チヴィタヴェッキアと二人の日本人



 神奈川県藤沢市の美術振興施設である”藤沢市アートスペース”において、9月下旬までの日程で、同市ゆかりの画家長谷川路可の滞欧時代(1921-27年)に焦点を当てた展覧会が行われている。("修復作品公開 長谷川路可 よみがえる若き日の姿"、ホームページはこちらから)。




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 実は、以前NHKの”旅するイタリア語”という、語学番組というより観光案内のような番組を観ていたことがあり、その中で唯一記憶に残っていたのが、チヴィタヴェッキアというローマの外港と、二人の日本人、支倉常長、長谷川路可のことであった。今回の展覧会見学を機にこの記事を作成することとした次第。
 チヴィタヴェッキア(Civitavecchia)は、ローマの北東78kmの紀元2世紀からの古い港町であるが、二つの点で日本と関係がある。
 すなわち、伊達政宗の命による慶長の遣欧使節支倉常長(1571〜1622)が、スペインでその目的を果たすことができず、ローマ教皇への拝謁を目指してローマへ向かい、この地へ上陸した。1615年10月のことである。
チヴィタヴェッキア市では、遣欧使節が出発した地、月の浦のある宮城県石巻市との姉妹都市20周年を記念して、1991年市内にサムライ姿の支倉常長像が建立された。日本のテレビ局に対してだからか、多くの市民が、この像のことを知っているような話だった。
この使節団派遣については、その不幸な結末もあり、全体として今なお不明な点が多いようだ。そもそも、仙台藩が遣欧使節団を送った事実さえ、明治に入って欧米を巡ったあの岩倉使節団が1873年にヴェネチアの文書館で支倉直筆の文書(1615年)を大きな驚愕をもって発見するまで、わが国では忘れられた存在であった。今年2020年は常長らが帰国して丁度400年になる。
支倉常長像(http://visitaly.jp/civitavecchia-roma-1615-hasekura-tsunenaga.html)

 次は、市内に所在する.”日本聖殉教者教会(Chiesa dei Santi Martiri Giapponesi)”である。この教会は、1864年にフランシスコ会修道院の聖堂を改修し、日本の長崎西坂で1597年に殉教した26人のキリスト教徒に捧げる教会として、献堂されたものである。26人のうち外国人は6人で、いずれもフランシスコ会の神父または修道士であった。この殉教事件は、フランシスコ会員の言動が秀吉の怒りを買ったのが直接の原因とされている。
当教会の建設は、タイミング的には、1862年にこの26人の殉教者が、ローマ教皇により聖人に列せられ、日本二十六聖人と呼ばれるようになったことが背景にあろう。また、同じ年にフランス人外交官レオン・パジェスの「日本二十六聖人殉教記」が刊行され、265年前の東洋の国における殉教事件が、ヨーロッパでも知られるようになっていた。因みに、長崎の"国宝大浦天主堂"の正式名称は"日本二十六聖人殉教者天主堂"で、チヴィタベッキアの聖殉教者教会の翌1865年完成した。その完成直後、潜伏キリシタンの存在が明らかになったというニュースがヨーロッパに齎されたのであるから、大きな驚きをもって迎えられたのは当然であろう。日本では全く知られていなかったが。
 日本聖殉教者教会は、第二次世界大戦中連合軍の猛爆により損壊し、戦後の復興に際し、その内部装飾が日本人画家長谷川路可に委嘱された。

 長谷川路可(1897〜1967)は、東京美術学校日本画科出身の画家であるが、元来は油絵志望であり、日本、イタリア、フランスで多彩な制作活動を行った。また、欧州の博物館の仏教壁画の模写からフレスコ画の技巧を身につけ、わが国におけるフレスコ画のパイオニアと言われる人物である。
 実は、長谷川路可は小学校(東京九段の暁星学園)の寄宿舎に入るまでの幼少の頃、藤沢市鵠沼に住んでおり、自身「ふるさとは神奈川県鵠沼である。」と述べている(「長谷川路可画文集」)。そして、フランス留学から帰国した1927年にはアトリエを構え、その後10年ほど同地を本拠として活動した。
長谷川の没後、その作品の一部が藤沢市に寄贈されており、そのうちフランス留学時代の作品は100年近くが経過し、画面に痛みが生じていたことから、冒頭のポスターに使われている自画像を含む6点を修復することとなり、今般その作業の終了をみたことから、本展覧会開催の運びとなったものである。6点の内訳は、滞欧時代の油彩画4、日本画1、晩年(1966年)の日本におけるフレスコ画1であり、それぞれの修復工程などが解説されている。
 また路可は、鵠沼に近い片瀬教会の祭壇や壁の絵を手掛けており、本稿作成を機にそれらの作品の見学にも出かけた。
 なお、前回東京オリンピックの主会場旧国立競技場には数多くの壁画や彫像が飾られていたが、その中でも競技場のシンボル的作品として、ロイヤルボックスの背後に配置されていた<勝利>(「野見宿禰像」)と<栄光>(「ギリシアの女神像」)という一対のフレスコ画は路可晩年の作品で、新国立競技場建設に際して、修復の上東エントランス左右に移設保存されている。本展覧会では、その作業の工程も紹介されている。

(片瀬教会の路可作品<同教会HPによる>)
(http://www.catholickatase.com/history)
 
片瀬教会 掛軸「ルルドの聖母」1939年   片瀬教会 掛軸「エジプト避行」1939年
 
片瀬教会 「ザビエル日本布教図」1949年

(画像はクリックで拡大します)
純日本建築の片瀬教会外観(1939年築)片瀬教会聖堂

 長谷川路可が日本聖殉教者教会の内部装飾として多数のフレスコ画を制作したのは、1951年1月から1954年10月にかけてであり、路可畢生の大作となった。1957年に帰国の後日本で活動し、1967年に再びイタリアへ渡った直後ローマにて死去、葬儀は日本聖殉教者教会にて行われたという。
残念ながら筆者は、現地に行ったことはない。イタリア政府観光局、チヴィタヴェッキア観光情報、日本聖殉教者教会等のサイトで公表された作品の画像をここに紹介しておこう。
正面の内陣上部(後陣)には、和服を着た珍しい聖母子像が描かれている。日本人ならばこの絵は記憶に残ろう。
日本殉教者教会聖堂内部(http://www.prolococivitavecchia.com/turismo/cose-da-vedere.html)
後陣のフレスコ画(http://visitaly.jp/civitavecchia-roma-1615-hasekura-tsunenaga.html)
               和服の聖母子像
               (http://www.catholickatase.com/history/#history02)
          和服の聖母子像上部(https://santimartirigiapponesi.jimdofree.com/)


[参考文献]
長谷川路可「長谷川路可画文集」(1989、求龍堂)
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