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米海軍横須賀基地(日米親善ベース歴史ツアー2022) |
現在の米国海軍横須賀基地(U.S. Fleet Activities Yokosuka )は、1865(慶応元)年に江戸幕府が「横須賀製鉄所」として建設を開始し、明治維新後我が国官営造船所の嚆矢となった「横須賀造船所」があった場所で(注)、その後当地には造船所を運営する海軍工廠を所管する帝国海軍横須賀鎮守府が置かれていた。1945年の敗戦後米軍に接収され、爾来現在に至るまで、日米安全保障条約によって米軍にその専用使用が認められている。当基地は米国第7艦隊の旗艦・司令部が置かれている揚陸指揮艦(現在はブルー・リッジ)の母港であり、かつ米国外では唯一の航空母艦の母港となっている(現在は原子力空母"ロナルト・レーガン")。 (注)長崎では、1857(安政4)年に長崎溶鉄所(後に長崎製鉄所へ改称)が創立されているが、事業は進展せず、ドックは維新後官営になってから着工され、1879年に1号ドックが完成した。1887年には三菱へ払い下げられた。当時のドックは現存しない(現在の三菱重工長崎造船所第2ドック渠頭部)。 "日米親善ベース歴史ツアー"は、普段は一般人の入ることができない米国海軍横須賀基地に入場し、基地内に遺された幕末の「横須賀製鉄所」以来当地で築造されたドライドック群や「旧帝国海軍」に関係する歴史スポットを見学するツアーであり、毎年春秋各2回ずつ横須賀市観光協会の主催により行われている。今般2022年5月のツアーに参加した。 当日は、JR横須賀線横須賀駅集合、観光協会のガイドの引率によりヴェルニー公園を通って基地正門に至り、基地内見学の後、基地正門前で解散するという行程で、全行程4時間半うち基地内3時間半。 以前は基地正面集合であったが、近年は横須賀駅集合になっている。横須賀市民限定とか神奈川県民優先としていた参加資格の制限を外したことから、横須賀観光の要素も織り込むべく、横須賀駅集合にしたのであろう。 |
1 JR横須賀駅から基地正門へ 最初に横須賀線について復習しておこう。横須賀線は、横須賀鎮守府や東京湾要塞などの軍関係諸施設へのアクセスと軍需物資の輸送のため、陸海軍の要請により敷設された鉄道であり、1889(明治22)年6月に東海道線大船から分岐して横須賀駅まで15.9kmが開業した。その際、北鎌倉では(当初駅はなかった(1930年開業))、円覚寺総門前の白鷺池の半分を埋め立てて境内を突っ切り、鎌倉鶴岡八幡宮の参道段葛を由比ガ浜に近い一の鳥居から、現在の起点である二の鳥居まで撤去して交差するなど、強引な突貫工事で1年半で開通させた。 その後、1914(大正3)年に複線化し、1925年には全線電化した。また、1944年に久里浜まで8.0kmが延伸された(横須賀久里浜間は単線)。 横須賀駅は、横須賀市街地手前の軍港至近の海軍用地(現在地)に建設された。今でも市街地から離れており、市民にとってJR横須賀線は甚だ使い勝手が良くない。因みに京浜急行横須賀中央駅の1日平均乗降者数(2020年度)は50,020人なのに対し、JR横須賀駅は3,796人に過ぎない。コンコースはいつも閑散としており、イベント受付には恰好の場所ではある。 現在の横須賀駅舎は1914(大正3)年建設の2代目駅舎を1940年に改築したものという。1945年7月の横須賀大空襲での難は免れたようだ。 現在のホームは島型の一面。年数回は利用しているものの、あまり気に留めたことはなかったが、2番線と3番線となっており、1番線はない。2番線隣に残されているレールが、当初建設された1番ホームのもので、2,3番線が増設された後は天皇行幸のお召列車等の専用ホームとなり、その後廃止され、現在の2、3番線ホームが残されたということのようだ。 |
余談だが、観光協会は当駅を「(軍用)資材の積み下ろしを容易にするために作られた、階段のない全国的に珍しい駅」と紹介しているが、これはおかしい。昔の駅は階段などなく、ホームの端に踏切を設けるケースが多かったはずである。発着駅は、櫛形ホームが一般的で、長崎本線長崎駅は、近年新幹線対応の新駅になるまで、階段などなかった。 |
ヴェルニー公園については、本サイト内別項を参照。 米軍横須賀基地の正門への左折進入口である国道16号「本町二丁目」交差点角のクラブアライアンスという米軍施設の前に集合、本人確認と手荷物検査(今回はなかった)、司令官代行なる人の歓迎挨拶の上、"ESCORT REQUIRED 1 DAY GATEPASS"なる1日パスポートを渡され入場。 何時もここを通る時の感想を述べておきたい。実は、この交差点を渡る歩道はなく、歩行者は設置された歩道橋を渡らなければならず(エレペータはある)、大変煩わしい。他方、基地へ入る米軍関係車両は、スムーズに進入できる。明らかに米軍優先で、釈然としない。 |
2 ドライドック群 江戸末期の開国後、外国奉行や勘定奉行の要職を歴任する幕臣小栗上野介忠順(1827〜1868)は、日米修好通商条約の批准書交換のための使節団の一員として渡米した際、米国海軍工廠などを見学し、その製鉄並びに造船技術に驚愕し、我が国の海軍力増強を幕府に建言した。 そして、勘定奉行小栗らがフランスの技術を導入して製鉄所の建設を進めることとなり、フランスの若手造船技術者F.L.ヴェルニー(1837〜1908)が招かれ、横須賀製鉄所の建設を推進するところとなった。 最初のドックは1865(慶応元)年に着工、事業は明治政府に引き継がれ、1871(明治4)年に完成した。 同年、横須賀製鉄所は横須賀造船所へ改称し、1887年横須賀鎮守府が設立されると1889年に同造船部、1897年に横須賀海軍造船廠となった。その後1903年には造船に加え、兵器製造や機関製造部門を合体した横須賀海軍工廠が設立された。 なお、横須賀製鉄所建設の中心人物であったヴェルニーは、3号ドック完成後の1876年に帰国した。その後の2号ドックに関しては、仏人技術者の設計になるものの、爾来ドック建設は、日本人技術者が担うこととなった。 |
横須賀海軍工廠においては、昭和期までに6基のドックを擁することとなった。このうち、1号から5号までは、修繕ドックで、6号のみ新造船ドックである。現在も完工後150年以上を経た1号ドック以下、6基全てが米国海軍の艦船修繕部門SRF-JRMCにより稼働されている(注)。 なお、艦船が入渠中のドック見学は許可されない。そのため、今回は1、2、3号ドックしか見学することができず、些か物足りないものとなった。見学コースはツアー直前にならないと決まらないという。 (注)SRF-JRMC:Us naval Ship Repair Faculty-Japan Regional Maintenance Center 米国海軍艦船修理廠・日本地区造修統括本部 |
6基のドックの概要は以下のとおりである。
4,5,6号ドック:参考資料(1) 各ドックの形状およびサイズ比較図(参考資料(1)による) |
(1)1,2,3号ドック 1号及び3号ドックは連続的に築造されたものの、2号着工は3号完成の6年後となった。この間資金難の問題があったためで、当時の造船所長の2号ドック建設促進を求める上申書(海軍大輔宛)によれば、当初から3基体制が計画されていたとされている。1号と3号の建設場所の間が大きく開いていることからも3基が計画されていたことは間違いない。当時艦船用ドライドックを建設する場合、戦艦、巡洋艦、駆逐艦という艦隊編成に対応した大中小の3基を建設するのが常識となっていたという。 いずれにせよ、この3基のドックは、わが国に現存するドックの中で最も古く、わが国のドライドックの源流として、「もし他の自由な場所にあったら文句なく国の第一級史跡であり、文化財である」(末尾参考資料(2))。すなわち、国指定の重要文化財に値するとともに、2015年7月に登録された世界遺産「明治日本の産業革命遺産 製鉄・鉄鋼、造船、石炭産業」を構成することとなった筈である。 |
1号ドックは、1936年鉄筋コンクリートにより拡張が行われているが、石造りの主要部分には一部の補修以外殆ど改築はなされておらず、ほぼ150年前のままである。 |
(1号ドック全景渠口方向を望む) |
(1号ドック全景RCで拡張された渠頭方向を望む) |
(1号ドック渠壁の様子) |
(1号ドック:ゲート) |
(1号ドック:ゲート内側の補修部分) |
(盤木) |
2号ドック着工時、既にドック不足の状態にあった。原設計及び構造模型の製作は、仏人技師ジゥエットにより行われたが、1880(明治13)年の着工直前に契約満期となり帰国した。以降、ドック建設は日本人技術者の手で行われることとなり、フランス人技術者による造船所内の学校「黌舎」で学んだ恒川柳作がその中心となった。 |
(2号ドック全景渠口方向を望む) |
(2号ドックゲート、下方の円形が注入口) |
(2号ドック全景渠頭方向を望む) |
(2号ドック渠壁) |
(2号ドック渠頭部、頭頂部に窪みがある変わった設計) |
3号ドックは、先に述べたように当初計画に従い、1号の後ながら規模は小さくなり、結果としてその後のドック不足の原因となった。石材の表面を一部補修した程度で、150弱前のまま。 この規模では米国海軍もあまり使い道がないのか、渠頭付近には苔が生えているのが見える。 |
(3号ドック全景渠口方向を望む) |
(3号ドックゲート) |
(3号ドック全景渠頭方向を望む) |
(3号ドック渠頭) |
(2)4,5号ドック 4号ドックは、日露戦争の戦訓を生かし、大型化を目指して築造され、3度に亘り拡張工事を行った(空母飛竜基準排水トン17,300対応)。5号は更に大型化し、戦艦山城(同29,326トン)が入居可能なサイズに拡張された。 |
(3)6号ドック 6号ドックは、大和型戦艦の三番艦を建造する目的で、横須賀で初めて計画された新造船用ドックであり、ドック完成後直ちに戦艦「信濃」の建造を開始したが、ミッドウェー海戦(1942年6月)により、4隻もの空母を失ったことを受け、航空母艦「信濃」に仕様変更された。1944年11月19日工事途中のまま竣工させ、呉工廠で艤装工事などの残工事を行うべく回航途中、同29日潮岬沖にて米国潜水艦の魚雷攻撃により撃沈された。 太平洋戦争末期の当時、既に米軍潜水艦による攻撃の可能性は十分予測される状態であったにもかかわらず、未完成のまま呉へ回航して完成させざるを得なかったのは、徴用工の多用による横須賀工廠の技術力低下が懸念されたことに起因するとされている。日本海軍のじり貧状態を示す一例と言えよう。仮に完成したとしても、敗戦間近のあの時期、そもそも、艦載機やパイロットを確保できたか、疑問があろう。。 |
3 旧帝国海軍の建物 明治初期までの建物は、木材で柱や梁などを作り、壁を煉瓦で充填するという、木骨煉瓦造りの建物が中心だったが、現在は残されていない。ただ、富岡製糸場建設に際し、横須賀製鉄所のフランス人技師が派遣され、煉瓦造り建築を行っており、当時の建築を同地で確認することができる(国宝で世界遺産に登録)。その後の鉄骨煉瓦造りの建物を含め、殆ど関東大震災で失われたようだ。 関東大震災以降建築の旧帝国海軍時代の主要な建築物は、現在も使われている。外観のみ確認。 (1)旧横須賀鎮守府庁舎 1890(明治23 )年完成した煉瓦造りの旧庁舎は関東大震災で倒壊し、1926(大正15)年に、鉄骨造り3階建ての現在の建物が完成した。当時の海軍技師真島健三郎が、わが国で初めて提唱した柔構造理論に基づく耐震建築の嚆矢であり、わが国の建築史上重要な建物である。 なお、真島健三郎の柔構造理論に基づく耐震建築としては、鎮守府庁舎の他、海軍工廠庁舎、海軍病院、造機部製図工場が確認されている。 米軍による接収から現在に至るまで、改変が加えられているようだが、日本側には全く不明であるという。外見から明瞭なのは、3階正面向かって右側部分の窓8ヵ所が塞がれて外壁と同じタイル壁になっているという点である。3階には情報を取り扱う部署があることからとされている。 |
(旧横須賀鎮守府庁舎、現在は在日米海軍司令部) |
(同上正面玄関) |
(正面玄関の在日米海軍司令部エンブレム ) |
(2)旧横須賀鎮守府会議所、艦船部庁舎 1934年に、旧横須賀鎮守府庁舎に隣接して建てられた鉄骨造り2階建ての庁舎。 正面玄関の柱には、横須賀鎮守府会議所と艦船部のプレートが残されている。小さなもので、少し離れると気がつかないほど。 正面の三角破風や中央の柱飾りなど、当時流行したアール・デコ調の影響もみられる。横須賀鎮守府管下の建物の内で、最も装飾性に富む昭和初期の遺構と言える。 1階玄関内側の一部が展示室なっており、歴代の横須賀鎮守府司令長官の写真一覧が展示してあったのには些か驚いた。 |
(旧横須賀鎮守会議所、艦船部庁舎、現在は米海軍横須賀基地司令部) |
(同上破風の装飾) |
(正面玄関 ) |
(正面玄関に残されている横須賀鎮守会議所と艦船部のプレート ) |
(3)旧横須賀海軍工廠庁舎 関東大震災で被災した、1913(大正2)年建設の煉瓦造り2階建ての庁舎が、1927年に建て替えられたもので、耐震設計による鉄骨造り2階建て。建物の前には、横須賀製鉄所・工廠庁舎沿革碑が建てられている。 また、1927年から1933年にかけてこの建物の裏と西隣に耐震設計による鉄骨造り2階建ての製図工場が建てられた。現在は、米軍の事務所・作業場・倉庫として使われている。 |
(旧横須賀海軍工廠庁舎(現CPOクラブ、Chief Petty Officer's Club)) |
(現CPOクラブ正面) |
(旧横須賀海軍工廠庁舎正面の装飾) |
(横須賀製鉄所・工廠庁舎沿革碑、道路を隔てた場所からで、碑の文面不詳) |
(旧横須賀海軍工廠造船部造機部製図工場) |
(4)旧横須賀海軍病院庁舎) 1880(明治13)年に市内深田に開設された初代海軍病院が関東大震災で倒壊したため、1928年に現在地に建てられた耐震設計による鉄骨造り2階建て。高層の米海軍病院は新たに建てられているが、こちらも米海軍病院の病棟、庁舎として利用されている。 |
(旧横須賀海軍病院) |
(旧横須賀海軍病院正面のアール・デコ調の装飾) |
(旧横須賀海軍病院、メンタルヘルス・薬物中毒の診察室入口) |
(左旧横須賀海軍病院門柱とプレート(両方とも化粧直しをしているようだ)、右良子皇后行幸記念碑、1937年11月17日) |
(5)旧第四・第五船渠喞筒(ポンプ)所 鉄骨煉瓦造りの建物で、両ドックの間の渠口寄りに、1916(大正5)年第5ドックと同時に竣工した。横須賀海軍工廠内にはこの構造の建物が数多く建てられていたが、関東大震災に持ちこたえた現存唯一の建物である。 下の画像は、対岸のヴェルニー記念館前から撮影したもの。左端の白色の構造物は、2021年0月に横須賀に配属された宿泊艦APL67で。5号ドックのゲート前に停泊している。 |
4 その他基地内の様子、史跡等 |
(停泊中の艦船) |
(米国第7艦隊の旗艦・司令部が置かれている揚陸指揮艦ブルー・リッジ) |
(原子力航空母艦ロナルド・レーガン) |
(史跡) |
(関東大震災碑) |
(泊船庵の碑、鎌倉末期夢窓疎石が背後の白仙山の山頂に庵を構えていたという、1319〜1323年、白仙山は、海岸近くまで及んでおり、2号ドックはこの山を平地にして築造した) |
(コサノパーク) |
(コサノパークの様子、基地と横須賀市の友好に尽力した人物の名を冠した公園) |
(グリーンベイマリーナ、コサノパークの端、1945年8月30日マッカーサー厚木到着と同時に米国海軍がこの地へ上陸、横須賀製鉄所以来80年、横須賀鎮守府58年の歴史に終止符が打たれた) |
(対岸三笠公園と戦艦三笠船首) |
(猿島遠望、直後に雨となる) |
[参考資料] (1)「新横須賀市史、別編 文化遺産」(横須賀市、2009年) (2)「横須賀市文化財調査報告書第17集」『米海軍横須賀基地内洋風建造物調査報告書』(横須賀市教育委員会、1988年) |
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