井上成美記念館



(最終更新 2024.04.05)
 井上成美記念館
・本棚に阿川弘之「井上成美」(1986、新潮社)の初版本がある。阿川の海軍ものは殆ど読んでおり、頭の中に井上のことが印象付けられていたため、単行本が出てすぐに読んだ。
いわゆる「最後の海軍大将」井上成美の戦前の海軍時代から戦後の横須賀長井での隠棲生活に至るまでの思想と行動、家庭・私生活等に関しては、1982年出版の井上成美伝記刊行会「井上成美」に詳しく書かれているが、一般的にはこの阿川著によりよく知られるようになった。従って、ここでまた繰り返すことはしない(注1)
 私はこの本により、帝国海軍には自らをラジカル・リベラリストと称する(注2)、このような人が居たこと、しかも枢要なポストに就いていたということに、驚きと、ある意味で何か救いを見たような気がしたものである。そして、昔(高校生の頃)似たような感想を持った人物がいたことを思い出した。井上と同世代で、戦争中最後までファシズム批判の旗を降ろすことのなかった唯一の知識人、戦後東京大学総長になる矢内原忠雄である(井上が4歳年長)。この二人は、1945年8月15日を挟んで、正反対の境遇になるのであるが、人間的には似た面があるのではないかと思う。
 (注1) 伝記刊行会の本は大部であるが、時系列的に記述されているので読み易い。資料も豊富である。 
 (注2) 安藤良雄東大経済学部教授(戦時中主計大尉として海軍省勤務)のインタビューに答えて(「文芸春秋」1966年7月特別号)。


 あの時代、井上のような言動を一般人がしていたら、たちどころに憲兵隊か特高警察に捕まり、酷い目にあったに違いない。現に、三国同盟(1940年9月締結)に反対する米内(海軍大臣)山本(次官)井上(軍務局長)の三名は、右翼に狙われていたし、反対派の海軍軍人全てに私服憲兵の尾行がついていたという(1937年暮れには矢内原が東大教授を辞任するを余儀なくされている)。戦争末期に次官を務めていた井上は、米内大臣と共に、陸軍によるテロの標的になる危険は十分あったのである。
 また、井上のようなタイプの人物は、現代の我が国を代表するような企業社会においても、まず出世することは難しかろう。戦前の帝国海軍は、当時の日本社会としては勿論、その後の日本社会をみても、極めて異色のリベラルな文化をもつ側面があったと言えるのではないか。
・井上が敗戦直後から住んだ三浦半島長井の旧井上邸が記念館になっているようなので、是非訪れてみたいと思ってきたものの、なかなか機会がなかった。最近になり、2011 年3月の東日本大震災で被害を受け、記念館は閉鎖していると知った。今のうちに行っておこうと思い立ち、インターネット検索により住所を知ることができたので出かけることにした。
 三浦半島の相当部分を占める横須賀市の相模湾側最南端に荒崎海岸という景勝地がある。井上邸は、その断崖上に、結核に冒されていた井上の妻喜久代夫人の療養所代わりに計画されたものである。ただ、夫人はその完成(1934年)を見ることなく、療養中の鎌倉小町の家で亡くなった(1932年、享年36才)。その結果、井上が海軍を去り、この家に隠棲する1945年までは、空き家のことが多かった。
・地図検索により横須賀市長井6丁目付近を拡大すると、「リゾート・コンベンション企画」と表示されている建物が旧井上邸である。
東京方面からの旧井上邸への順路としては、横浜横須賀道路を南下〜「衣笠IC」で三浦縦貫道路へ入り〜終点の「林」から国道134号(逗子・鎌倉方面から来る)を南下〜「ソレイユの丘」を右折〜「ソレイユの丘」を通り過ぎ〜左側の「ラーメンよしべ」(看板なく分かり難い)の先、「伸栄建工」手前細い農道を左に入ると、行き止まりが旧井上邸である。
以下、阿川著の終章による。
軍人恩給が復活し(1953年)、井上の生活はそれまでよりは楽になったものの、なお生活不如意の状態であることから、長井の土地建物を売却し、アパートにでも移りたい、との話を聞いた海軍兵学校校長時代の教官小田切政徳から、兵学校73期の深田秀明にその仲介方依頼があった。しかしながら、不動産としての市場価値が見込めるような物件ではないことから不調に終わっていた(1963年頃)。代案としての深田の経営する会社の顧問となり、顧問料を支払うという申し出を、当初は断ったものの、井上は渋々受け入れていたが、井上としてはそれが何としても苦痛であり、顧問料の見返りに土地建物を深田に無償譲渡するという意向が示され、1969年以降深田が経営する会社の所有になったものである。
1975年に井上が、後妻の富士子夫人が1977年に亡くなるまで、二人はこの建物の「管理人」として 深田の会社から管理料を受け取るという形になっていた(全て預金に振り込まれたまま、手を付けず、富士子のために残されていた)。
・建物は、当初「暖炉の煙突が二つある、赤屋根の洋館」であったが、その後現在の記念館部分を残して大幅な改築が行われた。
記念館の開館時期は不明であるが、1994年発行の浅田勁「海軍料亭 小松物語」には、「井上成美記念館ができるのを夢見る最近の直枝」という標題のついた写真が掲載されていることから、これ以降のことであろう(直枝とは、小松二代目女将山本直枝のこと(注))。
(注)<追記>料亭「小松」は、2016年5月16日、火災により全焼した。歴代長官を始め、海軍要人などの掛け軸も全て焼失した。そのうちに、長官が食事をした「長官部屋」で食事を、と思っていたがその機会もなくなった。
「リゾート・コンベンション企画」のホームページによると、その代表は深田姓であり、深田秀明の関係者であろうと推測される。現在旧井上邸は無人である。
 無人の民間家屋を覗くのは失礼ではあるが、窓から内部を拝見した。ただ、窓ガラスに地震対策であろうビニールが貼り付けられていることや、光の関係で必ずしもよくは見えなかった(注)
(注)その後、建物には近寄れないようになっており、記念館のプレートも取り外されている。「リゾート・コンベンション企画」のホームページは確認できなくなったが、観光施設のコンサルタント的な業務を行っているようである(2019.10.20記)。
(写真はクリックで拡大します。)
   
井上成美記念館案内プレート   井上成美記念館玄関   記念館玄関脇「海軍」石柱
   
閉館中の記念館内部  同左  同左
   
海側からの現在の旧井上邸全景  記念館海側
(改築前の煙突が残されている)
  建築当初の旧井上邸
(伝記刊行会「井上成美」より)




当時この地域は半農半漁の辺鄙な寒村だったが、近くに、著名な土木技術者であった井上の長兄の別荘があったことから、この地を選んだという。
今でも、周りは殆ど畑(冬は大根、夏は西瓜)で、所々にミニ開発的な住宅が散在するという状況である。横須賀市内とはいえ、横須賀中心部へ出るのは容易ではない。最も近い鉄道の駅は、京浜急行「三崎口」(三浦市)である。



勧明寺は、井上邸から荒崎漁港の方へ下った海岸近くの寺であり、生前の遺言により、ここで井上の葬儀が行われた。英語塾を開いていた当時生徒であった住職の子息が住職を継いでおり、導師を努めた。
   
浄土真宗勧明寺  勧明寺本堂  荒崎漁港から富士山を望む
   
荒崎海岸の景観  同左  同左

・井上は、冷静な国力の分析からして、日本が米国と戦争して勝てるはずはなく、戦争の前提としての三国同盟、日米開戦に終始反対していた。結果は井上の予想通りとなったが、その責任と称して戦後三浦半島の僻村へ隠棲し、周りの支援を頑なに拒否し、とりわけ軍人恩給が復活するまでの期間は極貧の生活を送った。
しかしながら、公称3 百万人を超えるといわれる太平洋戦争で戦場に斃れた軍人並びに広島・長崎の原爆、沖縄戦、そして全国主要都市における空襲により犠牲になった一般市民のことを想起すれば、井上と同じ帝国陸海軍大将経験者の中に、責任を痛感する人間がいて然るべきと思うが、そういう人はいない。否、大会社の社長に収まった人もいたという。東条内閣の海軍大臣嶋田繁太郎が海上自衛隊で挨拶をした(練習艦隊壮行式での乾杯の音頭)、と聞いた井上は激怒したそうだ。
そういえば、旧日本軍を「無責任の体系」と規定した政治学者がいた。
・そうだとすれば、井上の戦後の生き方を内面からプロモートした、エートスというべきものの正体は何なのだろうか、という点を知りたいが、そのような意識で書かれた井上成美論は見かけない。
 幕臣の息子としての教育による武士道的な倫理観がベースにあったという想像はできる。
 一方、前掲伝記刊行会「井上成美」末尾の「残された聖書と讃美歌」なる一節によると、蔵書の中にかなり丹念に繰り返し読んだ跡が窺える聖書と讃美歌が残されていた。
刊行会「井上成美」では、「井上が若いころから英語によって聖書の内容に馴染み、それに慣熟していることをうかがわせる」とともに、「鎌倉に住んでいたころから、井上父娘は周囲のクリスチャンとかかわりが深く、ごく自然な形でキリスト教的な心の持ち方が培われ、聖書への関心を深めることによって、それが肉付けされていったものとも考えられる。」、としている。
そして、同書には井上がキリスト教徒と思われて不思議はないような発言、書簡が掲載されている(下記参照)
しかしながら、井上は自分でクリスチャンではないと明言しているし(1959年の37期級会報告への近況報告)、現に葬儀も真宗の寺院を指定したわけである。
   以上の点についてどう考えるか、伝記刊行会でも議論があったようである。また、井上一家と親交のあったキリスト教徒は、井上が信徒であったのかどうかという点について、「聖書が支えになってはいたのでしょうが、ひざまずいて祈る境地には至っていなかった」、と述べているという(丸田研一「わが祖父 井上成美」)。
 ただ、以下に掲載したような発言や書簡は、単に聖書に通暁しているといったレベルではなく、少なくとも人智を超えた「神」あるいは "something great" といったものを受け入れる、あるいは認めていなければなし得ないような内容ではないだろうか。ここが、最も本質的な点なのではないかと思うのである。
因みに、阿川著序章によれば、井上は東郷元帥について、「人間を神様にしてはいけません」と述べていること、阿川自身のインタビューの際、話が山本(五十六)神社の建立の動きに及ぶと色を成し、「軍人を神格化するなど以ての外の沙汰だ」と述べているのは、以上を背景とすれば理解し易いのではないだろうか。
 いずれにしても、武士道的な倫理観にキリスト教が重なるような形で、戦後の井上の生き方のエートス(精神面のバックボーン)を成していたといえるのではないかと思う。そう考えれば、荒崎における厳しい隠棲生活も頷けるのではないか。

[伝記刊行会「井上成美」掲載の発言、書簡]
@ 英語塾の生徒の証言では、クリスマス・パーティで、生徒に「神さまはいらっしゃる。必ず見ておられるから、祈りなさい。感謝しなさい。」と教えている。
A 孫研一を養育している八巻順子宛の手紙(1951年5月)には、以下のような記述がある。
「苦労も多く、人知れず涙を流す事もおありかと存じますが万事は神様が御承知です。」、「苦しい時には・・・神様が思し召して神が自分にまかせた天職と考えて耐えて行きなさい。」、「私も今まで…苦労を散々いたしましたが、苦しい時には神の思し召しと考えて耐えて参りました。この考え方が何より慰めにもなり、力にもなりました。妻の長年の病気、静子の病気の折、人知れず泣いた事は幾度あったか知れません。然し自分に授かった神命・・・と考え耐えてきました。」、「然し之も神の定めた運命と思い、・・幸福を神に感謝しながら暮らしております。」

[参考資料]
1 井上成美伝記刊行会「井上成美」(1982)
2 阿川弘之「井上成美」(1986、新潮社)
3 宮野 澄「最後の海軍大将 井上成美」(1987、文芸春秋)
4 丸田研一「わが祖父 井上成美」(1987、徳間書店)
5 浅田 勁「海軍料亭 小松物語」(1994、かなしん出版)

[旧井上邸の解体について]
2024年4月3日付読売新聞湘南版に、 旧井上邸=旧井上成美記念館建物がとうとう取り壊されることになった、との報道があった。
旧井上邸は、大幅な改築の手が加えられているとはいえ、煙突の見える記念館として使われていた当初建築は、築90年になろうとする相模湾の強烈な潮風が吹き付ける荒崎海岸の崖の上に建てられた木造建築であり、良くここまで持ち堪えたという感さえするわけで、老朽化による取り壊しはやむを得ないと思うが、記念館時代の井上縁りの資料は、防衛力増強が進められようとしている今日こそ、戦前の日本にも井上のような軍人がいたことを示す貴重な記憶遺産として是非残すべきである。同様の意見は、すでに横須賀市にも寄せられており、地元関係者が中心となって、隣接する横須賀市営「長井海の手公園ソレイユの丘」に設けられている地域コミュニティスペースで井上成美関連資料の展示を行う方向で検討が進められているほか、横須賀市博物館においても写真や映像等の歴史的資料を保管するなどの対応が検討されているようである。





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