明治記念大磯庭園


 明治記念大磯庭園と町内の旧邸宅

 明治記念大磯庭園

1 滄浪閣
 東海道松並木が残っている国道1号線沿いには、明治以降多くの著名人の邸宅が建てられた。伊藤博文(1841〜1909)の本邸「滄浪閣」も、その一つである。1890(明治23)年に小田原に別荘を建てたが、大磯を気に入った伊藤は、同1896(明治29)年に大磯の別邸を完成し、翌1897年には小田原から当地へ本邸を移した。
当時の建物は、茅葺木造平屋建ての和館(延床面積87坪)と、瓦葺き煉瓦造りの洋館(70坪)の2棟であった。1921年伊藤家から李王家に譲渡されたが、関東大震災で甚大な被害を受け、1926年に旧材を再利用して和洋折衷の木造平屋建てとして再建された。
 戦後暫くして西武鉄道の所有となり、"滄浪閣"の屋号の下、大磯プリンスホテル別館の結婚式場およびレストラン(中華料理店)として運用されていた。すなわち、本来の滄浪閣は増改築が重ねられ、国道に面した部分をレストランとし、更に結婚式場を新設した。
 西武は、2007年に当施設を閉鎖したことから、大磯町は買収の上、利用・保存することを企図し、外部コンサルタントに利用計画を提案させるなどしたものの、価格が折り合わず放置され、廃墟に近い格好になっていた。
その後、2018年が明治150年に当たることから、その記念事業の一環として、この地域を「明治記念大磯庭園」として整備する計画が浮上した。
それによれば、滄浪閣並びに近隣の旧池田斉彬邸(旧西園寺公望邸跡)、旧大隈重信邸、旧古河別荘(旧陸奥宗光邸跡) 計約5ヘクタールを、都市計画公園として一体整備しようとするもので、国の事業として実現するのであれば大磯町にとってこれほど望ましい話はないわけで、スムーズに話は運び、計画は2017年11月21日に閣議決定された。安倍晋三総理が、郷里長州出身の伊藤博文邸の保存に強い思い入れがあることも影響しているかもしれない。
ただ、都市計画決定などの諸手続きにはそれなりの時間を要することから、現時点(2018年12月)では、都市計画決定の手続きも未済である。肝心の滄浪閣部分をどうやって本件の趣旨にあった公園にするのか、あの巨大な結婚式場は取り壊すのであろうが、想像がつかない。とはいえ、2018年中に何とか形を付けたいということであろう、公開に耐えうる旧古河電工大磯荘(旧大隈邸、旧陸奥邸)につき、一般公開を行うこととなり、国土交通省主催のガイドツアーが実施されている(2018年10月23日から12月24日まで)。 現地では、公園として完成するのは早くて3年後くらいか、などという声が聞かれた。

 国道1号線の松並木西端海側に"伊藤公滄浪閣之の舊蹟"碑があり、その前の建物に"滄浪閣"のプレートが残っているが、この建物は西武が建てた結婚式場である。この建物の東側が、レストランやチャペルとして使われていた李王朝時代の旧滄浪閣の増築部分であり、いずれにせよ現在は旧滄浪閣(李王朝時代のものであるが)を見ることはできない。今回のガイドツアーの最後に旧滄浪閣外観の見学が組み入れられていた。
(画像はクリックで拡大します)
   
旧滄浪閣の碑(国道1号歩道)
(後方左結婚式場)
  李王朝時代の旧滄浪閣和室部分
(下図参照)
  同左洋室部分
   
西武時代の結婚式場
(左エントランス、奥は有料駐車場)
  旧滄浪閣の増築部分(結婚式場東)
(旧チャペル)
  同左中国料理店部分

2 旧池田成彬邸
 滄浪閣西隣が、旧池田成彬邸である。国道1号から海岸へ通じる小道を入ったところに入口がある。
当地は、1899(明治32)年に西園寺公望が茅葺の家を建てた場所であり、1917(大正6)年に池田成彬(三井合名理事)が取得し、1933(昭和8)年に英国チューダー様式による洋館を建てた。創建時の意匠がそのまま 残っており、文化遺産としての価値が非常に高いとされている。また、現存する大磯町内最大規模の洋館である。戦後三井銀行が、厚生施設として利用してきたが、現在は閉鎖されている(非公開)。内部は、相当荒廃しているという。
 
旧池田邸  同左

 滄浪閣東隣は、佐賀藩最後の藩主鍋島直大の別荘であったが、現在はマンションになっている。
その東が旧大隈邸、隣が旧陸奥邸で、いずれも明治後期に古河財閥の当主が取得した木造和風建築である。両者は最近まで同一敷地内の古河電工大磯荘西館、東館として運用されており、非公開であった。
今般、明治記念大磯庭園の計画に従い、国へ譲渡することになり、建物は寄贈済みで、現在既に国の管理下にあることから、今回公開に及んだものである。
3 旧大隈重信邸

 大隈重信(1838〜1922)は、伊藤博文が滄浪閣を建てた翌1897(明治30)年、当地に別荘を建設した。大隈がこの別荘を使用したのは古河市兵衛に譲渡するまでの4年間のみであったが、その後の関東大震災にも耐え、居室部分は現在でもほぼ往時のままであるという。敷地面積は旧陸奥邸を含み約26,400u、建物延床面積約363u。
建設当時、西側の隣地に既に大隈の出身旧鍋島藩主の邸宅があったため、西向き玄関は厭われるところ、敬意を表して敢えて西向きの玄関にしたという。
 廊下の南側に大隈がよく宴会を開いた10畳と16畳の大広間「富士の間」と中庭を挟んだ奥に書斎として使用されていた「神代の間」がある。

旧大隈重信邸正面(クリックで拡大します)

(邸宅内部)
(画像はクリックで拡大します)
   
銅製鏡のある玄関正面  応接間(玄関右)
(左奥から富士の間前の広縁)
  富士の間前の広縁
   
富士の間手前の10畳和室  同左  富士の間(奥が10畳和室)(注)
(注)富士の間の広縁寄りに展示されている杉戸絵は、明治天皇から伊藤博文に下賜され、滄浪閣和室2階に展示さていた。西武の事業撤退後は大磯町郷土資料館で保管していたものを、今回展示した。
「野見宿禰の相撲」、「後三年の役」(画像に写っている)と、「静御前の舞」、「前九年の役」の4枚がある。大隈邸とは無関係のもの。
   
朝比奈宗源の書
(朝比奈宗源は円覚寺派管長を
務めた臨済宗の僧)
  富士の間の床の間  同左掛け軸
   
神代の間
(床の間は、欅の一枚板と竹の床柱)
  神代の間隣の和室(寝室)
扁額は「居龍曠」、太田晦巌師
(円覚寺派と大徳寺派管長)の書
  同左ガラス戸と庭園
(外観と庭園)
(画像はクリックで拡大します)
   
富士の間外観
  中庭  神代の間外観
   
北側(国道側)庭園
  土蔵  五右衛門風呂(風呂好きだった)
(海岸の方へ降りた風呂場跡から
発掘)
4 旧陸奥宗光邸

 陸奥宗光(1844〜1897)は、第2次伊藤博文内閣の外務大臣として、条約改正に辣腕を振るい、日清戦争開戦に向かうという激務に忙殺されていたであろう1894(明治27)年、当地に別荘を構えた。
しかしながら、肺結核に侵されていたため、1896年に外務大臣を辞し、当地で療養していたが、1897年に他界し、陸奥の次男が、古河家の養子になってたため、当邸宅も古河家へ譲渡された。
関東大震災では、ひどい損傷を受け、1925年に建て替えられたが、玄関や主な居室部分は復元されたとされている。
当別荘は太田晦巌師により「聴漁荘」と名付けられた。

旧陸奥宗光邸正面(クリックで拡大します)

(邸宅内部)
(画像はクリックで拡大します)
   
玄関の扁額
(太田晦巌師書)
  玄関奥の廊下(応接間兼主人室前)
(屋久杉の棚)
  応接間兼主人室
(床の間付き10畳)
   
応接間兼主人室床の間周辺
  横山大観書の掛け軸"飛泉"
(古河家に招かれたお礼に描いた)
  応接間兼主人室全景(手前和室8畳)
   
応接間兼主人室庭園側廊下  家族用和室  家族用和室ガラス戸と庭園
(外観と庭園)
(画像はクリックで拡大します)
   
応接間兼主人室外観
  同左  家族用和室外観(6畳の2間続き)
   
右:奥応接間兼主人室
中:家族用和室、手前:茶室
  庭園から旧陸奥邸を望む  大観腰掛岩
(この岩に腰掛けて"飛泉"を描いた)

 町内の旧邸宅

1 旧木下家別邸
・大磯駅前から海水浴場へ向かう右側に見える洋館。大正初めに木下健平という貿易商が建てた、わが国で最も古いツーバイフォー工法による木造建築である。「国登録有形文化財」と、景観法に基づく「景観重要建築物」に指定されている。
2010年に、競売にかけられようとしていた土地を大磯町が買収し、建物の寄贈を受けたもので、海側の庭園部分に「新館」を設けたうえ、民間業者にレストランとして運営させている(「大磯迎賓館」)。
町内には、大磯プリンスホテル以外、これといった料飲施設に乏しいことから、立地条件が良好な当地において、観光客向けの施設整備を図ろうということであろう。旧吉田邸の復元・公開以来の観光客の増加もあり、混み合い、人気スポットになっているようだ。
以上のような経緯により、見学は可能だが、レストラン営業時のみに限定されている。また、貸し切りや結婚式の際も見学はできない。邸内入口門扉の前に、レストランの案内と並んで文化財の表示や解説があるが、文化財として見学可能との案内をしていないため、レストラン客以外は、敢えて入ろうとはしないようだ。町所有文化財の扱いとしては、やや疑問である。
・1階の洋室2部屋、2階の洋室3部屋とサンルームなどが公開されている。1階入口左の洋間は、レストラン業者の事務室、右の部屋はショップになっている。
(画像は、クリックで拡大します)
   
旧木下家別邸正面  裏から見た旧木下家別邸  レストラン横から相模湾を望む
   
1階廊下  1階廊下から新館レストランを望む  1階洋室(ショップ)
   
1階奥の洋室  2階への階段  階段の照明
   
2階廊下、サンルームを望む  2階北東側洋間  同左
   
2階北西側洋間  2階奥の洋間  同左大正のデザイン照明
   
2階奥洋間のステンドグラス  2階南側サンルーム(ラウンジ)  同左窓上部のステンドグラス
2 旧安田善次郎邸
 安田善次郎(1838〜1921)は、同郷富山出身の浅野総一郎から大磯の別荘地を譲り受け、1917(大正6)年に別荘(寿楽園)を建てて移り住んだ。現在の邸宅・庭園は、関東大震災の後、1931年に画家安田靫彦の設計により復元・再建されたものであり、広大な敷地(8272坪)に茶室を設置した母屋、善次郎の冥福を祈るために建立された持仏堂、経蔵の3棟の建物の他、石造十三重塔などの石碑・石像が点在している。
現在は安田財閥直系の流れを汲む安田不動産が所有し、同社大磯寮とされているが、安田財閥創始者ゆかりの邸宅を大切に保存している、ということであろう。非公開であるが、大磯町観光協会主催の、「旧安田善次郎邸庭園のさつきと邸内見学」(5月下旬の日曜日)、「旧安田善次郎邸十五夜観月会」として、年2回公開されている。
因みに、持仏堂前の寿楽園碑の碑文は善次郎が詠んだ、「御かまえもうさず来たりたまえかし日がな遊ぶも客のまにまに」、が記されている。庭園などを通じて町民と交流があったことが窺え、現在より開放されていたようだ。
なお、安田は1921(大正10)年、現在の持仏堂の場所にあった当別荘の応接室において右翼活動家朝日平吾(31)によって刺殺された(享年82)。その37日後の原敬暗殺に影響があったとされている。
(画像はクリックで拡大します)
   
安田不動産大磯寮正門  唐破風平唐門(安田靫彦設計)
(邸宅、庭園入口)
  同左内側(法隆寺聖霊院厨子の
唐破風<屋根の形>を模した)
 
経蔵  経蔵前の石造感謝状(1913年)
(横浜市電の全身横浜電気鉄道
支援に対する感謝状)
   
持仏堂正面
(石灯篭は南北朝時代奈良の神社
のもの)
  持仏堂  同内部
   
持仏堂横の安田善次郎像  夫婦の墓(五輪塔)  寿楽園碑
   
母屋全景  母屋玄関  芙蓉の間
   
芙蓉の間脇茶室水屋入口  茶室全景  茶室内部
石造十三重塔(1931年国の重要美術品認定)
(備前国藤原成親卿の墓にあったもので「嘉元三年(1305)」銘がある)

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