観音崎と東京湾要塞(猿島・走水・千代ケ崎)、海堡


 [ も く じ ]

観音崎の要塞跡、戦没船員の碑と走水低砲台跡、美術館、

 1 東京湾要塞・観音崎砲台跡 2 戦没船員の碑 3 走水低砲台跡 4 横須賀美術館 

猿島探訪

東京湾要塞の海堡

 1 第1海堡 2 第2海堡 3 第3海堡  

千代ケ崎砲台跡

 観音崎の要塞跡、戦没船員の碑と美術館、走水低砲台
・観音崎は、横須賀市南西部の東京湾に突き出た岬で、先端にヴェルニーの設計になる日本最初の洋式灯台「観音埼灯台」が設置されている(旧暦明治2年1月1日<1869.2.11>点灯)。観音崎公園は、この一帯の70haに及ぶ広大な自然公園で、シイやタブを中心とした照葉樹林のなかを散策したり、色々なレクリエーションを体験出来る施設が配置され、横須賀市民の憩いの場になっている。
 この地域には、古くは江戸幕府の命により会津藩が台場を築いていた。明治以降は、首都防衛のため並びに横須賀軍港掩護を目的として東京湾一帯に築いた、"東京湾要塞"の中でも最も重要な、「観音崎砲台」が置かれていた。1975年にその跡地(国有地)を神奈川県が公園として整備したのが観音崎公園である。
 ・公園は、全体として自然林に覆われた丘陵地であるが、大きく二つの部分からなっているようにみえる。
観音埼灯台を含む南東の部分(下の配置図右側)は、東京湾に突き出ており、海に向かって砲台が設置された。現在は、海岸沿いにレストハウス、自然博物館、駐車場、バーベキューエリアなどを置き、内陸は基本的には自然林のままで、その中に東京湾海上交通センター(注)、戦没船員の碑、見晴らし台などの施設を配している、散策中心のエリアと言える。
(注)東京湾の航行情報提供および航行管制を行う海上保安庁の組織
一方、公園北側(配置図左側)は海岸からは距離がある地域で、アスレチック場や花の広場、果実の森などが配置され、レクリェーション、憩いの場といった趣である。また、東京湾側を切り開いたとみられる斜面に美術館がある。


1 東京湾要塞・観音崎砲台跡
 東京湾要塞は、1880年から建設が始められ、横須賀軍港、三浦半島及び対岸の房総半島に砲台群が、また東京湾の海上に三カ所の海堡が配置された。下図がその配置図である。

そのうち、観音崎砲台では、3ヶ所の砲台が、猿島砲台とともに1884年に完成している。1895年完成の千代ケ崎砲台(後述)を含む東京湾要塞は、この当時アジア最強の艦隊とされていた清国北洋艦隊、そして南への強い領土意欲をみせるロシアの艦隊を意識したものであろう。
関東大震災の後、これらの砲台は、一部を除き1925年までに廃止・除籍された。射程距離の増大等の大砲技術の向上に加え、航空機の時代を迎え時代遅れになってしまったことにより、その後の軍拡政策の中でも、これらの砲台が復活することはなかった。
 観音崎バス停近くの標識に従って登り、東京湾海上交通センターの前の坂を上ると、観音崎第二砲台がある。また、海上交通センター前から起伏の多い細い散策道を行くと、観音埼灯台の横を通り、第一砲台に着く。両砲台間の距離は300m程度である。
(写真はクリックで拡大します。)
観音崎バス停近くの海岸  東京湾海上交通センターへの登り口  東京湾海上交通センター
観音崎バス停近くの海岸  東京湾海上交通センターへの登り口  東京湾海上交通センター
観音崎第一砲台(配置図A)は、1880年に着工し、1884年に完成した、我が国洋式要塞の第一号とされている。中心の横墻(おうしょう)を挟んで、24センチ砲2門を扇型に配置していた。1915年に除籍された。
向かって右側の砲台跡  向かって左側の砲台跡  左右の砲台をトンネルで結ぶ横墻
向かって右側の砲台跡  向かって左側の砲台跡  左右の砲台をトンネルで結ぶ横墻
横墻  明治前半の工法を示す<br>フランス積みの煉瓦(トンネル上部)
横墻  明治前半の工法を示す
フランス積みの煉瓦(トンネル上部)
第二砲台(配置図B)は第一砲台と略同時期に築造され、24センチ砲6門を配置した。うち左側3門の跡は、現在の東京湾海上交通センターの敷地になっており、右側3門の砲台が現存している。1925年に除籍された。
砲台跡その1  砲台跡その1  砲台跡その2
砲台跡その1  同左・金網部分は地下壕入口  砲台跡その2
砲台跡その3  弾薬庫  第二砲台と灯台の間の散策道の様子
砲台跡その3  弾薬庫  第二砲台と灯台間の散策道の様子
第三砲台(配置図C)は1882年に着工、1884年に完成し、1925年に除籍された。28センチ砲4門を配置していたが、現存しているのは1門のみで、他は海の見晴らし台になっている。場所は、第二砲台跡から散策路を花の広場方面へ向かう途中からトンネルで結ばれた先である。
 以上の砲台の煉瓦積み工法は、何れもいわゆるフランス積みである。
第三砲台へ通じるトンネル  トンネル内部(出口から)  トンネル内部フランス積みの煉瓦
第三砲台へ通じるトンネル  トンネル内部(出口から)  トンネル内部フランス積みの煉瓦
第三砲台入口  第三砲台内部)  海の見晴らし台
第三砲台入口  第三砲台内部  海の見晴らし台
三軒家砲台(配置図D)は1894年着工し、1895年に完成した。現在の美術館南東の高台に位置し、東京湾の内側に向けられ、27センチ砲4門、12センチ砲2門を配置した。砲台間の地下に弾薬庫(軍事用語で掩蔽部と称した)をつくり、両側から階段で繋ぐ構造になっている。1934年に除籍。
保存状態が良好で、原型に近い形で保存されている。ただし、奥に配置されていた12センチ砲の砲台跡は立ち入り禁止になっている。
この時期になると、煉瓦はイギリス積みである。
砲台に近接した広場は、三軒家園地として整備されている。
三軒家砲台へ向かう路上の門柱跡  倉庫跡か  案内板
三軒家砲台へ向かう路上の門柱跡  倉庫跡か  案内板
手前の27センチ砲台  砲台間を地下で繋ぐ階段と弾薬庫入口  砲台間の弾薬庫上部
手前の27センチ砲台  砲台間を地下で繋ぐ階段と右弾薬庫  砲台間の弾薬庫上部
奥の27センチ砲台その1  奥の27センチ砲台の弾薬庫入口  奥の手前の27センチ砲台その2
奥の27センチ砲台その1  奥の27センチ砲台の弾薬庫入口  奥の27センチ砲台その2
27センチ砲台と12センチ砲台の間の観測所跡  イギリス積みの弾薬庫煉瓦  三軒家園地
27センチ砲台と12センチ砲台の間の
観測所跡
  イギリス積みの弾薬庫煉瓦  三軒家園地
水中聴測所(配置図F)は、1937年に観音崎の東端の海上に造られた、敵潜水艦を探知するための施設である。
浦賀方面から観音崎に差し掛かると、たたら浜という海岸があり、その先の観音崎自然博物館などを過ぎると海上自衛隊観音崎警備所になる。聴測所はその施設の敷地沖になるので近づくことはできない。陸地と桟橋でつながれていたが、海上の構築物が残っている。ここには、第4砲台が置かれており、遺構もあるようだ。
水中聴測所の南に隣接して「南門砲台」が置かれていたが、現在は「展望園地」になっている。また、たたら浜の上にトーチカが残っている。
水中聴測所  展望園地(南門砲台跡)  たたら浜
水中聴測所(展望園地下の岩場より)  展望園地(南門砲台跡、右側が海))  たたら浜
(奥の建物が観音崎自然博物館)
トーチカ跡  戦没船員の碑を望む
トーチカ跡  たたら浜園地から
戦没船員の碑を望む
2 戦没船員の碑(配置図E)
 主として太平洋戦争中における、陸・海軍徴用船舶並びに船舶運営会により統制下にあった民間船舶に配乗し、犠牲になった非戦闘員の船員計6万人余を祀る慰霊碑で、1971年に建立された。毎年5月に戦没・殉職船員追悼式が行われている。
戦没者の内訳は、陸海軍の徴用船舶配乗者が44.3千人で、73%を占める。また、年齢別にみると、輸送要員とはいえ、防衛召集年齢に達しない17才未満の少年が7千人以上もいることに驚かされる。(日本殉職船員顕彰会ホームページによる)。
 場所は標高63mの、観音崎で最も高いと目される旧大浦保塁の跡地である(敷地4,300u)。 高さ24mの白磁の大碑壁下に海を展望する祭場(祈りの広場)があり、先端に碑文石と献花台を設えている。碑文は、 
 「安らかにねむれ わが友よ 波静かなれ とこしえに」
追悼式には、天皇皇后両陛下が2015年を含め度々出席されている(注)
広場脇の両陛下のお歌。
  戦日(いくさび)に逝きし船人を悼む碑の彼方に見ゆる海平らけし(1992年 天皇陛下)
  かく濡れて遺族らと祈る更にさらにひたぬれて君ら逝き給ひしか (1971年皇后陛下)

(注)追記:2015年12月の天皇誕生日に際しての記者会見でも戦没船員について言及があった。
当該部分の全文は下記の通り。
「軍人以外に戦争によって生命にかかわる大きな犠牲を払った人々として、民間の船の船員があります。将来は外国航路の船員になることも夢見た人々が、民間の船を徴用して軍人や軍用物資などをのせる輸送船の船員として働き、敵の攻撃によって命を失いました。日本は海に囲まれ、海運国として発展していました。私も小さい時、船の絵葉書を見て楽しんだことがありますが、それらの船は、病院船として残った氷川丸以外は、ほとんど海に沈んだということを後に知りました。制空権がなく、輸送船を守るべき軍艦などもない状況下でも、輸送業務に携わらなければならなかった船員の気持ちを本当に痛ましく思います。今年の6月には第45回戦没・殉職船員追悼式が神奈川県の戦没船員の碑の前で行われ、亡くなった船員のことを思い、供花しました。」
戦没船員の碑入口の碑  戦没船員の碑全景  戦没船員の碑全景
戦没船員の碑入口の碑  戦没船員の碑全景  同左
船員像、人魚像各2体のブロンズ像<群像>  海を展望する祭場先端の碑文石と献花台  天皇皇后両陛下の歌碑
船員像、人魚像各2体の
ブロンズ像<群像>
  海を展望する祭場先端の
碑文石と献花台
  天皇皇后両陛下の歌碑
 大浦保塁は、1895年に着工、1896年に完成し、1925年に除籍された。9センチ砲2門を配備していた。 遺構としては、戦没船員碑の芝生広場の隅にイギリス積みの煉瓦構築物の一部が残っている。

なお、戦没船員碑へのアクセスについて、案内図によれば観音崎バス停先の階段のある道を登るのが最も近いように見えるが、この道は自然道に近く足場が悪いため、非常に歩きづらい。雨の後などは危険である。メインのルートは、自然博物館側からのようだ。
芝生広場の練習船進徳丸の錨  大浦保塁の遺構
芝生広場の練習船進徳丸の錨  大浦保塁の遺構

3 走水低砲台跡
 観音崎の横須賀寄りの走水湾(漁港)から海に突き出した旗山崎という小さな岬がある。 旗山崎の名前は、日本武尊が東征の際に御旗を立て、ここに御所を構えたという伝説に由来しており、この岬全体が「御所ヶ崎」と呼ばれている。
この地域は、東京湾が最も狭まる場所であることから、東京湾防備の重要地として、幕末には猿島砲台(1847年)より早い時期に「旗山台場」が置かれ(1843年)、明治時代には東京湾要塞の一つとして「走水低砲台」が築造された。場所は、冒頭の東京湾要塞砲台配置図参照。
走水低砲台は、観音崎、猿島の砲台が完成した翌1885年に着工、1886年に完成し、27cmカノン砲4門が備えられた。レンガ積みは、猿島同様フランス積みである。猿島や千代ケ崎の砲台に比べると、規模が小さく全体として簡易な造りという印象だ。他の砲台同様実戦で使用されることなく、1934年に除籍されたが、砲門は備えたままで1945年を迎えた。保存状態は良好であったものの、公開されることはなかったが、近年の軍事遺構を観光資源化しようという動きに対応してであろう、砲台を覆っていた土砂を取り除くなどの整備を行った上、2016年5月より公開された。
なお、当砲台は当初走水砲台と呼ばれていたが、その後背後地にも砲台が造られ、走水高砲台と称されたことから、1897年に現在名に改称した。高砲台は、現在の防衛大構内にあり、遺構は殆ど残っていないという。

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(砲台跡の周辺と砲座等の遺構)
   
走水湾と旗山崎(走水神社境内より)  旗山崎公園  旗山崎公園から砲台への入口
   
第1砲座  同左(台座跡とカノン砲を取り付けて
いたボルト)
  同左
(胸牆=防護壁の上から)
   
幕末の旗山崎台場跡  同左からの第二海堡遠望  台場跡付近の速射砲台座跡
   
第4砲座  同左(台座跡)  左翼観察所跡


(弾薬庫等)
   
左翼(第3、4砲座)弾薬庫  左翼弾薬庫内部(正面)  左翼弾薬庫出入口から
(奥に左右収納室の入口が見える)


   
左翼弾薬庫内部(正面)  同左収納室入口  同左収納室内部
   
左翼弾薬庫内部(前室通路)  同左  同左揚弾井
   
兵舎出入口  兵舎内部  同左
   
右翼(第1、2砲座)弾薬庫  同左出入口から  同左収納室入口
   
右翼弾薬庫前室通路)  同左収納庫内部  同左揚弾井

4 横須賀美術館
横須賀美術館は、横須賀市が2007年に、県立観音崎公園の一角に開設した新しい美術館である。
 美術館の所蔵作品は、1985年から収集を始めた横須賀市の海を描いた作品、横須賀・三浦半島ゆかりの作家の作品が中心となっている。この間1998年には横須賀市内にアトリエを構えていた谷内六郎が1956年以来週刊新潮の表紙絵として描いた作品1300余点の寄贈があり、美術館とは別に谷内六郎館を設けて展示している。
美術館の建物はガラス張り(塩害を防ぐためという)の斬新なもので、常設展示室を地下に置くことにより、低層に抑えており、周辺の環境にうまく溶け込んでいる。建物の前面は、広々とした芝生の庭で、その向こうに東京湾を望む眺望は大変素晴らしい。また、屋上は、ガラス張りのユニークな作りで、展望広場になっており、一般に開放されている。三軒家砲台から下りて来ると屋上につながっている。
民間団体が、「絶景美術館」なるランキングを発表しているが、当館は全国450館中5位に位置付けられている。因みに第1位は海外でも夙に評価の高い足立美術館(島根県安来市)であり、神奈川県内では箱根の成川美術館が第4位となっている。
(写真はクリックで拡大します。)
横須賀美術館正面入り口   フロント   屋上広場
横須賀美術館正面入り口  フロント  屋上広場 
屋上広場  屋上ペントハウス・恋人の聖地認定証   谷内六郎館を望む
屋上広場  屋上ペントハウス内部
"恋人の聖地認定証"
  谷内六郎館を望む 
谷内六郎館入口  谷内六郎館中庭   レストラン
谷内六郎館入口  谷内六郎館中庭  レストラン"アクアマーレ 
アクアマーレ・テラス席  東京湾を望む   対岸の君津製鉄所
アクアマーレ・テラス席  東京湾を望む  高炉が見える対岸君津製鉄所遠望
 
・この美術館の所蔵作品は、今のところ市外から多くの来訪者を期待できるレベルとは言い難い。また、立地点は、市の中心部からバスで30分程度を要し、多くの市民にとって利便性に難がある。公立の美術館は、市民施設として文化活動の一翼を担う役割があると考えると、この立地は理解し難い。
いずれにせよ、ローカル美術館として、現代作家の発掘などで特徴を出していくといった方向なのかもしれないが、事業として採算が期待できるとは考えづらい。現に毎年3億円以上の支出超過(赤字)になっているらしい。前途多難な感じがする。
 文化施設が皆黒字を出す必要はないとしても、横須賀市としてどの程度が市民負担の許容範囲なのか、よく見極める必要があろう。いわゆるハコモノ行政のつけ、といったことにならなければよいが。
・市としてはここに建設した以上とにかく来館者を増やす必要があり、観光という切り口を強調し、その増加を図るべく、公立の美術館としては異例の、観光スポットとしてのPRをホームページに掲載している(注)
確かに、観音崎は、三浦半島の有力な観光スポットの一つであるし、広々とした芝生の前庭と東京湾の展望が絶景と評価されるロケーションは強みであろう。デート・スポットとしても人気になっているようだ。加えて、美術館前面のガラス張りのスペースのイタリアン・レストラン「アクアマーレ(ACQUAMARE)」も評判で、観光客などにも格好の食事処として人気になっているという。週末など待ち時間1時間以上とのことである。
 (注)記述の一部
  「アートと自然環境を一体化した横須賀美術館はデートにおすすめです! 建物の中にいても常にまわりの自然を感じることができる開放的な美術館。 アート&リゾート気分で1日ゆったりと2人で過ごしてみませんか。2010年秋には、横須賀美術館で初めてのウェディングを行いました。」

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 猿島探訪
・猿島は、横須賀沖1.7kmにある小さな無人島で、東京湾に浮かぶ唯一の島である(東西約200m、南北約450m、周囲約1. 6km)。
江戸幕府は江戸防衛の拠点として、幕末の1847(弘化4)年、この島に3ヶ所の台場を築造した。
明治に入ると陸軍は、首都防衛のため東京湾一帯に"東京湾要塞"を築造することとし、1880年に観音崎要塞を着工、次いで1881年猿島の要塞化に着手し、いずれも1884年に完成した。このため、1881(明治14)年から1945年まで民間人は猿島への立ち入りを禁じられていた。
 猿島は現在も国有地であり、横須賀市が国からの管理委託により、「猿島公園」として整備・運営している。夏期の海水浴利用が中心だが、釣り客や海岸でのバーベキュー、旧日本軍の要塞巡りなどで年間を通して観光客が訪れている。最近は、「無人島探検」などと銘打ち、横須賀軍港めぐり、記念艦三笠とセットにした都内からの日帰りバスツアーも行われている。
猿島の要塞跡は、東京湾要塞の中でも保存状態が良く、西浦賀の千代ヶ崎砲台とともに2015年3月に国の史跡に指定された。
・猿島へは、三笠公園隅の三笠桟橋から1時間ごとに定期船が出ており、10分で到着する(詳しくはこちら)。
島内は自由に見学可能であるが、日本軍要塞跡のうち兵舎や弾薬庫は施錠されている。ただ、「猿島公園専門ガイド協会」によるガイドツアーが行われており(所要60〜90分)、このガイドを申し込めば閉鎖施設も見学可能である。
今回は偶々2015年10、11月の週末に限って行われていた、要塞跡中心のガイドツアー(45分、1日2回)に参加した。

(猿島桟橋と周辺)
 猿島は島全体が自然林に覆われており、周囲は殆ど岩場である。船舶が接岸可能な場所がないため、島の南側(上掲地図では右端)の砂浜から海上に歩道を設置し、その先にドルフィン桟橋を設けているが、外洋に面しているため、強風で波が高くなると使用できなくなる。横須賀港内部の軍港巡りが運行しているときでも、こちらは欠航になることがある。毎朝更新されるホームページで確認するとよい。
砂浜は現在の形状からして、人工的に造られた部分が多いように窺われる。この砂浜が海水浴やバーベキューの場所となっており、その山側に、レストハウスと管理棟が設置されている。レストハウスにはレンタルショップ(バーベキュー用品)、売店、海の家などの店舗が入っており、2階は自由に休むことができる広いテラス(ボードデッキ)になっている。
 管理棟3階に隣接した煙突のある建物は1895年に建てられた石炭焚きの発電所である。レンガ造だったが、現在は表面をモルタル塗りにしてある。現在もジーゼルエンジンで発電している。
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猿島桟橋へ到着したSea Friend号  猿島桟橋  上陸用歩道と砂浜



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発電所  猿島桟橋前の陸地  桟橋前の崖地の海鵜
(猿島は海鵜の生息地)
   
桟橋からの遠望
みなとみらい
  同左
横浜ランドマークタワー
  同左
追浜住友重機

(猿島の要塞化、砲台、幹道、兵舎・弾薬庫)
 猿島の要塞化は、一般人の立ち入りを禁止して1881年より始められた。
まず外部からは見えないよう、島の東側を切り開き、壁面を石積みにして「幹道」と呼ぶ切通しを造成し(全長300m、幅4.5m、高さ4.5〜9m)、その先にトンネルを、更に幹道の西壁には兵舎、弾薬庫などを掘り込み、地上部に砲台を2ヶ所設置し、1884年に完成した。東京湾要塞を構成する猿島砲台である。砲台の置かれた場所は、第1砲台(27センチ砲2門)が、トンネルを出た先の切通しの上、第2砲台(24センチ砲4門)が兵舎と弾薬庫の上である。また、幹道の東壁には手洗所が造られた。
猿島砲台は1925年に除籍された。また、現在は砲台跡の見学できない。
(写真はクリックで拡大します。)
   
発電所脇を上り幹道入口を望む  幹道入口近く  幹道の様子
   
兵舎  兵舎内部  同左
   
兵舎の天井2階との連絡用伝声管  兵舎の天井ランプ吊下げ用フック  兵舎2階窓
   
弾薬庫  弾薬庫前の手洗所  弾薬庫2
   
弾薬庫2前の手洗所  煉瓦積み工法-フランス積み
(兵舎、トンネルなど)
  煉瓦積み工法-イギリス積み
(手洗い所)
煉瓦工法
・兵舎や弾薬庫、トンネルなど、猿島における要塞の構築物は煉瓦造りである。
幕末以降我が国には、煉瓦積み工法として、ベルギー・フランスを中心とする「フランドル積み」(通称「フランス積み」)と英国の「イギリス積み」が導入された。
最初に導入されたのはフランス積みで、長崎造船所の前身である長崎製鉄所建設に際してであり、現存最古の煉瓦建築として、先般世界遺産に登録された小菅修船場の「曳揚げ小屋」(1869築、長崎造船所関連施設)が残されている。
・フランス積みは、一段に長手の煉瓦と小口の煉瓦を交互に積むのに対し、イギリス積みは長手だけの段と小口だけの段を交互に積んでいくものである(上の画像参照)。当初はフランス積みが主流であったが、明治中期(20年辺り)以降はイギリス積みにとって代わられた。イギリス積みの方が、コスト、強度の面で優位にあるということのようだ。
猿島煉瓦構造物は殆どフランス積みで作られている。このほか著名なフランス積みの建築としては、富岡製糸場がある。この設計は、横須賀製鉄所の設計に関わったフランス人技術者が行った。

(トンネル)
 切通しの先には島の北側へ抜けるトンネルが築造されている。このトンネルは、幅4m、全長約90mのアーチ式のフランス積み煉瓦構造物で、トンネル内西壁に開口部を設け、2階構造になっている。また、内部に傾斜を付けて見通しづらくしている。
通称「愛のトンネル」と、何か場違いなネーミングだが、随分前からの呼称だそうだ。カップル客が結構多かったのはこのせいかもしれない。
(写真はクリックで拡大します。)
   
トンネル入口  入口上部  トンネル内部(入口から)
   
西壁開口部の階段  トンネル内部から入口を望む  出口付近から見たトンネル内部

(トンネル出口周辺)
 トンネルを出ると、右側は切通しになっており、前方に東側へのトンネルの入口が見える。この切通しの左地上に第1砲台があり、右側の施設はその関連施設とみられている。
トンネル出口の左前方に弾薬庫の入口がある。
(写真はクリックで拡大します。)
   
トンネル出口  出口右の砲台関連施設と
東側へのトンネル入口
  出口左前方弾薬庫入口
   
弾薬庫進入路  弾薬庫内部  入口の反対側の外から弾薬庫を望む

(台場跡)
 江戸幕府は江戸湾の防備のため、1847年に猿島島内3ヶ所に台場を構築し、川越藩に防備の任に当たらせた。そのうち、島の北東端の斜面に置かれたのが、卯の崎台場で、浦賀水道に向け、大砲3門が据えられていた。冒頭の配置図の「広場」が、その場所であり、現在は岩場の上に突き出した東京湾を望む平坦な広場になっている。対岸房総半島の君津製鉄所や横浜港を望むことができる。
(写真はクリックで拡大します。)
   
卯の崎台場跡の広場  同左  横須賀市走水方面を望む(東京湾
海上交通センターの塔が見える)
   
台場跡からの展望
浦賀水道を航行するLPG船
  同左
対岸の君津製鉄所
  同左
横浜本牧埠頭とベイブリッジ

(砲台跡と所感)
・島内数か所には、第二次世界大戦時の高角砲座が残されている(所管は海軍、陸軍の呼称では高射砲)。
冒頭の配置図に記号で示した。これらのうち、Dが127ミリ砲の砲座跡で、これ以外は80ミリ砲だった。127ミリ砲は1945年に配備されたもので、横須賀空襲(7月18日)で使われたが、敵機には命中しなかったようだ。それ以外は実戦で使用されることはなかった。
・結局、猿島は幕末の台場の時代から、太平洋戦争末期まで、全く出番がなかったと言ってよいわけで、出番がなかったからこそ、我々に明治時代の煉瓦構造物が残され、また第二次世界大戦の砲台遺跡などにより、昔戦争の時代があったことを心に留める材料を提供してくれていると考えるべきであろう。「愛のトンネル」を通るカップルが心に留めているかどうかは知らないが。
軍人の中には、太平洋戦争においてこの要塞で戦うことを本気で考えていた者もいたかもしれないが、そうなったら猿島の施設は全部破壊され、火炎放射器で焼き尽くされ、土の山が露出した丸裸の島になっていたに違いない。沖縄戦を見れば明らかである。沖縄の戦場がまさにそうだったのである。沖縄戦は本当に胸が痛む。
(写真はクリックで拡大します。)
   
砲台跡 A  砲台跡 B
崖下に「日蓮洞窟」がある(注)。
  砲台跡 C
(注)日蓮上人が海路で房総小湊から鎌倉へ向かっていた際、白猿が現れてここへ案内した、という猿島の起源に関する伝説に基づく。実際は、古代の住居跡。

砲台跡 D
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 東京湾要塞の海堡
・明治中期からから大正にかけて、 東京湾最狭部である千葉県富津岬と横須賀・猿島砲台の間の海上に、海堡かいほうと 呼ばれる海上要塞が3カ所築造された。首都東京防衛のための"東京湾要塞"構築の一環として、東京湾に築造された砲台である。
このうち、第二海堡と第三海堡は1923年9月の関東大震災により被災し、修復されることなく、廃止・除籍された。大砲の技術が進歩し、射程距離が伸びたために必要がなくなったことによる。第一海堡は東京湾要塞の一部として第二次世界大戦の終了時まで運用された。
膨大な費用と年月をかけて築造した海上要塞であるが、陸上の要塞と同様、実際に使われることはなかった。使われることなくて良かったと言うほかない。
(第一海堡)
富津岬先端海上(水深4.6m)
着工1881(明治14)
完成1890(明治23)(建設期間9年)
面積23,000u
(第二海堡)
第一海堡西2,577m(水深12m)
着工1889(明治22)
完成1914(大正3)(建設期間25年)
面積41,000u
(第三海堡)
第二海堡南2611m(水深39m)
着工1892(明治25)
完成1921(大正10)(建設期間29年)
面積26,000u

(面積は、満潮時基礎上部面積)

(第一海堡)
 第一海堡の築造された場所は、富津岬につながる浅瀬で、ここには幕末江川太郎左衛門が砲台の建設を幕府に進言したが(1839(天保10)年)、容れられなかった歴史がある。戦後、連合軍により中央部が破壊処理されたが、現在灯台が設置されている。上陸はできない。
(第二海堡)
 わが国の海洋土木工事についてみると、水深-5mを超える港湾建設は1897(明治30)年着工の小樽港が最初である。海上砲台に関しては、幕末の品川台場にしても、その水深は-1.9mないし-3.5mである。したがって、わが国における海上工事を必要とする人工島建設は第二海堡を嚆矢とすると言える。
また、その技術水準も極めて高いものがあり、海外からも注目されていたようで、工事中の1906(明治39)年には米国陸軍長官からの情報提供の依頼があった。同年日本陸軍は、「日本帝国海堡建築之方法及景況説明書」なる回答を米国陸軍宛てに送付している。日本陸軍の資料は残されていないものの、米国国立公文書館には、"A Detailed report of the methods of construction of the artificial islands in Tokyo Bay"という文書として確認することができ、日本の建設技術が高く評価されているという。
[参考資料]
1 野口隆俊他「近代土木遺構「東京湾第二海堡」の建設技術-国内で初めての海上人工島の建設-」(土木学会論文集D2、2014)
2 国土交通省関東地方整備局 東京湾口航路事務所「富津市富津第二海堡跡調査報告書」(平成26年月)
3 同上のホームページ「三つの海堡」


 第二海堡の場所は、観音崎より6km、富津岬から3.5kmの海上にあり、東京湾へ入る船舶の主要航路である浦賀水道航路の東端に接している(前掲図参照)。
また、形状は、上図の通り左右逆の"へ"の字形になっている。中心部の砲台から西側の左翼長270m、東の右翼長190m、幅約65mで、面積は、41,000uと、三海堡の中で最大の規模であった。また、島の東西にわたり高さ最高15m程度の高台が形成され、地下に掩蔽壕や弾薬庫などが置かれ、地下通路で各砲台が連絡されていた。
主要な装備としては、27センチカノン砲につき、中央部に砲塔1基(2門)、左翼と右翼に隠顕式砲台を各2基ずつ(計4門)配備、15センチカノン砲2門入り塔砲台を左翼先端に1基、中央寄りに3基配置した。(注)
 (注) 1 "15センチカノン砲"の数量および位置については、左翼中央部分に計4基並んでいたという見解があるが(浄法寺朝美「日
     本築城史」)、前掲[参考資料]2では、現状の遺構に照らして、15センチカノン砲の位置について、このような見方をしている。
    2 ここで隠顕式とは、通常は防護壁の中に格納しておき、射撃の際に壕から外へ出して運用するタイプのものである。


なお、関東大震災により当海堡が除籍された後、左翼中央寄り15センチカノン砲3基のうち中央の砲台跡に、西端にあった灯台が移転した。さらに第二次世界大戦中、海軍の高角砲が設置された。また、2008年には"東京大学地震研究所第二海堡観測点"が西側の跡に設置された。
 冒頭で触れたように、第二海堡は関東大震災で被災し、周囲の護岸が崩壊したが、第2次大戦後には連合軍に接収され砲台や煉瓦構造物、護岸などの島内施設が爆破されそのままに放置されたため、外周護岸の崩壊や土砂流出が進み、島全体の規模(陸上面積)も15%程度縮小したという。
 2004年時点での状況は上の図のようであり、とくに浦賀水道航路側の東翼南側の護岸崩壊と土砂流出による水没が大きいことが判然としよう。ただ、現在供用されている桟橋周辺の北側部分は崩壊や浸食が少なく、レンガ壁や護岸が一部ではあるが遺構として残されている。
いずれにせよ、放置すれば大型船舶の往来を妨げる危険があり、2006年度から護岸整備工事が行われている。

 整備工事の進んだ現在の状況は、上図のようになっている。整備工事により、流出した部分が綺麗に復元されているものの、島中央の高台部分は、防空指揮所跡から西側の一部分しか残っていない。一方、東側に関しては、中央部分寄りを1977年から海上保安庁指定の防災機関である"海上災害防止センター"が消防演習場として利用しており、最近では全体がクリアランスしたという感じに平坦化されている。27センチカノン砲の砲台跡も全く分からなくなっている。
 以上の結果、戦後の爆破処理に加え、近年の整備工事により残る陸上施設の遺構も更に少なくなる一方、ソーラーパネルなどにより、島全体の形も変貌している。要塞の遺構としての護岸も大方なくなり、コンクリート巻の姿に変貌しているのが現状である。 

(写真はクリックで拡大します。)
護岸、北桟橋とその周辺
   
護岸で整備された東側  護岸工事の様子  護岸
   
北側護岸の状況  石造りの北側突堤遺構付近  現在の北桟橋前の護岸(海に面した
石積みの上に古い石積みがあり、そ
れを覆っていたコンクリートが崩壊)
   
北側突堤遺構
(コンクリート中詰めの鋼管係船柱
が見える
  新しい北桟橋と上陸クルーズ船  新桟橋前は、海上災害防止センター
の消防演習場入口
演習場入口前の倉庫らしき建造物
煉瓦はイギリス積み、一部
コンクリート、 屋根はアスファルト
左翼部分の遺構等
   
左翼北側のレンガ積み掩蔽壕擁壁
(延長114mこの上付近に15センチ
カノン砲が据えられていた)
  西側から見た掩蔽壕擁壁(右)と
北側の護岸上
  土砂に埋まった掩蔽壕入口
   
灯台
(手前15センチカノン砲台跡)
  灯台プレート  前方東大地震研観測施設
(15センチカノン砲台跡)
手前は観測所か指揮所跡
   
西側先端、15cmカノン砲砲台、
水中聴音観測所跡、地下に弾薬庫
  同左  要塞間地下通路南側入口の瓦礫
   
崩落した南側の瓦礫の様子
(東大地震研究所の下)
  15センチカノン砲台跡=灯台の南側  ソーラーパネルの南下
(コンクリート擁壁で固めてある)
要塞中心部とその周辺
   
太陽光パネル(灯台の電源)  太陽光パネル下の高角砲座跡
(太平洋戦争中海軍が設置)
  要塞中心部の防空指揮所を望む
   
防空指揮所跡  同左
(崩壊の危険あり上ることは禁止)
  クリアランスされた要塞東翼部
(手前は海上災害防止センター施設)

   
至近距離の航路を航行する
SITCの小型コンテナ船
  東京竹芝・伊豆大島間に就航
している東海汽船のジェットフォイル
  川崎汽船のコンテナ船
QUEZON BRIDGE17,211総屯


・国土交通省(観光庁)は、2020年訪日外国人旅行者数4,000万人等の目標を掲げた「観光ビジョン実現プログラム2018」の中で、「魅力ある公的施設・インフラの大胆な公開・開放」を標榜しており、その一環として、国土交通省(関東地方整備局港湾空港部)、横須賀市などは、2019年8月を目途に第二海堡に上陸できる定期ツアーの実現を目指している。
人口の太宗を占めるに至った戦後生まれの世代のみならず、日本人の多くがかつてこのような施設が東京湾につくられたことを知らないのが実情であろう。その意味で、第二海堡はむしろ日本人向けと言うべく、外国人観光の目的地としては疑問であろう。
「観光ビジョン実現プログラム2018」(観光立国推進閣僚会議、平成30年6月)は、こちらから
 第二海堡上陸ツアーに関しては、2018年9月から3カ月の予定で、民間旅行業者などによるトライアルツアーを実施しており、10月中旬のツアーに参加することができた。因みに、上陸設備が整備されていないことなどから、風速10mを超えるとツアーは中止となり、これまでのところ上陸できたのは半数とのこと。
上陸ツアー実現のためには、何よりも安全確保が欠かせない。その観点に立ち、上陸設備のみならず、要塞内部の見学通路などや案内(説明)設備、サインなどの整備に加えて、ボランティアに依存することになろうが、一定水準以上の説明能力を有する説明スタッフも揃える必要がある。1年以内に、すべての態勢を整えるのは容易でないような気がする。
・ところで、第二海堡を「東の軍艦島」と呼ぶ向きもある(横須賀市ホームページ)。長崎の軍艦島の盛況にあやかりたいのだろう。確かに、高水準の海洋土木技術によるわが国最初の人工島である点は高く評価してよいと思うが、文化遺産と称するには、遺構と言えるようなものは殆ど残っておらず、むしろ廃墟である。人工島としての遺構と言える護岸にしても、新たなコンクリートの護岸で周囲を巻いており、当初の海堡とは似て非なるものになってしまっている。外人観光客にせよ、日本人向けにせよ、文化財としての論理構成は簡単ではないよう窺える。指定遺跡の猿島や千代ケ崎砲台はしっかりとした遺構が保存されており、第二海堡は到底及ぶべくもないと言わざるを得ないのである。ただ、史跡性に欠けるとしても、100年以上前に、このような人工島を完成させた高度の海洋土木技術が、四周を海に囲まれたわが国にとって、貴重な財産となったという意味で大きな意味があることは間違いない。
(第三海堡の遺構)
 第三海堡は、浦賀水道の水深39mと深くかつ激しい潮流の中における難工事で、しばしば高波により破壊されるなど、29年を要する大工事だったが、完成2年後の関東大震災により壊滅的な被害を受け、コンクリート構造物は殆ど海中に転落し、全体の三分の一が水没してしまった。
ただ、大深水に築造された第三海堡の築造技術は、東京湾アクアライン木更津人工島(うみほたる)の先駆的事例とされ、戦後の港湾や人工島築造技術へ至る技術系譜に刻まれるものとされている
戦後は崩壊が進み、暗礁と化してしまい、海難事故が多発した。そのため、撤去工事を計画したものの、海堡跡が格好の漁場になっていたため、漁業関係者の反対に遭い、その了解を得るのに30年を要し、工事が行われたのは2000(平成12)年から2007年にかけてになった。工事は船舶の航行安全のため、水深23mを確保すべく、海中に転落した構造物を引き揚げるとともに海堡の基礎部分を削り取った。

 引き揚げられた構造物は、大兵舎と呼ばれる重量1,200トンの巨大なコンクリート構造物が横須賀市内の"うみかぜ公園"に、探照灯(565トン)、砲台砲側庫(540トン)、観測所(907トン)が、"夏島都市緑地"内において保存・公開されている。
いずれも原形のままではないものの、主要な部分ではあるようだ。80年以上も海中に埋もれていたにしてはよく形をとどめていると言えよう。引き揚げ当初は、錆などによるコンクリートの汚れや、貝殻などの付着物が見られたはずであるが、展示に際しては化粧直しをしており、外観は長い間海中に沈んでいたことを忘れさせてしまう程である。

うみかぜ公園は、横須賀の民生用港湾である新港地区の芝生緑地で、マウンテンバイクやスケートボードなどができるスポーツ広場や釣りを楽しめる親水護岸が設けられている。
第三海堡の大兵舎は、芝生広場の海寄りに展示しているが、やや異様な感じではある。説明のプレートも風雨で劣化しており判読しにくい。フェンスに囲まれ、施錠されているが、管理事務所に頼めば、解錠し、内部も見学することができる。
なお、この地域には、高層住宅、大型商業施設が立地するほか、県立保健大学が置かれており、海辺ニュータウンと呼ばれている。ただし、公共交通機関の便は良くない。京浜急行大学前駅が最寄り駅であるが、同駅から公園までは徒歩20分程度かかる。バスはJR横須賀駅を起終点とする循環バスがあるが、便数が極めて少なく、横須賀市のアクセス情報にも掲載されていない。
(画像はクリックで拡大します)
   
大兵舎正面(2004年引揚げ)
幅29.5m、高さ5m、重量1,205トン
  同左海側からの全景
(海側展望デッキから)
  同左陸側からの全景
   
居室入口用開口部がイギリス積み
の煉瓦造りになっている
  居室内部  居室入口上部
(コンクリートと煉瓦の接合部分)
 
うみかぜ公園親水デッキの様子  公園正面に猿島を望む

夏島都市緑地は、横須賀市北部の追浜地区臨海部の工業地帯にある"緑地"である。この地域の多くの部分を日産自動車追浜工場が占めており、同社の輸出用専用埠頭前の物流ヤードの片隅という感じである。緑地という名称にも拘らず、緑地は殆どなく、東京湾第三海堡遺構展示場の他、市内唯一というドッグラン広場があるだけである。
なお、夏島都市緑地の東側に小高い丘がある。こちらは、その名の通り緑に囲まれた貝山緑地である(後述)。
京浜急行追浜駅からバス6分程度、追浜車庫下車。
第三海堡遺展示場は、月1回、第一日曜日に公開されている。管理事務所が展示場の前に置かれており、パネルや模型による解説のほか、コンクリート構造物と共に引き揚げられた電球ソケットケーブル、関連部品などが展示されている。
(画像はクリックで拡大します)
   
第三海堡展示場管理事務所  同左内部  同左引揚げられた部品類など

(観測所)
   
全景(6カ所あった観測所の一つ)
(砲側庫(弾薬庫)と一体構造のもの)
  通路  通路内部
   
円筒形の観測所部分  観測所入口  弾薬庫内部入口
   
弾薬庫内部  同左  同左砲弾出し入れ用小窓
(砲台砲側庫)
   
全景  内部  同左
   
砲弾出し入れ用小窓  砲弾出し入れ用小窓・外の部分  裏側全景
(探照灯)
   
全景  正面内部
(探照灯移動用レールの跡が残る)
  裏側全景
   
内部の通路  階上への階段  階上から


(貝山緑地)
 貝山緑地を中心とするこの地域は、横須賀海軍航空隊、海軍航空技術廠、追浜飛行場と海軍航空の一大拠点であった場所である。横須賀港一帯が全て海軍施設であり、横須賀が軍都であったことを改めて実感させられる。
 緑地入口から頂上の展望台に至る散策路に沿って「海軍航空発祥碑」、「豫科練誕生之地碑」、「海軍甲種飛行予科練習生鎮魂之碑」が建てられている。
「海軍航空発祥碑」は、1937年に横須賀海軍航空隊が建てたもので、1912(大正元)年11月当地追浜において河野三吉海軍大尉がカーチス式水上機で飛行したのが帝国海軍飛行の嚆矢であると記されている。
予科練関係の碑は二つある。1930(昭和5)年、横須賀海軍航空隊海軍飛行予科練習生(「予科練」)の制度が発足したが、当初の応募資格は高等小学校終了以上であった。その後1937年になり、海軍兵学校と同じ旧制中学終了以上を応募資格とする「甲種」と呼ばれる制度が発足し、それに伴い従前の高等小学校資格のコースは「乙種」と呼ばれるようになった。「豫科練誕生之地碑」(1981年建立)は、予科練全体の鎮魂碑とみられる。
「海軍甲種飛行予科練習生鎮魂之碑」は、1997年に建立された。碑文によれば、甲種練習生は1937年9月の第1期から累計139,720名の青少年が各地の航空隊に入隊し、うち6,778名が大空の果て、海底に散った。(注)
    (注)甲種、乙種の他、1940年には下士官から選抜された丙種、1943年からは乙種生徒のうちで短期養成者の乙-特の制度
    が出来た。それらを含む生徒総数は、241,463名、うち戦死者は18,900名との調査がある(予科練資料館ホームページ)
    同調査によれば、最も犠牲者の多かったのは、丙種で、7,362名中5,454名が戦死したという。


なお、当地の地下には6カ所、延長6kmの海軍航空隊地下壕が確認されているが、現在は立入り禁止(近い将来公開予定)。
(画像はクリックで拡大します)
   
貝山緑地入口  貝山緑地案内図  展望台
   
海軍航空発祥地記念碑  同左案内  豫科練誕生之地碑
海軍甲種飛行予科練習生鎮魂之碑
 貝山緑地の海側、横須賀港に面する一見ホテルのような建物が"リサイクルプラザ<アイクル>"である。「容器包装リサイクル法」に基づく分別収集に対応する国内最大規模の施設だそうだ。

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 千代ケ崎砲台跡
・千代ケ崎砲台は、観音崎の南、久里浜港北東の平根山と呼ばれる小高い山の頂上部分(標高70m)に築造された3砲座28センチ榴弾砲6門を擁する砲台である。浦賀水道に突き出した要害の地(岬=千代ケ崎)であり、江戸時代にも台場(平根山台場、1811年築造)が置かれていた場所である。
日清戦争(1894=明治27.7〜1895.4)を控えた1892(明治25)年末に着工し、日清開戦後の1894年12月に2砲座4門で運用を開始した。築城工事は日清戦争終結直前の1895年2月に完成したが、最終的に6門体制になったのは1897(明治30)年である。
観音崎砲台の支援や、浦賀湾前面の海正面防御のための榴弾砲砲台(海正面砲台)と、久里浜上陸の敵に対するカノン砲等による陸正面砲台で構成されていた。これだけの規模の強固な要塞を2年程度で完成させ得るには、戦時下の緊迫した雰囲気とはいえ、相当な突貫工事であったに違いない。
また1924年には、東側の低地に、ワシントン軍縮条約により廃艦となった、戦艦「鹿島」の30cmカノン砲塔を移設して"千代ケ崎砲塔砲台"が造られた。
・この地域一帯は陸軍の支配下にあったが、戦後は国有財産として大蔵省の管理下に置かれて、逐次民間に払い下げられていったようである。海正面砲台部分は、養豚施設として利用されていた。
1960 年に海上自衛隊が海正面砲台部分の用地を取得し、爾後2008年まで千代ヶ崎送信所として運用されてきた。送信所の閉鎖後は、地上施設は全て撤去された。
一方、猿島砲台についてはかねてから史跡指定が検討されていたが、送信所廃止を機に千代ケ崎砲台と併せて史跡指定を目指す方向となり、2015年3月に国の史跡に指定された。
史跡指定を受けて、2017年から横須賀市主催の見学会が行われている。史跡としての所要の整備工事などを終えた後、猿島のように常時公開を目指している。

・右の平面図は、海正面砲台跡の配置図である。
砲台の基本構造は、以下の通り。
まず、地表から6m掘り込んだレベル(地下上層)に各2砲床を有する楕円形の砲座が、南北に並んで 3基置かれ、28cm榴弾砲を全6門設置。
砲台西側に砲台と並行して、砲座より一段低いレベル(地下下層)に"塁道"を造成し、塁道に沿って砲台を維持・運営するための貯水システムや弾薬庫、掩蔽部(兵士の宿舎)などの各種機能を巨大な煉瓦造りの堅固な地下構築物として設置している。
そのうち、弾薬庫は、第3砲座北と、各砲座の間の2カ所計3カ所置かれている。また、塁道は、第1及び第2砲座横の第1・第2掩蔽部前が露天になっているほかは砲座間の弾薬庫前など主要部分は隧道になっている。上空から見ることができないように、露天部分を抑えたものとみられる。
・築造技術についてみると、煉瓦積み工法は、全てイギリス積みになっている。フランス積みであった猿島(1884年完成)から僅か8年後であるが、この間の煉瓦の焼成技術と建築技術の進歩には大きなものがあったようだ。すなわち、露天空間の施設の前面壁、あるいは露天空間と接する隧道の出入口には雨水に対する防水と帯水防止のため焼過煉瓦が採用されているなど、普通煉瓦と焼過煉瓦が用途によって明確に使い分けられているほか、煉瓦を螺旋型に積む"斜架拱"という工法が塁道の屈曲部分数か所にみられる。
また、明治20年代前半までに建設された砲台の天井は煉瓦造であったが、千代ヶ崎砲台跡ではコンクリート造に変化している。
然して当砲台は、猿島などと比べて著しく強固にできており、関東大震災による被害も軽微で、1945年8月まで維持された。原型をよくとどめている、明治期第一級の軍事施設遺構と評し得よう。
第二次世界大戦中何回かの横須賀空襲があり、猿島砲台や第二海堡の高角砲が使われたそうだが(敵機には当たらなかった)、それ以外実戦に使用されることはなかった故、現代の我々がこのようにして遺構を見ることができるわけで、 この上ない歴史教材と言えよう。
なお、三つの砲座のうち、第1砲座は戦後も埋められたことはなかったが、海上自衛隊千代ヶ崎送信所の時代に第2および第3は埋め立てて利用されていた(それ以前も埋められていたことがあるようだが良く分かっていない)。このうち、第2に関しては2015年に防衛省が現状回復を行った。その後、史跡指定を受け、土砂に埋没していた第3について、2017年11月より横須賀市が独自に発掘調査を進め、現在では、3つの砲座が揃って開口した姿を現している。同時に、左翼観測所も調査され、現在その残骸を見ることができる。

(画像はクリックで拡大します)
(地上レベルからの様子)
   
かつての軍道を上り詰めると石造り
の柵門、正面は土塁
  柵門前から見た土塁
(地山ではなく目隠しのためのもの)
  堀井戸
   
土塁前から左翼観測所跡(地表面)
を望む
  土塁裏から塁道へ降りる方向  土塁前から塁道へ降りる方向
   
第3砲座(左翼観測所跡から)  同左(第2砲座側から)  左翼観測所跡から発掘された残骸
   
第2砲座(第3砲座側から)  第1砲座(第2砲座側から)  同左(右翼観測所跡側から)
(塁道と地下構造物)
   
土塁脇坂路から露天塁道へ  右2室が第2貯水所
左第3弾薬庫への地下交通路入口
  第2貯水所右室
(手前沈殿槽、奥濾過槽)
煉瓦手前が焼過煉瓦、奥普通煉瓦
天井はコンクリート造り
   
第2貯水所左室(右室で貯水・濾過し
ここから汲み上げる(汲口)
  隧道入口から奥を望む  第3掩蔽部
   
第2掩蔽部前の階段  第2掩蔽部  東京集治監(小管)制作の煉瓦を
示す刻印
 榴弾砲が据え付けられていた砲座に立つことができるのは、埋められたことのない第1砲座である。隧道内の第1弾薬庫から砲座へ向かうのだが、弾薬庫の内部および通路は真っ暗で、用意されたペンライトを使う必要がある。ガイドの説明を聞きつつ、ペンライトで内部を見学しながらの写真撮影は大変困難だった。
(画像はクリックで拡大します)
(第1砲座周辺施設)
   
第1掩蔽部  第1掩蔽部内部  第1掩蔽部空気孔スリット
   
第1弾薬庫前室内部
(奥の壁の四角の窓は点灯室)
  第1弾薬庫奥室の揚弾井
(ここから吊し上げる)
  同左
   
第1砲座(南側から)  高塁道(弾薬庫から砲座への通路)
からの入口
  第1砲座(弾薬庫側から)
   
第1砲座伝声管
(伝声管は、砲台間と観測所に連絡
この伝声管は、右翼観測所と連絡)
  塁道南端、これより先は民有地  煉瓦積み工法斜架拱による施工例
(塁道南端)

 第1砲座の南には、海正面砲台の一部をなす右翼観測所が置かれ、近接して陸正面砲台があったが、現在は民有地で観光農園になっている。塁道南端は閉鎖されている。
農園側は、砲台遺構の保存に協力的であり、シーズン・オフには、所有者の承諾の下、見学が可能となる。参加した2018年9月の見学会では民有地に入ることができ、塁道南端に近い右翼観測所の遺構が案内された。
観光農園は、ブルーベリー(7〜8月)と、レモン(11〜12月)のシーズンに、週2日程度営業しているが、その際希望者には砲台遺構を案内するという。 観光農園のホームページはこちら。、
(画像はクリックで拡大します)
(右翼観測所)
   
塁道南端から民有地へ入ったところ  右翼観測所入口  右翼観測所下の部屋
(天井奥の小穴は伝声管)
   
右翼観測所地上部へ上がる  右翼観測所地上部遺構  同左
(下に広がるのは浦賀水道)

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