旧吉田茂邸・三井別邸と大磯散策2017〜


 旧吉田茂邸・三井別邸と大磯散策2017〜

・大磯は、神奈川県西部の相模湾沿いに位置する人口3万人強の町で、江戸時代には東海道8番目の宿場町として栄え、今も街道の松並木などに、その面影を残している。
 明治以降は、温暖な気候から保養地として注目され、伊藤博文など明治の元勲を始めとする政治家や、三井、三菱、安田など財閥本家等の邸宅(別荘) が建てられた。昭和に入ってからは、吉田茂も大磯の邸を本邸とした。当地に邸宅を有した総理大臣経験者は、次の8人を数える。
    伊藤博文・山県有朋・大隈重信・西園寺公望・寺内正毅・原敬・加藤高明・吉田茂
戦後これらの邸宅の多くは、所有者の手を離れ、また、跡地が特定できるだけで、邸宅が残っている例は多くはない。
それらのうち、旧三井別邸跡と旧吉田茂邸が「大磯城山公園」として整備され、一般公開されている。ただし、復元されたものでなく、建築当時のまま残され、かつ常時一般公開しているのは、大磯駅前の旧木下家別邸のみである。
・因みに、明治末期に発表された、「避暑地ランキング」なるものによれば、大磯が第1位、 第2位が軽井沢で、鎌倉は11位だった。  
なお、大磯には1885(明治18)年に海水浴場が開かれた。当地を我が国における海水浴発祥地とする説もある。
 旧吉田茂邸は、2009年に火災により焼失したが、その後再建され、2017年4月より一般公開されている。その結果、東京などからの日帰りバスツアーの恰好なスポットとして、大磯への観光客は大きく増えているようだ。
また、2018年が明治150年にあたることから、当町小磯地区の旧伊藤博文邸など嘗ての明治の重臣の邸宅を記念都市公園として整備しようとする計画が進められている。

 [ も く じ ]

旧吉田茂邸(大磯城山公園旧吉田茂邸地区)

旧三井別邸(大磯城山公園旧三井別邸地区)

明治記念大磯庭園と町内の旧邸宅

 1 明治記念大磯庭園 2 旧木下家別邸 3 旧安田善次郎邸 

大磯の史跡 1〜鴫立庵と島崎藤村旧邸

大磯の史跡 2

沢田美喜記念館




 旧吉田茂邸

 旧吉田茂邸は、大磯の別荘としては最も早い時期である1885(明治18)年に、 貿易商吉田健三(吉田茂の養父)が建てたものであり、吉田は、1944(昭和19)年頃から、その生涯を閉じる1967(昭和42)年までを、この邸宅で過ごした。
吉田茂の没後は西武鉄道が取得し、大磯プリンスホテル別館として利用されていた。その後、同社が売却の方針を決めたことから、歴史文化遺産として保全しようという機運が盛り上がり、北側の旧三井別邸跡である「県立大磯城山公園」の拡大区域として、2012年より公開する予定であった。ただ、2009年3月本邸が火災で焼失したため、まず消失を免れた日本庭園や兜門、七賢堂等の歴史的資産(注1、2)、緑地を「大磯城山公園旧吉田茂邸地区」として整備し、旧吉田茂邸は大磯町が町有施設として再建、2017年4月より一般公開するに至ったものである。
     (注1) 「兜門」は、サンフランシスコ講和条約締結を記念して1954(昭和29)年建てられ、別名「講和条約門」。
         軒先に曲線状の切り欠きがあり、兜の形に似ていることから、この名がある。

     (注2) 伊藤博文が1903(明治36)年、「滄浪閣」に岩倉具視・大久保利通・三条実美・木戸孝允の4人を祀った四賢堂を
         建て、その後伊藤を加えた「五賢堂」となった。
         1960(昭和35)年に吉田邸に移設され、1962(昭和37)年に吉田茂により西園寺公望、1968(昭和43)年に佐藤栄作に
         よって吉田茂が合祀され、「七賢堂」となった。

  (画像はクリックで拡大します)

旧吉田邸地区入口


兜門


   
兜門から内部を望む  復元された吉田邸玄関  同左玄関左部分(1階は食堂、
2階右金の間、左銀の間)
   
心字池
(吉田邸焼失時、焼失を免れた
サンルームが見える)
  庭園と心字池  心字池
   
邸内通路  七賢堂  佐藤栄作書七賢堂扁額
 
吉田茂像
(1983年建立、講和条約締結地
サンフランシスコを向く)
  吉田茂像前から相模湾を望む
(手前は西湘バイパス)

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 旧三井別邸

・この地域には、多数の横穴古墳があり縄文土器などが発見されている他、古くは山城が築かれていたこともあり、その掘割跡や鎌倉古道などが残されていた。
三井財閥は、1898(明治31)年に、この地を別荘とし、 広大な敷地内に庭園を築造するほか、全国の有名な古寺社の古材を用いて「城山荘」(注1)、等が建てられた。また、京都建仁寺の茶室「如庵」(注2)が移築された。しかしながら、財閥解体後は殆どの土地が三井家の手を離れ、残った土地も放置されていた。
「大磯城山公園」は、この地域を県立都市公園として整備したものであり、市民の憩いの場となっている(1987(昭和62)年部分開園、1990(平成2)年全面開園) 。また、敷地内には、大磯町の郷土資料館も設置されている。
・公園として整備するに際しては、三井別邸時代の建築物や遺構は殆ど残っていないこともあり、三井時代の施設に関しては、復元を行うのではなく、跡地にそれを示す案内板を掲示することとし、新たに散策路や橋、門、休憩所、展望台等を整備した。そのため、中には、三井時代の施設を復元したとの誤解を招くようなものも一部にみられる。
なお、不動池周辺は、紅葉の名所であり、毎年11月下旬には、ライトアップが行われている。なお、茶室「城山庵」は、国宝・茶室「如庵」を模して、西入口に近い便利な場所に建てられたものである。
    (注1)城山荘本館は、1934(昭和9)年に現在の展望台付近に、全国の寺社の古材を使用して建設され、歴史的にも価値の高
        い建物とされていたが、1970(昭和45)年名古屋鉄道の所有となり、移設された。

    (注2)織田信長の弟織田有楽斎が、1618(元和4)年京都建仁寺に建てた茶室。明治末期に三井本邸に移築、1936(昭和11)年
        国宝に指定。1938(昭和13)年大磯の別邸城山荘に移築されたが、1970(昭和45)年、名古屋鉄道の所有となり、犬山城
        下御門先の有楽苑に移築された。


南門〜横穴古墳群
(画像はクリックで拡大します)
     
公園碑(であいの広場前)  南門への登り口  南門
     
三井時代の「中門」に関する説明板
(現南門の場所にあった)
  横穴古墳群への散策路の様子  横穴古墳群への散策路の橋
(三井時代の橋は「流雲橋」と称した)
 
横穴古墳群の碑  横穴古墳(墓)の例
(全部で12カ所ある)
ふれあいの広場、大磯町郷土資料館
     
ふれあいの広場
茶室「如庵」跡の一帯
  茶室「如庵」跡  茶室「如庵」跡の説明
   
ふれあいの広場と
大磯町郷土資料館
  大磯町郷土資料館正面  大磯町郷土資料館エントランス
   
郷土資料館エントランスホール
(城山荘本館広間吹抜上部の
保存部材)
  展示ホール(縄文土器などを陳列)
(展示室内部は撮影禁止)
  同左
 
崇雪の鴫立庵標石実物
(郷土館中庭・鴫立庵の項参照)
  鴫立庵碑裏面

ひかりの広場〜展望台周辺
   
法雲堂門(三井時代にはなかった。
近くにあった法雲堂という休憩所に
因み、新たに造られた)
  三井時代の休憩所「六窓堂」の
外周礎石(法雲堂門の内側)
  六窓堂の説明版
   
休憩所
(嘗ての法雲堂近くに造られた)
  ひかりの広場と「ほしみ亭」
(三井時代は休憩所「大園亭」が
あった)
  通雲門
(三井時代にはなかったが元通雲橋
の手前なので新設したようだ)
   
国府(こうの)橋
(通雲橋の場所に、当地名の橋を
架けたもの)
  北蔵ギャラリー
(三井時代の建物で残っているのは
本件と非公開の東蔵のみ)
  城山荘本館説明板 
   
展望台
(城山荘本館のあった場所)
  展望台上の鶴の像  展望台からの眺望

城山庵、不動池
   
西門  茶室「城山庵」入口  茶室「城山庵」
 
不動池  同左
   
不動池の紅葉  城山庵付近の紅葉  同左

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 明治記念大磯庭園と町内の旧邸宅

1 「明治記念大磯庭園」
(滄浪閣)
 東海道松並木が残っている国道1号線沿いには、明治以降多くの著名人の邸宅が建てられた。伊藤博文(1841〜1909)の本邸「滄浪閣」も、その一つである。1890(明治23)年に小田原に別荘を建てたが、大磯を気に入った伊藤は、同1896(明治29)年に大磯の別邸を完成し、翌1897年には小田原から当地へ本邸を移した。
当時の建物は、茅葺木造平屋建ての和館(延床面積87坪)と、瓦葺き煉瓦造りの洋館(70坪)の2棟であった。1921年伊藤家から李王家に譲渡されたが、関東大震災で甚大な被害を受け、1926年に旧材を再利用して和洋折衷の木造平屋建てとして再建された。
 戦後暫くして西武鉄道の所有となり、"滄浪閣"の屋号の下、大磯プリンスホテル別館の結婚式場およびレストラン(中華料理店)として運用されていた。すなわち、本来の滄浪閣は増改築が重ねられ、国道に面した部分をレストランとし、更に結婚式場を新設した。
 西武は、2007年に当施設を閉鎖したことから、大磯町は買収の上、利用・保存することを企図し、外部コンサルタントに利用計画を提案させるなどしたものの、価格が折り合わず放置され、廃墟に近い格好になっていた。
その後、2018年が明治150年に当たることから、その記念事業の一環として、この地域を「明治記念大磯庭園」として整備する計画が浮上した。
それによれば、滄浪閣並びに近隣の旧池田斉彬邸(旧西園寺公望邸跡)、旧大隈重信邸、旧古河別荘(旧陸奥宗光邸跡) 計約5ヘクタールを、都市計画公園として一体整備しようとするもので、国の事業として実現するのであれば大磯町にとってこれほど望ましい話はないわけで、スムーズに話は運び、計画は2017年11月21日に閣議決定された。安倍晋三総理が、郷里長州出身の伊藤博文邸の保存に強い思い入れがあることも影響しているかもしれない。
ただ、都市計画決定などの諸手続きにはそれなりの時間を要することから、現時点(2018年12月)では、都市計画決定の手続きも未済である。肝心の滄浪閣部分をどうやって本件の趣旨にあった公園にするのか、あの巨大な結婚式場は取り壊すのであろうが、想像がつかない。とはいえ、2018年中に何とか形を付けたいということであろう、公開に耐えうる旧古河電工大磯荘(旧大隈邸、旧陸奥邸)につき、一般公開を行うこととなり、国土交通省主催のガイドツアーが実施されている(2018年10月23日から12月24日まで)。 現地では、公園として完成するのは早くて3年後くらいか、などという声が聞かれた。

 国道1号線の松並木西端海側に"伊藤公滄浪閣之の舊蹟"碑があり、その前の建物に"滄浪閣"のプレートが残っているが、この建物は西武が建てた結婚式場である。この建物の東側が、レストランやチャペルとして使われていた李王朝時代の旧滄浪閣の増築部分であり、いずれにせよ現在は旧滄浪閣(李王朝時代のものであるが)を見ることはできない。今回のガイドツアーの最後に旧滄浪閣外観の見学が組み入れられていた。
(画像はクリックで拡大します)
   
旧滄浪閣の碑(国道1号歩道)
(後方左結婚式場)
  李王朝時代の旧滄浪閣和室部分
(下図参照)
  同左洋室部分
   
西武時代の結婚式場
(左エントランス、奥は有料駐車場)
  旧滄浪閣の増築部分(結婚式場東)
(旧チャペル)
  同左中国料理店部分

(旧池田成彬邸)
 滄浪閣西隣が、旧池田成彬邸である。国道1号から海岸へ通じる小道を入ったところに入口がある。
当地は、1899(明治32)年に西園寺公望が茅葺の家を建てた場所であり、1917(大正6)年に池田成彬(三井合名理事)が取得し、1933(昭和8)年に英国チューダー様式による洋館を建てた。創建時の意匠がそのまま 残っており、文化遺産としての価値が非常に高いとされている。また、現存する大磯町内最大規模の洋館である。戦後三井銀行が、厚生施設として利用してきたが、現在は閉鎖されている(非公開)。内部は、相当荒廃しているという。
 
旧池田邸  同左
(旧大隈邸、旧陸奥邸)
 滄浪閣東隣は、佐賀藩最後の藩主鍋島直大の別荘であったが、現在はマンションになっている。
その東が旧大隈邸、隣が旧陸奥邸で、いずれも明治後期に古河財閥の当主が取得した木造和風建築である。両者は最近まで同一敷地内の古河電工大磯荘西館、東館として運用されており、非公開であった。
今般、明治記念大磯庭園の計画に従い、国へ譲渡することになり、建物は寄贈済みで、現在既に国の管理下にあることから、今回公開に及んだものである。
旧大隈重信邸

 大隈重信(1838〜1922)は、伊藤博文が滄浪閣を建てた翌1897(明治30)年、当地に別荘を建設した。大隈がこの別荘を使用したのは古河市兵衛に譲渡するまでの4年間のみであったが、その後の関東大震災にも耐え、居室部分は現在でもほぼ往時のままであるという。敷地面積は旧陸奥邸を含み約26,400u、建物延床面積約363u。
建設当時、西側の隣地に既に大隈の出身旧鍋島藩主の邸宅があったため、西向き玄関は厭われるところ、敬意を表して敢えて西向きの玄関にしたという。
 廊下の南側に大隈がよく宴会を開いた10畳と16畳の大広間「富士の間」と中庭を挟んだ奥に書斎として使用されていた「神代の間」がある。

旧大隈重信邸正面(クリックで拡大します)

(邸宅内部)
(画像はクリックで拡大します)
   
銅製鏡のある玄関正面  応接間(玄関右)
(左奥から富士の間前の広縁)
  富士の間前の広縁
   
富士の間手前の10畳和室  同左  富士の間(奥が10畳和室)(注)
(注)富士の間の広縁寄りに展示されている杉戸絵は、明治天皇から伊藤博文に下賜され、滄浪閣和室2階に展示さていた。西武の事業撤退後は大磯町郷土資料館で保管していたものを、今回展示した。
「野見宿禰の相撲」、「後三年の役」(画像に写っている)と、「静御前の舞」、「前九年の役」の4枚がある。大隈邸とは無関係のもの。
   
朝比奈宗源の書
(朝比奈宗源は円覚寺派管長を
務めた臨済宗の僧)
  富士の間の床の間  同左掛け軸
   
神代の間
(床の間は、欅の一枚板と竹の床柱)
  神代の間隣の和室(寝室)
扁額は「居龍曠」、太田晦巌師
(円覚寺派と大徳寺派管長)の書
  同左ガラス戸と庭園
(外観と庭園)
(画像はクリックで拡大します)
   
富士の間外観
  中庭  神代の間外観
   
北側(国道側)庭園
  土蔵  五右衛門風呂(風呂好きだった)
(海岸の方へ降りた風呂場跡から
発掘)
旧陸奥宗光邸

 陸奥宗光(1844〜1897)は、第2次伊藤博文内閣の外務大臣として、条約改正に辣腕を振るい、日清戦争開戦に向かうという激務に忙殺されていたであろう1894(明治27)年、当地に別荘を構えた。
しかしながら、肺結核に侵されていたため、1896年に外務大臣を辞し、当地で療養していたが、1897年に他界し、陸奥の次男が、古河家の養子になってたため、当邸宅も古河家へ譲渡された。
関東大震災では、ひどい損傷を受け、1925年に建て替えられたが、玄関や主な居室部分は復元されたとされている。
当別荘は太田晦巌師により「聴漁荘」と名付けられた。

旧陸奥宗光邸正面(クリックで拡大します)

(邸宅内部)
(画像はクリックで拡大します)
   
玄関の扁額
(太田晦巌師書)
  玄関奥の廊下(応接間兼主人室前)
(屋久杉の棚)
  応接間兼主人室
(床の間付き10畳)
   
応接間兼主人室床の間周辺
  横山大観書の掛け軸"飛泉"
(古河家に招かれたお礼に描いた)
  応接間兼主人室全景(手前和室8畳)
   
応接間兼主人室庭園側廊下  家族用和室  家族用和室ガラス戸と庭園
(外観と庭園)
(画像はクリックで拡大します)
   
応接間兼主人室外観
  同左  家族用和室外観(6畳の2間続き)
   
右:奥応接間兼主人室
中:家族用和室、手前:茶室
  庭園から旧陸奥邸を望む  大観腰掛岩
(この岩に腰掛けて"飛泉"を描いた)

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2 旧木下家別邸
・大磯駅前から海水浴場へ向かう右側に見える洋館。大正初めに木下健平という貿易商が建てた、わが国で最も古いツーバイフォー工法による木造建築である。「国登録有形文化財」と、景観法に基づく「景観重要建築物」に指定されている。
2010年に、競売にかけられようとしていた土地を大磯町が買収し、建物の寄贈を受けたもので、海側の庭園部分に「新館」を設けたうえ、民間業者にレストランとして運営させている(「大磯迎賓館」)。
町内には、大磯プリンスホテル以外、これといった料飲施設に乏しいことから、立地条件が良好な当地において、観光客向けの施設整備を図ろうということであろう。旧吉田邸の復元・公開以来の観光客の増加もあり、混み合い、人気スポットになっているようだ。
以上のような経緯により、見学は可能だが、レストラン営業時のみに限定されている。また、貸し切りや結婚式の際も見学はできない。邸内入口門扉の前に、レストランの案内と並んで文化財の表示や解説があるが、文化財として見学可能との案内をしていないため、レストラン客以外は、敢えて入ろうとはしないようだ。町所有文化財の扱いとしては、やや疑問である。
・1階の洋室2部屋、2階の洋室3部屋とサンルームなどが公開されている。1階入口左の洋間は、レストラン業者の事務室、右の部屋はショップになっている。
(画像は、クリックで拡大します)
   
旧木下家別邸正面  裏から見た旧木下家別邸  レストラン横から相模湾を望む
   
1階廊下  1階廊下から新館レストランを望む  1階洋室(ショップ)
   
1階奥の洋室  2階への階段  階段の照明
   
2階廊下、サンルームを望む  2階北東側洋間  同左
   
2階北西側洋間  2階奥の洋間  同左大正のデザイン照明
   
2階奥洋間のステンドグラス  2階南側サンルーム(ラウンジ)  同左窓上部のステンドグラス
3 旧安田善次郎邸
 安田善次郎(1838〜1921)は、同郷富山出身の浅野総一郎から大磯の別荘地を譲り受け、1917(大正6)年に別荘(寿楽園)を建てて移り住んだ。現在の邸宅・庭園は、関東大震災の後、1931年に画家安田靫彦の設計により復元・再建されたものであり、広大な敷地(8272坪)に茶室を設置した母屋、善次郎の冥福を祈るために建立された持仏堂、経蔵の3棟の建物の他、石造十三重塔などの石碑・石像が点在している。
現在は安田財閥直系の流れを汲む安田不動産が所有し、同社大磯寮とされているが、安田財閥創始者ゆかりの邸宅を大切に保存している、ということであろう。非公開であるが、大磯町観光協会主催の、「旧安田善次郎邸庭園のさつきと邸内見学」(5月下旬の日曜日)、「旧安田善次郎邸十五夜観月会」として、年2回公開されている。
因みに、持仏堂前の寿楽園碑の碑文は善次郎が詠んだ、「御かまえもうさず来たりたまえかし日がな遊ぶも客のまにまに」、が記されている。庭園などを通じて町民と交流があったことが窺え、現在より開放されていたようだ。
なお、安田は1921(大正10)年、現在の持仏堂の場所にあった当別荘の応接室において右翼活動家朝日平吾(31)によって刺殺された(享年82)。その37日後の原敬暗殺に影響があったとされている。
(画像はクリックで拡大します)
   
安田不動産大磯寮正門  唐破風平唐門(安田靫彦設計)
(邸宅、庭園入口)
  同左内側(法隆寺聖霊院厨子の
唐破風<屋根の形>を模した)
 
経蔵  経蔵前の石造感謝状(1913年)
(横浜市電の全身横浜電気鉄道
支援に対する感謝状)
   
持仏堂正面
(石灯篭は南北朝時代奈良の神社
のもの)
  持仏堂  同内部
   
持仏堂横の安田善次郎像  夫婦の墓(五輪塔)  寿楽園碑
   
母屋全景  母屋玄関  芙蓉の間
   
芙蓉の間脇茶室水屋入口  茶室全景  茶室内部
石造十三重塔(1931年国の重要美術品認定)
(備前国藤原成親卿の墓にあったもので「嘉元三年(1305)」銘がある)

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 大磯の史跡 1〜鴫立庵と旧島崎藤村邸

鴫立庵
 京都の落柿舎、滋賀の無名庵と並ぶ、日本三大俳諧道場の一つとされる。
西行が陸奥への旅の途次に詠んだ、「こころなき身にもあはれは知られけり鴫立沢の秋の夕暮」(「新古今和歌集」)による。
西行がこの歌を詠んでから五百年以上経った江戸時代初期の 1664 年に、小田原の崇雪という人物が、当地を訪れた際、この歌の面影を印象付けられ、「鴫立沢の標石」を建て、草庵を結んだ。その後、1694(元禄7)年頃紀行家・俳諧師の大淀三千風が入庵したのが、現代に続く鴫立庵の始まりである。
崇雪は、14世紀に中国浙江省から渡来し、16世紀初頭に、北条早雲に招かれて小田原に来住し、小田原で、薬と菓子("ういろう")作りを生業としていた帰化人の末裔である。現在まで続く小田原「ういろう」である。
ただし、鎌倉時代に成立した「西行物語」によれば、西行がこの「こころなき・・・・」の句を詠んだのは、「相模国大庭砥上原」とされている。その場所は、大磯ではなく、現在の藤沢市鵠沼の辺りである。確かに、鵠沼といわれて違和感はない。
崇雪が「西行物語」を読んでいたかどうかは別として、大磯へ立ち寄った際、鴫立沢を想起するものがあったのは間違いないのであろう。 いずれにせよ、大磯のこの地を鴫立沢として、俳諧道の聖地が生まれたのである。現庵主は22世の鍵和田釉子という方である。句会は月1回行われている。

 鴫立庵の門を入って右の建物が、初代庵主大淀三千風によって建てられ、歴代庵主の住まいとされてきた"鴫立庵室"で、手前が事務所になっている。鴫立庵室の奥の一段高い場所に隣接するのが、一世入庵70年後、三世庵主白井鳥酔が建てた"俳諧道場"で、ここが鴫立庵正庵とされ、鴫立庵室は、その控室の位置づけになっている。
   
国道1号から鴫立庵を望む  入口前の石橋から鴫立川を望む  門の扁額「鴫立澤」
   
鴫立庵室  庵室内部(奥の部屋)  同左(手前の部屋)
   
俳諧道場(鴫立庵正庵)  俳諧道場内部
  同左
(扁額に「俳諧道場」とある)
 庵室以外の建物については以下の通り。
俳諧道場前にあるお堂は、"法虎堂"と称し、内部に安置された虎御前の木像とともに、元禄時代・江戸新吉原から贈られた。虎御前に関しては、延台寺の項を参照。
正面奥が大淀三千風の建てた円位堂で、西行が祀られている(円位は、西行の法号)。元禄時代の建築物である。3月に 西行祭りがここで行われる。
茶屋の奥の観音堂は、十七世庵主が寄贈したもので、安置された観世音菩薩像は、孫文が所有していた二千年を経た化石仏とのこと(非公開)。
   
法虎堂  同左  同左虎御前像
   
円位堂  同左内部西行像  茶屋
   
観音堂  回遊路の様子 
 敷地内は、入口から俳諧道場の裏を回り、庵室前の庭にある鴫の井戸の前へ降りる回遊ルートになっている。その周囲には、数えきれないくらいの、歌碑、句碑、墓碑等が並んでいる。
それらの中に、崇雪が建てた「鴫立沢標石」がある。ただし、ここにある「鴫立沢標石」は、レプリカである。本物は、大磯城山公園の郷土資料館にある。
   
五智如来像
(釈迦、阿弥陀、大日、阿しゅく、
宝生)
  鴫立沢標石  鴫の井戸と蛙のオブジェ
(奥の石段は回遊路の降り口)
 崇雪が建てた「鴫立沢標石」の裏に「著盡湘南清絶地」と刻まれている。
崇雪は、当地に西行の鴫立沢(実は鵠沼 ?)をイメージすると同時に、祖先のルーツである、中国湖南省湘江の景勝を思い描いていたのであろう。
大磯ではこれをもって当地が「湘南」発祥の地としているが、必ずしもコンセンサスが成立しているわけではないようだ。鎌倉時代に、禅宗とともにこの語が入ってきたことから、鎌倉周辺を指す、という話もある。
いずれにせよ、余り建設的なテーマではないと思うのだが、大磯としては湘南発祥の地を譲れず、2016年になって大磯駅前に大きな湘南発祥碑を建てたほどである。現状の大磯は、東の鎌倉・江の島・湘南海岸と、西の箱根という全国ブランドの大観光地に挟まれ、JRの快速列車も通過してしまうなど、観光政策的には苦しいものがあることの証左かもしれないが、昔からの静かな町があってもよいのではないか。
 
大磯駅前の湘南発祥碑  大磯駅前の鴫立沢の碑

島崎藤村邸
 大磯駅から東海道線に沿った道を二宮方面に6〜7分歩くと、標識がある。
島崎藤村(1872〜1943)は、温暖な大磯の地を気に入り、1941年2月から43年8月に没するまで、この簡素な木造平屋に住んだ。間取りは、大きな広縁付きの8畳の居間、4.5畳の書斎と6畳の和室のみ。関東大震災後から昭和初期の建築という。
大磯町の解説によると、「静の草屋」と呼ばれていたようだ。24才年下の静夫人の名前を付けていたのであろう。
藤村の墓は、大磯駅に近い地福寺にある。藤村は,ここの梅林を大変気に入っており、墓所として希望していたという。樹齢100〜200年の古木で、梅の名所となっているようだ。
観光協会主催で毎年命日の8月22日に藤村忌が行われている。
(島崎藤村邸)
   
島崎藤村邸  玄関、手前が和室  書斎
   
書斎内部  書斎の静夫人の書  広縁と居間
 
居間内部を望む  庭園
(真言宗地福寺)
   
地福寺山門  本堂  島崎藤村墓
(1949建立、設計谷口吉郎)
本堂前のカンヒザクラと梅
   
カンヒザクラ  白梅  島崎藤村と静夫人(左)の墓

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 大磯の史跡 2

旧東海道
 国道1号線の大磯駅入口から平塚方面に向かうと、「三沢橋東」という交差点(信号)がある。ここを左に入り、「化粧坂」という信号で国道1号線に再び合流するまでの1km弱が旧東海道である。ただし、途中JR東海道線で分断されており、JRを渡る地下道は、歩道のみになっている。「化粧坂」という地名は、鎌倉にもあるが、大磯の化粧坂も、鎌倉時代からのもので、京都へ向かう街道の町として賑わったらしい。
この旧街道のうち、JRの北側部分には、「化粧坂の一里塚」(江戸から16里)が、南側には、大磯宿の入口に置かれた見張り番所「江戸見附」があった。
道路沿いは、殆ど一般民家であるが、建築物をセットバックさせ、嘗ては松並木であったろう緑地部分が残されている。特に、南側には、松並木の面影が残っており、ここで毎年11月に大磯宿場祭が行われている。
(画像はクリックで拡大します)
   
旧東海道
(JRの北側、化粧坂方向を望む)
  化粧坂の一里塚跡  大磯八景化粧坂の夜雨碑
   
旧東海道
(JRの南側、JR地下道方向を望む)
  江戸見附跡  江戸見附跡説明板


東海道松並木(国道1号線下り車線)と本陣跡
 国道1号線大磯中学前から西側の、下り車線の約500mに亘って、「東海道松並木」が残っている。中には、樹齢150年の巨木もみられる。この松並木の中に、大磯宿の西出口である「上方見附」が置かれていた。
 大磯宿には、本陣が最盛期には3軒置かれていたが、うち、小島、尾上の2軒は幕末まで続き、現在その跡地に簡単な石碑が建てられている。小島本陣の跡は、大磯消防署の平塚寄り、上り車線側に、道路から隠れるような形で建てられている。また、尾上本陣跡は、消防署前の信用金庫ビル前に建てられている「大磯小学校発祥の地」碑の、側面に記載されており、説明板もなく何れも大変分かり難い。

   
東海道松並木
(大磯中学前陸橋から)
  東海道松並木  同左
   
上方見附跡  上方見附跡説明板  小島本陣跡碑
 
大磯小学校発祥地碑  尾上本陣跡の碑
その他の史跡
延台寺
 曽我兄弟の仇討(1194、建久4年)で知られる曾我十郎祐成と曾我五郎時致兄弟を追善するため、十郎の妾(当寺のHP:想われ人)虎御前(遊女・白拍子)が大磯に法虎庵曽我堂を建てたものの、その後その草案は朽ち果てていた。その場所に、当地に立ち寄った身延山19世法主により1599(慶長4)年開かれたのが、当日蓮宗延台寺であり、「曽我物語」の虎御前縁の寺として知られている。
虎御前は、実在した人物のようで、各地に虎御前の伝承に結びついた「虎御石」が存在するという。「虎御石」は、曽我兄弟を身代わりになって守った石とされ、法虎庵曽我堂に祀られている(毎年曽我兄弟の仇討日5月28日"虎御石まつり"に公開)。
当寺院は、火災により長期に亘って仮堂を余儀なくされ、現在の本堂や山門は、1980年代以降に再建されたもの。法虎庵曽我堂は、2005年に再建された。
大磯郵便局から50m程二宮寄りの国道1号から入ったところにある。
   
延台寺山門  延台寺本堂  延台寺曽我庵法虎堂
新島襄終焉の地
 新島襄(1843〜1890)は、1875(明治8)年に同志社英学校を創立したが、宿願とした大学設立に東奔西走中、心臓疾患を悪化させて群馬県の前橋で倒れ、療養中の当地の旅館百足屋にて生涯を閉じた。
新島襄終焉の地碑は、国道1号線沿いの照ヶ崎海岸入口の際にある。照ヶ崎海岸は、日本最初の海水浴場とされ、案内板もある。ただし、この先の行き当たり大磯港であり、現在の海水浴場は西寄りになる。
   
新島襄終焉の地  照ヶ崎海岸海水浴場の碑
(国道1号からの入口)
  海水浴場発祥案内
(国道1号からの入口)

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 澤田美喜記念館

・澤田美喜記念館は、三菱財閥の創始者岩崎弥太郎の孫である澤田美喜(1901〜1980)が戦後運営してきたエリザベス・サンダース・ホーム(1948年設立)の敷地内に1987年設立したもので、同女史が戦前戦後四十年にわたって蒐集してきた、江戸時代の隠れキリシタンの遺品や関連する品々を展示、公開している。
大磯駅前のこの広大な敷地は、元々岩崎家の別邸であったが、戦後の財閥解体に伴い財産税として政府に物納したものを、澤田がこれを買い戻し、米占領軍兵士との間に生まれた混血児の救済と養育のための施設を設立したものである。
・記念館の建物はノアの方舟をイメージした長六角形の船型になっており、1階にコレクション展示室、2階に澤田美喜記念礼拝堂が置かれている。
蒐集されたキリシタン遺物は872点に及ぶが、そのうち300点が展示されている。珍しいと思われるのは、キリシタン武士の「刀の鍔」が相当数展示されていることであり、長崎などで必ず見かけるロザリオは目につかなかった。
展示品に関しては、品名のみが記載され、蒐集した地名・出所、由来などが明らかにされていないのが、やや物足りない感を残した。有料の解説書には詳しく掲載されているのかもしれないが。
地域は主として九州のようなので、平戸から外海、そして島原へ至る長崎県の各地と、同じく長崎県の五島列島ということになろう。展示品の中で、「細川ガラシア夫人の"かんざし"」は、他にはないものと思われる。
長崎(西坂、外海など)で見るような、迫害・殉教といった歴史を背景をにした迫力はないが、首都圏でこのような遺物が見られる当館は貴重な存在であろう。
(画像はクリックで拡大します)
   
澤田美喜記念館入口
(大磯駅前広場バス停の前)
  記念館正面
  正面階段両脇の鉄製十字架
(長崎の26聖人に因み、左右に
各13本)
   
記念館玄関から鐘楼、切支丹灯篭
を望む
  鐘楼
  切支丹灯篭
   
1階展示室内部  1階展示室奥の慰霊の部屋
(澤田美喜の遺骨が分骨されている)
  細川ガラシア夫人の"かんざし
 
2階への階段室  澤田美喜記念礼拝堂
澤田美喜レリーフ
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