上野奏楽堂とその周辺

 上野公園旧奏楽堂とその周辺

 上野公園(上野恩賜公園)は、1873(明治6)年に太政官通達により、東京府公園として発足したわが国初の公園であるが、1876年には内務省博物局の博物館所属の公園とされた。
・1877(明治10)年に教育博物館が設置された(1881年東京教育博物館へ改称)。同博物館は、1885年東京図書館と合併したが、1889年には閉鎖される。その後一時高等師範の付属施設になるが、1914年に再び独立し(東京教育博物館、1921年東京博物館へ改称)、1930年に完成した建物が現在の国立科学博物館上野本館である。
・1880(明治13)年には、旧幕府の所蔵書籍を引き継いだ"書籍館(しょじゃくかん、1872年設立)"を前身として"東京図書館"が設立された。如上の通り1885年に東京教育博物館を合併の上、1897帝国図書館へ改称し、通称"上野の東京図書館"と呼ばれ、1906年には、新図書館が完成した。戦前唯一の国立図書館だった。戦後国会図書館へ編入されたが、2000年に、"国立国際子ども図書館"として再発足した。
・次いで1882(明治15)年には、1972年に設立された文部省博物館を前身とする国立博物館と付属の動物園がオープンした。博物館は1889年に帝国博物館、1900年に帝室博物館と改称し、1908年に表慶館が完成している。本館は関東大震災により損壊し、現在の東京国立博物館本館が1938年に完成した。
 この間、1888(明治21)年に東京教育博物館の跡地へ東京美術学校が移転した。また、東京音楽学校も1890(明治23)年、現在の場所に移転し、官立の美術学校と音楽学校が加わったこの地域は、明治の文化・芸術の一大中心地となったわけである。明治政府は、文化面でも欧米と肩を並べることを目指して整備を急いだのであるが、平和的な遺産を我々に残してくれたと言えよう。
現在上野公園のアクセスの中心であるJR上野駅公園口が開業したのは大正末期であり、当時の中心は現在とは大分離れた場所だったことになる。
なお1890年に公園地が帝室御料用地となったが、1924年に宮内省から東京府へ払い下げられたことから恩賜公園の名称になった。

 東京音楽学校が上野に移転した際に建設された音楽堂が"奏楽堂"であり、わが国最古の西洋音楽専門のホールである。 旧東京音楽学校奏楽堂は、老朽化に伴い上野公園内部にて移築・保存され、1987(昭和62)年から一般公開されてきたが、2013年から、耐震工事等のため休館し、2018年11月から再びホールとしての運用と一般公開が行われている。 一般公開に先立つ2018年11月1日に工事完成後の内覧会が開催され、参加することができた。併せて、この界隈を散策した。

 [ も く じ ]

旧東京音楽学校奏楽堂

東京芸大の構内建築物

黒田記念館、国立国際子ども図書館、旧博物館動物園駅

東京国立博物館庭園



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 旧東京音楽学校奏楽堂

 旧奏楽堂の建物は、東京芸術大学音楽学部の前身である東京音楽学校が1890(明治23)年、上野に移る際に同校の本館として建設されたものであり、日本における音楽教育の中心的な役割を担ってきた。
建物は、木造2階建て桟瓦葺きで、2階に講堂兼音楽ホール"奏楽堂"を置く主棟と言うべき"中央家"の左右に"翼家"が付された形になっているが、奏楽堂が建物そのものの名称となっている(建物全体の床面積は1,851u)。
(画像はクリックで拡大します)
   
旧東京音楽学校奏楽堂正面
(中央家)
  出入口のある翼家側  出入口
   
旧東京音楽学校奏楽堂正面入口  階段室  2階ホワイエ、前方ホール入口

 ホールの規模は、客席338席で、現代の音楽ホールとしては、小ホールの部類になる。
特徴としては、「中央天井をヴォールト状に高くして、視覚上、排気上、音響上の配慮を払っており、壁面・床下に藁・大鋸屑を詰めた層を設け、遮音効果を上げている」とされている。ホールの客席前方からステージにかけては、左右が壁でなくガラス窓になっているのは、遮音効果面でマイナスであろうが、そもそも明治の頃は、現代のような喧騒とは無縁だったということであろうか。なお、天井に関しては、一見すると普通の「折り上げ天井」のように見えるが、隅を見ると確認できる。
また、パイプオルガンは、 日本最古のコンサート用オルガンとされている。現存日本唯一の空気式アクション機構で、パイプ総数1,379本の英国Abbott & Smith社製である。1928年、戦前わが国西洋音楽の保護者と呼ばれた侯爵徳川頼貞から寄贈された。
(画像はクリックで拡大します。)
   
奏楽堂内部  奏楽堂ステージ  パイプオルガンと演奏席
   
天井の様子
(横棒は梁で装飾的に扱っている)
  梁の装飾  ホワイエ
(左手がホールへの階段)

 奏楽堂は、何と言っても明治の半ばにオープンした我が国初の音楽ホールで、その出現は画期的なものであったに違いない。日比谷公会堂が完成する1929年まで、本邦唯一のクラシック音楽のホールだったわけである。
 このホールにおいて定期演奏会が始まったのは1898(明治31)年で、第1回では滝廉太郎がバッハの曲をピアノ独奏したという。1903(明治36)年には、ピアノ伴奏であったが東京音楽学校歌劇研究会と東京帝国大学ワグネル会による、日本人による初のオペラが上演された。演目はグルック作曲の「オルフェオとエウリディーチェ」で、のちの国際的ソプラノ歌手三浦環(当時は柴田環)がエウリディーチェを歌った(注1)
また、奏楽堂には、多くの文学者などが訪れるとともに、鹿鳴館後の上流階級の華やかな社交の場にもなっていたようである(注2)
いずれにせよ、その後も戦後に至るまでの本学で学んだ日本を代表するクラシック音楽家が舞台に立った、わが国西洋音楽の記念すべき場である。
(注1)ピアノ演奏者は、夏目漱石もその講義を聴いた、あの"ケーベル先生"である。ケーベル(Raphael von Koebel 1848〜1923)は、当時東京帝大で哲学を講じていたが、東京音楽学校でもピアノを教えており、オペラの指導もしたと考えられる。
ところで、「オルフェオ」をとりあげたのは何故なのであろうか。当時、オペラを歌える声楽家はまだ十分育っておらず、出演者の多いオペラの上演は難しかったのに加え、ストーリーも日本人に分かり易いことがあったのではなかろうか(類似の"イザナギとイザナミの話に比べると、ずっと単純で、かつ平和的である)。ピアノ伴奏については、管弦楽団が整備の途上であったためと思われる。
また、日本近代音楽の育ての親とされる作曲家・指揮者の山田耕筰は、声楽科で三浦に指導を受けた。

(注2)滝井敬子「漱石が聴いたベートーヴェン」(2004、中公新書)参照。寺田寅彦に誘われて演奏会を聴くようになった夏目漱石は、「野分」(1907)にその当時の奏楽堂の演奏会模様を取り入れている。因みに、その中で主人公達は、聴衆が1,000人を超える音楽会を聴いたことになっている。奇異な感じだが、詰め込めば可能だったのだろうか。

ステージ下から見たホール全景
 奏楽堂の完成後80年を超えた1972(昭和47)年、老朽化のため愛知県犬山市の明治村へ移築保存する決定がなされた。これに対し、日本建築学会や音楽家グループなどが反対したことから、1983年(昭和58年)に台東区へ譲渡の上、解体・修理して上野公園内へ移築、パイプオルガンの修復が完了した1987(昭和62)年10月から一般公開が開始された。翌1988(昭和63)年には国の重要文化財に指定された。
2013年からは、耐震工事等の保全工事のために休館に入り、2018年11月より再びホールとしての運用と、週3日の一般公開(有料)を行っている。
座席は従前よりもやや広くしたことから310席になった。近くの東京文化会館小ホール(384席)よりは小ぶりだが、王子ホールやハクジュホールと同規模のホールである。
   
常設展示(1階資料展示室)  ブリュートナーピアノ
(高音の出し方に特徴の最高級
ピアノで1987年に上野高校から寄贈)
  奏楽堂の壁の模型
(藁束が詰まっている様子を示す)
パイプオルガンの模型(1階資料展示室、音を出すことができる)

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 東京芸大の構内建築物

音楽学部
 現在の東京芸術大学音楽学部正門の守衛所裏に、音楽学校が当地へ移転する前に建てられたレンガ造りの建物が2棟並んでいる。
すぐ裏の"赤レンガ1号館"は、1877年に設立された教育博物館の書庫として1880年に建設された。東京都内に現存する最古のレンガ建築とされている。
また、奥の2号館は、1880年に設立された東京図書館の書庫として、1886年に建設された。
いずれもイギリス積みのレンガ造で、耐火性を重視し、開口部に鉄扉が設置されている。
当地へ移転した東京美術学校の校舎、電話交換室などとして利用されてきた(現在は音楽学部敷地内だが、当時は正門前の道路がなく一体だった)。
1号館は、その後レンガの上にモルタルを塗ったが、取り壊しが話題になった際、モルタルを剥がしたところ、東京最古のレンガ造りと判明し、保存することになったという。そのためか、2号館と比較すると、表面がゴツゴツし、粗さが目立つ(拡大画像参照)。
(画像はクリックで拡大します。)
(音楽学部構内)
   
音楽学部正門  赤レンガ1号館  同左正面
   
2階の窓  1階の窓  赤レンガ1号館裏側
   
赤レンガ1号館(瓦屋根)  赤レンガ2号館  2号館正面
   
赤レンガ2号館側面  2号館3階の窓  同左1・2階の窓

   
現奏楽堂全景  同左エントランス  同左ロビー外観

美術学部
 美術学部の正門も音楽学部と同様のレンガ造りで、音楽学部の正門と向きあっていたが、新大学美術館の新設に伴いこの(旧)正門は正木記念館裏の黒田記念館前に移設された。2018年になり、この場所で旧正門を修復・復活し、二カ所の入口がある。
 音楽学部前の門を入ると右側に新美術館がある。明治以来の2万9千余にのぼる膨大な所蔵品の保存が課題となっていたことに対応し、1999(平成11)年、地上4階地下4階の美術館を建設したもので、常設展示場は地下1階に設けられている。
2018年3月から5月にかけて、近代美人画の最高傑作とされる上村松園作《序の舞》(重要文化財)の修復が完了し、その初めての一般公開を機に"東西美人画の名作"という展覧会が行われた。《序の舞》は、是非見たかったので、この時初めて芸大美術館を訪れた。
(画像はクリックで拡大します。)
(美術学部構内)
   
美術学部旧正門、後は正木記念館  美術館全景  同左正面
 
美術館ロビー側  美術館前の大木
《序の舞》ポスター
 従来の正門を挟んで美術館と向き合う場所に陳列館がある。新しい美術館ができるまでは、芸術資料館のメイン・ギャラリーだった展示室。岡田信一郎の設計、鉄筋2階建で1929年竣工した。外壁に貼り付けられた赤いスクラッチタイルに特徴がある。 企画展開期中のみ公開されている。
陳列館と並んだ和風建築が正木記念館である。1901年から32年の長きにわたって東京美術学校校長に在任した第5代校長正木直彦の功績を顕彰するため1935年に建てられた(金沢庸治設計)。白の漆喰壁、入母屋の瓦屋根をもつ近世和風様式の鉄筋コンクリート造で、 2階は正木校長の希望によって、日本美術を陳列するため書院造の和室が設けられた。
正木校長の像が置かれた正木記念館中庭から道路に向かって建てられている和風の門は、1972年に取り壊された東京美術学校本館(1913年築)の玄関を移設したものであり、周辺とよく調和しており、記念館の正面かと間違えてしまう。
また、陳列館南側の図書館の1階に2018年10月、藝大の学生、教職員、卒業生の作品を中心に展示・販売することを目的とする"芸大アートプラザ"がオープンした(藝大と小学館の共同事業)。「陶磁ガラスの現在形」という展示を見たが、いずれも素晴らしい作品揃いであった。
(画像はクリックで拡大します。)
(陳列館)
     
陳列館正面  陳列館正木記念館側  陳列館側面
 
陳列館入口  皇居二重橋飾燈及橋欄(1888年)
その後の二重橋架け替え工事に
伴い移管され設置
(正木記念館)
   
東京美術学校玄関(1972年移築)
(手前正木記念館、向こう側陳列館)
  同左  正木記念館
   
正木記念館側面  正木記念館構内側入口  正木直彦像
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 黒田記念館、国立国際子ども図書館、旧博物館動物園駅

1 黒田記念館
 黒田記念館は、洋画家黒田清輝(1866-1924)の遺言により、その遺産を基に1928(昭和3)年に建てられ、1930年に帝国美術院附属美術研究所として開所したものである。鉄筋コンクリート造り2階建てで、外装はスクラッチタイルである。設計は、岡田信一郎。現在は東京国立博物館の所管。場所は、東京国立博物館の西側、国立国際子ども図書館の南に隣接している。
 当館では、黒田清輝の油彩画約130点、デッサン約170点、写生帖などを所蔵し、2階の特別室と黒田記念室で展示している(1階は、エントランスホール)。
特別室の展示作品は、黒田の代表作である「智・感・情」、「舞妓」、「湖畔」(以上重要文化財)、「読書」で、年3回2週間ずつ一般公開している。また、黒田記念室では、年に数回展示作品の入れ替えをしているようだ。

記念館1階南角のカフェ前の歩道に古い煉瓦造りの柱がある。現在の芸大美術学部と音楽学部を分断している道路がなく、一体の敷地だった時代は、道路入口のこの場所が入口で、この柱は当時の門柱だったのではないか。
(画像はクリックで拡大します。)
     
黒田記念館正面(国立博物館側)  奏楽堂前からの全景  1階カフェ前のレンガ造りの門柱 
 
正面入口  正面階段から
   
2階黒田記念室  黒田清輝像  同左内部
 
黒田清輝の遺品(黒田記念室)
(イーゼル、椅子、絵の具箱)
  2階特別室を望む

(黒田記念室展示の作品)
(クリックで拡大画像が別窓で開きます)
「雲」(1914〜21)
「花野」(1907〜15)

(特別室展示の作品)
(クリックで拡大画像が別窓で開きます)
 
「湖畔」(1897)  「読書」(1892)
 
「舞妓」(1893)  「智・感・情」(1899)

2 国立国際子ども図書館
 1906(明治39)年に、東京音楽学校敷地の一部を割いて、帝国図書館が完成した。久留正道設計によるネオ・ネネッサンス調の建築で、明治期の西洋建築の代表作の一つとされる。ただし、政治経済情勢から当初設計通りには完成せず、1929(昭和4)年に、明治期の建物の南側(向かって左側)に昭和期の建物を増築する形で完成した。
建物の構造は、向かって右の明治部分が鉄骨補強レンガ造り、左の昭和が鉄筋コンクリート造りタイル貼りの3階建てである。わが国のレンガ工法は、明治末期にはイギリス積みが一般的だったが、1906年完成の部分はフランス積みになっている。一方、建物の内側、西側外壁は、白い薬品を掛けて焼いた"白薬掛け煉瓦"によるイギリス積みである。外観の意匠上、表側をフランス積みにしたのかもしれない。
 戦後は国立図書館と改称し、1949年に国会図書館に統合され、その支部上野図書館として国会図書館分館の役割を与えられた。1990年代に入り、その役割の見直しが行われ、それまで国会図書館では扱われてこなかった児童書専門の図書館として2000年に「国立国会図書館国際子ども図書館」として再出発したものである。2002年に増設並びに改修の工事が完成し、現在の姿になった。  
(画像はクリックで拡大します。)
   
国立国際子ども図書館全景
(当館英文バンフレットより)
  昭和増築部分(左側、外装はタイル)
と正面玄関
  明治建築部分ファサード
   
明治建築部分北側  明治建築部分のフランス積み  平成増設のエントランスロビー
   
窓脇のレリーフ(昭和増築部分)  窓上部(明治建築部分  窓中央部(床部分)レリーフ
 2002年に完成した国際子ども図書館への衣替えに係る増設・改修工事は、安藤忠雄建築事務所と日建設計の設計によって行われた。基調は、"ガラス張り"であろう。
"レンガ棟"と呼ばれる既存建物(約6,671u)の北端西側に接続して、"アーチ棟"と名付けた曲線状のガラスカーテンウォールの建物(地下2階地上3階建、約6,200u)を増築した。また、レンガ棟"については、西側外壁の外側にガラスカーテンウォールで覆った廊下を設置した。ガラス張りの廊下の内側の壁が既存の外壁になる。正面玄関には、ガラス張りの風除けとエントランスロビーを設置した。
収蔵能力は、レンガ棟約40万冊、アーチ棟が65万冊、収蔵数は、国内図書約29万冊、海外図書10万冊である。
(画像はクリックで拡大します。)
   
アーチ棟  右アーチ棟、左はレンガ棟外に設置
したカフェテリア
  左アーチ棟
(中央はレンガ棟2階との接続部分)
 
左側レンガ棟外壁を覆ったガラス
カーテンウォールと1階カフェテリア
  カフェテリア入口
(右は1階廊下端)
 レンガ棟内部の装飾などは丁寧に修復し、天井や壁の漆喰装飾の保存・復元は今回の改修工事の白眉と称されているほどであるが、廊下や階段室を除く閲覧室等室内は完全撮影禁止である。読書や閲覧に必要な静かな環境を確保しようということであろう。心ないカメラマンもいることは確かである。
 レンガ棟、アーチ棟別の階層別施設内容については当館のホームページを参照。
アーチ棟は、研修室や資料室、書庫などである。このうち、2階の児童書研究資料室は、研究者向けであるが、一般に公開されている。
(レンガ棟1,2階と階段室)
   
エントランスロビー  レンガ棟ロビー(左の内側)  レンガ棟1階廊下(右従来の外壁)
   
レンガ棟階段  レンガ棟2階階段室
(安全確保のため既存手摺の内側
にガラスの手摺を設置)
  2階階段室の天井灯と装飾
   
階段吹き抜け天井のシャンデリア  階段吹き抜け天井の装飾  明治以来のシャンデリア
 
レンガ棟2階廊下  レンガ棟2階廊下接続部分
左が明治、右が昭和の建築

 レンガ棟の1階と2階は、基本的に図書の閲覧スペースのフロアであるが、3階は催事フロアになっており、イベントホールと、児童書を紹介する展示会のための"本のミュージアム"が置かれている。
本のミュージアム前の廊下部分は"ラウンジ"として利用されており、"想起の力で未来を ホセ・マリア・シシリア「アクシデントという名の国」"という展覧会が開催中であった(会期 2018年9月20日〜2019年2月24日)。
ホセ・マリア・シシリアは、近年、音を分析して二次元、三次元に形象化する作品を多く発表しているスペインのアーティストだそうだ。本展では、東日本大震災の際の津波の轟音をもとに制作した作品「アクシデントという名の国」という250x140cmの8枚からなるデジタルプリントを施した布の作品8枚が3階ラウンジの天井から吊り下げる形で展示されている。
   
3階ホール  ホール張り出し窓(外をガラスで覆い
窓外へ出られるようになっている)
  張り出し窓外から外壁を見る

   
レンガ棟3階廊下(ラウンジ)
バナー(フラッグ)は、
ホセ・マリア・シシリアの作品展
  3階"本のミュージアム"前  レンガ棟3階廊下接続部分
左が明治、右が昭和の建築

(ホセ・マリア・シシリア 「福島 『冬の花』より 『アクシデントという名の国』)

3 旧博物館動物園駅

 黒田記念館前の国立博物館敷地の隅にある石造りの建物が京成電鉄の旧博物館動物園駅の駅舎である(ホームは地下)。
京成電鉄の当初の東京における起点は押上であり、都心への延伸が課題であったが、1933年に日暮里〜上野間の開通を実現した(1931年に青砥〜日暮里間開通)。その際、寛永寺手前から京成上野駅に至る部分は、上野公園下を通る隧道の路線となった。そして、終点上野駅の手前に上野動物園、帝室博物館、東京美術学校、東京音楽学校などの最寄り駅として設置されたのが、博物館動物園駅である。
地上駅舎は帝室博物館の敷地内になるため、格調の高い建築物が求められ、国会議事堂中央部を思
わせるような設計となった。最終的には御前会議で決定されたという。
しかし、老朽化やホームが4両編成設計で車両長大化への対応が出来なかったことなどもあり、乗降客数が減少し、1997(平成9)年に営業休止、2004年に廃止となった。
2018年になり、鉄道施設としては初めて「東京都選定歴史建造物」に選定されたのを契機に、駅舎の修理等を行い、再生・保存を図ることになった。具体的には東京芸術大学の提案により、アートスペースとして、2018年11月下旬から2019年2月までの毎週金・土・日の期間限定で公開しているが、見学者が殺到するも、一度に入場できる人数に限界があり、寒い中、整理券を求めて行列が出来ているらしい。なお、駅舎の扉も新調された(デザインは現代アーティスト日比野克彦東京芸大教授、画像参照)。

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 東京国立博物館庭園

 東京国立博物館の本館北側に日本庭園がある。
この庭園は、古くは寛永寺の庭園だったようである。帝室博物館時代、旧東京教育博物館(1889年閉鎖)が所蔵していた博物標本を受け入れ、動植物研究部門である「天産部」が多種多様な植物を植えていたという。その後、同部に属していた動植物の標本などは、1924年に東京博物館(国立科学博物館の前身)へ移され、天産部は廃止され、この庭園が残された。この結果東京帝室博物館は美術博物館としての性格を鮮明にしたわけである。
当庭園は、池を中心に5棟の茶室を配した広大なもので、茶室は、茶会・句会等に貸し出している他、会議やコンサートなどの用途にも対応している。一般には、春と秋の年2回だけ公開され、散策することができる。 また、五重塔、陶製の大灯篭などが置かれている。
茶室はそれぞれ由緒のあるものばかりである。詳しくは、東京国立博物館ホームページを参照(こちらから)。

春草廬  河村瑞賢1618〜1699)が建てた休憩所で、明治以降三渓園(横浜)などを経て1948年に当館へ寄贈された(現在地は1959年から)。入母屋に掲げられた扁額は、能書家として知られる曼殊院良尚法親王(1622〜1693)の筆。
(画像はクリックで拡大します。)
   
春草廬正面
(中央右寄り玄関、5畳間と3畳間)
  春草廬扁額  春草廬裏側
 
園内外周路入口から  春草廬側面から
転合庵   小堀遠州(1579〜1647)が京都伏見に建てた茶室。その後、京都寂光院に伝わっていたが、明治に入ってから所有者がが数次にわたって変わることとなり、1963年に三共(株)創業者の妻塩原千代から当館に寄贈された。池に面した場所に建てられている。  
(画像はクリックで拡大します。)
   
転合庵(玄関奥に4畳間と4.5畳間)  転合庵・池側から  転合庵から池と本館を望む
本館裏から転合庵を望む
六窓庵   江戸時代初期(17世紀半ば)に奈良の興福寺慈眼院(じげんいん)に建てられたもので、大和の三茶室のひとつと称された。明治に入り博物館 が購入、1877(明治!0)年に移築された。腰掛などは1881年に増築されたもの。  
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六窓庵(玄関は左脇)  六窓庵・池側(右が玄関と3畳間、
左が3畳間と2畳間、中間は水屋)
  フェンスの先は腰掛待合
 
腰掛待合  同左
応挙館   尾張国の天台宗寺院明眼院の書院として1742(寛保2)年に建てられたもので、、後に三井合名理事長を務め、茶人としても名高かった益田孝邸(東京品川)に移築、1933年当館に寄贈された。 円山応挙作の墨画が室内に描かれているが、収蔵庫で保管されており、複製の障壁画が設置されているという。他も同様だが、茶会等での使用時以外は原則閉鎖されているようだ(右端画像)。さりとて、茶会時には一般の見学はできない。結局一般の内部見学は原則できないということだ。
木造平屋建て、入母屋造、瓦葺き、18畳の間2室、廻り廊下を巡らしてい.る。  
(画像はクリックで拡大します。)
   
応挙館(右端が入口)
(内部で茶会が行われている)
  応挙館側面と裏側  応挙館(雨戸を閉じた状態)
九条館   京都御所内の九条邸から東京赤坂の九条邸に移し、当主の居室として使われていた建物。1934年九条家から寄贈された。床張付、襖などに狩野派による楼閣山水図が描かれている。部屋は開けられていたが、部分的にしか見えない。 木造平屋建て、瓦葺き、寄棟造、10畳の間2室2室、廻り廊下を巡らしている。  
(画像はクリックで拡大します。)
   
九条館正面へのアプローチ
(茶会時、これ以上近づけない)
  九条館側面(偶々開放していた)  座敷内部(向かって左)
 
座敷内部(向かって右)  床の間の絵
五重塔、大燈籠
 五重塔は、高さ5.7mの銅製の塔で、基壇に第5代将軍徳川綱吉(1646〜1709)が法隆寺に奉納した旨の銘文「大和国法隆寺元禄元年十二月日常憲院徳川綱吉」が線刻されているという。
 大燈籠は、陶家第四代清水六兵衛(1848〜1920)の作。高さ2.3mの珍しい陶製で、明治と41年(1908)の銘がある。1938年に五代六兵衛から当館に寄贈された。  
(画像はクリックで拡大します。)
 
五重塔  大燈籠


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