旧吉田茂邸・三井別邸


 旧吉田茂邸・旧三井別邸

・大磯は、神奈川県西部の相模湾沿いに位置する人口3万人強の町で、江戸時代には東海道8番目の宿場町として栄え、今も街道の松並木などに、その面影を残している。
 明治以降は、温暖な気候から保養地として注目され、伊藤博文など明治の元勲を始めとする政治家や、三井、三菱、安田など財閥本家等の邸宅(別荘) が建てられた。昭和に入ってからは、吉田茂も大磯の邸を本邸とした。当地に邸宅を有した総理大臣経験者は、次の8人を数える。
    伊藤博文・山県有朋・大隈重信・西園寺公望・寺内正毅・原敬・加藤高明・吉田茂
戦後これらの邸宅の多くは、所有者の手を離れ、また、跡地が特定できるだけで、邸宅が残っている例は多くはない。
それらのうち、旧三井別邸跡と旧吉田茂邸が「大磯城山公園」として整備され、一般公開されている。ただし、復元されたものでなく、建築当時のまま残され、かつ常時一般公開しているのは、大磯駅前の旧木下家別邸のみである。また、旧安田善次郎邸が、年一回庭園のみ公開している(5月下旬)。
・因みに、明治末期に発表された、「避暑地ランキング」なるものによれば、大磯が第1位、 第2位が軽井沢で、鎌倉は11位だった。  
なお、大磯には1885(明治18)年に海水浴場が開かれた。当地を我が国における海水浴発祥地とする説もある。
 旧吉田茂邸は、2009年に火災により焼失したが、その後再建され、2017年4月より一般公開されている。その結果、東京などからの日帰りバスツアーの恰好なスポットとして、大磯への観光客は大きく増えているようだ。

 [ も く じ ]

旧吉田茂邸(大磯城山公園旧吉田茂邸地区)

旧三井別邸(大磯城山公園旧三井別邸地区)




 旧吉田茂邸

 旧吉田茂邸は、大磯の別荘としては最も早い時期である1885(明治18)年に、 貿易商吉田健三(吉田茂の養父)が建てたものであり、吉田は、1944(昭和19)年頃から、その生涯を閉じる1967(昭和42)年までを、この邸宅で過ごした。
吉田茂の没後は西武鉄道が取得し、大磯プリンスホテル別館として利用されていた。その後、同社が売却の方針を決めたことから、歴史文化遺産として保全しようという機運が盛り上がり、北側の旧三井別邸跡である「県立大磯城山公園」の拡大区域として、2012年より公開する予定であった。ただ、2009年3月本邸が火災で焼失したため、まず消失を免れた日本庭園や兜門、七賢堂等の歴史的資産(注1、2)、緑地を「大磯城山公園旧吉田茂邸地区」として整備し、旧吉田茂邸は大磯町が町有施設として再建、2017年4月より一般公開するに至ったものである。
     (注1) 「兜門」は、サンフランシスコ講和条約締結を記念して1954(昭和29)年建てられ、別名「講和条約門」。
         軒先に曲線状の切り欠きがあり、兜の形に似ていることから、この名がある。

     (注2) 伊藤博文が1903(明治36)年、「滄浪閣」に岩倉具視・大久保利通・三条実美・木戸孝允の4人を祀った四賢堂を
         建て、その後伊藤を加えた「五賢堂」となった。
         1960(昭和35)年に吉田邸に移設され、1962(昭和37)年に吉田茂により西園寺公望、1968(昭和43)年に佐藤栄作に
         よって吉田茂が合祀され、「七賢堂」となった。

  (画像はクリックで拡大します)

旧吉田邸地区入口


兜門


   
兜門から内部を望む  復元された吉田邸玄関  同左玄関左部分(1階は食堂、
2階右金の間、左銀の間)
   
心字池
(吉田邸焼失時、焼失を免れた
サンルームが見える)
  庭園と心字池  心字池
   
邸内通路  七賢堂  佐藤栄作書七賢堂扁額
 
吉田茂像
(1983年建立、講和条約締結地
サンフランシスコを向く)
  吉田茂像前から相模湾を望む
(手前は西湘バイパス)

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 旧三井別邸

・この地域には、多数の横穴古墳があり縄文土器などが発見されている他、古くは山城が築かれていたこともあり、その掘割跡や鎌倉古道などが残されていた。
三井財閥は、1898(明治31)年に、この地を別荘とし、 広大な敷地内に庭園を築造するほか、全国の有名な古寺社の古材を用いて「城山荘」(注1)、等が建てられた。また、京都建仁寺の茶室「如庵」(注2)が移築された。しかしながら、財閥解体後は殆どの土地が三井家の手を離れ、残った土地も放置されていた。
「大磯城山公園」は、この地域を県立都市公園として整備したものであり、市民の憩いの場となっている(1987(昭和62)年部分開園、1990(平成2)年全面開園) 。また、敷地内には、大磯町の郷土資料館も設置されている。
・公園として整備するに際しては、三井別邸時代の建築物や遺構は殆ど残っていないこともあり、三井時代の施設に関しては、復元を行うのではなく、跡地にそれを示す案内板を掲示することとし、新たに散策路や橋、門、休憩所、展望台等を整備した。そのため、中には、三井時代の施設を復元したとの誤解を招くようなものも一部にみられる。
なお、不動池周辺は、紅葉の名所であり、毎年11月下旬には、ライトアップが行われている。なお、茶室「城山庵」は、国宝・茶室「如庵」を模して、西入口に近い便利な場所に建てられたものである。
    (注1)城山荘本館は、1934(昭和9)年に現在の展望台付近に、全国の寺社の古材を使用して建設され、歴史的にも価値の高
        い建物とされていたが、1970(昭和45)年名古屋鉄道の所有となり、移設された。

    (注2)織田信長の弟織田有楽斎が、1618(元和4)年京都建仁寺に建てた茶室。明治末期に三井本邸に移築、1936(昭和11)年
        国宝に指定。1938(昭和13)年大磯の別邸城山荘に移築されたが、1970(昭和45)年、名古屋鉄道の所有となり、犬山城
        下御門先の有楽苑に移築された。


南門〜横穴古墳群
(画像はクリックで拡大します)
     
公園碑(であいの広場前)  南門への登り口  南門
     
三井時代の「中門」に関する説明板
(現南門の場所にあった)
  横穴古墳群への散策路の様子  横穴古墳群への散策路の橋
(三井時代の橋は「流雲橋」と称した)
 
横穴古墳群の碑  横穴古墳(墓)の例
(全部で12カ所ある)
ふれあいの広場、大磯町郷土資料館
     
ふれあいの広場
茶室「如庵」跡の一帯
  茶室「如庵」跡  茶室「如庵」跡の説明
   
ふれあいの広場と
大磯町郷土資料館
  大磯町郷土資料館正面  大磯町郷土資料館エントランス
   
郷土資料館エントランスホール
(城山荘本館広間吹抜上部の
保存部材)
  展示ホール(縄文土器などを陳列)
(展示室内部は撮影禁止)
  同左
 
崇雪の鴫立庵標石実物
(郷土館中庭・鴫立庵の項参照)
  鴫立庵碑裏面

ひかりの広場〜展望台周辺
   
法雲堂門(三井時代にはなかった。
近くにあった法雲堂という休憩所に
因み、新たに造られた)
  三井時代の休憩所「六窓堂」の
外周礎石(法雲堂門の内側)
  六窓堂の説明版
   
休憩所
(嘗ての法雲堂近くに造られた)
  ひかりの広場と「ほしみ亭」
(三井時代は休憩所「大園亭」が
あった)
  通雲門
(三井時代にはなかったが元通雲橋
の手前なので新設したようだ)
   
国府(こうの)橋
(通雲橋の場所に、当地名の橋を
架けたもの)
  北蔵ギャラリー
(三井時代の建物で残っているのは
本件と非公開の東蔵のみ)
  城山荘本館説明板 
   
展望台
(城山荘本館のあった場所)
  展望台上の鶴の像  展望台からの眺望

城山庵、不動池
   
西門  茶室「城山庵」入口  茶室「城山庵」
 
不動池  同左
   
不動池の紅葉  城山庵付近の紅葉  同左

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