(貝山緑地) 貝山緑地を中心とするこの地域は、横須賀海軍航空隊、海軍航空技術廠、追浜飛行場と海軍航空の一大拠点であった場所である。横須賀港一帯が全て海軍施設であり、横須賀が軍都であったことを改めて実感させられる。
緑地入口から頂上の展望台に至る散策路に沿って「海軍航空発祥碑」、「豫科練誕生之地碑」、「海軍甲種飛行予科練習生鎮魂之碑」が建てられている。
「海軍航空発祥碑」は、1937年に横須賀海軍航空隊が建てたもので、1912(大正元)年11月当地追浜において河野三吉海軍大尉がカーチス式水上機で飛行したのが帝国海軍飛行の嚆矢であると記されている。
予科練関係の碑は二つある。1930(昭和5)年、横須賀海軍航空隊海軍飛行予科練習生(「予科練」)の制度が発足したが、当初の応募資格は高等小学校終了以上であった。その後1937年になり、海軍兵学校と同じ旧制中学終了以上を応募資格とする「甲種」と呼ばれる制度が発足し、それに伴い従前の高等小学校資格のコースは「乙種」と呼ばれるようになった。「豫科練誕生之地碑」(1981年建立)は、予科練全体の鎮魂碑とみられる。 「海軍甲種飛行予科練習生鎮魂之碑」は、1997年に建立された。碑文によれば、甲種練習生は1937年9月の第1期から累計139,720名の青少年が各地の航空隊に入隊し、うち6,778名が大空の果て、海底に散った。(注)
(注)甲種、乙種の他、1940年には下士官から選抜された丙種、1943年からは乙種生徒のうちで短期養成者の乙-特の制度 が出来た。それらを含む生徒総数は、241,463名、うち戦死者は18,900名との調査がある(予科練資料館ホームページ) 同調査によれば、最も犠牲者の多かったのは、丙種で、7,362名中5,454名が戦死したという。
なお、当地の地下には6カ所、延長6kmの海軍航空隊地下壕が確認されているが、現在は立入り禁止(近い将来公開予定)。
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