観音崎・要塞跡、美術館、千代ケ崎砲台





観音崎公園・要塞跡、戦没船員の碑 横須賀美術館 千代ケ崎砲台跡
 観音崎公園・要塞跡、戦没船員の碑
・観音崎は、横須賀市南西部の東京湾に突き出た岬で、先端にヴェルニーの設計になる日本最初の洋式灯台「観音埼灯台」が設置されている(旧暦明治2年1月1日<1869.2.11>点灯)。観音崎公園は、この一帯の70haに及ぶ広大な自然公園で、シイやタブを中心とした照葉樹林のなかを散策したり、色々なレクリエーションを体験出来る施設が配置され、横須賀市民の憩いの場になっている。
 この地域には、古くは江戸幕府の命により会津藩が台場を築いていた。明治以降は、首都防衛のため並びに横須賀軍港掩護を目的として東京湾一帯に築いた、"東京湾要塞"の中でも最も重要な、「観音崎砲台」が置かれていた。1975年にその跡地(国有地)を神奈川県が公園として整備したのが観音崎公園である。
 ・公園は、全体として自然林に覆われた丘陵地であるが、大きく二つの部分からなっているようにみえる。
観音埼灯台を含む南東の部分(下の配置図右側)は、東京湾に突き出ており、海に向かって砲台が設置された。現在は、海岸沿いにレストハウス、自然博物館、駐車場、バーベキューエリアなどを置き、内陸は基本的には自然林のままで、その中に東京湾海上交通センター(注)、戦没船員の碑、見晴らし台などの施設を配している、散策中心のエリアと言える。
(注)東京湾の航行情報提供および航行管制を行う海上保安庁の組織
一方、公園北側(配置図左側)は海岸からは距離がある地域で、アスレチック場や花の広場、果実の森などが配置され、レクリェーション、憩いの場といった趣である。また、東京湾側を切り開いたとみられる斜面に美術館がある。


(東京湾要塞・観音崎砲台跡)
 東京湾要塞は、1880年から建設が始められ、横須賀軍港、三浦半島及び対岸の房総半島に砲台群が、また東京湾の海上に三カ所の海堡が配置された。下図がその配置図である。

そのうち、観音崎砲台では、3ヶ所の砲台が、猿島砲台とともに1884年に完成している。1895年完成の千代ケ崎砲台(後述)を含む東京湾要塞は、この当時アジア最強の艦隊とされていた清国北洋艦隊、そして南への強い領土意欲をみせるロシアの艦隊を意識したものであろう。
関東大震災の後、これらの砲台は、一部を除き1925年までに廃止・除籍された。射程距離の増大等の大砲技術の向上に加え、航空機の時代を迎え時代遅れになってしまったことにより、その後の軍拡政策の中でも、これらの砲台が復活することはなかった。
 観音崎バス停近くの標識に従って登り、東京湾海上交通センターの前の坂を上ると、観音崎第二砲台がある。また、海上交通センター前から起伏の多い細い散策道を行くと、観音埼灯台の横を通り、第一砲台に着く。両砲台間の距離は300m程度である。
(写真はクリックで拡大します。)
観音崎バス停近くの海岸  東京湾海上交通センターへの登り口  東京湾海上交通センター
観音崎バス停近くの海岸  東京湾海上交通センターへの登り口  東京湾海上交通センター
観音崎第一砲台(配置図A)は、1880年に着工し、1884年に完成した、我が国洋式要塞の第一号とされている。中心の横墻(おうしょう)を挟んで、24センチ砲2門を扇型に配置していた。1915年に除籍された。
向かって右側の砲台跡  向かって左側の砲台跡  左右の砲台をトンネルで結ぶ横墻
向かって右側の砲台跡  向かって左側の砲台跡  左右の砲台をトンネルで結ぶ横墻
横墻  明治前半の工法を示す<br>フランス積みの煉瓦(トンネル上部)
横墻  明治前半の工法を示す
フランス積みの煉瓦(トンネル上部)
第二砲台(配置図B)は第一砲台と略同時期に築造され、24センチ砲6門を配置した。うち左側3門の跡は、現在の東京湾海上交通センターの敷地になっており、右側3門の砲台が現存している。1925年に除籍された。
砲台跡その1  砲台跡その1  砲台跡その2
砲台跡その1  同左・金網部分は地下壕入口  砲台跡その2
砲台跡その3  弾薬庫  第二砲台と灯台の間の散策道の様子
砲台跡その3  弾薬庫  第二砲台と灯台間の散策道の様子
第三砲台(配置図C)は1882年に着工、1884年に完成し、1925年に除籍された。28センチ砲4門を配置していたが、現存しているのは1門のみで、他は海の見晴らし台になっている。場所は、第二砲台跡から散策路を花の広場方面へ向かう途中からトンネルで結ばれた先である。
 以上の砲台の煉瓦積み工法は、何れもいわゆるフランス積みである。
第三砲台へ通じるトンネル  トンネル内部(出口から)  トンネル内部フランス積みの煉瓦
第三砲台へ通じるトンネル  トンネル内部(出口から)  トンネル内部フランス積みの煉瓦
第三砲台入口  第三砲台内部)  海の見晴らし台
第三砲台入口  第三砲台内部  海の見晴らし台
三軒家砲台(配置図D)は1894年着工し、1895年に完成した。現在の美術館南東の高台に位置し、東京湾の内側に向けられ、27センチ砲4門、12センチ砲2門を配置した。砲台間の地下に弾薬庫(軍事用語で掩蔽部と称した)をつくり、両側から階段で繋ぐ構造になっている。1934年に除籍。
保存状態が良好で、原型に近い形で保存されている。ただし、奥に配置されていた12センチ砲の砲台跡は立ち入り禁止になっている。
この時期になると、煉瓦はイギリス積みである。
砲台に近接した広場は、三軒家園地として整備されている。
三軒家砲台へ向かう路上の門柱跡  倉庫跡か  案内板
三軒家砲台へ向かう路上の門柱跡  倉庫跡か  案内板
手前の27センチ砲台  砲台間を地下で繋ぐ階段と弾薬庫入口  砲台間の弾薬庫上部
手前の27センチ砲台  砲台間を地下で繋ぐ階段と右弾薬庫  砲台間の弾薬庫上部
奥の27センチ砲台その1  奥の27センチ砲台の弾薬庫入口  奥の手前の27センチ砲台その2
奥の27センチ砲台その1  奥の27センチ砲台の弾薬庫入口  奥の27センチ砲台その2
27センチ砲台と12センチ砲台の間の観測所跡  イギリス積みの弾薬庫煉瓦  三軒家園地
27センチ砲台と12センチ砲台の間の
観測所跡
  イギリス積みの弾薬庫煉瓦  三軒家園地
水中聴測所(配置図F)は、1937年に観音崎の東端の海上に造られた、敵潜水艦を探知するための施設である。
浦賀方面から観音崎に差し掛かると、たたら浜という海岸があり、その先の観音崎自然博物館などを過ぎると海上自衛隊観音崎警備所になる。聴測所はその施設の敷地沖になるので近づくことはできない。陸地と桟橋でつながれていたが、海上の構築物が残っている。ここには、第4砲台が置かれており、遺構もあるようだ。
水中聴測所の南に隣接して「南門砲台」が置かれていたが、現在は「展望園地」になっている。また、たたら浜の上にトーチカが残っている。
水中聴測所  展望園地(南門砲台跡)  たたら浜
水中聴測所(展望園地下の岩場より)  展望園地(南門砲台跡、右側が海))  たたら浜
(奥の建物が観音崎自然博物館)
トーチカ跡  戦没船員の碑を望む
トーチカ跡  たたら浜園地から
戦没船員の碑を望む
(戦没船員の碑)(配置図E)
 主として太平洋戦争中における、陸・海軍徴用船舶並びに船舶運営会により統制下にあった民間船舶に配乗し、犠牲になった非戦闘員の船員計6万人余を祀る慰霊碑で、1971年に建立された。毎年5月に戦没・殉職船員追悼式が行われている。
戦没者の内訳は、陸海軍の徴用船舶配乗者が44.3千人で、73%を占める。また、年齢別にみると、輸送要員とはいえ、防衛召集年齢に達しない17才未満の少年が7千人以上もいることに驚かされる。(日本殉職船員顕彰会ホームページによる)。
 場所は標高63mの、観音崎で最も高いと目される旧大浦保塁の跡地である(敷地4,300u)。 高さ24mの白磁の大碑壁下に海を展望する祭場(祈りの広場)があり、先端に碑文石と献花台を設えている。碑文は、 
 「安らかにねむれ わが友よ 波静かなれ とこしえに」
追悼式には、天皇皇后両陛下が2015年を含め度々出席されている(注)
広場脇の両陛下のお歌。
  戦日(いくさび)に逝きし船人を悼む碑の彼方に見ゆる海平らけし(1992年 天皇陛下)
  かく濡れて遺族らと祈る更にさらにひたぬれて君ら逝き給ひしか (1971年皇后陛下)

(注)追記:2015年12月の天皇誕生日に際しての記者会見でも戦没船員について言及があった。
当該部分の全文は下記の通り。
「軍人以外に戦争によって生命にかかわる大きな犠牲を払った人々として、民間の船の船員があります。将来は外国航路の船員になることも夢見た人々が、民間の船を徴用して軍人や軍用物資などをのせる輸送船の船員として働き、敵の攻撃によって命を失いました。日本は海に囲まれ、海運国として発展していました。私も小さい時、船の絵葉書を見て楽しんだことがありますが、それらの船は、病院船として残った氷川丸以外は、ほとんど海に沈んだということを後に知りました。制空権がなく、輸送船を守るべき軍艦などもない状況下でも、輸送業務に携わらなければならなかった船員の気持ちを本当に痛ましく思います。今年の6月には第45回戦没・殉職船員追悼式が神奈川県の戦没船員の碑の前で行われ、亡くなった船員のことを思い、供花しました。」
戦没船員の碑入口の碑  戦没船員の碑全景  戦没船員の碑全景
戦没船員の碑入口の碑  戦没船員の碑全景  同左
船員像、人魚像各2体のブロンズ像<群像>  海を展望する祭場先端の碑文石と献花台  天皇皇后両陛下の歌碑
船員像、人魚像各2体の
ブロンズ像<群像>
  海を展望する祭場先端の
碑文石と献花台
  天皇皇后両陛下の歌碑
 大浦保塁は、1895年に着工、1896年に完成し、1925年に除籍された。9センチ砲2門を配備していた。 遺構としては、戦没船員碑の芝生広場の隅にイギリス積みの煉瓦構築物の一部が残っている。

なお、戦没船員碑へのアクセスについて、案内図によれば観音崎バス停先の階段のある道を登るのが最も近いように見えるが、この道は自然道に近く足場が悪いため、非常に歩きづらい。雨の後などは危険である。メインのルートは、自然博物館側からのようだ。
芝生広場の練習船進徳丸の錨  大浦保塁の遺構
芝生広場の練習船進徳丸の錨  大浦保塁の遺構

 横須賀美術館
横須賀美術館は、横須賀市が2007年に、県立観音崎公園の一角に開設した新しい美術館である。
 美術館の所蔵作品は、1985年から収集を始めた横須賀市の海を描いた作品、横須賀・三浦半島ゆかりの作家の作品が中心となっている。この間1998年には横須賀市内にアトリエを構えていた谷内六郎が1956年以来週刊新潮の表紙絵として描いた作品1300余点の寄贈があり、美術館とは別に谷内六郎館を設けて展示している。
美術館の建物はガラス張り(塩害を防ぐためという)の斬新なもので、常設展示室を地下に置くことにより、低層に抑えており、周辺の環境にうまく溶け込んでいる。建物の前面は、広々とした芝生の庭で、その向こうに東京湾を望む眺望は大変素晴らしい。また、屋上は、ガラス張りのユニークな作りで、展望広場になっており、一般に開放されている。三軒家砲台から下りて来ると屋上につながっている。
民間団体が、「絶景美術館」なるランキングを発表しているが、当館は全国450館中5位に位置付けられている。因みに第1位は海外でも夙に評価の高い足立美術館(島根県安来市)であり、神奈川県内では箱根の成川美術館が第4位となっている。
(写真はクリックで拡大します。)
横須賀美術館正面入り口   フロント   屋上広場
横須賀美術館正面入り口  フロント  屋上広場 
屋上広場  屋上ペントハウス・恋人の聖地認定証   谷内六郎館を望む
屋上広場  屋上ペントハウス内部
"恋人の聖地認定証"
  谷内六郎館を望む 
谷内六郎館入口  谷内六郎館中庭   レストラン
谷内六郎館入口  谷内六郎館中庭  レストラン"アクアマーレ 
アクアマーレ・テラス席  東京湾を望む   対岸の君津製鉄所
アクアマーレ・テラス席  東京湾を望む  高炉が見える対岸君津製鉄所遠望
 
・この美術館の所蔵作品は、今のところ市外から多くの来訪者を期待できるレベルとは言い難い。また、立地点は、市の中心部からバスで30分程度を要し、多くの市民にとって利便性に難がある。公立の美術館は、市民施設として文化活動の一翼を担う役割があると考えると、この立地は理解し難い。
いずれにせよ、ローカル美術館として、現代作家の発掘などで特徴を出していくといった方向なのかもしれないが、事業として採算が期待できるとは考えづらい。現に毎年3億円以上の支出超過(赤字)になっているらしい。前途多難な感じがする。
 文化施設が皆黒字を出す必要はないとしても、横須賀市としてどの程度が市民負担の許容範囲なのか、よく見極める必要があろう。いわゆるハコモノ行政のつけ、といったことにならなければよいが。
・市としてはここに建設した以上とにかく来館者を増やす必要があり、観光という切り口を強調し、その増加を図るべく、公立の美術館としては異例の、観光スポットとしてのPRをホームページに掲載している(注)
確かに、観音崎は、三浦半島の有力な観光スポットの一つであるし、広々とした芝生の前庭と東京湾の展望が絶景と評価されるロケーションは強みであろう。デート・スポットとしても人気になっているようだ。加えて、美術館前面のガラス張りのスペースのイタリアン・レストラン「アクアマーレ(ACQUAMARE)」も評判で、観光客などにも格好の食事処として人気になっているという。週末など待ち時間1時間以上とのことである。
 (注)記述の一部
  「アートと自然環境を一体化した横須賀美術館はデートにおすすめです! 建物の中にいても常にまわりの自然を感じることができる開放的な美術館。 アート&リゾート気分で1日ゆったりと2人で過ごしてみませんか。2010年秋には、横須賀美術館で初めてのウェディングを行いました。」

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 千代ケ崎砲台跡

・千代ケ崎砲台は、観音崎の南、久里浜港北東の平根山と呼ばれる小高い山の頂上部分(標高70m)に築造された3砲座28センチ榴弾砲6門を擁する砲台である。浦賀水道に突き出した要害の地(岬=千代ケ崎)であり、江戸時代にも台場(平根山台場、1848年築造)が置かれていた場所である。
日清戦争(1894=明治27.7〜1895.4)を控えた1892(明治25)年末に着工し、日清開戦後の1894年12月に2砲座4門で運用を開始した。築城工事は日清戦争終結直前の1895年2月に完成したが、最終的に6門体制になったのは1897(明治30)年である。
観音崎砲台の支援や、浦賀湾前面の海正面防御のための榴弾砲砲台(海正面砲台)と、久里浜上陸の敵に対するカノン砲等による陸正面砲台で構成されていた。これだけの規模の強固な要塞を2年程度で完成させ得るには、戦時下の緊迫した雰囲気とはいえ、相当な突貫工事であったに違いない。
また1924年には、東側の低地に、ワシントン軍縮条約により廃艦となった、戦艦「鹿島」の30cmカノン砲塔を移設して"千代ケ崎砲塔砲台"が造られた。
・この地域一帯は陸軍の支配下にあったが、戦後は国有財産として大蔵省の管理下に置かれて、逐次民間に払い下げられていったようである。海正面砲台部分は、養豚施設として利用されていた。
1960 年に海上自衛隊が海正面砲台部分の用地を取得し、爾後2008年まで千代ヶ崎送信所として運用されてきた。送信所の閉鎖後は、地上施設は全て撤去された。
一方、猿島砲台についてはかねてから史跡指定が検討されていたが、送信所廃止を機に千代ケ崎砲台と併せて史跡指定を目指す方向となり、2015年3月に国の史跡に指定された。
史跡指定を受けて、2017年から横須賀市主催の見学会が行われている。史跡としての所要の整備工事などを終えた後、猿島のように常時公開を目指している。

・右の平面図は、海正面砲台跡の配置図である。
砲台の基本構造は、以下の通り。
まず、地表から6m掘り込んだレベル(地下上層)に各2砲床を有する楕円形の砲座が、南北に並んで 3基置かれ、28cm榴弾砲を全6門設置。
砲台西側に砲台と並行して、砲座より一段低いレベル(地下下層)に"塁道"を造成し、塁道に沿って砲台を維持・運営するための貯水システムや弾薬庫、掩蔽部(兵士の宿舎)などの各種機能を巨大な煉瓦造りの堅固な地下構築物として設置している。
そのうち、弾薬庫は、第3砲座北と、各砲座の間の2カ所計3カ所置かれている。また、塁道は、第1及び第2砲座横の第1・第2掩蔽部前が露天になっているほかは砲座間の弾薬庫前など主要部分は隧道になっている。上空から見ることができないように、露天部分を抑えたものとみられる。
・築造技術についてみると、煉瓦積み工法は、全てイギリス積みになっている。フランス積みであった猿島(1884年完成)から僅か8年後であるが、この間の煉瓦の焼成技術と建築技術の進歩には大きなものがあったようだ。すなわち、露天空間の施設の前面壁、あるいは露天空間と接する隧道の出入口には雨水に対する防水と帯水防止のため焼過煉瓦が採用されているなど、普通煉瓦と焼過煉瓦が用途によって明確に使い分けられているほか、煉瓦を螺旋型に積む"斜架拱"という工法が塁道の屈曲部分数か所にみられる。
また、明治20年代前半までに建設された砲台の天井は煉瓦造であったが、千代ヶ崎砲台跡ではコンクリート造に変化している。
然して当砲台は、猿島などと比べて著しく強固にできており、関東大震災による被害も軽微で、1945年8月まで維持された。原型をよくとどめている、明治期第一級の軍事施設遺構と評し得よう。
第二次世界大戦中何回かの横須賀空襲があり、猿島砲台や第二海堡の高角砲が使われたそうだが(敵機には当たらなかった)、それ以外実戦に使用されることはなかった故、現代の我々がこのようにして遺構を見ることができるわけで、 この上ない歴史教材と言えよう。

なお、三つの砲座のうち、第1砲座は戦後も埋められたことはなかったが、海上自衛隊千代ヶ崎送信所の時代に第2および第3は埋め立てて利用されていた(それ以前も埋められていたことがあるようだが良く分かっていない)。このうち、第2に関しては2015年に防衛省が現状回復を行った。その後、史跡指定を受け、土砂に埋没していた第3について、2017年11月より横須賀市が独自に発掘調査を進め、現在では、3つの砲座が揃って開口した姿を現している。同時に、左翼観測所も調査され、現在その残骸を見ることができる。

(画像はクリックで拡大します)
(地上レベルからの様子)
   
かつての軍道を上り詰めると石造り
の柵門、正面は土塁
  柵門前から見た土塁
(地山ではなく目隠しのためのもの)
  堀井戸
   
土塁前から左翼観測所跡(地表面)
を望む
  土塁裏から塁道へ降りる方向  土塁前から塁道へ降りる方向
   
第3砲座(左翼観測所跡から)  同左(第2砲座側から)  左翼観測所跡から発掘された残骸
   
第2砲座(第3砲座側から)  第1砲座(第2砲座側から)  同左(右翼観測所跡側から)
(塁道と地下構造物)
   
土塁脇坂路から露天塁道へ  右2室が第2貯水所
左第3弾薬庫への地下交通路入口
  第2貯水所右室
(手前沈殿槽、奥濾過槽)
煉瓦手前が焼過煉瓦、奥普通煉瓦
天井はコンクリート造り
   
第2貯水所左室(右室で貯水・濾過し
ここから汲み上げる(汲口)
  隧道入口から奥を望む  第3掩蔽部
   
第2掩蔽部前の階段  第2掩蔽部  東京集治監(小管)制作の煉瓦を
示す刻印
 榴弾砲が据え付けられていた砲座に立つことができるのは、埋められたことのない第1砲座である。隧道内の第1弾薬庫から砲座へ向かうのだが、弾薬庫の内部および通路は真っ暗で、用意されたペンライトを使う必要がある。ガイドの説明を聞きつつ、ペンライトで内部を見学しながらの写真撮影は大変困難だった。
(画像はクリックで拡大します)
(第1砲座周辺施設)
   
第1掩蔽部  第1掩蔽部内部  第1掩蔽部空気孔スリット
   
第1弾薬庫前室内部
(奥の壁の四角の窓は点灯室)
  第1弾薬庫奥室の揚弾井
(ここから吊し上げる)
  同左
   
第1砲座(南側から)  高塁道(弾薬庫から砲座への通路)
からの入口
  第1砲座(弾薬庫側から)
   
第1砲座伝声管
(伝声管は、砲台間と観測所に連絡
この伝声管は、右翼観測所と連絡)
  塁道南端、これより先は民有地  煉瓦積み工法斜架拱による施工例
(塁道南端)

 第1砲座の南には、海正面砲台の一部をなす右翼観測所が置かれ、近接して陸正面砲台があったが、現在は民有地で観光農園になっている。塁道南端は閉鎖されている。
農園側は、砲台遺構の保存に協力的であり、シーズン・オフには、所有者の承諾の下、見学が可能となる。参加した2018年9月の見学会では民有地に入ることができ、塁道南端に近い右翼観測所の遺構が案内された。
観光農園は、ブルーベリー(7〜8月)と、レモン(11〜12月)のシーズンに、週2日程度営業しているが、その際希望者には砲台遺構を案内するという。 観光農園のホームページはこちら。、
(画像はクリックで拡大します)
(右翼観測所)
   
塁道南端から民有地へ入ったところ  右翼観測所入口  右翼観測所下の部屋
(天井奥の小穴は伝声管)
   
右翼観測所地上部へ上がる  右翼観測所地上部遺構  同左
(下に広がるのは浦賀水道)

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