猿 島





(東京湾要塞)
 東京湾要塞は、1880年から建設が始められ、横須賀軍港、三浦半島及び対岸の房総半島に砲台群が、また東京湾の海上に三カ所の海堡が配置された。下図がその配置図である。



 猿島探訪
・猿島は、横須賀沖1.7kmにある小さな無人島で、東京湾に浮かぶ唯一の島である(東西約200m、南北約450m、周囲約1. 6km)。
江戸幕府は江戸防衛の拠点として、幕末の1847(弘化4)年、この島に3ヶ所の台場を築造した。
明治に入ると陸軍は、首都防衛のため東京湾一帯に"東京湾要塞"を築造することとし、1880年に観音崎要塞を着工、次いで1881年猿島の要塞化に着手し、いずれも1884年に完成した。このため、1881(明治14)年から1945年まで民間人は猿島への立ち入りを禁じられていた。
 猿島は現在も国有地であり、横須賀市が国からの管理委託により、「猿島公園」として整備・運営している。夏期の海水浴利用が中心だが、釣り客や海岸でのバーベキュー、旧日本軍の要塞巡りなどで年間を通して観光客が訪れている。最近は、「無人島探検」などと銘打ち、横須賀軍港めぐり、記念艦三笠とセットにした都内からの日帰りバスツアーも行われている。
猿島の要塞跡は、東京湾要塞の中でも保存状態が良く、西浦賀の千代ヶ崎砲台とともに2015年3月に国の史跡に指定された。
・猿島へは、三笠公園隅の三笠桟橋から1時間ごとに定期船が出ており、10分で到着する(詳しくはこちら)。
島内は自由に見学可能であるが、日本軍要塞跡のうち兵舎や弾薬庫は施錠されている。ただ、「猿島公園専門ガイド協会」によるガイドツアーが行われており(所要60〜90分)、このガイドを申し込めば閉鎖施設も見学可能である。
今回は偶々2015年10、11月の週末に限って行われていた、要塞跡中心のガイドツアー(45分、1日2回)に参加した。

(猿島桟橋と周辺)
 猿島は島全体が自然林に覆われており、周囲は殆ど岩場である。船舶が接岸可能な場所がないため、島の南側(上掲地図では右端)の砂浜から海上に歩道を設置し、その先にドルフィン桟橋を設けているが、外洋に面しているため、強風で波が高くなると使用できなくなる。横須賀港内部の軍港巡りが運行しているときでも、こちらは欠航になることがある。毎朝更新されるホームページで確認するとよい。
砂浜は現在の形状からして、人工的に造られた部分が多いように窺われる。この砂浜が海水浴やバーベキューの場所となっており、その山側に、レストハウスと管理棟が設置されている。レストハウスにはレンタルショップ(バーベキュー用品)、売店、海の家などの店舗が入っており、2階は自由に休むことができる広いテラス(ボードデッキ)になっている。
 管理棟3階に隣接した煙突のある建物は1895年に建てられた石炭焚きの発電所である。レンガ造だったが、現在は表面をモルタル塗りにしてある。現在もジーゼルエンジンで発電している。
(写真はクリックで拡大します。)
   
猿島桟橋へ到着したSea Friend号  猿島桟橋  上陸用歩道と砂浜



(写真はクリックで拡大します。)
   
発電所  猿島桟橋前の陸地  桟橋前の崖地の海鵜
(猿島は海鵜の生息地)
   
桟橋からの遠望
みなとみらい
  同左
横浜ランドマークタワー
  同左
追浜住友重機

(猿島の要塞化、砲台、幹道、兵舎・弾薬庫)
 猿島の要塞化は、一般人の立ち入りを禁止して1881年より始められた。
まず外部からは見えないよう、島の東側を切り開き、壁面を石積みにして「幹道」と呼ぶ切通しを造成し(全長300m、幅4.5m、高さ4.5〜9m)、その先にトンネルを、更に幹道の西壁には兵舎、弾薬庫などを掘り込み、地上部に砲台を2ヶ所設置し、1884年に完成した。東京湾要塞を構成する猿島砲台である。砲台の置かれた場所は、第1砲台(27センチ砲2門)が、トンネルを出た先の切通しの上、第2砲台(24センチ砲4門)が兵舎と弾薬庫の上である。また、幹道の東壁には手洗所が造られた。
猿島砲台は1925年に除籍された。また、現在は砲台跡の見学できない。
(写真はクリックで拡大します。)
   
発電所脇を上り幹道入口を望む  幹道入口近く  幹道の様子
   
兵舎  兵舎内部  同左
   
兵舎の天井2階との連絡用伝声管  兵舎の天井ランプ吊下げ用フック  兵舎2階窓
   
弾薬庫  弾薬庫前の手洗所  弾薬庫2
   
弾薬庫2前の手洗所  煉瓦積み工法-フランス積み
(兵舎、トンネルなど)
  煉瓦積み工法-イギリス積み
(手洗い所)
煉瓦工法
・兵舎や弾薬庫、トンネルなど、猿島における要塞の構築物は煉瓦造りである。
幕末以降我が国には、煉瓦積み工法として、ベルギー・フランスを中心とする「フランドル積み」(通称「フランス積み」)と英国の「イギリス積み」が導入された。
最初に導入されたのは、長崎造船所の前身である長崎製鉄所建設に際してであり、現存最古の煉瓦建築として、先般世界遺産に登録された小菅修船場の「曳揚げ小屋」(長崎造船所関連施設)が残されている。
・フランス積みは、一段に長手の煉瓦と小口の煉瓦を交互に積むのに対し、イギリス積みは長手だけの段と小口だけの段を交互に積んでいくものである(上の画像参照)。当初はフランス積みが主流であったが、明治中期以降はイギリス積みにとって代わられた。イギリス積みの方が、コスト、強度の面で優位にあるということのようだが、我が国の対外関係の影響もあろう。
猿島煉瓦構造物は殆どフランス積みで作られている。このほか著名なフランス積みの建築としては、富岡製糸場がある。この設計は、横須賀製鉄所の設計に関わったフランス人技術者が行った。

(トンネル)
 切通しの先には島の北側へ抜けるトンネルが築造されている。このトンネルは、幅4m、全長約90mのアーチ式のフランス積み煉瓦構造物で、トンネル内西壁に開口部を設け、2階構造になっている。また、内部に傾斜を付けて見通しづらくしている。
通称「愛のトンネル」と、何か場違いなネーミングだが、随分前からの呼称だそうだ。カップル客が結構多かったのはこのせいかもしれない。
(写真はクリックで拡大します。)
   
トンネル入口  入口上部  トンネル内部(入口から)
   
西壁開口部の階段  トンネル内部から入口を望む  出口付近から見たトンネル内部

(トンネル出口周辺)
 トンネルを出ると、右側は切通しになっており、前方に東側へのトンネルの入口が見える。この切通しの左地上に第1砲台があり、右側の施設はその関連施設とみられている。
トンネル出口の左前方に弾薬庫の入口がある。
(写真はクリックで拡大します。)
   
トンネル出口  出口右の砲台関連施設と
東側へのトンネル入口
  出口左前方弾薬庫入口
   
弾薬庫進入路  弾薬庫内部  入口の反対側の外から弾薬庫を望む

(台場跡)
 江戸幕府は江戸湾の防備のため、1847年に猿島島内3ヶ所に台場を構築し、川越藩に防備の任に当たらせた。そのうち、島の北東端の斜面に置かれたのが、卯の崎台場で、浦賀水道に向け、大砲3門が据えられていた。冒頭の配置図の「広場」が、その場所であり、現在は岩場の上に突き出した東京湾を望む平坦な広場になっている。対岸房総半島の君津製鉄所や横浜港を望むことができる。
(写真はクリックで拡大します。)
   
卯の崎台場跡の広場  同左  横須賀市走水方面を望む(東京湾
海上交通センターの塔が見える)
   
台場跡からの展望
浦賀水道を航行するLPG船
  同左
対岸の君津製鉄所
  同左
横浜本牧埠頭とベイブリッジ

(砲台跡と所感)
・島内数か所には、第二次世界大戦時の高角砲座が残されている(所管は海軍、陸軍の呼称では高射砲)。
冒頭の配置図に記号で示した。これらのうち、Dが127ミリ砲の砲座跡で、これ以外は80ミリ砲だった。127ミリ砲は1945年に配備されたもので、横須賀空襲(7月18日)で使われたが、敵機には命中しなかったようだ。それ以外は実戦で使用されることはなかった。
・結局、猿島は幕末の台場の時代から、太平洋戦争末期まで、全く出番がなかったと言ってよいわけで、出番がなかったからこそ、我々に明治時代の煉瓦構造物が残され、また第二次世界大戦の砲台遺跡などにより、昔戦争の時代があったことを心に留める材料を提供してくれていると考えるべきであろう。「愛のトンネル」を通るカップルが心に留めているかどうかは知らないが。
軍人の中には、太平洋戦争においてこの要塞で戦うことを本気で考えていた者もいたかもしれないが、そうなったら猿島の施設は全部破壊され、火炎放射器で焼き尽くされ、土の山が露出した丸裸の島になっていたに違いない。沖縄戦を見れば明らかである。沖縄の戦場がまさにそうだったのである。沖縄戦は本当に胸が痛む。
(写真はクリックで拡大します。)
   
砲台跡 A  砲台跡 B
崖下に「日蓮洞窟」がある(注)。
  砲台跡 C
(注)日蓮上人が海路で房総小湊から鎌倉へ向かっていた際、白猿が現れてここへ案内した、という猿島の起源に関する伝説に基づく。実際は、古代の住居跡。

砲台跡 D
▲ページのトップへ