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久里浜海岸 |
久里浜は、横須賀市の東部、東京湾へ入る浦賀水道に面した地域で、千代ヶ浜砲台のある平根山の北が浦賀になる。久里浜海岸は、1853年7月14日にペリーが上陸した場所である。海岸沿いには、1901(明治34)年に上陸記念碑が建てられ、現在は周辺をペリー公園として整備している。公園内には、1987年に建てられた記念館がある。 |
(北米合衆国水師提督伯理上陸記念碑(伊藤博文書)) |
(北米合衆国水師提督伯理上陸記念碑裏面) |
(ペリー記念館) |
久里浜港からは、神奈川県と房総が最短距離で結ばれる金谷行きのフェリーが就航している。 また、港の前の小高い丘は、全体が戦後米軍の倉庫地区になっていたが、返還後58haという広大なフラワーパーク"くりはま花の国"になっている。 |
くりはま花の国 |
「くりはま花の国」は、米軍に倉庫用として接収されていた久里浜港近くの山林の返還を受け、横須賀市が緑地公園として整備したものである。58haという広大な敷地に、春はポピー、秋にはコスモスがそれぞれ100万本咲くコスモス・ポピー園(2.3ha)を始めとして、ハーブ園やアスレチック施設なども備えた、市民の憩いの場になっている。 園内は広くかつ高低差もかなりあるので、園内移動のために"フラワートレイン"と呼ばれる乗り物が用意されている(入場無料)。 |
( ポピーとネモフィラ畑 5/下旬 ) |
(写真はクリックで拡大します。) |
ポピー畑入口からの展望 |
ポピー畑頂上部からの展望 |
同左 |
ポピー畑中腹の様子 |
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ネモフィラ畑展望 |
同左 |
ネモフィラの花 |
シラン(ポピー園上) |
紫陽花・エンドレスサマー(同左) |
(ポピー園上) |
( コスモス 10/中旬 ) |
コスモス畑 |
コスモス畑頂上、手前イェローキャンパス |
コスモス畑 |
コスモス畑 |
コスモス畑 |
コスモス畑、イェローキャンパス) |
イェローキャンパス |
キバナコスモス(四季の花壇前) |
ヘブンリー・ブルー(ガーデンレストラン庭) |
ペンタス(コスモス園上) |
( ハーブ園 ) |
ハーブ園最寄管理棟前のフラワートレイン |
ラベンダー(ハーブ園手前) |
ブラックベリー |
シルバータイム |
ゴールデンクイーンタイム |
コモンタイム |
チェリーセージ |
セルフヒール |
ガウラ・あけぼの |
同左 |
バラ・セシルプランナー |
ヘメロカリス |
クラスペディア |
ルー |
セントーレア・プルケリマ |
ホワイトセージ |
ハーブ園の足湯 |
浦賀ドック |
1 浦 賀 浦賀は、横須賀港が深く切り込んだ浦賀湾を囲む街である。江戸初期にはスペイン商船が入港して交易がおこなわれたが、鎖国後も、多くの船が出入りする江戸湾入口の要衝の港町として繁栄し、江戸湾警備のため浦賀奉行が置かれた(享保5、1720年)。また、1648年には夜間に浦賀水道を通過する船の安全策を講ずる必要から、幕府は浦賀湾入口の岬に和式灯台を建設した。これが燈明堂である。この灯台は、わが国初の洋式灯台である観音埼灯台(1869年建設)に取って代わられるまで、220年以上続いた(1872年廃止)。 幕末近くになるとたびたび異国船が来航したが、モリソン号事件(1837年)においては、燈明堂背後の平根山砲台(明治に入り千代ケ崎砲台設置)から砲撃が加えられた。1853年の黒船来航時久里浜に上陸したペリー艦隊も浦賀湾口付近に投錨した。燈明堂が目の前に見えたに違いない。 |
浦賀湾は小高い山に囲まれており、市街地は湾の両岸に分断された形になっていることから、奉行所が浦賀に置かれて間もない1725(享保10)年頃から現在に至るまで、湾の東西を結ぶ渡し船が運行されている。明治に入り東西の町内会の共同体が運営していたが、1917(大正6)年以降は公営となり、1日平均1,000人もの乗船客があったという。造船所が閉鎖した現在では、浦賀の風物詩としてもっぱら観光客向けであろう。航路230mは、市道とされている。 |
(浦賀の渡船「愛宕丸」4.8トン、定員13名、運賃片道200円、渡船場からの呼び出しに応じて運航する) |
2 浦賀船渠 黒船来航を受け、江戸幕府は直ちに当地に浦賀造船所を設置し、1859(安政6)年壁面を粘土で水止めした簡易なものながら、わが国初のドライドックを完成し、太平洋横断直前の咸臨丸の修理を行った。その後、横須賀に本格的な造船所を建設することとなり(横須賀製鉄所、後の海軍工廠、現米軍横須賀基地)、1876年には閉鎖された。 1894年の日清戦争による大型船舶の修繕需要増大、政府の造船奨励の動き(1896年造船奨励法制定)を背景にして、幕末のドック建設を知る旧幕臣と榎本武揚(農商務大臣)、地元有力者などにより、1896(明治29、登記上は翌)年当地に浦賀船渠(株)が設立され、1899年に煉瓦積み工法によるドックの完成をみた。 翌年には船台も完成したが、事業は船舶修繕が主目的で、新船建造に関しては、早い時期に艦船を受注した(注)以外当初は浚渫船などのいわゆる雑船ばかりであった。ただ、その後の新造船事業に関して、艦船が得意分野となり、戦前は駆逐艦建造において定評を得るとともに、多くの青函連絡船を建造した。 (注)1903年マニラ政庁向け鉄骨木皮の木鉄交造船 砲艦350排水トン5隻受注が最初。ただし、3隻がキャンセルされ、経営上多大の負担となり、社長辞任問題にまで発展。海軍省向けは、駆逐艦「長月」、「菊月」(1907年各381排水トン)から始まった。 戦後も海上自衛隊向け艦艇の建造などに携わっていたが、経営基盤は弱く、1960年代に入っての経営不振から、1969年に住友機械工業に吸収合併され、当ドックは新たに発足した住友重機械工業の浦賀造船所修繕ドックとして操業を続けた。我が国の造船業界は、1973年の第一次石油危機以降長期間、数次にわたる不況・縮小の過程に入っていくが、この間当ドックにおいては修繕船部門強化すべく、1983年に拡張工事が行われた。しかしながら、2003年には造船事業を横須賀造船所(追浜)に一本化することとなり、浦賀における造船事業は100年余にして幕を下ろした。(注) (注)我が国造船業においては、1960年代後半から70年代にかけて、浦賀以外にも大手による中堅の吸収合併と、超大型ドックの建設が相次いだ。すなわち、藤永田→三井(1967)、呉→石播1968)、舞鶴→日立(1970)の合併である。そのうえで、70年代に入ると石油危機の前後一斉に大型ドックが完成する。住友追浜(1971)、三菱香焼(1972)、石播知多(1973)、日立有明(1974)といった具合で、造船不況に突入する。浦賀の合併もこのような業界大変動の一コマではある。 2021年になり、造船所跡のうち1号ドック(煉瓦ドック)とその周辺27.6千u余が横須賀市に寄贈された。この間、2007年には当ドックが経済産業省の「近代化産業遺産」に指定された。 当ドックのスペックは以下のとおりである(注)。
(注)造船会社の設備概要には、入渠能力を表示している例が多いが、当社関係資料には見られない。 |
2021年3月に横須賀市へ引き渡されるに際し、2003年以降放置され、朽ち果てていたであろう大型クレーン等のドック周りはクリアランスされ、1945年6月と記された20トンクレーン1基とポンプ室の遺構が残されるのみである。ドック内部は、ドック最後の船舶を載せたであろう盤木がそのまま残されている。また、当初煉瓦敷きだった渠底は、コンクリート舗装されたようだ。1983年の延伸部分はもちろん鉄筋コンクリート造りであるが、レンガ積みのドック壁面にも補修したと窺われるコンクリート(あるいはモルタルか)を張ったような部分がみられる。やはり、石造りに比しメンテナンスの労を要したということであろうか。 |
(ドック全景 ドックゲート上より) |
(わが国の乾ドックの中で階段列数が最も多いドック壁面、渠底のどこへでも迅速に行ける利便性) |
(20トンクレーン) |
(ドック内部 渠頭方向を望む) |
(ドック内部 コンクリート造りの拡張部分を望む) |
(ドック内部 補修された壁面、手前は盤木) |
(フランス積み) |
(盤 木) |
(延長部分に残された防舷装置と排水パイプ) |
(ドックサイドのポンプ室遺構) |
現存する煉瓦造りのドック遺跡は世界的にも珍しく、5基しかないと言われており、浦賀以外は、オランダに3基とヨットハーバーのダイビング施設になっている浦賀造船所旧川間分工場の1カ所。 ただ、当ドックのはるか前に幕府が着手した横須賀造船所(1号1871年)を始めとして、当時の全てのドックが耐水性に優れるとされる石造りである中で、当ドックが何故に煉瓦工法で築造されたのであろうか。経営基盤が強固とは称し難い純民間企業としては、工事費が割安な煉瓦積み工法を採用せざるを得なかった、というのが実情なのではなかろうか(オランダ留学経験のある榎本武揚がオランダ人技術者に設計依頼したのはその結果であろう)。現に、操業開始以後の当社の業績は苦境が続き、業績が上向くのは第一次世界大戦の始まる頃まで待たねばならなかった。この間の当社の再建に関しては渋沢栄一の奔走があった(「浦賀船渠六十年史」)。 けだし当ドックの解説に際して必ず言及される"煉瓦造りの希少性"は、近代化産業遺産の指定にあたっては評価対象にはなっていない。煉瓦造りであろうとなかろうと、明治期の修繕ドックが21世紀初頭まで稼働していたことに産業遺産としての意味があるのであろう(注)。見学者には、少なからず誤解を与える恐れなしとしない。勿論土木建築史の観点からの評価は別途なされるべきであろう。 (注)「近代化産業遺産群33」(2007、経済産業省)参照(こちらから) さらに、わが国の煉瓦工法は、明治初期まではいわゆるフランス積みが一般的で、明治中期以降は強度、コストの面からイギリス積みに取って代わられたとされている。例えば、世界遺産にも登録されている長崎・小菅修船場(1869年)、富岡製糸場(1872)や横須賀沖の猿島要塞(1884)などはフランス積みで、当ドック至近の千代ケ崎砲台(1894)はイギリス積みによっている。このような中で当ドックがフランス積みを採用した理由如何ということであるが、海外では、このような分類に関する拘りは見られず、幕末から明治期に煉瓦積み法を習った日本独特のもののようだ(注)。実際、両方式にそれほど差があるようにも見えない。あの美しい1906年完成の上野・帝国図書館(現国際子ども図書館)もフランス積みである。 (注)若村国夫「日欧の歴史的乾ドックの形状から見た日本の煉瓦積み乾ドックの固有性」(岡山理科大学紀要45) |
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