東京湾要塞・猿島と海堡





猿島探訪 東京湾要塞の海堡
(東京湾要塞)
 東京湾要塞は、1880年から建設が始められ、横須賀軍港、三浦半島及び対岸の房総半島に砲台群が、また東京湾の海上に三カ所の海堡が配置された。下図がその配置図である。



 猿島探訪
・猿島は、横須賀沖1.7kmにある小さな無人島で、東京湾に浮かぶ唯一の島である(東西約200m、南北約450m、周囲約1. 6km)。
江戸幕府は江戸防衛の拠点として、幕末の1847(弘化4)年、この島に3ヶ所の台場を築造した。
明治に入ると陸軍は、首都防衛のため東京湾一帯に"東京湾要塞"を築造することとし、1880年に観音崎要塞を着工、次いで1881年猿島の要塞化に着手し、いずれも1884年に完成した。このため、1881(明治14)年から1945年まで民間人は猿島への立ち入りを禁じられていた。
 猿島は現在も国有地であり、横須賀市が国からの管理委託により、「猿島公園」として整備・運営している。夏期の海水浴利用が中心だが、釣り客や海岸でのバーベキュー、旧日本軍の要塞巡りなどで年間を通して観光客が訪れている。最近は、「無人島探検」などと銘打ち、横須賀軍港めぐり、記念艦三笠とセットにした都内からの日帰りバスツアーも行われている。
猿島の要塞跡は、東京湾要塞の中でも保存状態が良く、西浦賀の千代ヶ崎砲台とともに2015年3月に国の史跡に指定された。
・猿島へは、三笠公園隅の三笠桟橋から1時間ごとに定期船が出ており、10分で到着する(詳しくはこちら)。
島内は自由に見学可能であるが、日本軍要塞跡のうち兵舎や弾薬庫は施錠されている。ただ、「猿島公園専門ガイド協会」によるガイドツアーが行われており(所要60〜90分)、このガイドを申し込めば閉鎖施設も見学可能である。
今回は偶々2015年10、11月の週末に限って行われていた、要塞跡中心のガイドツアー(45分、1日2回)に参加した。

(猿島桟橋と周辺)
 猿島は島全体が自然林に覆われており、周囲は殆ど岩場である。船舶が接岸可能な場所がないため、島の南側(上掲地図では右端)の砂浜から海上に歩道を設置し、その先にドルフィン桟橋を設けているが、外洋に面しているため、強風で波が高くなると使用できなくなる。横須賀港内部の軍港巡りが運行しているときでも、こちらは欠航になることがある。毎朝更新されるホームページで確認するとよい。
砂浜は現在の形状からして、人工的に造られた部分が多いように窺われる。この砂浜が海水浴やバーベキューの場所となっており、その山側に、レストハウスと管理棟が設置されている。レストハウスにはレンタルショップ(バーベキュー用品)、売店、海の家などの店舗が入っており、2階は自由に休むことができる広いテラス(ボードデッキ)になっている。
 管理棟3階に隣接した煙突のある建物は1895年に建てられた石炭焚きの発電所である。レンガ造だったが、現在は表面をモルタル塗りにしてある。現在もジーゼルエンジンで発電している。
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猿島桟橋へ到着したSea Friend号  猿島桟橋  上陸用歩道と砂浜



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発電所  猿島桟橋前の陸地  桟橋前の崖地の海鵜
(猿島は海鵜の生息地)
   
桟橋からの遠望
みなとみらい
  同左
横浜ランドマークタワー
  同左
追浜住友重機

(猿島の要塞化、砲台、幹道、兵舎・弾薬庫)
 猿島の要塞化は、一般人の立ち入りを禁止して1881年より始められた。
まず外部からは見えないよう、島の東側を切り開き、壁面を石積みにして「幹道」と呼ぶ切通しを造成し(全長300m、幅4.5m、高さ4.5〜9m)、その先にトンネルを、更に幹道の西壁には兵舎、弾薬庫などを掘り込み、地上部に砲台を2ヶ所設置し、1884年に完成した。東京湾要塞を構成する猿島砲台である。砲台の置かれた場所は、第1砲台(27センチ砲2門)が、トンネルを出た先の切通しの上、第2砲台(24センチ砲4門)が兵舎と弾薬庫の上である。また、幹道の東壁には手洗所が造られた。
猿島砲台は1925年に除籍された。また、現在は砲台跡の見学できない。
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発電所脇を上り幹道入口を望む  幹道入口近く  幹道の様子
   
兵舎  兵舎内部  同左
   
兵舎の天井2階との連絡用伝声管  兵舎の天井ランプ吊下げ用フック  兵舎2階窓
   
弾薬庫  弾薬庫前の手洗所  弾薬庫2
   
弾薬庫2前の手洗所  煉瓦積み工法-フランス積み
(兵舎、トンネルなど)
  煉瓦積み工法-イギリス積み
(手洗い所)
煉瓦工法
・兵舎や弾薬庫、トンネルなど、猿島における要塞の構築物は煉瓦造りである。
幕末以降我が国には、煉瓦積み工法として、ベルギー・フランスを中心とする「フランドル積み」(通称「フランス積み」)と英国の「イギリス積み」が導入された。
最初に導入されたのは、長崎造船所の前身である長崎製鉄所建設に際してであり、現存最古の煉瓦建築として、先般世界遺産に登録された小菅修船場の「曳揚げ小屋」(長崎造船所関連施設)が残されている。
・フランス積みは、一段に長手の煉瓦と小口の煉瓦を交互に積むのに対し、イギリス積みは長手だけの段と小口だけの段を交互に積んでいくものである(上の画像参照)。当初はフランス積みが主流であったが、明治中期以降はイギリス積みにとって代わられた。イギリス積みの方が、コスト、強度の面で優位にあるということのようだが、我が国の対外関係の影響もあろう。
猿島煉瓦構造物は殆どフランス積みで作られている。このほか著名なフランス積みの建築としては、富岡製糸場がある。この設計は、横須賀製鉄所の設計に関わったフランス人技術者が行った。

(トンネル)
 切通しの先には島の北側へ抜けるトンネルが築造されている。このトンネルは、幅4m、全長約90mのアーチ式のフランス積み煉瓦構造物で、トンネル内西壁に開口部を設け、2階構造になっている。また、内部に傾斜を付けて見通しづらくしている。
通称「愛のトンネル」と、何か場違いなネーミングだが、随分前からの呼称だそうだ。カップル客が結構多かったのはこのせいかもしれない。
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トンネル入口  入口上部  トンネル内部(入口から)
   
西壁開口部の階段  トンネル内部から入口を望む  出口付近から見たトンネル内部

(トンネル出口周辺)
 トンネルを出ると、右側は切通しになっており、前方に東側へのトンネルの入口が見える。この切通しの左地上に第1砲台があり、右側の施設はその関連施設とみられている。
トンネル出口の左前方に弾薬庫の入口がある。
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トンネル出口  出口右の砲台関連施設と
東側へのトンネル入口
  出口左前方弾薬庫入口
   
弾薬庫進入路  弾薬庫内部  入口の反対側の外から弾薬庫を望む

(台場跡)
 江戸幕府は江戸湾の防備のため、1847年に猿島島内3ヶ所に台場を構築し、川越藩に防備の任に当たらせた。そのうち、島の北東端の斜面に置かれたのが、卯の崎台場で、浦賀水道に向け、大砲3門が据えられていた。冒頭の配置図の「広場」が、その場所であり、現在は岩場の上に突き出した東京湾を望む平坦な広場になっている。対岸房総半島の君津製鉄所や横浜港を望むことができる。
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卯の崎台場跡の広場  同左  横須賀市走水方面を望む(東京湾
海上交通センターの塔が見える)
   
台場跡からの展望
浦賀水道を航行するLPG船
  同左
対岸の君津製鉄所
  同左
横浜本牧埠頭とベイブリッジ

(砲台跡と所感)
・島内数か所には、第二次世界大戦時の高角砲座が残されている(所管は海軍、陸軍の呼称では高射砲)。
冒頭の配置図に記号で示した。これらのうち、Dが127ミリ砲の砲座跡で、これ以外は80ミリ砲だった。127ミリ砲は1945年に配備されたもので、横須賀空襲(7月18日)で使われたが、敵機には命中しなかったようだ。それ以外は実戦で使用されることはなかった。
・結局、猿島は幕末の台場の時代から、太平洋戦争末期まで、全く出番がなかったと言ってよいわけで、出番がなかったからこそ、我々に明治時代の煉瓦構造物が残され、また第二次世界大戦の砲台遺跡などにより、昔戦争の時代があったことを心に留める材料を提供してくれていると考えるべきであろう。「愛のトンネル」を通るカップルが心に留めているかどうかは知らないが。
軍人の中には、太平洋戦争においてこの要塞で戦うことを本気で考えていた者もいたかもしれないが、そうなったら猿島の施設は全部破壊され、火炎放射器で焼き尽くされ、土の山が露出した丸裸の島になっていたに違いない。沖縄戦を見れば明らかである。沖縄の戦場がまさにそうだったのである。沖縄戦は本当に胸が痛む。
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砲台跡 A  砲台跡 B
崖下に「日蓮洞窟」がある(注)。
  砲台跡 C
(注)日蓮上人が海路で房総小湊から鎌倉へ向かっていた際、白猿が現れてここへ案内した、という猿島の起源に関する伝説に基づく。実際は、古代の住居跡。

砲台跡 D
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 東京湾要塞の海堡
・明治中期からから大正にかけて、 東京湾最狭部である千葉県富津岬と横須賀・猿島砲台の間の海上に、海堡かいほうと 呼ばれる海上要塞が3カ所築造された。首都東京防衛のための"東京湾要塞"構築の一環として、東京湾に築造された砲台である。
このうち、第二海堡と第三海堡は1923年9月の関東大震災により被災し、修復されることなく、廃止・除籍された。大砲の技術が進歩し、射程距離が伸びたために必要がなくなったことによる。第一海堡は東京湾要塞の一部として第二次世界大戦の終了時まで運用された。
膨大な費用と年月をかけて築造した海上要塞であるが、陸上の要塞と同様、実際に使われることはなかった。使われることなくて良かったと言うほかない。
(第一海堡)
富津岬先端海上(水深4.6m)
着工1881(明治14)
完成1890(明治23)(建設期間9年)
面積23,000u
(第二海堡)
第一海堡西2,577m(水深12m)
着工1889(明治22)
完成1914(大正3)(建設期間25年)
面積41,000u
(第三海堡)
第二海堡南2611m(水深39m)
着工1892(明治25)
完成1921(大正10)(建設期間29年)
面積26,000u

(面積は、満潮時基礎上部面積)

(第一海堡)
 第一海堡の築造された場所は、富津岬につながる浅瀬で、ここには幕末江川太郎左衛門が砲台の建設を幕府に進言したが(1839(天保10)年)、容れられなかった歴史がある。戦後、連合軍により中央部が破壊処理されたが、現在灯台が設置されている。上陸はできない。
(第二海堡)
 わが国の海洋土木工事についてみると、水深-5mを超える港湾建設は1897(明治30)年着工の小樽港が最初である。海上砲台に関しては、幕末の品川台場にしても、その水深は-1.9mないし-3.5mである。したがって、わが国における海上工事を必要とする人工島建設は第二海堡を嚆矢とすると言える。
また、その技術水準も極めて高いものがあり、海外からも注目されていたようで、工事中の1906(明治39)年には米国陸軍長官からの情報提供の依頼があった。同年日本陸軍は、「日本帝国海堡建築之方法及景況説明書」なる回答を米国陸軍宛てに送付している。日本陸軍の資料は残されていないものの、米国国立公文書館には、"A Detailed report of the methods of construction of the artificial islands in Tokyo Bay"という文書として確認することができ、日本の建設技術が高く評価されているという。
[参考資料]
1 野口隆俊他「近代土木遺構「東京湾第二海堡」の建設技術-国内で初めての海上人工島の建設-」(土木学会論文集D2、2014)
2 国土交通省関東地方整備局 東京湾口航路事務所「富津市富津第二海堡跡調査報告書」(平成26年月)
3 同上のホームページ「三つの海堡」


 第二海堡の場所は、観音崎より6km、富津岬から3.5kmの海上にあり、東京湾へ入る船舶の主要航路である浦賀水道航路の東端に接している(前掲図参照)。
また、形状は、上図の通り左右逆の"へ"の字形になっている。中心部の砲台から西側の左翼長270m、東の右翼長190m、幅約65mで、面積は、41,000uと、三海堡の中で最大の規模であった。また、島の東西にわたり高さ最高15m程度の高台が形成され、地下に掩蔽壕や弾薬庫などが置かれ、地下通路で各砲台が連絡されていた。
主要な装備としては、27センチカノン砲につき、中央部に砲塔1基(2門)、左翼と右翼に隠顕式砲台を各2基ずつ(計4門)配備、15センチカノン砲2門入り塔砲台を左翼先端に1基、中央寄りに3基配置した。(注)
 (注) 1 "15センチカノン砲"の数量および位置については、左翼中央部分に計4基並んでいたという見解があるが(浄法寺朝美「日
     本築城史」)、前掲[参考資料]2では、現状の遺構に照らして、15センチカノン砲の位置について、このような見方をしている。
    2 ここで隠顕式とは、通常は防護壁の中に格納しておき、射撃の際に壕から外へ出して運用するタイプのものである。


なお、関東大震災により当海堡が除籍された後、左翼中央寄り15センチカノン砲3基のうち中央の砲台跡に、西端にあった灯台が移転した。さらに第二次世界大戦中、海軍の高角砲が設置された。また、2008年には"東京大学地震研究所第二海堡観測点"が西側の跡に設置された。
 冒頭で触れたように、第二海堡は関東大震災で被災し、周囲の護岸が崩壊したが、第2次大戦後には連合軍に接収され砲台や煉瓦構造物、護岸などの島内施設が爆破されそのままに放置されたため、外周護岸の崩壊や土砂流出が進み、島全体の規模(陸上面積)も15%程度縮小したという。
 2004年時点での状況は上の図のようであり、とくに浦賀水道航路側の東翼南側の護岸崩壊と土砂流出による水没が大きいことが判然としよう。ただ、現在供用されている桟橋周辺の北側部分は崩壊や浸食が少なく、レンガ壁や護岸が一部ではあるが遺構として残されている。
いずれにせよ、放置すれば大型船舶の往来を妨げる危険があり、2006年度から護岸整備工事が行われている。

 整備工事の進んだ現在の状況は、上図のようになっている。整備工事により、流出した部分が綺麗に復元されているものの、島中央の高台部分は、防空指揮所跡から西側の一部分しか残っていない。一方、東側に関しては、中央部分寄りを1977年から海上保安庁指定の防災機関である"海上災害防止センター"が消防演習場として利用しており、最近では全体がクリアランスしたという感じに平坦化されている。27センチカノン砲の砲台跡も全く分からなくなっている。
 以上の結果、戦後の爆破処理に加え、近年の整備工事により残る陸上施設の遺構も更に少なくなる一方、ソーラーパネルなどにより、島全体の形も変貌している。要塞の遺構としての護岸も大方なくなり、コンクリート巻の姿に変貌しているのが現状である。 

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護岸、北桟橋とその周辺
   
護岸で整備された東側  護岸工事の様子  護岸
   
北側護岸の状況  石造りの北側突堤遺構付近  現在の北桟橋前の護岸(海に面した
石積みの上に古い石積みがあり、そ
れを覆っていたコンクリートが崩壊)
   
北側突堤遺構
(コンクリート中詰めの鋼管係船柱
が見える
  新しい北桟橋と上陸クルーズ船  新桟橋前は、海上災害防止センター
の消防演習場入口
演習場入口前の倉庫らしき建造物
煉瓦はイギリス積み、一部
コンクリート、 屋根はアスファルト
左翼部分の遺構等
   
左翼北側のレンガ積み掩蔽壕擁壁
(延長114mこの上付近に15センチ
カノン砲が据えられていた)
  西側から見た掩蔽壕擁壁(右)と
北側の護岸上
  土砂に埋まった掩蔽壕入口
   
灯台
(手前15センチカノン砲台跡)
  灯台プレート  前方東大地震研観測施設
(15センチカノン砲台跡)
手前は観測所か指揮所跡
   
西側先端、15cmカノン砲砲台、
水中聴音観測所跡、地下に弾薬庫
  同左  要塞間地下通路南側入口の瓦礫
   
崩落した南側の瓦礫の様子
(東大地震研究所の下)
  15センチカノン砲台跡=灯台の南側  ソーラーパネルの南下
(コンクリート擁壁で固めてある)
要塞中心部とその周辺
   
太陽光パネル(灯台の電源)  太陽光パネル下の高角砲座跡
(太平洋戦争中海軍が設置)
  要塞中心部の防空指揮所を望む
   
防空指揮所跡  同左
(崩壊の危険あり上ることは禁止)
  クリアランスされた要塞東翼部
(手前は海上災害防止センター施設)

   
至近距離の航路を航行する
SITCの小型コンテナ船
  東京竹芝・伊豆大島間に就航
している東海汽船のジェットフォイル
  川崎汽船のコンテナ船
QUEZON BRIDGE17,211総屯


・国土交通省(観光庁)は、2020年訪日外国人旅行者数4,000万人等の目標を掲げた「観光ビジョン実現プログラム2018」の中で、「魅力ある公的施設・インフラの大胆な公開・開放」を標榜しており、その一環として、国土交通省(関東地方整備局港湾空港部)、横須賀市などは、2019年8月を目途に第二海堡に上陸できる定期ツアーの実現を目指している。
人口の太宗を占めるに至った戦後生まれの世代のみならず、日本人の多くがかつてこのような施設が東京湾につくられたことを知らないのが実情であろう。その意味で、第二海堡はむしろ日本人向けと言うべく、外国人観光の目的地としては疑問であろう。
「観光ビジョン実現プログラム2018」(観光立国推進閣僚会議、平成30年6月)は、こちらから
 第二海堡上陸ツアーに関しては、2018年9月から3カ月の予定で、民間旅行業者などによるトライアルツアーを実施しており、10月中旬のツアーに参加することができた。因みに、上陸設備が整備されていないことなどから、風速10mを超えるとツアーは中止となり、これまでのところ上陸できたのは半数とのこと。
上陸ツアー実現のためには、何よりも安全確保が欠かせない。その観点に立ち、上陸設備のみならず、要塞内部の見学通路などや案内(説明)設備、サインなどの整備に加えて、ボランティアに依存することになろうが、一定水準以上の説明能力を有する説明スタッフも揃える必要がある。1年以内に、すべての態勢を整えるのは容易でないような気がする。
・ところで、第二海堡を「東の軍艦島」と呼ぶ向きもある(横須賀市ホームページ)。長崎の軍艦島の盛況にあやかりたいのだろう。確かに、高水準の海洋土木技術によるわが国最初の人工島である点は高く評価してよいと思うが、文化遺産と称するには、遺構と言えるようなものは殆ど残っておらず、むしろ廃墟である。人工島としての遺構と言える護岸にしても、新たなコンクリートの護岸で周囲を巻いており、当初の海堡とは似て非なるものになってしまっている。外人観光客にせよ、日本人向けにせよ、文化財としての論理構成は簡単ではないよう窺える。指定遺跡の猿島や千代ケ崎砲台はしっかりとした遺構が保存されており、第二海堡は到底及ぶべくもないと言わざるを得ないのである。ただ、史跡性に欠けるとしても、100年以上前に、このような人工島を完成させた高度の海洋土木技術が、四周を海に囲まれたわが国にとって、貴重な財産となったという意味で大きな意味があることは間違いない。
(第三海堡の遺構)
 第三海堡は、浦賀水道の水深39mと深くかつ激しい潮流の中における難工事で、しばしば高波により破壊されるなど、29年を要する大工事だったが、完成2年後の関東大震災により壊滅的な被害を受け、コンクリート構造物は殆ど海中に転落し、全体の三分の一が水没してしまった。
ただ、大深水に築造された第三海堡の築造技術は、東京湾アクアライン木更津人工島(うみほたる)の先駆的事例とされ、戦後の港湾や人工島築造技術へ至る技術系譜に刻まれるものとされている
戦後は崩壊が進み、暗礁と化してしまい、海難事故が多発した。そのため、撤去工事を計画したものの、海堡跡が格好の漁場になっていたため、漁業関係者の反対に遭い、その了解を得るのに30年を要し、工事が行われたのは2000(平成12)年から2007年にかけてになった。工事は船舶の航行安全のため、水深23mを確保すべく、海中に転落した構造物を引き揚げるとともに海堡の基礎部分を削り取った。

 引き揚げられた構造物は、大兵舎と呼ばれる重量1,200トンの巨大なコンクリート構造物が横須賀市内の"うみかぜ公園"に、探照灯(565トン)、砲台砲側庫(540トン)、観測所(907トン)が、"夏島都市緑地"内において保存・公開されている。
いずれも原形のままではないものの、主要な部分ではあるようだ。80年以上も海中に埋もれていたにしてはよく形をとどめていると言えよう。引き揚げ当初は、錆などによるコンクリートの汚れや、貝殻などの付着物が見られたはずであるが、展示に際しては化粧直しをしており、外観は長い間海中に沈んでいたことを忘れさせてしまう程である。

うみかぜ公園は、横須賀の民生用港湾である新港地区の芝生緑地で、マウンテンバイクやスケートボードなどができるスポーツ広場や釣りを楽しめる親水護岸が設けられている。
第三海堡の大兵舎は、芝生広場の海寄りに展示しているが、やや異様な感じではある。説明のプレートも風雨で劣化しており判読しにくい。フェンスに囲まれ、施錠されているが、管理事務所に頼めば、解錠し、内部も見学することができる。
なお、この地域には、高層住宅、大型商業施設が立地するほか、県立保健大学が置かれており、海辺ニュータウンと呼ばれている。ただし、公共交通機関の便は良くない。京浜急行大学前駅が最寄り駅であるが、同駅から公園までは徒歩20分程度かかる。バスはJR横須賀駅を起終点とする循環バスがあるが、便数が極めて少なく、横須賀市のアクセス情報にも掲載されていない。
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大兵舎正面(2004年引揚げ)
幅29.5m、高さ5m、重量1,205トン
  同左海側からの全景
(海側展望デッキから)
  同左陸側からの全景
   
居室入口用開口部がイギリス積み
の煉瓦造りになっている
  居室内部  居室入口上部
(コンクリートと煉瓦の接合部分)
 
うみかぜ公園親水デッキの様子  公園正面に猿島を望む

夏島都市緑地は、横須賀市北部の追浜地区臨海部の工業地帯にある"緑地"である。この地域の多くの部分を日産自動車追浜工場が占めており、同社の輸出用専用埠頭前の物流ヤードの片隅という感じである。緑地という名称にも拘らず、緑地は殆どなく、東京湾第三海堡遺構展示場の他、市内唯一というドッグラン広場があるだけである。
なお、夏島都市緑地の東側に小高い丘がある。こちらは、その名の通り緑に囲まれた貝山緑地である(後述)。
京浜急行追浜駅からバス6分程度、追浜車庫下車。
第三海堡遺展示場は、月1回、第一日曜日に公開されている。管理事務所が展示場の前に置かれており、パネルや模型による解説のほか、コンクリート構造物と共に引き揚げられた電球ソケットケーブル、関連部品などが展示されている。
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第三海堡展示場管理事務所  同左内部  同左引揚げられた部品類など

(観測所)
   
全景(6カ所あった観測所の一つ)
(砲側庫(弾薬庫)と一体構造のもの)
  通路  通路内部
   
円筒形の観測所部分  観測所入口  弾薬庫内部入口
   
弾薬庫内部  同左  同左砲弾出し入れ用小窓
(砲台砲側庫)
   
全景  内部  同左
   
砲弾出し入れ用小窓  砲弾出し入れ用小窓・外の部分  裏側全景
(探照灯)
   
全景  正面内部
(探照灯移動用レールの跡が残る)
  裏側全景
   
内部の通路  階上への階段  階上から


(貝山緑地)
 貝山緑地を中心とするこの地域は、横須賀海軍航空隊、海軍航空技術廠、追浜飛行場と海軍航空の一大拠点であった場所である。横須賀港一帯が全て海軍施設であり、横須賀が軍都であったことを改めて実感させられる。
 緑地入口から頂上の展望台に至る散策路に沿って「海軍航空発祥碑」、「豫科練誕生之地碑」、「海軍甲種飛行予科練習生鎮魂之碑」が建てられている。
「海軍航空発祥碑」は、1937年に横須賀海軍航空隊が建てたもので、1912(大正元)年11月当地追浜において河野三吉海軍大尉がカーチス式水上機で飛行したのが帝国海軍飛行の嚆矢であると記されている。
予科練関係の碑は二つある。1930(昭和5)年、横須賀海軍航空隊海軍飛行予科練習生(「予科練」)の制度が発足したが、当初の応募資格は高等小学校終了以上であった。その後1937年になり、海軍兵学校と同じ旧制中学終了以上を応募資格とする「甲種」と呼ばれる制度が発足し、それに伴い従前の高等小学校資格のコースは「乙種」と呼ばれるようになった。「豫科練誕生之地碑」(1981年建立)は、予科練全体の鎮魂碑とみられる。
「海軍甲種飛行予科練習生鎮魂之碑」は、1997年に建立された。碑文によれば、甲種練習生は1937年9月の第1期から累計139,720名の青少年が各地の航空隊に入隊し、うち6,778名が大空の果て、海底に散った。(注)
    (注)甲種、乙種の他、1940年には下士官から選抜された丙種、1943年からは乙種生徒のうちで短期養成者の乙-特の制度
    が出来た。それらを含む生徒総数は、241,463名、うち戦死者は18,900名との調査がある(予科練資料館ホームページ)
    同調査によれば、最も犠牲者の多かったのは、丙種で、7,362名中5,454名が戦死したという。


なお、当地の地下には6カ所、延長6kmの海軍航空隊地下壕が確認されているが、現在は立入り禁止(近い将来公開予定)。
(画像はクリックで拡大します)
   
貝山緑地入口  貝山緑地案内図  展望台
   
海軍航空発祥地記念碑  同左案内  豫科練誕生之地碑
海軍甲種飛行予科練習生鎮魂之碑
 貝山緑地の海側、横須賀港に面する一見ホテルのような建物が"リサイクルプラザ<アイクル>"である。「容器包装リサイクル法」に基づく分別収集に対応する国内最大規模の施設だそうだ。

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