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富岡製糸場 |
このほど、世界遺産富岡製糸場を見学してきた。 国宝として富岡製糸場に遺されている煉瓦造りの建築物は、実は、幕末に横須賀において着手された我が国初めての本格的造船所(横須賀製鉄所)建設プロジェクトに携わっていたフランス人建築技術者が富岡に派遣されて設計したものである。横須賀においても同様の建物が建てられていたことは間違いないものの、関東大震災によって全て壊滅し、当時の木骨煉瓦造りによる建築物は富岡でしか見ることができないことから、機会があれば見学したいと思っていた(横須賀米軍基地の記事参照)。 |
[ も く じ ] | |
富岡製糸場の建設 | |
国宝指定の建築物(東置繭所、西置繭所、操糸所) | |
国指定重要文化財の建物、構築物 | |
その他の史跡 | |
アクセスなど |
富岡製糸場の建設 わが国の開国後、生糸の輸出が始まったが、フランスにおける蚕の病気(微粒子病)が全欧州に広がり、生糸の生産量が激減したことから、わが国から大量の輸出がなされることになった。しかしながら、このような輸出増加は粗製乱造につながり、粗悪品の増加は、わが国の生糸の評価を落とすこととなった。このような事態に対応し、明治政府は輸出生糸の品質を確保するとともに、富国強兵のための殖産興業に資するべく官営による製糸業の起業を企図した。 その際、「外国の製糸器械の導入」および「外国の指導者の招聘」に加え、「日本国内からの工女募集と新技術の習得」という方針が定められ、各地の製糸産業振興のための、工場の指導者養成の意味合いを持つものとされた。具体的には、フランス人技術者ポール・ブリューナをリーダーとする仏人技術者を雇い入れ、設備はフランス仕様の機械器具をもって構成し、仏人技術者が操業指導に当たったわけである。建屋に関しては、横須賀製鉄所の建築技術者バスチャンが設計した。 官営富岡製糸場は、1871年3月に着工し、1872年7月に完成した。工期は着工後1年半弱という驚くべき短期間であったが、工女の徴募に難航し、開業は11月になった。なお、バスチャンによる設計に至っては、2カ月ほどで完成している。横須賀製鉄所の設計の多くを利用したためとみられ、横須賀と似た風景が小栗上野介ゆかりの上州・富岡に出現したことになる。 |
官営当初の工女の労働条件は、フランス人により主導され設定されたもので、一日実労働時間7時間45分(当初)、週一回の休日の他、年末年始と夏期に各10日の休暇が与えられ、食費、寮費、医療費は製糸場持ち、制服代支給といった極めて良好な、後年の民間企業の過酷な女工哀史的なものとは別世界、わが国産業史の中でも例外的な条件であった。
発足後の業況は赤字続きで、1879年に高給を食んでいたフランス人スタッフが帰国してからは黒字化したという。経営改善のため工女の労働時間は長時間化していった。その後、政府の官営工場払下の方針に伴う閉場の危機などを経て、1893年に三井に払い下げられ、1902年からの原合名会社の経営の後、1939年に当時我が国におけるトップクラスの繊維会社である片倉製糸紡績株式会社(のちの片倉工業)に吸収され片倉富岡製糸所と改称した。 戦時中は統制経済に組み込まれた後、戦後まで操業を続け、1987年に115年の歴史に終止符を打った。この間、1974(昭和49)年には史上最高の生産量(373.4トン)を記録している。操業停止後も、片倉工業は、富岡工場を丁寧に維持管理し、良好な保存状態を維持してきた。2005年、同社の富岡工場の土地・建物旧富岡製糸場は、富岡市に無償譲渡され、2014年6月「富岡製糸場と絹産業遺産群」(公式ホームページはこちら)として世界遺産に登録された。 |
当製糸場における煉瓦造の建物は全て木骨煉瓦造りである。煉瓦積みの工法は、言うまでもなく、いわゆるフランス積み(フランドル積み)であり、全建物に共通して外壁一枚積み、内壁半枚積みで、一般の煉瓦造建物と比べると、大規模の割に薄いという(参照資料(1))。
国宝指定の建築物 1 東置繭所(東繭倉庫、1872年完成) 東置繭所(東繭倉庫)は、正門を入って正面の本館然とした長大な建物で、1階が事務所・作業場、2階が乾燥繭倉庫であった。倉庫の貯蔵能力は32トン(8000袋)。アーチ型の入口の上には、"明治5年"のキーストーンが設置されている(冒頭の画像)。 構造は、木骨煉瓦造2階建、北面庇、南面西面ヴェランダ付、桟瓦葺。建物の桁行104.4m、梁間12.3m、棟高14.8m、建築面積1486.6u。柱は、30cm角である。 小屋組みはキングポストトラス構造であるが、室内中央に棟木に達する通柱が並んでおり、基本的には軸組み工法かと思われる。 煉瓦の規格は、長さ227mm、横112mm、厚さ61mm。なお、西置繭所の煉瓦は、厚さ55mmとやや薄くなっている。 |
(東置繭所正面) |
(東置繭所南側からの全景) |
(東置繭所北側) |
(東置繭所西側全景) |
(東置繭所正面脇ドアと礎石、30cm角の木骨と煉瓦積み) |
(東置繭所窓) |
(東置繭所窓下の礎石と木骨、礎石間の布石積み、煉瓦積み) |
(東置繭所1階内部) |
(東置繭所1階内部売店) |
(東置繭所西側ベランダ) |
(東置繭所2階のトラス構造1 小屋組みはトラス構造だが、中央に多くの通柱を立てており、基本的には軸組構造の建物のようだ。) |
(東置繭所2階トラス構造2) |
2 西置繭所(西繭倉庫、1872) 西置繭所(西繭倉庫)は、サイズ、構造とも、東置繭所とほぼ同じである。2階が倉庫として使われていた。貯蔵能力は32トン(8000袋)。1階の北半分は当初石炭置場となっていたため東面には壁がなかったが、その後木造の壁を取り付けた。1981年になって、平手積みの煉瓦壁を設置し、操業停止を迎えたのであるが、2015年から始まった大掛かりな保存修理(耐震)工事では、生糸生産量が史上最高を記録した1974(昭和49)年当時の姿に復元することとなり、2020年に再び木造壁に戻したのであるが、そこまでする意味があるのだろうか。 保存修理(耐震)工事終了により、現在は1階に耐震補強用の鉄骨を骨組みとしたガラスの部屋を整備し、歴史的資料や製糸工程についてのビジュアルな展示するギャラリーと多目的ホールを設置、2階の展示エリアは、貯繭倉庫としての空間体験スぺースになっている。2階へのエレベーターも設置した。 |
(西置繭所北側からの外観) |
(西置繭所東側からの外観 1階北部分元石炭置場の外壁が1981年以前の板張りに復元した) |
(西置繭所1階 ギャラリー入口 内部は撮影禁止) |
(西置繭所1階 多目的ホール部分) |
(西置繭所1階 窓内側) |
(西置繭所1階 壁を解体したところ、目張りのために貼ったとみられる古紙が現れた。"主婦の友"創刊は、大正5年だから、それ以降の改修の際のもの。) |
(西置繭所2階 窓内側) |
(西置繭所2階 繭袋貯蔵の様子) |
(西置繭所2階 トラス構造) |
(西置繭所2階ベランダ 操糸所を望む) |
3 操糸所(1872) 操糸所は、長さ140mの長大な工場建屋で、創設時にはフランスから導入した金属製の繰糸器300釜が設置され、繭から糸を取る作業が行われていた。当時としては世界最大規模の器械製糸工場だったという。構造は、木骨煉瓦造平屋建、東面玄関付属、桟瓦葺越屋根付。建物の桁行140.4m、梁間12.3m、棟高12.1m、建築面積1726.92u。屋根上には、高温の湯から発生する内部の蒸気を逃がす換気用の腰屋根が設置されている。 小屋組みは、キングポストトラス構造で、東西倉庫のような中央の柱を立てないで大空間が作り出されている。また、自然光採り入れのため、窓が大きく設計されている(電灯はまだなかった)。なお、当初は、床も煉瓦張りであった。 現在内部には、片倉工業が操業停止時(1987年)に稼働していた、日産製の自動操糸器がそのまま展示されている。 |
(操糸所正面入口) |
(操糸所正面 破風上の装飾) |
(操糸所全景) |
(操糸所 窓) |
(操糸所内部) |
(柱のない操糸所トラス構造 ) |
(錦絵「工女勉強の図」 見学パンフレットの表紙より フランス積みではないが床が煉瓦張りに描かれている ) |
国指定重要文化財の建物、構築物 1 首長館(ブリューナ館、1873) 首長館(ブリューナ館)は、木骨煉瓦造桟瓦葺、高床式のコロニアル様式、建築面積917.03uの仏人技師ポール・ブリューナの住宅である。ブリューナが去った後は工女の寄宿舎や教育・娯楽の場として利用された。現在は、工女たちの教育に当たった"片倉富岡学園"として使われていた状態で保存している(内部非公開)。 |
(首長館 表側 エントランスは画像右端で立ち入り禁止につき見ることができない) |
(首長館 表側 高床上の居室は片倉富岡学園 ) |
(首長館 表側 高床上の居室片倉富岡学園の様子 ) |
(首長館 裏側 ) |
2 検査人館(1873) 検査人館は、木骨煉瓦造桟瓦葺2階建、高床式のコロニアル様式、建築面積224.72uで、生糸や機械の検査を担当する仏人男性用宿舎として建てられたが、検査人は早々に解雇され、1階を事務所、2階は政府の役人や皇族が訪れた際の貴賓室として使用した。現在は、1階を富岡市世界遺産部富岡製糸場課等の事務室、2階は貴賓室になっている(2階非公開)。 |
(検査人館 西側) |
(検査人館 正門入って左側) |
3 女工館(1873) 女工館は、木骨煉瓦造桟瓦葺、高床式のコロニアル様式、建築面積381.50uで、仏人女性教師4人の宿舎として建てられた。大正期以降、1階を食堂、2階を会議室として使用した。(内部非公開)。 |
(女工館) |
(女工館 2階ベランダと煉瓦積み 煉瓦積みは、前年完成の操糸所など3棟に比べると整っていると説明版には記されているが、一般見学ルートからは確認しづらい ベランダ天井の菱組天井も特徴の一つだそうだ) |
4 鉄水溜(1875) 鉄水溜は、水漏れがひどかった当初の煉瓦積みの貯水施設を鉄製に代えたもの。わが国に現存する鉄製構造物では最古級と言われている貯水施設で、 横須賀造船所の関連施設で輸入鉄板を加工し、富岡製糸場内で組立てられた。 その際、造船技術のリベット接合が用いれれている。 直径15.2m 深さ最深部で2.4m、貯水能力376.2立方メートル。当初は、2段積みの切石の上に載せられていたが、後に5段にした。 |
(工事中につき、西置繭所2階ベランダから鉄水溜を望む 後ろは操糸所) |
(鉄水溜 基礎の石積み) |
5 蒸気釜所(1872) 蒸気釜所は、木骨煉瓦造桟瓦葺で、当初は、蒸気エンジンの部屋と、ボイラー6基を備える蒸気釜室、石炭置場で構成されていたが、エンジン室と蒸気釜室の一部が残っている。 フランス製鉄製煙突の基部が鉄水溜との間に残されており、附指定されている。 なお、現在の煙突は、鉄筋コンクリート製、高さ37.5m 直径2.5mで、1939年に建てられた4代目のもの。 |
(鉄水溜奥が木骨煉瓦造りの旧蒸気釜所建屋 工事中につき、西置繭所2階ベランダから撮影) |
6 下水竇および外竇(煉瓦積排水口、1872) 操糸所から出る汚水と構内の雨水排除のための暗渠で、敷地の南東端から鏑川に排出する。汚水のための下水竇は、側壁、天井とも煉瓦造りで延長186m、雨水用の外竇は、天井が煉瓦造り、側壁が石造りで延長135.1mである。現在も雨水用排水として使用されている。ただし、見学はできない。 |
(下水竇内部の様子 説明版による ) |
(外竇内部の様子 説明版による ) |
以上の他、開業時正門脇に置かれていた"候門所"が、文化財指定にあたって附指定されている。出入場者の管理を行うための木造平屋建ての建物で、正門近くの社宅群の端に曳家され、社宅に転用されていた(周辺立入禁止)。 |
その他の史跡 1 寄宿舎 片倉時代の1940年、首長館の西側に大規模な工女用の宿舎が2棟建てられた。15畳の部屋が各16室計32室あり、一室当たり最大12人まで使用可能とされていた。 |
(寄宿舎 右北棟浅間寮、左南棟妙義寮 ) |
2 診療所 片倉時代1940年の建築。南側に病室があり、廊下で結ばれている。 |
(診療所 ) |
3 行啓記念碑 開場翌年の1873年6月に皇后・皇太后の行幸があった。1943年に建てられた。 和田英「富岡日記」には、行幸前日の女官の下見と当日の様子について記されている。女官の服装や化粧、髪形などに関して「場内の者残らず内々笑」ったところ、「役所から大そうお小言が」出た、といった若い工女の反応を彷彿とさせるような記述もある。 和田英(わだえい、1857〜1929)という人は、幕末に信濃松代藩士の娘として生まれ、官営富岡製糸場開場直後の明治6=1873年に満15歳で伝習工女となり、1年3ヵ月で技術を習得して故郷へ帰るや、松代に建設された日本初の民営機械製糸場・六工社の創業に参画して指導的な役割を果たした女性である。「富岡日記」は、英が50歳になって著わした回顧録である。 |
(行啓記念碑 ) |
アクセスなど 1 上信電鉄 高崎駅から富岡製糸場の最寄り駅上州富岡迄40分前後を要す。運行頻度は、1時間2本。 車両は、自前の新造車が多く、地方民営鉄道としては、健闘している方と見受けた。 富岡製糸場見学者には、上州電鉄高崎〜上州富岡間往復乗車券に富岡製糸場入場券がセットされた割引券が発売されている。2,620円が2,200円になる。上信高崎駅自動販売機にて発売。 |
(上信電鉄6000形電車 1981年の新造車両 高崎駅にて ) |
(上信電鉄6000形電車内部 空調装置の他 各車両に4台の扇風機を備えている 北関東の夏の暑さは最高気温40℃に達することもある厳しいもので空調装置だけでは足りず 扇風機の併用が必要になるということであろう ) |
(上州富岡駅 煉瓦壁はフランス積みにしてある 時計は繭の形だ ) |
(富岡製糸場見学往復割引乗車券 改札は昔懐かしい入鋏がなされる 中央の製糸場入場印008は当日の本券利用者は8人目ということのようだ 時間は10時少し前) |
2 まちなか周遊観光バス 無料の循環バスで上州富岡駅から富岡製糸場まで所要8分、定員8名なので繁忙期の製糸場への移動手段としては用をなさないだろう。徒歩だと公称15分だが、夏期の徒歩は無理だ。駅構内にタクシー案内の窓口がある。 |
(まちなか周遊観光バス バッテリー車でゆっくりと走る 幸い往復とも利用できたが、始発が上州富岡駅近くの駐車場なので、駅からだと乗れないこともあるらしい) |
[本稿作成には、以下の資料を参照した] (1)「旧富岡製糸場建造物群調査報告書」(平成18年2月、富岡市教育委員会) (2)「旧富岡製糸場 整備活用計画」(平成24年10月富岡市、 https://www.city.tomioka.lg.jp/www/contents/1000000000335/files/seibikatuyoukeikaku.pdf) (3)「しるくるとみおか 世界遺産富岡製糸場」(富岡市世界遺産観光部、http://www.tomioka-silk.jp/tomioka-silk-mill/) (4)「富岡製糸場|観光見学情報」(富岡タウンガイド協会 http://www.silkmill.iihana.com/index.html) (5)「世界文化遺産オンライン」(文化庁、https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/158535) (6)「国指定文化財等データベース」(文化庁、https://kunishitei.bunka.go.jp/heritage/detail/102/00004008) |
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