沖縄(私と沖縄)


沖   縄


私 と 沖 縄 
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 夏 の 沖 縄
 私 と 沖 縄
・沖縄を初めて訪れたのは、復帰間もない1974年1月、35年も前のことで、記憶もかなり薄れてしまった。このときは、南部戦跡を訪れた他、北部では沖縄海洋博覧会の工事が進む本部半島方面を回った。今帰仁城跡は特段の施設もなく、細い山道を歩き、桜が咲いていた。先島では、石垣と西表を訪れた。
 なお、当時はいわゆる第1次石油危機の真っ只中で、買占め・売惜しみが横行するなど経済は大混乱の状態にあったが、帰途羽田空港で預けた鞄を待っていると、大きなトイレットペーパーの包みが続々と出てくるのである。本土からの観光客が沖縄にはまだトイレットペーパーがあるというので、買い占めて本土に持ち帰ったもので、沖縄からトイレットペーパーが消えた、という報道があった。全く、何とひどいことをするのだろう、と恥ずかしくなる思いであった。
・いずれにしても、当時の沖縄は、米軍基地と、復帰まで軍用道路だった、今の国道58号だけが目立っていた(那覇から嘉手納まで3車線なのは緊急時の滑走路を想定)。海洋博向けを始めとする、諸々の工事は行われていたが、南部戦跡にしても、また道路などの社会資本、ホテルなどの観光施設にしても現在のように整備される前の、多分復帰当時と大差ない姿であった。現在からは考えられないであろうが、ダムなどの水道施設が未整備で、那覇市内のホテルでも断水したりしていた(もっとも、当時は東京を始めとする本土の大都市でも時々水不足が問題になる状況であったことは間違いない)。
 また、那覇市内にはまだ英語の看板が散見されたし、首里城も沖縄戦で破壊された上、更に破壊して建設された琉球大学が立地していた(現在は移転)。守禮の門は当時も観光スポットだった。
南部の摩文仁では県別の慰霊碑と健児の塔を訪れた。島守の塔はあった筈だが、その前に広がる、現在の壮大な祈念公園は想像もできなかった。むしろ、海岸と崖、米軍が火炎放射器で内部に潜む人達を焼き殺した洞穴などを目の当たりし、僅かとはいえ、あの沖縄戦に思いを馳す時間を過ごしたように思う。現在では、平和公園からやや外れた健児の塔へ行く人などいないのではないか。
 そもそも観光客のうち、南部戦跡へ行くのはかなり少なく、観光客全体の着実な伸びの中で、停滞状態にある。南部戦跡巡りの定期観光バスも縮小している。2007年に南部戦跡と玉泉洞巡りの定期観光に乗ってみたが、平和祈念公園に立ち寄る時間は公園全体を見学するには甚だ不十分である。その反面、玉泉洞のあるおきなわワールドではかなりの時間をとっているのは、商売上の理由であろう(平和公園ではお金にならない)。
・74年当時、高速道路は石川まで開通していたが、クルマはまだ右側通行で、「730(ナナサンマル)」の標語で左側通行になるのは、4年後の1978年。因みに、あのナナサンマルの直前に那覇へ行く機会があった。バスやタクシーは既に左側通行仕様のものを待機させていたようだったが、実際に走らせているのは、交代直前のかなり老朽化したクルマが多かったことが印象に残っている。
 先島へは残念ながら、その後訪れる機会がないが、旅行案内などを見ると、最も大きく変わったのは西表ではないかと思う。当時既にホーバークラフトは就航していたが、ホテルなど観光施設は全くなく、道路整備が始まったばかりという状況で、自然が完全に残っていた。
・沖縄戦終結から63年、復帰から36年、「730」から30年。恐ろしく狭隘だった2階建ての空港ビルは、堂々たるエアターミナルビルに一新され、新交通「ゆいレール」に乗ると、広々とした奥武山運動公園や、ヒルギ林の漫湖公園が見渡せ、都市の潤いを感じさせる。那覇中心部に近接した那覇港は、かっては米国の軍艦がぎっしりと停泊し、異様な様相を呈していたが、今は平穏な港となり、当時の光景を想像させるものは何もない。那覇は相変わらず交通渋滞は激しいが、おもろまちの新都心など、都市機能は着実に整備されている。海洋リゾートを中心とした観光客も586万人を数え(2007年)、観光立県としては成功しているのであろう。因みに、施設別の入込客数をみると、本部の海洋博記念公園が340万人(`07年度、うち人気の美ら海水族館が300万人)なのに対し、平和祈念資料館が44万人、平和祈念堂入場者は8万4千人(6割が修学旅行生)に過ぎない。
・沖縄経済は、依然として産業構造はいびつで、一人当たり県民所得は最下位にあり、失業率は本土より格段に高い状況にある。また、米軍基地の存在から来る諸々の問題など、過去の歴史に規定された解決すべき問題は余り変わっていないのではないかと窺われる。
・我々は本土から観光やビジネスで沖縄を訪れるわけであるが、現代沖縄の表層部分に触れることができるに過ぎないのであって、どのような立場をとるにせよ、沖縄の背負っている歴史を知っておくことは大事なことであろうと思う。 。
 琉球王国の成り立ちと独特の文化、国のありようの他、薩摩藩支配下の苛斂誅求、「琉球処分」後における差別、太平洋戦争最末期の沖縄戦においては、本土の盾として戦場化し、県民の1/4という、とんでもない数の人達が犠牲となったこと、戦後の米軍支配の苦難と復帰後も改善されない基地の負担などは、知っておくべきと思う。
いずれにせよ、本土側からの沖縄理解はどう見ても不十分のように見える。沖縄の本土復帰は、1972年であるが、その翌年には、いわゆる第一次石油危機が起こり、高度成長は終焉を告げるわけである。すなわち、本土が高度成長を謳歌している間、沖縄は、米国の施政権下において、我が国の安全保障の最先端の役割を果たしていたのであり、言い換えれば、本土の我々は、安全保障を明示的なテーマ、あるいはコストとして意識することなく、高度成長に邁進してきたのである。これが安全保障の観点から見た我が国高度成長の本質なのである。本土側は、この間の沖縄の痛みを理解すべきだと思う。
知ることしかできないとしても、知ることはできる、ということである。知ろうとしないで、現代の本土の視座からあれこれ論評するのは慎みたいものだ。
 なお、世界遺産の登録に大騒ぎする風潮には如何なものか、という感を持つが、沖縄に9ヶ所登録された世界遺産は、沖縄の歴史を知るきっかけになるので、是非見学すべきだと思う。(2009年1月記)


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BGM:「てぃんさぐぬ花」(サイト「あこず音快堂」)