メリヤス編機(ドイツ製)
 
ド・ロ神父と子どもの像(記念館前)   出津教会堂と救助院遠望

(野道共同墓地 ド・ロ神父の墓)
 野道共同墓地は、ド・ロ神父が出津教会信徒の共同墓地として造成したもので、急傾斜の難工事を信徒が交代で作業奉仕を行い、約10年をかけて1898年に完成した。
急傾斜の通路は、基本的に当時のままのようで、手摺りも一部設置されているが、足下はかなり悪い。上の方に建設当初の古い野積みの墓碑があるようだが、山道を行くような感じになってきたため断念した。
神父の墓は、当初斜面の途中に建てられ、現在もそのままになっているが、新たに入口付近に墓碑が建てられた。参拝者の便宜と、慰霊祭のスペースが確保できることによると思われる。
   
ド・ロ神父の墓
(右画像入口手前の右にある)
  墓地の入口
(すぐに急な上りになる)
  傾斜地途中の様子
(ここからは山道になる)
当初のド・ロ神父の墓
(世界遺産候補「大野教会堂」)
 ド・ロ神父の設計・指導、信徒の奉仕により、出津教会の北方4kmの大野郷の山中に、出津教会の巡回教会として建てられた教会堂である(1893年)。僅か4kmとはいえ、急な山越えの難路を出津まで行くことは大変な難行だったため、設置されたもので、現在は年1回、10月にミサが行われる以外、施錠されている。ただ、団体の見学客の場合には、現地の信徒の方が、説明役となり、玄関を開けてくれるので、内部を見学することができる。今回は、団体客と一緒になり便乗して覗くことが出来た。全体として、日本家屋という感じだったと思う。
 建物は、玄武石を外壁にした日本瓦葺き平屋の建物で、ド・ロ壁と呼ばれる赤土を水に溶かして砂と石灰を混ぜ、石材(雲母片岩)を積み上げるという工法によっている。
 この教会堂が、ユニークな工法による教会建築物であることは間違いないと思われるが、世界遺産としての意義が奈辺にあるのかについて、必ずしも明確ではないよう感じられる。
なお、世界遺産登録を前提に見学者用の駐車場と教会までの通路を用意したが、相当数の階段を上る必要がある。
   
大野教会堂全景   玄関側
(玄関前が風除室の壁になっている)
  玄関入口
(右側ドアから入ると正面が祭壇)
   
建物裏側   西側(海側)側面   同左裏側から
   
木製の雨戸と内側の窓   マリア像   同左
(バスチャン屋敷跡)
 外海では、洗礼名バスチャンという日本人伝道師が、日本から神父がいなくなった後、隠れ家を転々としながら、潜伏キリシタンの指導に当たったと伝えられている。
この地に隠れ棲んでいたところを捕縛され、長崎桜町の牢獄に3年3カ月囚われ、78回の拷問を受けた後、斬首の刑に処せられたという。ここは、外海地方の潜伏キリシタンの信仰の拠り所として、守り伝えられてきた場所である。
バスチャンは、「7代の間耐えれば、再びパードレ(司祭)がやってくる」との予言を残した。そして、その通りになった。バスチャンの教えになる教会暦(クリスマスや復活祭など)は、幕末まで正確に伝えられたという。
山奥深い隠れ家だから分かり難い場所は当然だし、地図を見るとやや不安を禁じ得なかったが、案内標識が適切に設置されている。見学用の舗装された通路や階段も整備されているので、現在は簡単に行けるようになっている。
バスチャンの予言通り、信仰復活が実現したのならば、ここバスチャン屋敷跡こそ世界遺産の趣旨にあっているのではないか。
   
バスチャン屋敷跡への入口
(入口際に駐車可能)
  バスチャン屋敷跡への通路   行き当りバスチャン屋敷跡
   
バスチャン屋敷正面   バスチャン屋敷内部   同左
   
バスチャン屋敷内部   同左   バスチャン屋敷側面
(大平作業場跡)
 ド・ロ神父は地域住民の生活向上のため、1884 年(明治17)出津の変岳の裏に原野2 町歩を購入し、1901年まで17年間かけて耕作地を開墾し、小麦、イモ、綿、お茶などを栽培した。開墾事業が完成する1901年頃に、この作業場が設置されたとみられている。
作業場は、ド・ロ壁による石造を主体とし、正面の一部が煉瓦造の堅牢な平屋建物である。その当時のヨーロッパの農村にあった農作業小屋と似ているという。ド・ロ神父の多岐にわたる福祉活動の一端を示す遺構である。
なお、大野教会堂、大平作業場跡、バスチャン屋敷跡入口は、山間の同じ道筋にある。
   
大平作業場跡俯瞰   同左正面側   大平作業場跡正面
(ここも煉瓦はイギリス積み)
   
大平作業場跡   同左   大平作業場内部
 
大平作業場内部   同左
(黒崎教会、沈黙の碑)
・黒崎は、外海の最も長崎寄りの地域である。
黒崎教会の仮聖堂は、1879年に出来ていたが、本格的な聖堂をめざし、ド・ロ神父の指導の下1897年に敷地の造成を始めたものの、本体工事に取りかかった時点で資金難のため一時中断のやむなきに至った。建設途上においては、子供を含む信徒が煉瓦運びの奉仕をするなどし、完成したのは1920年である。外壁が煉瓦造のロマネスク様式である。ド・ロ神父は完成を見ずして亡くなった。
・当教会は、遠藤周作(1923〜1996)「沈黙」の舞台となった教会として知られている。遠藤はこの地に大変思い入れがあったようだ。生前、出津の海を見下ろす場所(歴史民俗資料館前)に、「沈黙」の文学碑が建てられた。
碑文「人間がこんなに哀しいのに 主よ 海があまりに碧いのです」は、遠藤がこの碑のために著したものである。その後、遠藤周作の文学に関する資料の収蔵・展示と調査研究の場として、角力灘の断崖の上に、2000年5月「外海町立遠藤周作文学館」が開館した(現在は長崎市立)。
・2015年12月公開の映画「母と暮せば」(監督山田洋次)のラストシーンは、この教会が舞台になっている。山田監督は、この映画のラストは最初からこの教会にしたかった、と述べているが、何故監督がこの教会に拘ったのかはわからない。昔風の、床の上に跪く光景を撮影するため、聖堂内部の長椅子を撤去するなど大掛かりな撮影だったようだ。この地でのロケについては、かなり広く報道されているし、県の観光案内のホームページには、「ロケ地めぐり」が大きく掲載されており、観光客呼び込みを狙っている。暫くの間、見物客が増えるかもしれない。
   
黒崎教会正面   黒崎教会側面   マリア像
 
沈黙の碑   遠藤周作文学館


3. 西 海

(横瀬浦公園)
・1550年にポルトガル船が初めて平戸に入港したが、既存の神社仏閣を全否定しようとするイエズス会と仏教徒との間の抗争の最中、日本人とポルトガル商人との間における乱闘・殺傷事件が起きたことから、ポルトガル船は平戸を撤退した(1561年宮の前の騒乱、場所は、現在の平戸城の下辺り)。
平戸の松浦氏と対立する大村純忠は、これを好機と見、南蛮貿易による利益、軍事力の強化を目論み、ポルトガル船を誘致、翌1562年にイエズス会と協定を結び、西彼杵半島の北端の横瀬浦を開港するに至った。大村は自らこの地で洗礼を受け、最初のキリシタン大名となった。「日本史」の著者、ポルトガル人宣教師ルイス・フロイスが日本で最初に足跡を残した地でもある。
教会堂が建ち、南蛮貿易の港町として賑わったが、開港から僅か1年半後、大村氏の内部対立などからする純忠義弟の反乱を契機に、横瀬浦は仏教徒の商人に放火され、焼失してしまう。
その後の寄港地は大村氏の福田を経て長崎となる。
 現在は、教会堂が建っていた場所が公園として整備されている。教会をイメージした展望台があり、港や町並みが一望できる。また、南蛮船来航記念碑など歴史を物語る史跡の他、西海市出身の中浦ジュリアンの列福記念の十字架が建てられている。
横瀬浦に関し、国道沿いの標識では、「南蛮船寄港地横瀬浦」といった案内がなされている。
(写真はクリックで拡大します)
   
横瀬浦公園展望棟   体験学習棟   同左内部
   
体験学習棟展示室   同左   中浦ジュリアン列福記念巡礼地
・横瀬浦港の沖に浮かんでいる小さな島は、司馬遼太郎が、「松露饅頭のように可愛い」と評した八ノ子島である(注)。ポルトガルの船乗りは、この島を「聖ペトロ島」と呼び、頂上に大きな十字架を建て、この十字架を目印に南蛮船などが入港したという。当然のことながら、十字架はその後破壊され、現在の白い十字架は、1962年に復元されたものである。
   (注)司馬遼太郎「街道をゆく 11 肥前の諸街道」には、南蛮貿易の寄港地を辿る記述がある。平戸を起点に、佐世保、横瀬
      と辿った後、西彼杵半島大村湾側を長崎に至り、福田へ行くという経路である(記述内容から1977年の記録)。

(中浦ジュリアン記念公園)
・沖に大島のある西海市大田和の南に、中浦郷という地域がある。
中浦ジュリアン(1568年頃 -1633年)は、ここ中浦の生まれで、1582年(天正10年)に九州の3キリシタン大名(大友宗麟・大村純忠・有馬晴信)の名代としてローマへ派遣された、天正遣欧少年使節4名の一人である(帰国は1590年)。
ジュリアンは、1608年に司祭に叙階され、キリシタン弾圧の中、九州を回りながら、地下に潜伏して活動していたが、1632年小倉で捕縛され、長崎西坂で「穴吊りの刑」に処せられ殉教した(65歳)。
そして、375年後の2008年、ローマ教皇ベネディクト16世により、ペトロ岐部ら他の187人と共に、聖人に次ぐ福者に列せられ、長崎で列福式が行われた。
 因みに、ジュリアンの処刑に際しては、遠藤周作「沈黙」に実名で登場するフェレイラら6名の神父・修道士も一緒だったが、フェレイラのみ耐え切れずに棄教した。
・中浦ジュリアン記念公園は、中浦ジュリアンの生地とされる場所を公園として整備したもので、記念展望台の屋上にローマの方向を向いたジュリアンの像が立つ。1階の資料展示室では、ジュリアンの生涯を示している。

   
中浦ジュリアン記念公園入口   記念展望台・資料展示室   展示室内部
   
展示室内部   同左   中浦ジュリアン像


4. 西彼杵半島の産業施設

 西彼杵半島の東シナ海側は、交通が不便なうえ、山が海岸に迫る地形で、かつ外洋に面していることから、産業は厳しい気象条件下の農業・漁業が主であり、海底炭田を採掘する石炭産業も立地していたが、これも衰退し、1960年代以降過疎化が進んだ。
このような状況下、閉山による過疎化の進展を食い止めるべく、かつての炭鉱跡地に企業誘致が行われた。 その結果、現在の西海市大田和沖の大島に、1974年大島造船所が操業を開始、1981年にはやはり西海市大瀬戸沖の松島に電源開発松島火力発電所が運開した(石炭火力50万kw×2基)。その結果、関連産業を含め相応の雇用増の効果が齎された。
なお、建設中に第一次石油ショックに見舞われた大島造船所は、その後も円高や数次にわたる造船不況という苦難の道を歩んできたが、現在ではこれまでの努力が実り、造船大手の一角を占める地位にまでなっている(追記)。地域との協働によリ、この地域で栽培されているサツマイモを生かした焼酎の醸造やトマトの生産を手掛けるなど、地域に根付いた企業である(注)
  (追記)2019年12月18日、三菱重工業の香焼造船所を大島造船所に売却する方針である旨、同社から発表がなされたとの報道が
    あった。1972年に竣工した香焼造船所は、100万トンドックと言われた大型建造ドックを擁する三菱長崎造船所の主力工場
    として脚光を浴びた歴史を有する事業所である。地元でも驚きをもって受け止められたようだ。実現すれば、大島は名実ともに
    日本を代表する造船会社となるわけだが、首尾よくあの大型ドックの稼働と採算を維持して事業を継続することを祈りたい。

  (注)西彼杵半島では、痩せた土地が多く、米作よりもサツマイモの栽培が盛んだった。当地の土産物として広く売られている
    "カンコロモチ"は、コメの代用として一般的に食されていたサツマイモの切干である"カンコロ"を餅菓子に仕立てたもので、カ
    ンコロは元来貧しさの象徴のようなものである。
    司馬遼太郎の前掲著で、この地域では、サツマイモでなく"カライモ"というのではないか、と地元運転手に何回も質す場面が
    出てくる。カライモとは言わないようだ。
   
大島造船所   同左   電源開発松島火力発電所
 西海市と接する外海地区神の浦の沖に池島が見える。1959年に松島炭鉱池島鉱業所として採炭が始められた海底炭坑の島で、良質の主として電力向け一般炭を生産していたが、2001年に閉山した。
閉山後は、政府の委託事業として、発展途上国の炭坑技術者のための研修などを行っていたが、現在は長崎市の観光振興の一環として、体験ツアーが行われている。軍艦島人気の影響もあるのであろう、こちらも参加者が大きく伸びているそうだ(2011年の600人→15年度見込み8千人超)。
ただ、実際の採掘作業は、立坑でSL(平均海面下)-650mまで下がり、更に斜坑を何kmも進んだ切羽における危険と背中合わせの過酷なものであり、この「体験」で想像できるか疑問ではある。悲惨な炭坑事故などに触れることもないであろう。
なお、出津の外海歴史民俗資料館にも、坑内で稼働していた最新鋭の採炭機械であるドラムカッターが展示されている。

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<附>大佛次郎の浦上四番崩れに関する見解  (「天皇の世紀[普及版] 九武士の城」から「旅」による)

・政治権力に対する浦上の切支丹の根強い抵抗は、目的のない「ええじゃないか踊り」や、花火のように散発的だった各所の百姓一揆と違って、生命を賭して政府の圧力に屈しない性格が、当時としては出色のものであった。政治に発言を一切許されなかった庶民の抵抗として過去になかった新しい時代を作る仕事に、地下のエネルギーとして参加したものである。新政府も公卿も志士たちも新しい時代を作る為になることは破壊以外に何もして居なかった。浦上の四番崩れは、明治新政府の外交問題と成った点で有名と成ったが、それ以上に、権力の前に庶民が強力に自己を主張した点で、封建世界の卑屈な心理から脱け出て、新しい時代の扉を開く先駆と成った事件である。社会的にもまた市民の「我」の自覚の歴史の上にも、どこでも不徹底に終った百姓一揆などよりも、力強い航跡を残した。(p220〜221)
・浦上村本原郷の仙右衛門などは自信を以って反抗した農民たちの象徴的な存在であった。維新史の上では無名の彼は、実は日本人として新鮮な性格で、精神の一時代を創設する礎石の一個と成った。それとは自分も知らず、その上間もなく歴史の砂礫の下に埋もれて、宗教史以外の歴史家も無視して顧みない存在と成って、いつか元の土中に隠れた。明治の元勲と尊敬された人々よりも、真実新しい歴史の門に手を掛けた者だったとも言えるのである。元勲たちは実は時代の浪に乗せられて自己の意思なく漂流していたものである。(同p221)
・廃仏事件に坐して、四十歳以下の僧侶が悉く還俗して兵隊となるか教員になるか、農工商に帰って、一人の反抗者も出なかった事実にくらべて、浦上長崎の常民の切支丹が如何に信仰が固かったかを思うと、ほとんど信じ難いくらいである。
 どうしてこの相違が生れたのかを考えると、仏寺の僧侶が天下の遊民を以って自ら許し、「囲碁、詩歌、点茶、挿花を弄するのはむしろ上等の方で、甚だしきに至っては無知、無学にして酒を飲み色に耽り、因果を弁えず、朝昏の礼仏誦経をも努めず、懶惰乱行す」と道契和尚の「闢邪大義」に痛嘆されたように仏道が宗教ではなくなり、切支丹の信仰の清新さに比較出来ぬものになっていたからであろう。神仏分離令が出ると、僧侶が直ちに還俗、神官に早変りしたのが普通一般で、これを疑問に思う者もないほど信仰心など無かった。これにくらべて、浦上の切支丹信徒は、太政官政府の度々の威嚇にも屈しなかった。(p255)
・浦上切支丹の「旅の話」は、この辺で打ち切る。私がこの事件に、長く拘り過ぎるかに見えたのは、進歩的な維新史家も意外にこの問題を取上げないし、然し、実に三世紀の武家支配で、日本人が一般に歪められて卑屈な性格になっていた中に浦上の農民がひとり「人間」の権威を自覚し、迫害に対しても決して妥協も譲歩も示さない、日本人としては全く珍しい抵抗を貫いた点であった。当時、武士にも町人にも、これまで強く自己を守って生き抜いた人間を発見するのは困難である。権利という理念はまだ人々にない。しかし、彼らの考え方は明らかにその前身に当るものであった。(p322)

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