横須賀〜井上成美記念館など



井上成美記念館 ヴェルニー公園 旧鎮守府司令長官官舎 記念艦三笠
軍港めぐり、護衛艦「いずも」   猿島探訪と海堡    観音崎(要塞跡、美術館)


 井上成美記念館
・本棚に阿川弘之「井上成美」(1986、新潮社)の初版本がある。阿川の海軍ものは殆ど読んでおり、頭の中に井上のことが印象付けられていたため、単行本が出てすぐに読んだ。
いわゆる「最後の海軍大将」井上成美の戦前の海軍時代から戦後の横須賀長井での隠棲生活に至るまでの思想と行動、家庭・私生活等に関しては、1982年出版の井上成美伝記刊行会「井上成美」に詳しく書かれているが、一般的にはこの阿川著によりよく知られるようになった。従って、ここでまた繰り返すことはしない(注1)
 私はこの本により、帝国海軍には自らをラジカル・リベラリストと称する(注2)、このような人が居たこと、しかも枢要なポストに就いていたということに、驚きと、ある意味で何か救いを見たような気がしたものである。そして、昔(高校生の頃)似たような感想を持った人物がいたことを思い出した。井上と同世代で、戦争中最後までファシズム批判の旗を降ろすことのなかった唯一の知識人、戦後東京大学総長になる矢内原忠雄である(井上が4歳年長)。この二人は、1945年8月15日を挟んで、正反対の境遇になるのであるが、人間的には似た面があるのではないかと思う。
 (注1) 伝記刊行会の本は大部であるが、時系列的に記述されているので読み易い。資料も豊富である。 
 (注2) 安藤良雄東大経済学部教授(戦時中主計大尉として海軍省勤務)のインタビューに答えて(「文芸春秋」1966年7月特別号)。


 あの時代、井上のような言動を一般人がしていたら、たちどころに憲兵隊か特高警察に捕まり、酷い目にあったに違いない。現に、三国同盟(1940年9月締結)に反対する米内(海軍大臣)山本(次官)井上(軍務局長)の三名は、右翼に狙われていたし、反対派の海軍軍人全てに私服憲兵の尾行がついていたという(1937年暮れには矢内原が東大教授を辞任するを余儀なくされている)。戦争末期に次官を務めていた井上は、米内大臣と共に、陸軍によるテロの標的になる危険は十分あったのである。
 また、井上のようなタイプの人物は、現代の我が国を代表するような企業社会においても、まず出世することは難しかろう。戦前の帝国海軍は、当時の日本社会としては勿論、その後の日本社会をみても、極めて異色のリベラルな文化をもつ側面があったと言えるのではないか。
・井上が敗戦直後から住んだ三浦半島長井の旧井上邸が記念館になっているようなので、是非訪れてみたいと思ってきたものの、なかなか機会がなかった。最近になり、2011 年3月の東日本大震災で被害を受け、記念館は閉鎖していると知った。今のうちに行っておこうと思い立ち、インターネット検索により住所を知ることができたので出かけることにした。
 三浦半島の相当部分を占める横須賀市の相模湾側最南端に荒崎海岸という景勝地がある。井上邸は、その断崖上に、結核に冒されていた井上の妻喜久代夫人の療養所代わりに計画されたものである。ただ、夫人はその完成(1934年)を見ることなく、療養中の鎌倉小町の家で亡くなった(1932年、享年36才)。その結果、井上が海軍を去り、この家に隠棲する1945年までは、空き家のことが多かった。横須賀市長井6丁目付近の地図を拡大すると、「リゾート・コンベンション企画」と表示されている建物が旧井上邸である。
・東京方面からの旧井上邸への順路としては、横浜横須賀道路を南下〜「衣笠IC」で三浦縦貫道路へ入り〜終点の「林」から国道134号(逗子・鎌倉方面から来る)を南下〜「ソレイユの丘」を右折〜「ソレイユの丘」を通り過ぎ〜左側の「ラーメンよしべ」(看板なく分かり難い)の先、「伸栄建工」手前細い農道を左に入ると、行き止まりが旧井上邸である。
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以下、阿川著の終章による。
軍人恩給が復活し(1953年)、井上の生活はそれまでよりは楽になったものの、なお生活不如意の状態であることから、長井の土地建物を売却し、アパートにでも移りたい、との話を聞いた海軍兵学校校長時代の教官小田切政徳から、兵学校73期の深田秀明にその仲介方依頼があった。しかしながら、不動産としての市場価値が見込めるような物件ではないことから不調に終わっていた(1963年頃)。代案としての深田の経営する会社の顧問となり、顧問料を支払うという申し出を、当初は断ったものの、井上は渋々受け入れていたが、井上としてはそれが何としても苦痛であり、顧問料の見返りに土地建物を深田に無償譲渡するという意向が示され、1969年以降深田が経営する会社の所有になったものである。
1975年に井上が、後妻の富士子夫人が1977年に亡くなるまで、二人はこの建物の「管理人」として 深田の会社から管理料を受け取るという形になっていた(全て預金に振り込まれたまま、手を付けず、富士子のために残されていた)。
・建物は、当初「暖炉の煙突が二つある、赤屋根の洋館」であったが、その後現在の記念館部分を残して大幅な改築が行われた。
記念館の開館時期は不明であるが、1994年発行の浅田勁「海軍料亭 小松物語」には、「井上成美記念館ができるのを夢見る最近の直枝」という標題のついた写真が掲載されていることから、これ以降のことであろう(直枝とは、小松二代目女将山本直枝のこと(注))。
(注)<追記>料亭「小松」は、2016年5月16日、火災により全焼した。歴代長官を始め、海軍要人などの掛け軸も全て焼失した。そのうちに、長官が食事をした「長官部屋」で食事を、と思っていたがその機会もなくなった。
「リゾート・コンベンション企画」のホームページによると、その代表は深田姓であり、深田秀明の関係者であろうと推測される。現在旧井上邸は無人である。
 無人の民間家屋を覗くのは失礼ではあるが、窓から内部を拝見した。ただ、窓ガラスに地震対策であろうビニールが貼り付けられていることや、光の関係で必ずしもよくは見えなかった(注)
(注)その後、建物には近寄れないようになっており、記念館のプレートも取り外されている。「リゾート・コンベンション企画」のホームページは確認できなくなったが、観光施設のコンサルタント的な業務を行っているようである(2019.10.20記)。
(写真はクリックで拡大します。)
   
井上成美記念館案内プレート   井上成美記念館玄関   記念館玄関脇「海軍」石柱
   
閉館中の記念館内部  同左  同左
   
海側からの現在の旧井上邸全景  記念館海側
(改築前の煙突が残されている)
  建築当初の旧井上邸
(伝記刊行会「井上成美」より)




当時この地域は半農半漁の辺鄙な寒村だったが、近くに、著名な土木技術者であった井上の長兄の別荘があったことから、この地を選んだという。
今でも、周りは殆ど畑(冬は大根、夏は西瓜)で、所々にミニ開発的な住宅が散在するという状況である。横須賀市内とはいえ、横須賀中心部へ出るのは容易ではない。最も近い鉄道の駅は、京浜急行「三崎口」(三浦市)である。



勧明寺は、井上邸から荒崎漁港の方へ下った海岸近くの寺であり、生前の遺言により、ここで井上の葬儀が行われた。英語塾を開いていた当時生徒であった住職の子息が住職を継いでおり、導師を努めた。
   
浄土真宗勧明寺  勧明寺本堂  荒崎漁港から富士山を望む
   
荒崎海岸の景観  同左  同左

・井上は、冷静な国力の分析からして、日本が米国と戦争して勝てるはずはなく、戦争の前提としての三国同盟、日米開戦に終始反対していた。結果は井上の予想通りとなったが、その責任と称して戦後三浦半島の僻村へ隠棲し、周りの支援を頑なに拒否し、とりわけ軍人恩給が復活するまでの期間は極貧の生活を送った。
しかしながら、公称3 百万人を超えるといわれる太平洋戦争で戦場に斃れた軍人並びに広島・長崎の原爆、沖縄戦、そして全国主要都市における空襲により犠牲になった一般市民のことを想起すれば、井上と同じ帝国陸海軍大将経験者の中に、責任を痛感する人間がいて然るべきと思うが、そういう人はいない。否、大会社の社長に収まった人もいたという。東条内閣の海軍大臣嶋田繁太郎が海上自衛隊で挨拶をした(練習艦隊壮行式での乾杯の音頭)、と聞いた井上は激怒したそうだ。
そういえば、旧日本軍を「無責任の体系」と規定した政治学者がいた。
・そうだとすれば、井上の戦後の生き方を内面からプロモートした、エートスというべきものの正体は何なのだろうか、という点を知りたいが、そのような意識で書かれた井上成美論は見かけない。
 幕臣の息子としての教育による武士道的な倫理観がベースにあったという想像はできる。
 一方、前掲伝記刊行会「井上成美」末尾の「残された聖書と讃美歌」なる一節によると、蔵書の中にかなり丹念に繰り返し読んだ跡が窺える聖書と讃美歌が残されていた。
刊行会「井上成美」では、「井上が若いころから英語によって聖書の内容に馴染み、それに慣熟していることをうかがわせる」とともに、「鎌倉に住んでいたころから、井上父娘は周囲のクリスチャンとかかわりが深く、ごく自然な形でキリスト教的な心の持ち方が培われ、聖書への関心を深めることによって、それが肉付けされていったものとも考えられる。」、としている。
そして、同書には井上がキリスト教徒と思われて不思議はないような発言、書簡が掲載されている(下記参照)
しかしながら、井上は自分でクリスチャンではないと明言しているし(1959年の37期級会報告への近況報告)、現に葬儀も真宗の寺院を指定したわけである。
   以上の点についてどう考えるか、伝記刊行会でも議論があったようである。また、井上一家と親交のあったキリスト教徒は、井上が信徒であったのかどうかという点について、「聖書が支えになってはいたのでしょうが、ひざまずいて祈る境地には至っていなかった」、と述べているという(丸田研一「わが祖父 井上成美」)。
 ただ、以下に掲載したような発言や書簡は、単に聖書に通暁しているといったレベルではなく、少なくとも人智を超えた「神」あるいは "something great" といったものを受け入れる、あるいは認めていなければなし得ないような内容ではないだろうか。ここが、最も本質的な点なのではないかと思うのである。
因みに、阿川著序章によれば、井上は東郷元帥について、「人間を神様にしてはいけません」と述べていること、阿川自身のインタビューの際、話が山本(五十六)神社の建立の動きに及ぶと色を成し、「軍人を神格化するなど以ての外の沙汰だ」と述べているのは、以上を背景とすれば理解し易いのではないだろうか。
 いずれにしても、武士道的な倫理観にキリスト教が重なるような形で、戦後の井上の生き方のエートス(精神面のバックボーン)を成していたといえるのではないかと思う。そう考えれば、荒崎における厳しい隠棲生活も頷けるのではないか。

[伝記刊行会「井上成美」掲載の発言、書簡]
@ 英語塾の生徒の証言では、クリスマス・パーティで、生徒に「神さまはいらっしゃる。必ず見ておられるから、祈りなさい。感謝しなさい。」と教えている。
A 孫研一を養育している八巻順子宛の手紙(1951年5月)には、以下のような記述がある。
「苦労も多く、人知れず涙を流す事もおありかと存じますが万事は神様が御承知です。」、「苦しい時には・・・神様が思し召して神が自分にまかせた天職と考えて耐えて行きなさい。」、「私も今まで…苦労を散々いたしましたが、苦しい時には神の思し召しと考えて耐えて参りました。この考え方が何より慰めにもなり、力にもなりました。妻の長年の病気、静子の病気の折、人知れず泣いた事は幾度あったか知れません。然し自分に授かった神命・・・と考え耐えてきました。」、「然し之も神の定めた運命と思い、・・幸福を神に感謝しながら暮らしております。」


[参考資料]
1 井上成美伝記刊行会「井上成美」(1982)
2 阿川弘之「井上成美」(1986、新潮社)
3 宮野 澄「最後の海軍大将 井上成美」(1987、文芸春秋)
4 丸田研一「わが祖父 井上成美」(1987、徳間書店)
5 浅田 勁「海軍料亭 小松物語」(1994、かなしん出版)
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軍港逸見門衛兵詰所
軍港逸見門衛兵詰所(大正末〜昭和初期築)
(国道134号に面する公園入口、クリックで拡大)
 ヴェルニー公園
・「ヴェルニー公園」は、JR横須賀駅前から横須賀本港の最奥部までの約500mに亘る臨海部の公園である。
この地域は1865(慶応元)年に江戸幕府が「横須賀製鉄所」として建設を開始し、明治維新後我が国官営造船所の嚆矢となった「横須賀造船所」があった所である(完成1871年)。
当園は、横須賀製鉄所建設のために招聘された、フランス人技術者F.L.ヴェルニー(1837〜1908)の名を冠した公園として整備したもので(2001年)、バラ園と言ってもよく、110種類、2000本のバラが植えられている。海岸沿いは板張りの遊歩道(ウッドデッキ)となっており、気分よく散策できる。
・「ヴェルニー記念館」は、我が国産業近代化の基礎ともなった、横須賀製鉄所建設の責任者ヴェルニーの功績を記念して、2002年に開設した。
展示品の中には、「横須賀製鉄所」以来海軍工廠を経て米軍横須賀基地でも使用されていた、国指定重要文化財の1865年オランダ製スチームハンマー(鍛造機械)が展示されている。このうち3トン門型ハンマーは、1997年まで米軍で稼働していた。また、0.5トンは1971年に横須賀市に移管された。
     
ヴェルニー記念館  オランダ製門型3T
スチームハンマー
  オランダ製門型0.5T
スチームハンマー
・ヴェルニーを招き、横須賀製鉄所の建設を推進したのは、外国奉行や勘定奉行の要職を歴任した江戸末期の幕臣小栗上野介忠順(1827〜1868)という人物である(注)
   (注)小栗上野介(1827〜1868)は、日米修好通商条約の批准書交換のための使節団の一員として渡米した際、米国海軍工廠などを見学し、その製鉄並びに造船技術に驚愕し、我が国の海軍力増強を幕府に建言したものである。
・横須賀造船所は、その後帝国海軍の海軍工廠になり、現在は大部分が米海軍の基地になっているが、横須賀造船所時代のドックは、現在も米軍が修理などに使っている。
向かって建屋の左が3号、右が2号ドックで、鋼鉄製のゲートが見える。1号は2号の右側にある。竣工は、1号ドック:1871、3号ドック:1874、2号ドック:1884年であり、造船分野で「近代化産業遺産」に認定されている、横浜みなとみらいのドックの竣工(1896年)よりずっと前であり、本来「近代化産業遺産」として認定されるべきものである。
 また、2015年に世界遺産に登録された三菱長崎造船所3号ドックの完成はさらに遅く、1905年である。

 
ヴェルニー像   小栗上野介像
   
2,3号ドック  1号ドック   1号ドック(手前)、2号ドック俯瞰
(ヴェルニー公園案内板) 
   
園内の様子  同左  同左 
   
園内の様子  同左  同左 
・公園内汐入桟橋寄りに、海軍関係の碑が建立されている一角がある。
"長門"は呉で建造され、横須賀鎮守府所属だった。"山城"は、横須賀で建造。
"沖島"は、旧日本海軍最大の敷設艦である。補助艦が話題になることは少ないようだが、1942年5月南方で雷撃により沈没した。
   
海軍の碑  軍艦長門碑  軍艦山城之碑 
軍艦沖島の碑 
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 旧横須賀鎮守府司令長官官舎
・旧帝国海軍横須賀鎮守府司令長官の官舎は、1913年(大正2年)現在の京浜急行県立大学駅背後の東京湾を一望する高台に建設された。
この官舎の企画設計は、当時の横須賀鎮守府建築科長桜井小太郎が行った。桜井は、ロンドン大学建設学科を卒業し、日本人として始めて英国公認建築士の資格を得た人物である。
ここに居住した長官は、東伏見宮依仁親王以来1945年まで34代31人を数える。
戦後は米国に接収され、在日米海軍司令官等の宿舎となっていたが、1969年我が国に返還され、海上自衛隊横須賀地方総監部が管理する田戸台分庁舎として、内外の高官・要人の接待、各種の会議場として使用されている。
・この間、1990年代に復元(改修)工事が行われたが、米国の管理時代に改修されていることに加え、予算制約から当初の姿への復元はできていないという。
一般公開は、毎年桜の開花時期である4月上旬に行われている。日程は、海上自衛隊横須賀地方隊ホームページの「イベント情報」にて告知される。
(写真はクリックで拡大します。)
   
旧長官邸(横須賀地方総監部
田戸台分庁舎)正門
  正門から見た全景
(手前記念館(暖炉の煙突が見える))
  正面 

建物は、玄関口のある洋館部分と、居室である奥の和館部分からなっている。
(洋館)
・玄関から玄関ロビーに入ると、「記念館」とされている玄関脇の暖炉のある元応接間への入口がある。記念館には、執務机と昭和初期に長官を務めた野村吉三郎の胸像が置かれている。
玄関ロビーの右側がリビングルームである。リビングルームに置かれたピアノは、1925年ハンブルク製のスタインウェイで、1929年に帰国した海軍従軍カメラマンから寄贈されたものという。現在でも演奏に使用されている。また、アマチュアの演奏家・演奏団体・合唱団等が実施するピアノの演奏を伴う演奏会及び練習のためにも利用できる。
・リビングの奥にダイニングルームがある。東郷平八郎の書が架かり、東郷像も置かれている。庭側に一段低くして、サンルームが設けられている。サンルームの上部窓は、イングランドの建築様式であるチューダー様式のチューダー・アーチになっている。
   
玄関  玄関と玄関ホール  玄関ホール 
   
記念館(玄関脇の元応接室)  記念館内部  野村吉三郎像
   
リビングルーム  リビングルームに置かれた
スタインウェイ
  リビングルームの出窓 
   
リビングから庭園を望む  ダイニングルーム  ダイニングルームの東郷平八郎書 
   
ダイニングルームの東郷平八郎像  ダイニングルーム庭園側サンルーム  ダイニングルームのベイウィンドウ 
(和館)
・洋館の奥は、2階建ての日本家屋になっており、廊下を挟んで庭園側に和室(8畳間)が2部屋配置されている。反対側は、調理場などのバックヤードとなっている。
廊下には、歴代長官31名の顔写真が掲示されていた。馴染みのある名前といえば、2・26事件当時の長官で(参謀は井上成美)、クーデター部隊を「叛乱軍」と断定し、直ちに陸戦隊を東京へ派遣するなどの措置をとり、また、最後の海軍大臣として戦争終結に努力した米内光政であろう。
奥の和室にも東郷平八郎の書がある。「窮理以致其知」とある。
   
和館  和室の廊下  廊下の米内長官の写真
   
奥の和室   東郷平八郎書の掛け軸  手前の和室

(外観、庭園、ステンドグラス)
洋館は、構造材が外部に露出した木骨造りであるハーフティンバー様式で作られているが、外壁は現在煉瓦タイル張りになっている。
敷地は約13,000uあり、庭園は良く整備されており、見晴らし台からは横須賀市街と走水方面を望むことができる。
また、 建物の随所に見られるステンドグラスは、我が国ステンドグラス作家の先駆者たる小川三知(1867〜1928)の作である。
外観
   
正面玄関上のハーフティンバーと
ステンドグラスの出窓 
  記念館外壁のハーフ・ティンバーと
ステンドグラスの窓
  庭園から見た洋館
   
サンルーム外観   リビングとサンルーム外観  サンルームと
ダイニング・ベイウィンドウ外観
庭園
   
リビング前庭園  東屋   見晴台から横須賀市街・走水方面
を望む
庭園のシャクナゲ
ステンドグラス
   
玄関上部   記念館正面側窓上部  記念館正面側窓上部
   
ダイニングとサンルームの間の
ステンドグラス
  同左サンルーム側ステンドグラス  ダイニングのステンドグラス
リビングの暖炉上にあったクジャクの
ステンドグラス(米軍が外した)


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 記念艦三笠

・戦艦三笠(1902年英国にて建造)はワシントン軍縮条約により廃艦されることとなり、1923年9月帝国海軍から除籍された。当初は解体される予定だったが、保存運動を受け、現役に復帰できない状態にすることを条件に保存されることが特別に認められ、1925年記念艦として、横須賀に保存することになった。
・第二次世界大戦後は、米兵向けキャバレーになったり、艦上に水族館が出来たり、また金属類が持ち去られるなど荒廃していたが、米海軍ニミッツ提督などが復元保存を主張したことなどから、最終的には復元保存することとなった。保存工事は1961年に行われ、公開する運びになったものである。地上に固定されており、あくまでも船舶ではなく、展示施設である。中甲板は、展示室になっており、日本海海戦資料やパノラマ模型などが展示されている。
保存地と周辺37千uの国有地は、「水と光と音」をテーマにした三笠公園として整備されている。
東郷司令官像)  船首  船尾
東郷司令官像  船首  船尾(スターン・ウォークと呼ばれる
艦長用の回廊がある)
上甲板・煙突)  艦橋操舵室  艦橋操舵室内部
上甲板・煙突  艦橋操舵室  艦橋操舵室内部
最上艦橋)  最上艦橋から船首、30センチ砲を見る  30センチ砲正面
最上艦橋  最上艦橋から
船首、30センチ砲を見る
  30センチ砲正面
船首飾り  艦長公室  艦長室
船首飾り(1968年に取り外して展示)  艦長公室  艦長室
中甲板船首の講堂  中甲板中央展示室の東郷書
中甲板船首の講堂  中甲板中央展示室の東郷書
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 軍港めぐり、護衛艦「いずも」
1 軍港巡り
・軍港巡りは、(株)トライアングルという民間企業によるクルージングツアーで、横須賀港を船で巡り、米国海軍第7艦隊や海上自衛隊の艦船基地を間近に見学するものである。
出航地は、京浜急行汐入駅から近いショッパーズプラザ(イオン横須賀店、旧ダイエー)横の汐入桟橋である。以前は、記念艦三笠前の猿島行き桟橋から出航していたが、汐入桟橋へ移ってからアクセスが良くなった。そのため、人気が上昇し、船もターミナルも面目を一新している。最近はかなり前でないと、予約が取れないようだ。ただ、天気が良ければ、展望デッキが使用可能となる分定員増となり、当日券が用意される。所要時間は45分である。

軍港巡りmap


・出航すると、左側ヴェルニー公園の対岸は米軍基地であり、横須賀製鉄所以来のドックが見える。 ドックの並びに、何か技術上の理由があるのであろう、大抵日本の潜水艦が停泊している。日本の海上自衛隊が米軍基地を利用しているのは潜水艦だけである。
汐入桟橋  軍港巡りの船舶(Sea Friend X)  旧横浜製鉄所(海軍工廠)船渠
汐入桟橋  軍港巡りの船舶
(Sea Friend X)
  米軍基地になっている
旧横浜製鉄所(海軍工廠)船渠
米軍エリアに停泊する日本の潜水艦  日本の新造潜水艦(供用開始すると番号は消去される)
米軍エリアに停泊する日本の潜水艦  日本の新造潜水艦
(供用開始すると番号は消去される)
・その先のイージス艦、宿泊施設となるホテルシップを過ぎて、広い横須賀本港へ出ると、空母専用の12号バースがある。2015年5月までは、「ジョージ・ワシントン」(原子力空母、全長333m、幅78m、104千排水トン)、10月からは「ロナルド・レーガン」(同、全長333m、幅76.8m、101千排水トン)の停泊地である。
イージス艦  ホテルシップ
イージス艦  ホテルシップ
原子力空母<br>「ジョージ・ワシントン」  原子力空母<br>「ジョージ・ワシントン」
原子力空母
「ジョージ・ワシントン」
  同左
原子力空母<br>「ロナルド・レーガン」  原子力空母<br>「ロナルド・レーガン」
原子力空母
「ロナルド・レーガン」
  同左
・左側の我妻島(日米共同利用の倉庫地区)を回り込むと、前方は民有地の工業地帯で、みなとみらいの高層ビルからでもよく見える、住友重機械の巨大クレーンが見えてくる。隣接するのが日産自動車追浜工場で、専用埠頭に自動車運搬船(PCC)が停泊していた。その先に、一見ホテルのような洒落た建物があるが、横須賀市の「リサイクルプラザ・アイクル」という施設で、分別収集で排出された資源ごみのリサイクル対応の中間処理を行っているそうだ。
住友重機械横浜製造所  日産専用埠頭に停泊する自動車運搬船  リサイクルプラザ・アイクル
住友重機械横浜製造所の
門型クレーン
  自動車運搬船 Violet Ace
(Bahama船籍 、49,708総トン)
  リサイクルプラザ・アイクル
・この先が海上自衛隊の艦船が停泊する長浦港であるが、小さな湾だ。横須賀とは圧倒的に米国第7艦隊の基地であることがよく分かる。ここには、海洋観測艦、掃海母艦、、掃海艦、掃海艇が停泊している。なお、停泊していた掃海艦及び掃海艇は、機雷への対処任務に当るため、磁気反応型機雷を避けるべく、前者は木造、後者は強化プラスチック製である。
本土と我妻島は地続きだっが、長浦港と横須賀本港を結ぶために掘削したのが新井掘割水路である。ここを通ると、海上自衛隊横須賀地方隊の本部前の地区となる。
迎賓館的な機能を持つ特務艇、ソマリアの海賊対処行動から帰任した護衛船、ミサイル護衛艦(イージス艦)などが停泊していた。ここには、吉倉桟橋という長い桟橋があり、砕氷船「しらせ」が南極から帰って来ていた。新護衛艦「いずも」も、ここへ停泊する。
海洋観測艦「わかさ」2,050トン、「にちなん」3,350トン)  掃海母艦「463うらが」5,650トン  掃海艦「301やえやま」、「302つしま」各1,000トン
海洋観測艦「5104わかさ」2,050トン
「5105にちなん」3,350トン
  掃海母艦「463うらが」5,650トン  掃海艦「301やえやま」、「302つしま」
各1,000トン)
掃海艇「えのしま」、「はつしま」  新井掘割水路入口  迎賓艇「おおなみ」400トン
掃海艇「604えのしま」「606はつしま」
各570トン
  新井掘割水路入口  迎賓艇「91はしだて」400トン
護衛艦「おおなみ」4,650トン  ミサイル護衛艦(イージス艦)「あたご」7,700トン  砕氷艦「しらせ」12,650トン
護衛艦「111おおなみ」4,650トン  ミサイル護衛艦(イージス艦)
「177あたご」7,700トン
  砕氷艦「しらせ」12,650トン
護衛艦「116てるづき」5,000トン  潜水救難艦「405ちよだ」3,650トン  汐入桟橋を望む
護衛艦「116てるづき」5,000トン  潜水救難艦「405ちよだ」3,650トン  汐入桟橋を望む
仏海軍情報収集艦
「デュプイ・ド・ローム」
(2017年7〜8月寄港)

2 護衛艦「いずも」一般公開(よこすかYYのりものフェスタ2015)
 護衛艦「いずも」は、2015年3月に就役した横須賀を母港とする海上自衛隊のヘリコプター搭載護衛艦いずも型の1番艦である。太平洋戦争期の航空母艦「蒼龍」を上回る規模を有する海上自衛隊史上最大の自衛艦である。建造費は1139億円。
就役直後の2015年6月、"よこすかYYのりものフェスタ2015"で一般公開された。
パンフレットの「概観図」はこちらを参照。
基準排水量   19,500t
全長   248m、 全幅  38m、 高さ  49m、 喫水  7m 
主機   ガスタービン4基(112千馬力)、  速力  30ノット(55km/h)
工期   起工 2012.1.27、進水 2013.8.6、就役 2015.3.25
造船所  ジャパンマリンユナイテッド(JMU)磯子工場

(追記)2017年3月2番艦「加賀」が就役した。母港は佐世保である。建造費1155億円

(写真はクリックで拡大します。)
護衛艦「いずも」プレート  海自ホームページより  ヴェルニー公園から
護衛艦「いずも」プレート  上空から(海自ホームページより)  ヴェルニー公園から見た全景
桟橋から艦橋を望む  航空機用昇降機  右舷甲板の航空機用昇降機上のヘリコプター
桟橋から艦橋を望む  航空機用昇降機(甲板上のヘリが
降りて船腹に格納される)
  右舷甲板の航空機用昇降機上の
ヘリコプター
甲板中央部の航空機用昇降機  甲板中央部の航空機用昇降機  甲板中央部の航空機用昇降機
甲板中央部の航空機用昇降機
(甲板が船腹へ下りた状態)
  同左
(見学客を載せて移動中)
  同左(昇降機に乗り船腹レベルから
艦橋を見上げる)
甲板上の様子(船首側から)  甲板上の様子(船尾側から) 
甲板上の様子(船尾側から)  同左(船首側から) 
船首から汐入桟橋方面を望む 
船首からヴェルニー公園、
汐入桟橋方面を望む
 
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 猿島探訪と東京湾要塞の海堡
1 猿島探訪
・猿島は、横須賀沖1.7kmにある小さな無人島で、東京湾に浮かぶ唯一の島である(東西約200m、南北約450m、周囲約1. 6km)。
江戸幕府は江戸防衛の拠点として、幕末の1847(弘化4)年、この島に3ヶ所の台場を築造した。
明治に入ると陸軍は、首都防衛のため東京湾一帯に"東京湾要塞"を築造することとし、1880年に観音崎要塞を着工、次いで1881年猿島の要塞化に着手し、いずれも1884年に完成した。このため、1881(明治14)年から1945年まで民間人は猿島への立ち入りを禁じられていた。
 猿島は現在も国有地であり、横須賀市が国からの管理委託により、「猿島公園」として整備・運営している。夏期の海水浴利用が中心だが、釣り客や海岸でのバーベキュー、旧日本軍の要塞巡りなどで年間を通して観光客が訪れている。最近は、「無人島探検」などと銘打ち、横須賀軍港めぐり、記念艦三笠とセットにした都内からの日帰りバスツアーも行われている。
猿島の要塞跡は、東京湾要塞の中でも保存状態が良く、西浦賀の千代ヶ崎砲台とともに2015年3月に国の史跡に指定された。
・猿島へは、三笠公園隅の三笠桟橋から1時間ごとに定期船が出ており、10分で到着する(詳しくはこちら)。
島内は自由に見学可能であるが、日本軍要塞跡のうち兵舎や弾薬庫は施錠されている。ただ、「猿島公園専門ガイド協会」によるガイドツアーが行われており(所要60〜90分)、このガイドを申し込めば閉鎖施設も見学可能である。
今回は偶々2015年10、11月の週末に限って行われていた、要塞跡中心のガイドツアー(45分、1日2回)に参加した。

(猿島桟橋と周辺)
 猿島は島全体が自然林に覆われており、周囲は殆ど岩場である。船舶が接岸可能な場所がないため、島の南側(上掲地図では右端)の砂浜から海上に歩道を設置し、その先にドルフィン桟橋を設けているが、外洋に面しているため、強風で波が高くなると使用できなくなる。横須賀港内部の軍港巡りが運行しているときでも、こちらは欠航になることがある。毎朝更新されるホームページで確認するとよい。
砂浜は現在の形状からして、人工的に造られた部分が多いように窺われる。この砂浜が海水浴やバーベキューの場所となっており、その山側に、レストハウスと管理棟が設置されている。レストハウスにはレンタルショップ(バーベキュー用品)、売店、海の家などの店舗が入っており、2階は自由に休むことができる広いテラス(ボードデッキ)になっている。
 管理棟3階に隣接した煙突のある建物は1895年に建てられた石炭焚きの発電所である。レンガ造だったが、現在は表面をモルタル塗りにしてある。現在もジーゼルエンジンで発電している。
(写真はクリックで拡大します。)
   
猿島桟橋へ到着したSea Friend号  猿島桟橋  上陸用歩道と砂浜



(写真はクリックで拡大します。)
   
発電所  猿島桟橋前の陸地  桟橋前の崖地の海鵜
(猿島は海鵜の生息地)
   
桟橋からの遠望
みなとみらい
  同左
横浜ランドマークタワー
  同左
追浜住友重機

(猿島の要塞化、砲台、幹道、兵舎・弾薬庫)
 猿島の要塞化は、一般人の立ち入りを禁止して1881年より始められた。
まず外部からは見えないよう、島の東側を切り開き、壁面を石積みにして「幹道」と呼ぶ切通しを造成し(全長300m、幅4.5m、高さ4.5〜9m)、その先にトンネルを、更に幹道の西壁には兵舎、弾薬庫などを掘り込み、地上部に砲台を2ヶ所設置し、1884年に完成した。東京湾要塞を構成する猿島砲台である。砲台の置かれた場所は、第1砲台(27センチ砲2門)が、トンネルを出た先の切通しの上、第2砲台(24センチ砲4門)が兵舎と弾薬庫の上である。また、幹道の東壁には手洗所が造られた。
猿島砲台は1925年に除籍された。また、現在は砲台跡の見学できない。
(写真はクリックで拡大します。)
   
発電所脇を上り幹道入口を望む  幹道入口近く  幹道の様子
   
兵舎  兵舎内部  同左
   
兵舎の天井2階との連絡用伝声管  兵舎の天井ランプ吊下げ用フック  兵舎2階窓
   
弾薬庫  弾薬庫前の手洗所  弾薬庫2
   
弾薬庫2前の手洗所  煉瓦積み工法-フランス積み
(兵舎、トンネルなど)
  煉瓦積み工法-イギリス積み
(手洗い所)
煉瓦工法
・兵舎や弾薬庫、トンネルなど、猿島における要塞の構築物は煉瓦造りである。
幕末以降我が国には、煉瓦積み工法として、ベルギー・フランスを中心とする「フランドル積み」(通称「フランス積み」)と英国の「イギリス積み」が導入された。
最初に導入されたのは、長崎造船所の前身である長崎製鉄所建設に際してであり、現存最古の煉瓦建築として、先般世界遺産に登録された小菅修船場の「曳揚げ小屋」(長崎造船所関連施設)が残されている。
・フランス積みは、一段に長手の煉瓦と小口の煉瓦を交互に積むのに対し、イギリス積みは長手だけの段と小口だけの段を交互に積んでいくものである(上の画像参照)。当初はフランス積みが主流であったが、明治中期以降はイギリス積みにとって代わられた。イギリス積みの方が、コスト、強度の面で優位にあるということのようだが、我が国の対外関係の影響もあろう。
猿島煉瓦構造物は殆どフランス積みで作られている。このほか著名なフランス積みの建築としては、富岡製糸場がある。この設計は、横須賀製鉄所の設計に関わったフランス人技術者が行った。

(トンネル)
 切通しの先には島の北側へ抜けるトンネルが築造されている。このトンネルは、幅4m、全長約90mのアーチ式のフランス積み煉瓦構造物で、トンネル内西壁に開口部を設け、2階構造になっている。また、内部に傾斜を付けて見通しづらくしている。
通称「愛のトンネル」と、何か場違いなネーミングだが、随分前からの呼称だそうだ。カップル客が結構多かったのはこのせいかもしれない。
(写真はクリックで拡大します。)
   
トンネル入口  入口上部  トンネル内部(入口から)
   
西壁開口部の階段  トンネル内部から入口を望む  出口付近から見たトンネル内部

(トンネル出口周辺)
 トンネルを出ると、右側は切通しになっており、前方に東側へのトンネルの入口が見える。この切通しの左地上に第1砲台があり、右側の施設はその関連施設とみられている。
トンネル出口の左前方に弾薬庫の入口がある。
(写真はクリックで拡大します。)
   
トンネル出口  出口右の砲台関連施設と
東側へのトンネル入口
  出口左前方弾薬庫入口
   
弾薬庫進入路  弾薬庫内部  入口の反対側の外から弾薬庫を望む

(台場跡)
 江戸幕府は江戸湾の防備のため、1847年に猿島島内3ヶ所に台場を構築し、川越藩に防備の任に当たらせた。そのうち、島の北東端の斜面に置かれたのが、卯の崎台場で、浦賀水道に向け、大砲3門が据えられていた。冒頭の配置図の「広場」が、その場所であり、現在は岩場の上に突き出した東京湾を望む平坦な広場になっている。対岸房総半島の君津製鉄所や横浜港を望むことができる。
(写真はクリックで拡大します。)
   
卯の崎台場跡の広場  同左  横須賀市走水方面を望む(東京湾
海上交通センターの塔が見える)
   
台場跡からの展望
浦賀水道を航行するLPG船
  同左
対岸の君津製鉄所
  同左
横浜本牧埠頭とベイブリッジ

(砲台跡と所感)
・島内数か所には、第二次世界大戦時の高角砲座が残されている(所管は海軍、陸軍の呼称では高射砲)。
冒頭の配置図に記号で示した。これらのうち、Dが127ミリ砲の砲座跡で、これ以外は80ミリ砲だった。127ミリ砲は1945年に配備されたもので、横須賀空襲(7月18日)で使われたが、敵機には命中しなかったようだ。それ以外は実戦で使用されることはなかった。
・結局、猿島は幕末の台場の時代から、太平洋戦争末期まで、全く出番がなかったと言ってよいわけで、出番がなかったからこそ、我々に明治時代の煉瓦構造物が残され、また第二次世界大戦の砲台遺跡などにより、昔戦争の時代があったことを心に留める材料を提供してくれていると考えるべきであろう。「愛のトンネル」を通るカップルが心に留めているかどうかは知らないが。
軍人の中には、太平洋戦争においてこの要塞で戦うことを本気で考えていた者もいたかもしれないが、そうなったら猿島の施設は全部破壊され、火炎放射器で焼き尽くされ、土の山が露出した丸裸の島になっていたに違いない。沖縄戦を見れば明らかである。沖縄の戦場がまさにそうだったのである。沖縄戦は本当に胸が痛む。
(写真はクリックで拡大します。)
   
砲台跡 A  砲台跡 B
崖下に「日蓮洞窟」がある(注)。
  砲台跡 C
(注)日蓮上人が海路で房総小湊から鎌倉へ向かっていた際、白猿が現れてここへ案内した、という猿島の起源に関する伝説に基づく。実際は、古代の住居跡。

砲台跡 D

2 東京湾要塞の海堡
 明治中期からから大正にかけて、 東京湾最狭部である千葉県富津岬と猿島砲台の間の海上に、海堡かいほうと 呼ばれる海上要塞が3カ所築造された。首都東京防衛のための"東京湾要塞"構築の一環として、東京湾に築造された砲台である。
このうち、第二海堡と第三海堡は1923年9月の関東大震災により被災し、修復されることなく、廃止・除籍された。大砲の技術が進歩し、射程距離が伸びたために必要がなくなったことによる。第一海堡は東京湾要塞の一部として第二次世界大戦の終了時まで運用された。
膨大な費用と年月をかけて築造した海上要塞であるが、陸上の要塞と同様、実際に使われることはなかった。使われることなくて良かったと言うほかない。
ただ、技術的には高度なものがあり、特に大深水に築造された第三海堡は、東京湾アクアライン木更津人工島(うみほたる)の先駆的事例とされ、戦後の港湾や人工島築造技術へ至る技術系譜に刻まれるものとされている(注)
(注)野口隆俊他「近代土木遺構「東京湾第二海堡」の建設技術-国内で初めての海上人工島の建設-」(土木学会論文集D2、2014)
第一海堡:富津岬先端海上(水深4.6m)
      1890(明治23)年完成(建設期間9年)
      面積23,000u
第二海堡:第一海堡西2,577m(水深12m)
      1914(大正3)年完成(建設期間25年)
      面積41,000u
第三海堡:第二海堡南2611m(水深39m)
      1921(大正10)年完成(建設期間29年)
      面積26,000u
(面積は、満潮時基礎上部面積)

第一海堡
 第一海堡の築造された場所は、富津岬につながる浅瀬で、ここには幕末江川太郎左衛門が砲台の建設を幕府に進言した(1839(天保10)年)。戦後、連合軍により中央部が破壊処理されたが、現在灯台が設置されている。上陸はできない。
第二海堡
 第二海堡も、爆破処理され灯台が設置されているが、1977年から海上災害防止センターの消防演習場として利用されているそうだ。護岸が崩壊し、大型船舶の往来を妨げる危険があることから、2006年度から護岸整備工事が行われている。上陸はできない。
 国土交通省(観光庁)は、「観光ビジョン実現プログラム2018」の施策の一つとして、「魅力ある公的施設・インフラの大胆な公開・開放」を標榜しているが、その一環として、第二海堡に上陸できる定期ツアーを実現すべく、検討が進められている。すなわち、国土交通省(関東地方整備局港湾空港部)、横須賀市などにより、「第二海堡上陸ツーリズム推進協議会」が組織され、2018年9月から3カ月の予定で、民間旅行業者などによるトライアルツアーを実施する運びである。その上、2019年8月に定期的なツアーを制度化する計画である。
「観光ビジョン実現プログラム」は、2020年訪日外国人旅行者数4,000万人等の目標達成に向けた施策であり、第二海堡が外国人観光の目的地として適当がどうか、疑問ではある。人口の太宗を占めるに至った戦後生まれの世代のみならず、日本人の多くがかつてこのような施設が東京湾につくられたことを知らないのが実情であろう。その意味で、むしろ日本人向けと言えよう。
 「観光ビジョン実現プログラム2018」(観光立国推進閣僚会議、平成30年6月)は、こちらから
 因みに、第二海堡を「東の軍艦島」と呼ぶ向きもある(横須賀市ホームページ)。長崎の軍艦島の盛況にあやかりたいのだろうが、「廃墟」というだけでは、余りにも安易であろう。外国人向けにしろ日本人向けにしろ、どのような論理をもって、この施設の意義を訴求するのか。それなくしては、単なる人集めのための話題作りに終わるのではないか。
第三海堡
 第三海堡は、浦賀水道の水深39mと深くかつ激しい潮流の中における難工事で、しばしば高波により破壊されるなど、29年を要する大工事だったが、完成2年後の関東大震災により壊滅的な被害を受け、コンクリート構造物は殆ど海中に転落し、全体の三分の一が水没してしまった。
ただ、第三海堡の築造技術は、海外からも注目される高度な技術であったことは間違いないようだ。
戦後は崩壊が進み、暗礁と化してしまい、海難事故が多発した。そのため、撤去工事を計画したものの、海堡跡が格好の漁場になっていたため、漁業関係者の反対に遭い、その了解を得るのに30年を要し、工事が行われたのは2000(平成12)年から2007年にかけてになった。工事は船舶の航行安全のため、水深23mを確保すべく、海中に転落した構造物を引き揚げるとともに海堡の基礎部分を削り取った。

 引き揚げられた構造物は、大兵舎と呼ばれる重量1,200トンの巨大なコンクリート構造物が横須賀市内の"うみかぜ公園"に、探照灯(565トン)、砲台砲側庫(540トン)、観測所(907トン)が、"夏島都市緑地"内において保存・公開されている。
いずれも原形のままではないものの、主要な部分ではあるようだ。80年以上も海中に埋もれていたにしてはよく形をとどめていると言えよう。引き揚げ当初は、錆などによるコンクリートの汚れや、貝殻などの付着物が見られたはずであるが、展示に際しては化粧直しをしており、外観は長い間海中に沈んでいたことを忘れさせてしまう程である。

うみかぜ公園は、横須賀の民生用港湾である新港地区の芝生緑地で、マウンテンバイクやスケートボードなどができるスポーツ広場や釣りを楽しめる親水護岸が設けられている。
第三海堡の大兵舎は、芝生広場の海寄りに展示しているが、やや異様な感じではある。説明のプレートも風雨で劣化しており判読しにくい。フェンスに囲まれ、施錠されているが、管理事務所に頼めば、解錠し、内部も見学することができる。
なお、この地域には、高層住宅、大型商業施設が立地するほか、県立保健大学が置かれており、海辺ニュータウンと呼ばれている。ただし、公共交通機関の便は良くない。京浜急行大学前駅が最寄り駅であるが、同駅から公園までは徒歩20分程度かかる。バスはJR横須賀駅を起終点とする循環バスがあるが、便数が極めて少なく、横須賀市のアクセス情報にも掲載されていない。
(画像はクリックで拡大します)
   
大兵舎正面(2004年引揚げ)
幅29.5m、高さ5m、重量1,205トン
  同左海側からの全景
(海側展望デッキから)
  同左陸側からの全景
   
居室入口用開口部がイギリス積み
の煉瓦造りになっている
  居室内部  居室入口上部
(コンクリートと煉瓦の接合部分)
 
うみかぜ公園親水デッキの様子  公園正面に猿島を望む

夏島都市緑地は、横須賀市北部の追浜地区臨海部の工業地帯にある"緑地"である。この地域の多くの部分を日産自動車追浜工場が占めており、同社の輸出用専用埠頭前の物流ヤードの片隅という感じである。緑地という名称にも拘らず、緑地は殆どなく、東京湾第三海堡遺構展示場の他、市内唯一というドッグラン広場があるだけである。
なお、夏島都市緑地の東側に小高い丘がある。こちらは、その名の通り緑に囲まれた貝山緑地である(後述)。
京浜急行追浜駅からバス6分程度、追浜車庫下車。
第三海堡遺展示場は、月1回、第一日曜日に公開されている。管理事務所が展示場の前に置かれており、パネルや模型による解説のほか、コンクリート構造物と共に引き揚げられた電球ソケットケーブル、関連部品などが展示されている。
(画像はクリックで拡大します)
   
第三海堡展示場管理事務所  同左内部  同左引揚げられた部品類など

(観測所)
   
全景(6カ所あった観測所の一つ)
(砲側庫(弾薬庫)と一体構造のもの)
  通路  通路内部
   
円筒形の観測所部分  観測所入口  弾薬庫内部入口
   
弾薬庫内部  同左  同左砲弾出し入れ用小窓
(砲台砲側庫)
   
全景  内部  同左
   
砲弾出し入れ用小窓  砲弾出し入れ用小窓・外の部分  裏側全景
(探照灯)
   
全景  正面内部
(探照灯移動用レールの跡が残る)
  裏側全景
   
内部の通路  階上への階段  階上から


(貝山緑地)
 貝山緑地を中心とするこの地域は、横須賀海軍航空隊、海軍航空技術廠、追浜飛行場と海軍航空の一大拠点であった場所である。横須賀港一帯が全て海軍施設であり、横須賀が軍都であったことを改めて実感させられる。
 緑地入口から頂上の展望台に至る散策路に沿って「海軍航空発祥碑」、「豫科練誕生之地碑」、「海軍甲種飛行予科練習生鎮魂之碑」が建てられている。
「海軍航空発祥碑」は、1937年に横須賀海軍航空隊が建てたもので、1912(大正元)年11月当地追浜において河野三吉海軍大尉がカーチス式水上機で飛行したのが帝国海軍飛行の嚆矢であると記されている。
予科練関係の碑は二つある。1930(昭和5)年、横須賀海軍航空隊海軍飛行予科練習生(「予科練」)の制度が発足したが、当初の応募資格は高等小学校終了以上であった。その後1937年になり、海軍兵学校と同じ旧制中学終了以上を応募資格とする「甲種」と呼ばれる制度が発足し、それに伴い従前の高等小学校資格のコースは「乙種」と呼ばれるようになった。「豫科練誕生之地碑」(1981年建立)は、予科練全体の鎮魂碑とみられる。
「海軍甲種飛行予科練習生鎮魂之碑」は、1997年に建立された。碑文によれば、甲種練習生は1937年9月の第1期から累計139,720名の青少年が各地の航空隊に入隊し、うち6,778名が大空の果て、海底に散った。(注)
    (注)甲種、乙種の他、1940年には下士官から選抜された丙種、1943年からは乙種生徒のうちで短期養成者の乙-特の制度
    が出来た。それらを含む生徒総数は、241,463名、うち戦死者は18,900名との調査がある(予科練資料館ホームページ)
    同調査によれば、最も犠牲者の多かったのは、丙種で、7,362名中5,454名が戦死したという。


なお、当地の地下には6カ所、延長6kmの海軍航空隊地下壕が確認されているが、現在は立入り禁止(近い将来公開予定)。
(画像はクリックで拡大します)
   
貝山緑地入口  貝山緑地案内図  展望台
   
海軍航空発祥地記念碑  同左案内  豫科練誕生之地碑
海軍甲種飛行予科練習生鎮魂之碑
 貝山緑地の海側、横須賀港に面する一見ホテルのような建物が"リサイクルプラザ<アイクル>"である。「容器包装リサイクル法」に基づく分別収集に対応する国内最大規模の施設だそうだ。

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 観音崎公園(要塞跡、美術館)
・観音崎は、横須賀市南西部の東京湾に突き出た岬で、先端にヴェルニーの設計になる日本最初の洋式灯台「観音埼灯台」が設置されている(旧暦明治2年1月1日<1869.2.11>点灯)。観音崎公園は、この一帯の70haに及ぶ広大な自然公園で、シイやタブを中心とした照葉樹林のなかを散策したり、色々なレクリエーションを体験出来る施設が配置され、横須賀市民の憩いの場になっている。
 この地域には、古くは江戸幕府の命により会津藩が台場を築いていた。明治以降は、首都防衛のために日本軍が東京湾一帯に築いた、"東京湾要塞"の中でも最も重要な、「観音崎砲台」が置かれていた。1975年にその跡地(国有地)を神奈川県が公園として整備したのが観音崎公園である。
 ・公園は、全体として自然林に覆われた丘陵地であるが、大きく二つの部分からなっているようにみえる。
観音埼灯台を含む南東の部分(下の配置図右側)は、東京湾に突き出ており、海に向かって砲台が設置された。現在は、海岸沿いにレストハウス、自然博物館、駐車場、バーベキューエリアなどを置き、内陸は基本的には自然林のままで、その中に東京湾海上交通センター(注)、戦没船員の碑、見晴らし台などの施設を配している、散策中心のエリアと言える。
(注)東京湾の航行情報提供および航行管制を行う海上保安庁の組織
一方、公園北側(配置図左側)は海岸からは距離がある地域で、アスレチック場や花の広場、果実の森などが配置され、レクリェーション、憩いの場といった趣である。また、東京湾側を切り開いたとみられる斜面に美術館がある。


(園内の主な施設<除く美術館>)
東京湾要塞・観音崎砲台跡
 東京湾要塞は、1880年から建設が始められ、横須賀軍港、三浦半島及び対岸の房総半島に砲台群が配置された。観音崎砲台では、3ヶ所の砲台が、猿島砲台とともに1884年に完成している。
関東大震災の後、これらの砲台は、一部を除き1925年までに廃止・除籍された。その後の軍拡政策の中でも、これらの砲台が復活することはなかった。
 観音崎バス停近くの標識に従って登り、東京湾海上交通センターの前の坂を上ると、観音崎第二砲台がある。また、海上交通センター前から起伏の多い細い散策道を行くと、観音埼灯台の横を通り、第一砲台に着く。両砲台間の距離は300m程度である。
(写真はクリックで拡大します。)
観音崎バス停近くの海岸  東京湾海上交通センターへの登り口  東京湾海上交通センター
観音崎バス停近くの海岸  東京湾海上交通センターへの登り口  東京湾海上交通センター
観音崎第一砲台(配置図A)は、1880年に着工し、1884年に完成した、我が国洋式要塞の第一号とされている。中心の横墻(おうしょう)を挟んで、24センチ砲2門を扇型に配置していた。1915年に除籍された。
向かって右側の砲台跡  向かって左側の砲台跡  左右の砲台をトンネルで結ぶ横墻
向かって右側の砲台跡  向かって左側の砲台跡  左右の砲台をトンネルで結ぶ横墻
横墻  明治前半の工法を示す<br>フランス積みの煉瓦(トンネル上部)
横墻  明治前半の工法を示す
フランス積みの煉瓦(トンネル上部)
第二砲台(配置図B)は第一砲台と略同時期に築造され、24センチ砲6門を配置した。うち左側3門の跡は、現在の東京湾海上交通センターの敷地になっており、右側3門の砲台が現存している。1925年に除籍された。
砲台跡その1  砲台跡その1  砲台跡その2
砲台跡その1  同左・金網部分は地下壕入口  砲台跡その2
砲台跡その3  弾薬庫  第二砲台と灯台の間の散策道の様子
砲台跡その3  弾薬庫  第二砲台と灯台間の散策道の様子
第三砲台(配置図C)は1882年に着工、1884年に完成し、1925年に除籍された。28センチ砲4門を配置していたが、現存しているのは1門のみで、他は海の見晴らし台になっている。場所は、第二砲台跡から散策路を花の広場方面へ向かう途中からトンネルで結ばれた先である。
 以上の砲台の煉瓦積み工法は、何れもいわゆるフランス積みである。
第三砲台へ通じるトンネル  トンネル内部(出口から)  トンネル内部フランス積みの煉瓦
第三砲台へ通じるトンネル  トンネル内部(出口から)  トンネル内部フランス積みの煉瓦
第三砲台入口  第三砲台内部)  海の見晴らし台
第三砲台入口  第三砲台内部  海の見晴らし台
三軒家砲台(配置図D)は1894年着工し、1895年に完成した。現在の美術館南東の高台に位置し、東京湾の内側に向けられ、27センチ砲4門、12センチ砲2門を配置した。砲台間の地下に弾薬庫(軍事用語で掩蔽部と称した)をつくり、両側から階段で繋ぐ構造になっている。1934年に除籍。
保存状態が良好で、原型に近い形で保存されている。ただし、奥に配置されていた12センチ砲の砲台跡は立ち入り禁止になっている。
この時期になると、煉瓦はイギリス積みである。
砲台に近接した広場は、三軒家園地として整備されている。
三軒家砲台へ向かう路上の門柱跡  倉庫跡か  案内板
三軒家砲台へ向かう路上の門柱跡  倉庫跡か  案内板
手前の27センチ砲台  砲台間を地下で繋ぐ階段と弾薬庫入口  砲台間の弾薬庫上部
手前の27センチ砲台  砲台間を地下で繋ぐ階段と右弾薬庫  砲台間の弾薬庫上部
奥の27センチ砲台その1  奥の27センチ砲台の弾薬庫入口  奥の手前の27センチ砲台その2
奥の27センチ砲台その1  奥の27センチ砲台の弾薬庫入口  奥の27センチ砲台その2
27センチ砲台と12センチ砲台の間の観測所跡  イギリス積みの弾薬庫煉瓦  三軒家園地
27センチ砲台と12センチ砲台の間の
観測所跡
  イギリス積みの弾薬庫煉瓦  三軒家園地
水中聴測所(配置図F)は、1937年に観音崎の東端の海上に造られた、敵潜水艦を探知するための施設である。
浦賀方面から観音崎に差し掛かると、たたら浜という海岸があり、その先の観音崎自然博物館などを過ぎると海上自衛隊観音崎警備所になる。聴測所はその施設の敷地沖になるので近づくことはできない。陸地と桟橋でつながれていたが、海上の構築物が残っている。ここには、第4砲台が置かれており、遺構もあるようだ。
水中聴測所の南に隣接して「南門砲台」が置かれていたが、現在は「展望園地」になっている。また、たたら浜の上にトーチカが残っている。
水中聴測所  展望園地(南門砲台跡)  たたら浜
水中聴測所(展望園地下の岩場より)  展望園地(南門砲台跡、右側が海))  たたら浜
(奥の建物が観音崎自然博物館)
トーチカ跡  戦没船員の碑を望む
トーチカ跡  たたら浜園地から
戦没船員の碑を望む
戦没船員の碑(配置図E)
 主として太平洋戦争中における、陸・海軍徴用船舶並びに船舶運営会により統制下にあった民間船舶に配乗し、犠牲になった非戦闘員の船員計6万人余を祀る慰霊碑で、1971年に建立された。毎年5月に戦没・殉職船員追悼式が行われている。
戦没者の内訳は、陸海軍の徴用船舶配乗者が44.3千人で、73%を占める。また、年齢別にみると、輸送要員とはいえ、防衛召集年齢に達しない17才未満の少年が7千人以上もいることに驚かされる。(日本殉職船員顕彰会ホームページによる)。
 場所は標高63mの、観音崎で最も高いと目される旧大浦保塁の跡地である(敷地4,300u)。 高さ24mの白磁の大碑壁下に海を展望する祭場(祈りの広場)があり、先端に碑文石と献花台を設えている。碑文は、 
 「安らかにねむれ わが友よ 波静かなれ とこしえに」
追悼式には、天皇皇后両陛下が2015年を含め度々出席されている(注)
広場脇の両陛下のお歌。
  戦日(いくさび)に逝きし船人を悼む碑の彼方に見ゆる海平らけし(1992年 天皇陛下)
  かく濡れて遺族らと祈る更にさらにひたぬれて君ら逝き給ひしか (1971年皇后陛下)

(注)追記:2015年12月の天皇誕生日に際しての記者会見でも戦没船員について言及があった。
当該部分の全文は下記の通り。
「軍人以外に戦争によって生命にかかわる大きな犠牲を払った人々として、民間の船の船員があります。将来は外国航路の船員になることも夢見た人々が、民間の船を徴用して軍人や軍用物資などをのせる輸送船の船員として働き、敵の攻撃によって命を失いました。日本は海に囲まれ、海運国として発展していました。私も小さい時、船の絵葉書を見て楽しんだことがありますが、それらの船は、病院船として残った氷川丸以外は、ほとんど海に沈んだということを後に知りました。制空権がなく、輸送船を守るべき軍艦などもない状況下でも、輸送業務に携わらなければならなかった船員の気持ちを本当に痛ましく思います。今年の6月には第45回戦没・殉職船員追悼式が神奈川県の戦没船員の碑の前で行われ、亡くなった船員のことを思い、供花しました。」
戦没船員の碑入口の碑  戦没船員の碑全景  戦没船員の碑全景
戦没船員の碑入口の碑  戦没船員の碑全景  同左
船員像、人魚像各2体のブロンズ像<群像>  海を展望する祭場先端の碑文石と献花台  天皇皇后両陛下の歌碑
船員像、人魚像各2体の
ブロンズ像<群像>
  海を展望する祭場先端の
碑文石と献花台
  天皇皇后両陛下の歌碑
 大浦保塁は、1895年に着工、1896年に完成し、1925年に除籍された。9センチ砲2門を配備していた。 遺構としては、戦没船員碑の芝生広場の隅にイギリス積みの煉瓦構築物の一部が残っている。

なお、戦没船員碑へのアクセスについて、案内図によれば観音崎バス停先の階段のある道を登るのが最も近いように見えるが、この道は自然道に近く足場が悪いため、非常に歩きづらい。雨の後などは危険である。メインのルートは、自然博物館側からのようだ。
芝生広場の練習船進徳丸の錨  大浦保塁の遺構
芝生広場の練習船進徳丸の錨  大浦保塁の遺構

(横須賀美術館)
横須賀美術館は、横須賀市が2007年に、県立観音崎公園の一角に開設した新しい美術館である。
 美術館の所蔵作品は、1985年から収集を始めた横須賀市の海を描いた作品、横須賀・三浦半島ゆかりの作家の作品が中心となっている。この間1998年には横須賀市内にアトリエを構えていた谷内六郎が1956年以来週刊新潮の表紙絵として描いた作品1300余点の寄贈があり、美術館とは別に谷内六郎館を設けて展示している。
美術館の建物はガラス張り(塩害を防ぐためという)の斬新なもので、常設展示室を地下に置くことにより、低層に抑えており、周辺の環境にうまく溶け込んでいる。建物の前面は、広々とした芝生の庭で、その向こうに東京湾を望む眺望は大変素晴らしい。また、屋上は、ガラス張りのユニークな作りで、展望広場になっており、一般に開放されている。三軒家砲台から下りて来ると屋上につながっている。
民間団体が、「絶景美術館」なるランキングを発表しているが、当館は全国450館中5位に位置付けられている。因みに第1位は海外でも夙に評価の高い足立美術館(島根県安来市)であり、神奈川県内では箱根の成川美術館が第4位となっている。
(写真はクリックで拡大します。)
横須賀美術館正面入り口   フロント   屋上広場
横須賀美術館正面入り口  フロント  屋上広場 
屋上広場  屋上ペントハウス・恋人の聖地認定証   谷内六郎館を望む
屋上広場  屋上ペントハウス内部
"恋人の聖地認定証"
  谷内六郎館を望む 
谷内六郎館入口  谷内六郎館中庭   レストラン
谷内六郎館入口  谷内六郎館中庭  レストラン"アクアマーレ 
アクアマーレ・テラス席  東京湾を望む   対岸の君津製鉄所
アクアマーレ・テラス席  東京湾を望む  高炉が見える対岸君津製鉄所遠望
 
・この美術館の所蔵作品は、今のところ市外から多くの来訪者を期待できるレベルとは言い難い。また、立地点は、市の中心部からバスで30分程度を要し、多くの市民にとって利便性に難がある。公立の美術館は、市民施設として文化活動の一翼を担う役割があると考えると、この立地は理解し難い。
いずれにせよ、ローカル美術館として、現代作家の発掘などで特徴を出していくといった方向なのかもしれないが、事業として採算が期待できるとは考えづらい。現に毎年3億円以上の支出超過(赤字)になっているらしい。前途多難な感じがする。
 文化施設が皆黒字を出す必要はないとしても、横須賀市としてどの程度が市民負担の許容範囲なのか、よく見極める必要があろう。いわゆるハコモノ行政のつけ、といったことにならなければよいが。
・市としてはここに建設した以上とにかく来館者を増やす必要があり、観光という切り口を強調し、その増加を図るべく、公立の美術館としては異例の、観光スポットとしてのPRをホームページに掲載している(注)
確かに、観音崎は、三浦半島の有力な観光スポットの一つであるし、広々とした芝生の前庭と東京湾の展望が絶景と評価されるロケーションは強みであろう。デート・スポットとしても人気になっているようだ。加えて、美術館前面のガラス張りのスペースのイタリアン・レストラン「アクアマーレ(ACQUAMARE)」も評判で、観光客などにも格好の食事処として人気になっているという。週末など待ち時間1時間以上とのことである。
 (注)記述の一部
  「アートと自然環境を一体化した横須賀美術館はデートにおすすめです! 建物の中にいても常にまわりの自然を感じることができる開放的な美術館。 アート&リゾート気分で1日ゆったりと2人で過ごしてみませんか。2010年秋には、横須賀美術館で初めてのウェディングを行いました。」