大磯の史跡

 大磯の史跡 

鴫立庵 旧島崎藤村邸 旧東海道
東海道松並木と本陣跡 延台寺 新島襄終焉地
1 鴫立庵
 京都の落柿舎、滋賀の無名庵と並ぶ、日本三大俳諧道場の一つとされる。
西行が陸奥への旅の途次に詠んだ、「こころなき身にもあはれは知られけり鴫立沢の秋の夕暮」(「新古今和歌集」)による。
西行がこの歌を詠んでから五百年以上経った江戸時代初期の 1664 年に、小田原の崇雪という人物が、当地を訪れた際、この歌の面影を印象付けられ、「鴫立沢の標石」を建て、草庵を結んだ。その後、1694(元禄7)年頃紀行家・俳諧師の大淀三千風が入庵したのが、現代に続く鴫立庵の始まりである。
崇雪は、14世紀に中国浙江省から渡来し、16世紀初頭に、北条早雲に招かれて小田原に来住し、小田原で、薬と菓子("ういろう")作りを生業としていた帰化人の末裔である。現在まで続く小田原「ういろう」である。
ただし、鎌倉時代に成立した「西行物語」によれば、西行がこの「こころなき・・・・」の句を詠んだのは、「相模国大庭砥上原」とされている。その場所は、大磯ではなく、現在の藤沢市鵠沼の辺りである。確かに、鵠沼といわれて違和感はない。
崇雪が「西行物語」を読んでいたかどうかは別として、大磯へ立ち寄った際、鴫立沢を想起するものがあったのは間違いないのであろう。 いずれにせよ、大磯のこの地を鴫立沢として、俳諧道の聖地が生まれたのである。現庵主は22世の鍵和田釉子という方である。句会は月1回行われている。

 鴫立庵の門を入って右の建物が、初代庵主大淀三千風によって建てられ、歴代庵主の住まいとされてきた"鴫立庵室"で、手前が事務所になっている。鴫立庵室の奥の一段高い場所に隣接するのが、一世入庵70年後、三世庵主白井鳥酔が建てた"俳諧道場"で、ここが鴫立庵正庵とされ、鴫立庵室は、その控室の位置づけになっている。
   
国道1号から鴫立庵を望む  入口前の石橋から鴫立川を望む  門の扁額「鴫立澤」
   
鴫立庵室  庵室内部(奥の部屋)  同左(手前の部屋)
   
俳諧道場(鴫立庵正庵)  俳諧道場内部
  同左
(扁額に「俳諧道場」とある)
 庵室以外の建物については以下の通り。
俳諧道場前にあるお堂は、"法虎堂"と称し、内部に安置された虎御前の木像とともに、元禄時代・江戸新吉原から贈られた。虎御前に関しては、延台寺の項を参照。
正面奥が大淀三千風の建てた円位堂で、西行が祀られている(円位は、西行の法号)。元禄時代の建築物である。3月に 西行祭りがここで行われる。
茶屋の奥の観音堂は、十七世庵主が寄贈したもので、安置された観世音菩薩像は、孫文が所有していた二千年を経た化石仏とのこと(非公開)。
   
法虎堂  同左  同左虎御前像
   
円位堂  同左内部西行像  茶屋
   
観音堂  回遊路の様子 
 敷地内は、入口から俳諧道場の裏を回り、庵室前の庭にある鴫の井戸の前へ降りる回遊ルートになっている。その周囲には、数えきれないくらいの、歌碑、句碑、墓碑等が並んでいる。
それらの中に、崇雪が建てた「鴫立沢標石」がある。ただし、ここにある「鴫立沢標石」は、レプリカである。本物は、大磯城山公園の郷土資料館にある。
   
五智如来像
(釈迦、阿弥陀、大日、阿しゅく、
宝生)
  鴫立沢標石  鴫の井戸と蛙のオブジェ
(奥の石段は回遊路の降り口)
 崇雪が建てた「鴫立沢標石」の裏に「著盡湘南清絶地」と刻まれている。
崇雪は、当地に西行の鴫立沢(実は鵠沼 ?)をイメージすると同時に、祖先のルーツである、中国湖南省湘江の景勝を思い描いていたのであろう。
大磯ではこれをもって当地が「湘南」発祥の地としているが、必ずしもコンセンサスが成立しているわけではないようだ。鎌倉時代に、禅宗とともにこの語が入ってきたことから、鎌倉周辺を指す、という話もある。
いずれにせよ、余り建設的なテーマではないと思うのだが、大磯としては湘南発祥の地を譲れず、2016年になって大磯駅前に大きな湘南発祥碑を建てたほどである。現状の大磯は、東の鎌倉・江の島・湘南海岸と、西の箱根という全国ブランドの大観光地に挟まれ、JRの快速列車も通過してしまうなど、観光政策的には苦しいものがあることの証左かもしれないが、昔からの静かな町があってもよいのではないか。
 
大磯駅前の湘南発祥碑  大磯駅前の鴫立沢の碑

2 島崎藤村邸
 大磯駅から東海道線に沿った道を二宮方面に6〜7分歩くと、標識がある。
島崎藤村(1872〜1943)は、温暖な大磯の地を気に入り、1941年2月から43年8月に没するまで、この簡素な木造平屋に住んだ。間取りは、大きな広縁付きの8畳の居間、4.5畳の書斎と6畳の和室のみ。関東大震災後から昭和初期の建築という。
大磯町の解説によると、「静の草屋」と呼ばれていたようだ。24才年下の静夫人の名前を付けていたのであろう。
藤村の墓は、大磯駅に近い地福寺にある。藤村は,ここの梅林を大変気に入っており、墓所として希望していたという。樹齢100〜200年の古木で、梅の名所となっているようだ。
観光協会主催で毎年命日の8月22日に藤村忌が行われている。
(島崎藤村邸)
   
島崎藤村邸  玄関、手前が和室  書斎
   
書斎内部  書斎の静夫人の書  広縁と居間
 
居間内部を望む  庭園
(真言宗地福寺)
   
地福寺山門  本堂  島崎藤村墓
(1949建立、設計谷口吉郎)
本堂前のカンヒザクラと梅
   
カンヒザクラ  白梅  島崎藤村と静夫人(左)の墓

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3 旧東海道
 国道1号線の大磯駅入口から平塚方面に向かうと、「三沢橋東」という交差点(信号)がある。ここを左に入り、「化粧坂」という信号で国道1号線に再び合流するまでの1km弱が旧東海道である。ただし、途中JR東海道線で分断されており、JRを渡る地下道は、歩道のみになっている。「化粧坂」という地名は、鎌倉にもあるが、大磯の化粧坂も、鎌倉時代からのもので、京都へ向かう街道の町として賑わったらしい。
この旧街道のうち、JRの北側部分には、「化粧坂の一里塚」(江戸から16里)が、南側には、大磯宿の入口に置かれた見張り番所「江戸見附」があった。
道路沿いは、殆ど一般民家であるが、建築物をセットバックさせ、嘗ては松並木であったろう緑地部分が残されている。特に、南側には、松並木の面影が残っており、ここで毎年11月に大磯宿場祭が行われている。
(画像はクリックで拡大します)
   
旧東海道
(JRの北側、化粧坂方向を望む)
  化粧坂の一里塚跡  大磯八景化粧坂の夜雨碑
   
旧東海道
(JRの南側、JR地下道方向を望む)
  江戸見附跡  江戸見附跡説明板
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4 東海道松並木(国道1号線下り車線)と本陣跡
 国道1号線大磯中学前から西側の、下り車線の約500mに亘って、「東海道松並木」が残っている。中には、樹齢150年の巨木もみられる。この松並木の中に、大磯宿の西出口である「上方見附」が置かれていた。
 大磯宿には、本陣が最盛期には3軒置かれていたが、うち、小島、尾上の2軒は幕末まで続き、現在その跡地に簡単な石碑が建てられている。小島本陣の跡は、大磯消防署の平塚寄り、上り車線側に、道路から隠れるような形で建てられている。また、尾上本陣跡は、消防署前の信用金庫ビル前に建てられている「大磯小学校発祥の地」碑の、側面に記載されており、説明板もなく何れも大変分かり難い。

   
東海道松並木
(大磯中学前陸橋から)
  東海道松並木  同左
   
上方見附跡  上方見附跡説明板  小島本陣跡碑
 
大磯小学校発祥地碑  尾上本陣跡の碑
5 その他の史跡
延台寺
 曽我兄弟の仇討(1194、建久4年)で知られる曾我十郎祐成と曾我五郎時致兄弟を追善するため、十郎の妾(当寺のHP:想われ人)虎御前(遊女・白拍子)が大磯に法虎庵曽我堂を建てたものの、その後その草案は朽ち果てていた。その場所に、当地に立ち寄った身延山19世法主により1599(慶長4)年開かれたのが、当日蓮宗延台寺であり、「曽我物語」の虎御前縁の寺として知られている。
虎御前は、実在した人物のようで、各地に虎御前の伝承に結びついた「虎御石」が存在するという。「虎御石」は、曽我兄弟を身代わりになって守った石とされ、法虎庵曽我堂に祀られている(毎年曽我兄弟の仇討日5月28日"虎御石まつり"に公開)。
当寺院は、火災により長期に亘って仮堂を余儀なくされ、現在の本堂や山門は、1980年代以降に再建されたもの。法虎庵曽我堂は、2005年に再建された。
大磯郵便局から50m程二宮寄りの国道1号から入ったところにある。
   
延台寺山門  延台寺本堂  延台寺曽我庵法虎堂
新島襄終焉の地
 新島襄(1843〜1890)は、1875(明治8)年に同志社英学校を創立したが、宿願とした大学設立に東奔西走中、心臓疾患を悪化させて群馬県の前橋で倒れ、療養中の当地の旅館百足屋にて生涯を閉じた。
新島襄終焉の地碑は、国道1号線沿いの照ヶ崎海岸入口の際にある。照ヶ崎海岸は、日本最初の海水浴場とされ、案内板もある。ただし、この先の行き当たり大磯港であり、現在の海水浴場は西寄りになる。
   
新島襄終焉の地  照ヶ崎海岸海水浴場の碑
(国道1号からの入口)
  海水浴場発祥案内
(国道1号からの入口)

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