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(2024.3.1加筆修正) 作曲家古関裕而をモデルにした、2020年前半のNHKの朝ドラ「エール」の第19週では、長崎医大永井隆博士の著書の歌謡曲化を題材にしたドラマが放映された。 藤山一郎の歌った、戦後を代表するヒット曲「長崎の鐘」であるが、さすがに藤山が亡くなって30年近く経過した今日殆ど聞くことがなくなっていた。やはり昭和は遠くなったわけだ。 ただ、7〜8年前長崎へ行った際、長崎駅へ寄ったら、この歌が流されていた。長崎(正確には西九州)新幹線開通(2022年9月)に伴う現在の橋上駅舎になる前は、長崎本線終着駅の線路終端標識(車止め)を見ながら地上到着ホームを改札口へ向かうとこの歌が耳に入り、観光客は(やっと?)長崎へ着いたことを実感するような演出になっていた。長崎では、しっかり根付いている歌だと実感した次第。 なお、、現在では、長崎の鐘と言えば、毎年8月9日の平和祈念式典で打ち鳴らされる鐘のことだと思う人もいるのではないか。まさにあれは長崎の鐘に違いないのだから。 |
長崎平和公園の長崎の鐘(1977年建立) |
さて、この放送の機会に、永井博士の著書、「長崎の鐘」(1949年出版)、「この子を残して」(1948)、「ロザリオの鎖」(1948)、そして永井博士の子息誠一著「長崎の鐘はほほえむ 残された兄弟の記録」(注)を読み返してみた。 (注)1959年出版、1974年再刊。父隆の闘病生活や、如己堂の生活等が丁寧に記された感動的な記録である。 「長崎の鐘」等と併せて読むべき本である。 また、「長崎の鐘」に久松婦長として出てくる、原爆投下時の長崎医大附属病院物理的療法科(放射線科)婦長久松シソノさん(1924〜2009)が書かれた「凛として看護」(2005) 、古関裕而の自伝「鐘よ鳴り響け」(1997)を読んだ。 因みに、筆者は晩年の久松シソノさんに、永井博士の自宅跡の”如己堂”(博士命名の2畳一間の住居)で偶々お会いしたことがある。筆者にとっては本の中に出てくる歴史上の人物であり、大変感動したことが思い出される。 |
如己堂全景 |
如己堂内部の様子 |
「長崎の鐘」は、原爆投下直後の長崎医大と附属病院を襲った筆舌に尽くし難い惨状と永井博士などによる救援活動の実相、被爆3日目から二か月にわたる長崎市北部の三ツ山と呼ばれる渓谷地域の集落に避難した多くの被災者の巡回診療の様子を克明に、生々しく描き出した単行本である。原爆投下直後に重傷を負った永井博士は、この巡回診療の途中、危篤に陥り、一週間の昏睡後、奇跡的に生還している。 長崎医大関係の原爆による犠牲者は、入院・外来患者を含め1,100名以上に上るとされている。 現在の医学部正面のポンペ会館の裏に、「グビロが丘」(虞美人草の咲く路の丘の略)と呼ばれている小高い丘がある。ここは、即死を免れた多くの重傷者が運ばれ、あるいは逃げ延び、命を落とした場所で、「長崎の鐘」に出てくる、「裏の丘」もこの地のことであろう。1945年11月2日医学部関係の慰霊祭が行われた。慰霊碑が建立されており、裏には永井博士の書が嵌め込まれている。 |
原爆により壊滅した長崎医大 「長崎医科大学と原爆-被爆60周年記念誌-」(2006年3月)による |
現在の医学部正門からグビロが丘を望む(白い建物が図書館、その奥の茶色がポンペ会館) |
グビロが丘の慰霊碑 |
慰霊碑裏の永井博士の書 |
永井博士は、原子爆弾被爆による人体の疾患などに関する知見の整理と併せ、この本を1946年8月には書き上げていたものの、GHQはその出版を差し止めた。 1949年1月に漸く発売するや空前のベストセラーになった。 この本では永井博士に関する個人的な事柄には殆ど触れられていない。ただ、最終章「原子野の鐘」に子息誠一との対話場面がある。その中では、現代にもみられるような平和利用をも情緒的に否定する風潮とは一線を画し、原子力の平和利用の可能性について極めて冷静に説いているのが注目される。 また、この章に表題の"鐘"が初めて出てくる。本書の最後の部分であり、信仰者としての本書の結論的な記述になっているので、引用しておきたい。文中の誠一は、脱稿時11歳(小4)、娘茅乃は5歳。 なお、爆心地北東500mの浦上天主堂には、鐘楼が二つあり、そのうちの一方のアンジェラスの鐘が倒壊した浦上天主堂の瓦礫の中から無傷で見つかり、その年の廃墟の前の野外ミサで鳴らされ、心身ともに傷ついた浦上の信徒たち(信徒12,000名のうち8,500名が犠牲となった)に深い感動を与えたという。その鐘による早朝の暁の鐘が鳴る場面である。なお、もう一方の鐘楼が天主堂下の小川に落ち、現在は天主堂の敷地内斜面に保存してある。
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さて、歌謡曲「長崎の鐘」は、サトーハチロー作詞により古関裕而が作曲し、藤山一郎の歌うレコードがコロンビアから発売され(1949年7月)、こちらも大ヒットとなった。 以下、感想を述べておこう。 (a)まず、歌詞についてである。 実は、サトーハチローが作詞したのは、4番まである。 歌詞そのものについてはご参照願いたいが、各パートとも、前半が、原爆で亡くなった諸々の人たちを鎮魂し、祈る内容で、後半はこの困難を希望をもって乗り越えていこうという意味合いの共通のフレーズになっている。ここでの短調から長調への転調がきわめて効果的である。 前半部分を見ると、1番は、"青空"から”あの日”の原爆投下を思い起こし、悲しみを新たにする。 2番は、原爆で失った妻を謳ったものであるが、具体的には爆心地から660mに位置する永井博士の自宅(潜伏キリシタンであった緑夫人の実家)でロザリオを確認した、夫人を想うものである。 永井博士は、右こめかみの動脈切断という重症を負いながらも、救援隊を組織して被災者の看護にあたり、自宅へ帰ったのは3日後であった。自宅は跡形もなく、台所の焼け跡で焼け尽して黒い塊となって残っていた緑夫人の遺骨を発見し、焼バケツに回収した。傍には、高熱で変形した夫人の十字架のついたロザリオの鎖が残っていた(「ロザリオの鎖」による)。 そのロザリオは、現在如己堂に隣接する長崎市永井隆記念館に陳列されており、この前に立つと、当時の生々しい光景を想起するのである。 続く3番は風雨の中でカトリック教会のミサにおける聖歌の歌唱と祈りの様子を想起し、4番は、教会における告解を表現しているように見えるが、過去を振り返った悔悟の祈りと考えておけばよいのではなかろうか。後段では、”如己堂”に置かれた真っ白なマリア像(現在も展示されている)が頭に浮かぶ。 素直に一読すれば、長崎の原爆で愛する妻を失った人の歌であり、壊滅した浦上天主堂の瓦礫の中から奇跡的に発見され、鳴り続けているアンジェラスの鐘の音を聞くたびの妻を思う痛切な悲しみと祈り、そして希望につなぐ歌である。 |
(b)前項で見たように、サトウハチローの詞は、原爆を直接描写してはいない(当時の米軍の検閲を意識したか)。加えて、レコード化に際しては、3番がカットされており、現在に至るまでそのような歌い方が一般的である。すなわち、ミサ、神の歌、十字架といった語句を含む3番をカットし、キリスト教(カトリック)色を薄めることにより、単に長崎だけではなく、戦災を受けた全ての受難者に対する鎮魂歌であり、打ちひしがれた人々のために再起を願った詞として売り出し、かつ広く一般に受け入れられ、ヒットした、ということであろう。 この結果として、"鐘"を天主堂の鐘から平和公園の鐘に変容転化せしめたと言ってよいのかもしれない。 藤山一郎による"長崎の鐘"は、以下で聴くことができる。 藤山一郎 長崎の鐘(新しき付き) 3番が歌われていたらヒットしなかったとも思えないが、事情は分かるべくもない。3番を含む”完全版”はyou tubeにいくつか掲載されている。 @ 西尾薫のソプラノによる「完全版長崎の鐘」 A 鮫島有美子「長崎の鐘」 |
(c)古関は、「長崎の鐘」を作曲する際、 「これは、単に長崎だけではなく、この戦災の受難者全体に通じる歌だと感じ、打ちひしがれた人々のために再起を願って、「なぐさめ」の部分から長調に転じて力強くうたい上げた。」と述べている(「鐘よ鳴り響け」)。 永井博士はこの歌を放送で聞き、古関裕而あての書簡(1949年4月25日)で、 「私たち浦上原子野の住人の心にぴったりした曲であり、ほんとうになぐさめ、はげまし明るい希望を与えていただけました。作曲については、さぞご苦心がありましたでしょう。この曲によって全国の戦災荒野に生きよう伸びようと頑張っている同胞が、新しい元気をもって立ち上がりますよう祈ります。」と述べているという(「同)。 また永井博士は、終戦記念日に、 「新しき朝の光のさしそむる荒野にひびけ長崎の鐘」 と認めた短冊を、古関に贈った。 長崎市永井隆記念館には、古関から贈られた色紙が展示されている。 一方、藤山一郎と永井博士にも交流が生まれ、「新しき朝」の詩は、藤山にも贈られた。藤山は翌年療養中の博士を如己堂にアコーディオンを抱えて見舞ったそうだ。 「新しき朝」には、藤山により曲がつけられ、1959年発売の「長崎の鐘」のレコードに収録されている。藤山一郎、西尾薫の前掲you tubeで聴くことができる。 因みに、古関は長崎行きの意向はあったものの、如己堂を訪れたのは博士が亡くなった(1951年5月、享年43歳)翌年、夫婦で熊本に行った帰りとなった。遺児二人に妻から万年筆をプレゼントし、元気づけたという(「鐘よ鳴り響け」):。 (d)WIkipediaによれば、古関は戦前自身が作曲した軍歌に鼓舞され、前線に斃れていった多くの若者たちに対して自責の念を抱いていたとされており、今回の朝ドラではそのことが強調されている。 古関の自伝「鐘よ鳴り響け」には、戦時中、中支や南方へ慰問に出かけた折りの、戦地における戦士との交流の体験などが記されており、その思いは強いものがあったのかもしれない。もっとも、「鐘よ鳴り響け」では、終戦による若干の空白の後作曲活動を再開したことが淡々と述べられており、そのような内面的な部分は披歴されていない。しかしながら、終戦を境に政治家も教師も新聞社も皆民主主義、平和主義に転換したのであって、古関も社会や政治の変化に対応するニーズに応えて、作曲活動に専念してきたということであろう。自責の念を抱くのはむしろ良心的な方だったと言えるかもしれない。 古関が「長崎の鐘」を作曲した頃には、既に「雨のオランダ坂」(1947)、「フランチェスカの鐘」(1948)、ラジオ・ドラマ"鐘のなる丘"主題歌「とんがり帽子」(1949)などのヒット曲を立て続けに生み出し、作曲活動は順調な軌道に乗っていたわけであるが、この歌により彼自身が鎮魂の思いを表すことができたことは間違いないであろう(注)。 (注)この間の作曲作品数は、1946年 14、1947年 24、1948年 26、1949年 27、 翌1950年には38へ急増(刑部芳則「古関裕而」(2019、中公新書)による)。 |
今回のドラマに関して、ドラマは、ドキュメンタリーでも歴史の記述でもないことを承知の上で、敢えて述べるならば、永井博士がその将来に最も心を痛めていた二人の愛児の代わりに、古関が作曲前に博士に会いに行くというストーリー展開の関係から、島根の妹が浦上在住のような形で出てきたことには、些か違和感を覚えた(「ロザリオの鎖」に、焼け跡に住み始めた頃妹が見舞いに訪れたという記述はある)。生前会っていない二人を会ったとして描くのは、ドラマとはいえ、いかがなものか、ということである。 |
なお、永井誠一氏は、上智大学を卒業して時事通信社に勤務の後、長崎市永井隆記念館の館長を務めていたが、2001年4月に66歳の若さで亡くなった。また、妹の茅乃さんも、2008年5月、永井隆生誕100年の前日に同じ66歳で亡くなっている。原爆投下時は祖母と共に疎開していたために直接被爆はしていないものの、原爆投下の翌日以降自宅付近へ戻ったりしており、間接的な影響はあったと思われ、お二人の早い死には原爆の影響があったに違いないと思う。永井博士生誕100年を前にした長崎放送の企画による茅乃さんの貴重な証言がある。下記youtube参照。 被爆を語る 筒井茅乃 久松ソシノさんは、長崎如己の会副理事長として、生誕100年の記念行事の準備を行い、その翌2009年1月に亡くなっている。 最後に浦上の市営坂本国際墓地敷地内にある、永井夫妻の墓所の画像を掲載しておこう。パウロ永井隆、マリナ永井緑(注)と金色の文字で記してある。入口には、"長崎市名誉市民 永井隆之墓"との門碑がある。 長崎市公葬では、2万人の長崎市民が見送ったという。 (注)インターネットの投稿記事では、多くの人が誤って洗礼名を"マリア"としている。因みに、江戸初期に西坂で殉教し、 1987年に聖人に列せられた"大村のマリナ"という修道女がいるようだ。 |
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