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 2013 沖縄、史跡・戦跡巡り

  [ も く じ ]
はじめに
首里城と周辺
 1.首里城周辺 2.首里城 3.金城町石畳道
那覇市内の戦跡・史跡と都市施設
 1.戦跡 2.史跡 3.都市施設と町並み
浦添、宜野湾、史跡・戦跡
 1.浦添城跡、浦添ようどれ 2.嘉数台、普天間周辺
南部戦跡と史跡
 1.糸満へ 2.摩文仁の丘、平和祈念公園、八重瀬 3.南風原、南城の戦跡 4.糸満・南城の史跡

(はじめに)
・2013年1月末から、史跡・戦跡巡りに出かけた。天候が不安定という難はあるものの、外歩きには適当な気温のこの時期にしたのであるが、たまたま滞在中の週に限って、最低気温20℃程度、最高気温23〜25℃の汗ばむ日々だった(平年は最高20℃程度)。
・沖縄戦とは、沖縄本島のほぼ全域を戦場として、3ヶ月にも亘って子どもや学生を含む県民全体を巻き込んで行われた壮絶な地上戦である。その結果、沖縄全体が焦土と化してしまったという意味で、実は沖縄全体が戦跡であり、その中の点としての"戦跡"なのである。そして、もし軍部が主張していたような本土決戦が行われていたら、本土が沖縄と同じような地上戦の場になったであろうし、凄惨な集団自決も起きたであろうことは容易に想像されるのであって、沖縄戦が本土防衛のための盾としての犠牲であることは間違いない。
また、戦後は沖縄が米軍の占領下に入り、復帰後も米軍基地の集中により、我が国の安全保障の要となることによって、本土では安全保障を意識せずに経済成長を実現することができたことを思えば、そしてあの太田海軍中将の最期の電文を想起するとき、本土の我々が沖縄戦を知らないというわけには参らない筈なのである。いずれにしても、沖縄の戦跡に立たなければ、"戦場になる"とはどういうことかの理解の緒に就くこともできないことは間違いない。今回は、観光化していない戦跡を中心に回ることとしたが、殆ど人に会うことはなかった。
・また、沖縄には史跡が数多く残されている。本土では、戦後の高度成長を背景とする国土開発、産業開発などにより、自然破壊や史跡の破壊が進んだ他、東京など大都市への人口集中により、昔からの共同体が崩壊するという地域構造の激変があった。これに対して沖縄は、沖縄戦でやられたものの、高度成長の時期がすっぽりと本土の政策から取り残されたことにより(復帰の1972年は高度成長終焉を意味する第一次石油危機の前年 !)、本土並みにならず、その意味での破壊が少なかったという面があるよう窺える。加えて、沖縄の人たちは信仰心が篤く拝所などの史跡を大事にしていることがあるのであろう、日常の中に長い歴史の一端が窺えるのは大変貴重なことと感じられた。

・首里城と周辺
・首里城へのアクセスは、その大宗がバス及びレンタカーによるとみられるが、他の手段によるアクセスは必ずしも便利ではない。すなわち、ゆいレール「首里」駅下車または、路線バスの複数系統が利用可能であるが、首里駅から首里城までは、徒歩15分程度はかかる。路線バスはどこでもそうだが、ルートが分かり難く、定時運行は保証の限りではない。ゆいレールを利用するのであれば、むしろ首里のひとつ手前「儀保」で下車し、龍潭から首里城を遠望し、水辺を散策しながら首里城に至るというルートも趣があろう。
今回の宿はおもろまち駅近くのホテルにしたが、おもろまち始発のバス(7、8系統=首里城下町線)だと、20分程度で首里城前(守礼門入口)に着くので、大変便利である。
・これまで何回か首里城を訪れているが、いずれも歓会門から正殿を往復するだけであった。今回は、このバスを首里城の手前で降り、周辺のスポットを訪れたのちに、首里城に入り、再び周辺の施設や、金城石畳道を訪れる一日コースを計画した。
      (龍潭から首里城を望む)
1. 首里城周辺

(寒水川樋川)
・「沖縄都ホテル前」から二つ目のバス停、「寒水川樋川(すんがーひーじゃー)前」の崖下にある、規模の大きい立派な石組みの井戸。18世紀初頭の古地図にも印されている、村ガー(共同井戸)で、水道が普及する以前は生活用水として利用されていた。現在も地域住民が大切に保存している。朝早くから、年配のボランティアの方たちが草取り、清掃などをしておられた。この地域は清水が豊富な首里でも古い町である。
・なお、このバス通りは「赤マルソウ通り」と呼ばれているが、かつてこの通り沿いにあった味噌・醤油メーカーの商号から来ている(現在は、糸満市へ移転)。
(写真はクリックで拡大します。)
寒水川樋川   拝所   下段の作業場
寒水川樋川  拝所  下段の作業場

(一中健児之塔)
県立首里高校の前身で、1789年王府により創立された歴史を持つ県立一中関係戦没者の慰霊塔。寒水川樋川から200m程東の赤マルソウ通りを左へ入った所にある。 1945年3月、5年生と共に4年生も卒業となり、在学の3年生をも含め鉄血勤皇隊の編成に加わり、第5砲兵指令部へ配属されたほか、通信隊要員として訓練されていた2年生も、少年特別志願兵として電信兵第36連隊へ入隊を命ぜられ、戦闘に従事した。動員者数398名中210名が戦死し、教職員等を含め800余名が犠牲となった。なお、これらの中学生の入隊は、法的根拠のないまま行われたものである。沖縄戦で日本軍が敗北したのを受けて、1945年6月、本土決戦に備えていわゆる義勇兵役法(男子15歳以上を対象)が制定された。
案内板   全景   慰霊塔
入口の施設案内  慰霊塔施設全景  慰霊塔
戦没者刻銘板   カンヒザクラ
戦没者刻銘板と一中健児像  カンヒザクラ 

(古曳門周辺へ〜玉陵、首里杜館、琉球大学跡の碑、トーチカ跡)
・一中健児之塔を出て急な坂を上ると、県道50号に出る。正面が首里高校、右側が玉陵である。その先に守礼門が見える筈が、保存修理工事中のため(全体が虫食い状態らしい)、工事用シートで覆われ、いつもの風景はない。観光名所を期待していた団体客は、何か釈然としない顔をしていた。琉球衣装の写真勧誘も歓会門前へ営業拠点を移していた。
・守礼門の先を右折すると右側が首里城公園レストセンター(首里杜館)、左手古曳門への通路際に琉球大学跡の碑がある。 琉球大学は、占領下の1950年、米国軍政府の命令により、沖縄における初めての大学として首里城跡に設立されたもので、現在の首里城正殿の場所に正殿と同じ向きで大学の本館が置かれていたという。1972年の沖縄本土復帰により国立大学となり、首里城の復元計画に伴い、1984年までに那覇市近郊の西原町へ移転した。由緒ある王宮の跡に大学を建てるなどといった乱暴なことは、米軍支配下だから可能だったのであろう。私が初めて沖縄を訪れたのは1974年初めであり、守礼門の先が琉球大学との説明を受けたことを覚えている(歓会門は復元工事中だった筈)。
・少し先のT字路の角に、説明板も何もないコンクリートの構造物があるが、これがトーチカ跡である。それと気づく人は皆無と言ってよく、現地で交通整理をしている年配の人も知らなかった。司令部を巡る激戦が行われ、焦土の中で地上に残ったものなのである。貴重な戦跡なのだから、説明板くらい出すべきだろう。観光的には、意味がないという認識なのだろうか。そうだとすれば、沖縄自体で戦争の風化が進んでいることになろう。
世界遺産の碑   遥拝所   入口
世界遺産「玉陵」の碑  玉陵遥拝所  玉陵への入口
玉陵全景   琉球大学跡の碑   トーチカ
玉陵全景  琉球大学跡の碑  トーチカ(被弾痕や銃眼が見える)
レストセンター前庭   同左ブーゲンビレア   休憩所のショウ
レストセンター前庭  同左ブーゲンビレア  休憩所のショウ

(沖縄守備隊第32軍司令部跡)
歓会門前を龍潭・円鑑池へ降りる途中にある。
沖縄守備隊第32軍は1944年3月、連合軍の上陸に備え編成され、沖縄戦末期の'45年5月27日南部へ撤退するまで、首里に司令部が置かれていた(5/27⇒南風原、5/30⇒摩文仁)。 司令部壕は地下30m、南北に貫通する約390mの坑道を中心に枝線を広げ、総延長は千数百メートルほどあった。 壕内部は、崩落が著しく、沖縄県が対応策を検討しているようだが、危険なので埋めてしまうことも選択肢に入っているらしい。沖縄戦の生々しい跡をなくして、単なる観光地にしてよいものか。豊見城の海軍壕のようにはいかないにしても、保存の努力をしても良いのではないか。説明板が設置されたのもごく最近のことである。道路を挟んだ司令部壕の反対側には無線通信所壕入口がある。いずれもかなリ埋まっている。
司令部壕近くにアカギの大木がある。戦前は、太さ1mに及ぶ枝を首里城城壁まで伸ばしていた大木だが、沖縄戦で焼けてしまった後、アコウが寄生し、大きな木に成長した。
32軍司令部壕入口   無線通信所壕入口   アカギの大木
沖縄守備隊第32軍司令部壕入口  無線通信所壕入口  焼けたアカギの大木

(円覚寺跡、沖縄師範学校跡)
・円覚寺は、1495年、尚真王が父尚円を祀るため、第二尚氏の菩提寺として京都南禅寺の僧の開山により建立した、沖縄における臨済宗の本山。鎌倉円覚寺を模した七堂伽藍で、戦前は国宝に指定されていた。 方生池に架かる石造の放生橋(国指定重要文化財)を残し、沖縄戦ですべて焼失した。総門は1968年復元。入口は閉まっているので、脇から入るが、放生橋には近寄れないため、沖縄石彫美術の傑作と言われている橋の彫刻は見ることができない。
戦後は、跡地を琉球大学が使用し、遺構は破壊されたり、埋められたりした。現在も一部は県立芸術大学の用地になっている。
・円覚寺跡前の道路を挟んだ向かい側、県立芸術大学駐車場の一角に沖縄師範跡の碑と校門の柱がある。 沖縄師範学校は1943年に、それまでの県立師範学校、女子師範学校を統合し、官立の師範学校として設立したもので、龍潭の畔にあったが、生徒の多くは沖縄戦の犠牲になった。学校も廃止となり、戦前の官立師範学校で唯一継承する大学のない師範である。沖縄戦で残った正門の一部を芸術大学の駐車場の一角へ移設し、師範学校跡の碑を建立したものである。門柱には、無数の弾痕が見られる。
円覚寺総門   方生橋   同左石彫
円覚寺総門  方生橋  方生橋の石彫
円覚寺総門脇の入口   沖縄師範正門
円覚寺総門脇の入口  沖縄師範跡の碑と正門 

(円鑑池、弁財天堂、天女橋)
円鑑池は、1502年円覚寺の前に造られた人工池で、首里城の龍樋から流れ出た湧水が、円鑑池から龍淵橋を通って北側の龍潭へ流れるように造られている。ただし、現在では水位が低く、両池は繋がってはいないようだ。 池の中に造られた弁財天堂は、朝鮮から贈られた方冊蔵経を納めるためのもので、そこへ至る琉球石灰岩を使った橋が、天女橋である。 1609年の薩摩侵攻により、堂は破壊され、経典も失われたが、1629年に再建。沖縄戦で再び破壊されたが、1968年に復元された。
弁天堂と天女橋   弁天堂   天女橋
弁天堂と天女橋(円覚寺側から)  弁天堂  天女橋
円鑑池と弁天堂   円鑑池の石垣
円鑑池と弁天堂(龍淵橋から)  円鑑池の石垣 

(龍潭)
1427年、尚巴志が築造した龍頭形の人工池。首里城が水面に映る琉球随一の名勝地で、冊封使を龍舟の宴に招き歓待した。周囲416m、面積8,400u。龍潭池北端から首里城を望む風景は絶好の撮影ポイント。
龍潭から見た龍淵橋   龍潭の風景   同左
龍潭から見た龍淵橋  龍潭の風景  龍潭の風景
龍潭の風景(龍淵橋方向)   龍潭入口(龍潭通り)
龍潭の風景(龍淵橋方向)  龍潭入口(龍潭通り=県道29号線側) 

(松山御殿跡、佐司笠樋川)
旧松山御殿は、尚真王の長女佐司笠按司加那志の御殿として築造され、最後の琉球国王尚泰王の四男尚順(男爵、1873〜1945)が住居としていた、約5000坪を占める邸宅跡である。龍潭の北約400mの県道28号沿いの一角で、ゆいレール儀保駅近く(首里桃原)。
尚順は、父尚泰が明治政府により東京移住を命じられたのに伴い、7歳で上京したが、20歳で帰郷し、琉球新報や沖縄銀行を設立するほか、自宅庭園に農園を開き(現桃原農園=総合造園、土木業)、沖縄農業にパイナップルなどを導入した。また、宝貝の大蒐集家でもあり、柳田國男の宝貝を巡る所説は、そのコレクションを見せてもらったことが契機になったようだ(柳田國男「海上の道」)。
尚順一家は、沖縄戦で殆どが犠牲になったが、戦禍を免れた六男が財産を引き継いだ。庭園は、現在非公開であるが、一角にあるイタリア料理店「ラ・フォンテ」のテラス席から、その一部を望むことができる。テラス際の樹木は、尚順が沖縄に初めて持ち込んだマンゴーの木だが、実はならないそうだ。
旧松山御殿庭園の一部(「ラ・フォンテ」の庭園)   旧松山御殿庭園の一部(「ラ・フォンテ」の庭園)   「ラ・フォンテ」のテラスと庭園
旧松山御殿庭園の一部
(「ラ・フォンテ」の庭園風景)
  同左  テラスと庭園
テラス席   テラス席と庭園上り口)   「ラ・フォンテ」正面
テラス席  テラス席と庭園上り口  「ラ・フォンテ」正面(県道28号沿い)
佐司笠樋川は、松山御殿の敷地内にある湧水。桃原村の貴重な飲料水であり、どんな干ばつでも涸れることはなかったと伝えられている。加那志がいつも鷺が止まる木を見て掘り当てたとの伝えから別名鷺泉(ろせん)と呼ばれる。なお、自由に入れるよう案内があるが、実際には入れず、ラ・フォンテのマネージャーに案内して頂いた。
佐司笠樋川   佐司笠樋川・仕事場)   仕事場への降り口
佐司笠樋川  佐司笠樋川・生活仕事の場  仕事場への降り口
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2. 首里城

(古曳門、西のアザナ)
今回は、古曳門から城内に入る。古曳門は、アーチ形の石造りの門で、王朝時代は城内で工事のある時だけ、資材搬入などに使われた。現在は、車椅子やベビーカー対応の順路になっている。
木曳門を入ってすぐ右側が「西(イリ)のアザナ(台)」と呼ばれる所である。城郭の西端に位置する標高130mの高台で、王朝時代物見台が築かれ、旗を立て鐘を備えて時刻を報じていた。現在も市内を見下ろす展望台になっている。
古曳門)   古曳門)   西のアザナ
古曳門  同左  西のアザナ・奥が展望台
県庁方面を望む   新都心方面を望む)   新都心を望む
展望台から県庁方面を望む  同左新都心・那覇新港方面を望む  新都心を望む・中央に安里配水タンク

(京の内、首里森御嶽、系図座・用物座)
西のアザナの先が、全域を石積みの壁に囲まれた、京の内と呼ばれる聖域になる。首里城発祥の地と言われ、聞得大君が祈った、祈りの中心たる聖域である。京の内は、「けおのうち」と表記され、「気の充満する聖域」と解釈されているという。京の内を出て、道なりに辿ると、奉神門の前に出る。奉神門から正殿を望むと、塗り替え工事が終わり、現在は奉神門の塗り替え工事中である。奉神門の前の広場を、下之御庭と呼ぶ。奉神門に向かって右側の拝所が、首里森御嶽と呼ばれる琉球開闢神話に登場する聖地である(当然首里城ができる前からある。1997年復元)。奉神門の反対側にある建物が系図座・用物座で、現在は案内所兼休憩所になっている。系図座とは、系図管理や歴史書の編纂を、用物座は、物品管理を司る役所で、明治期に撤去されたが、2000年に復元された。
京の内入口)   京の内案内マップ)   京の内内部
京の内入口  京の内案内マップ  京の内内部
京の内展望台から城郭外壁を望む   首里森御嶽)   系図座・用物座
京の内展望台から城郭外壁を望む  首里森御嶽  系図座・用物座

(龍樋、久慶門)
帰りは歓会門方向へ降りる。広福門前から龍潭方面を展望。
瑞泉門前に龍樋という湧水がある。首里城第一の泉で、王宮の飲料水として使用されていた。石製の龍は、1523年に中国へ行った慶賀使が持ち帰ったもので、破壊されずに残った貴重なものだそうだ(一部修復)。首里には湧水が多く、現在でも大事に残されている。水が豊富であることが、王宮を置く条件の一つであったろうことが、容易に想像されよう。
正門の歓会門に対し、久慶門は通用門的存在で、主として女性が利用していた。現在は、出口専用になっている。
広福門前から龍潭を望む)   龍樋)   石製の龍
広福門前から龍潭を望む  龍樋全景  石製の龍
久慶門   久慶門内側)
久慶門  久慶門内側 

(舞への誘い)
毎週水・金・土・日と休日に琉球舞踊の公演が行われている。下之御庭の系図座・用物座に舞台をつくり、テントを張って観客席を設けている。各地の琉球舞踊の団体が交代で出演しているもので、1日3公演行われている(所要30分、無料)。
舞への誘い案内板)   四つ竹   本貫花
舞への誘いの案内  四つ竹  本貫花(ムトゥヌチバナ)
仲里節   仲里節)   貫花
仲里節(雑踊り)  同左  貫花(ヌチバナ)
(ヌチバナ:手に持った紅白の花のこと)
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3. 金城町石畳道
尚真王の時代、首里と各地を結ぶ道が作られた。このうち、国場川河口(旧那覇港)までの道を「真珠道(マダマミチ)」と呼んでいる(1552年着手)。古曳門先のトーチカの前、興禅寺横の細い道がその入口で赤マルソー通りまでが、島添道(シマシービラ)と呼ぶ急坂である。赤マルソー通りから下る300m程が、沖縄戦による破壊を免れた「金城町石畳道」であり、歩きにくいものの昔からの石垣などが残され、往時の首里の町の面影を残す一角であるが、勾配がきつく、足元も良くないので注意が必要である。「日本の道100選」にも選ばれている。
シマシービラ入口   赤マルソー通りからシマシービラを望む)   石畳道入口
シマシービラ(島添坂)入口  赤マルソー通りからシマシービラ望む  赤マルソー通りの石畳道入口
石畳道の様子   石畳道の様子)
石畳道の様子  石畳道の様子

(内金城御嶽、大アカギ)
石畳道の途中を左へ行くと(平坦な道)、大アカギの林が見えてくる。
340余年前、村人が通るたびに霊気に打たれたことから、王府に願い出て拝所とした。東側が大嶽、西側が小嶽。
大アカギは、樹齢200年以上の大木で6本あり、樹高20m。戦前には首里城の内外にこのような大木が見られたが、沖縄戦でここを除き、すべて焼失した。沖縄戦の生き残りである。 アカギの林の中に、壕と拝所があるが、ここは270年以前から続く旧暦12月8日の鬼餅行事(ムーチー)由来の場所である。沖縄戦当時は、この近辺に三つの壕があり、爆風で数名の犠牲が出た。
大アカギの林   大嶽   小嶽
大アカギの林  大嶽  小嶽
壕   大アカギ
壕と拝所  大アカギ 

(金城村屋、金城大樋川、仲之川)
石畳道の中ほどに金城村屋と呼ばれる、琉球家屋を再現した集会所兼休憩所がある(1996年築)。村屋とは、公民館のような機能を持つ村民の交流の場だった。
村屋に隣接した金城大樋川(カナグスクウフィージャー)は、金城村の共同井戸である。1686年に薩摩の製紙法を導入し、ここの水で紙を抄いたことから、琉球製紙発祥の地とされている。
金城大樋川の奥へ上っていくと、仲之川(ナカヌカー)。東側の金城大樋川と西方にある寒水川樋川の間に位置するということで、この名がある。涸れることのない王朝のご用水だったという。石垣の壁に見える香炉は、湧水には水の神がいると信じられ、信仰の対象になっていることを示すものであろう。
金城村屋   金城樋川   仲の川
金城村屋  金城樋川  仲の川
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那覇新都心
(那覇新都心・水の道ゾーン)
・那覇市内の戦跡・史跡と都市施設
1. 戦跡

(シュガーローフ)
那覇新都心(おもろまち)のDFS前に、頂上部に配水タンクが置かれた丘がある(安里配水池公園という)。沖縄戦における激戦の一つであるシュガーローフの戦いと呼ばれる戦闘があった丘である (シュガーローフは米軍の呼称、日本軍は安里五二高地と呼んでいた)。那覇の市街地は1944年10月10日の「10・10空襲」と呼ばれる9時間に及ぶ大空襲により、その90%が焼失していたが、1945年5月12日〜18日に、日本軍は、首里司令部至近のこの地まで迫って来た米軍を阻止する最後の砦として、凄惨な死闘を繰り返した。日本側の戦死者は不明だが、米軍は2,662人の戦死者と1,299人の戦闘疲労症(一種の精神異常)を出したという。ここを突破された4日後に日本軍は首里司令部の放棄を決め、5/27南部への撤退を開始し、一か月にわたる住民を巻き込んだ、何ともやりきれない南部の戦闘が始まるのである。
新都心開発計画では、丘全体を切崩し、平地にして利用しようという案もあったが、激戦の跡を残したいという運動があり、一部を公園として残したものである。巨大な配水タンクの脇の展望台からは首里城が望める。
(写真はクリックで拡大します。)
安里配水池公園全景   配水タンク   日の出直後の首里城を望む
安里配水池公園全景  配水タンク  日の出直後、展望台から首里城を望む

(対馬丸記念館)
1944年8月22日夜10時過ぎ、乗船客1800名を乗せた疎開船対馬丸(日本郵船所有貨物船、6,754トン)が、長崎に向け鹿児島県悪石島沖を航行中、米海軍潜水艦の魚雷攻撃により沈没し、学童775名を含む1,418名(氏名判明分)が犠牲になった。沖縄戦に先立ち、疎開船により約8万人が本土へ疎開した中で、最大の痛ましい事件である。
1997年に水深871mの海底に船体を確認し、遺族は引き上げを要請したが、不可能との政府の検討結果が示され、代案として記念館の建設となったものである(若狭、旭ヶ丘公園の一角、2004年開館、ゆいレール県庁前から徒歩10分程度)。 遺留品など何一つないことから、展示するものがなく、資料や証言のパネル展示が中心となっている。それにしても、ひめゆり平和祈念資料館などに比べ、何とも見学者が少ない。
対馬丸記念館   対馬丸記念館内部   対馬丸記念館内部
対馬丸記念館正面(2階が入口)  対馬丸記念館内部  同左展示室
(子桜の塔、海鳴りの像他)
子桜の塔は、1953年に沖縄の学童戦没者を慰霊すべく、愛知県河合桂氏の申出により護国寺境内に建てられ、その後旭ヶ丘公園に移設された。毎年8月22日に慰霊祭が行われる。
このほか、旭ヶ丘公園には、対馬丸以外の撃沈された戦時遭難船舶25隻による犠牲者1,927名を祀る「海鳴りの像」(1987年建立)や、 「戦没新聞人の碑」か建てられている。なお、記念館から子桜の塔へ行く場合、旭ヶ丘公園の中を通ると、小さな丘を越える必要がある。公園の外側を回れば、平坦なルートである。
子桜の塔   海鳴りの像   戦没新聞人の碑
子桜の塔  海鳴りの像  戦没新聞人の碑

2. 史跡

(牧志周辺)
崇元寺跡(石門、崇元寺御嶽(那覇市泊))
・崇元寺は、1527年に創建された臨済宗の寺院で、琉球王朝の国廟の地位にあった。冊封使が来たときは、新王の冊封に先立ち、先王を祀る諭祭が行われた。戦前は国宝に指定されていたが、沖縄戦で建物は全壊し、再建されることなく公園になっており、石門だけが残されている(国指定重要文化財)。正面中央の三連アーチ門(拱門)は、沖縄石造拱門の代表的なものと言われている。
中へ入ると、正面に巨大なガジュマルの木が聳えている。沖縄戦を何とか潜り抜けたのであろう、見事な木である。
・崇元寺御嶽は、崇元寺公園入口のガジュマルの根元にある拝所で、尚円王が作った同王ゆかりの御嶽とされている。馬の鞭に関わる伝承から別名遺鞭御嶽と言われている。
崇元寺石門   崇元寺石門   崇元寺石門内側
崇元寺石門  三連アーチ門  内側から見た三連アーチ門
寺院跡   ガジュマル大木   崇元寺御嶽
寺院のあった場所(公園)  ガジュマルの大木  崇元寺御嶽
浮縄嶽(オキナワノ嶽、那覇市安里)
崇元寺跡近くの安里寄り交差点を右折した、すぐ右側のビルの陰にある。旧安里村の拝所で、由緒あるものの由。海上交通の安全やハーリーの勝利祈願をしたという。沖縄の語源との説がある。
浮縄嶽   浮縄嶽
浮縄嶽(大きな祠)  浮縄嶽(左奥の小さな祠) 
軽便鉄道と姫百合橋
戦前の沖縄には、軌間762mmの県営軽便鉄道が走っていた。起点の那覇駅は、現在の那覇バスターミナルの場所にあり、与那原線(1914年開業、9.4km)、嘉手納線(1922年、22.4km)、糸満線(1923、15.0km)及び那覇港までの貨物線1.0kmを加え、合計47.8kmを擁していたが、沖縄戦で全て壊滅し、復活することはなかった。戦災で破壊された鉄道が全く再建されなかったのは沖縄だけではないか。
国道330号のひめゆり通り(古波蔵〜安里)とその北の那覇市内部分は、嘉手納線の軌道跡地を拡幅して造られたものである。ゆいレール・安里駅の南200mほどのところに安里川が流れており、国道330号に「姫百合橋」が架かっている。大正末期、嘉手納線の橋はあったが、歩行者用には、歩くと揺れるような仮通路橋しかなく、ある荒天の日にここを渡ろうとした高女の生徒が転落死した。 これを受けて、ここに木の橋が架けられ、昭和に入り、「姫百合橋」と称し、それが「ひめゆり」の起源となったという。軽便鉄道については、県立博物館に展示コーナーが設けられている。なお、嘉手納線の線路跡が、浦添市のパイプライン通り(県道251号)沿い、県立特別支援学校の前に残されている。
姫百合橋   軽便鉄道線路跡
姫百合橋  軽便鉄道線路跡(浦添市屋冨祖) 

(若狭、松山、泊地区)
松山公園(那覇市松山)
ゆいレール県庁前近くの久茂地交差点から松山通りに入ると、那覇商業高校隣に市営松山公園がある。市民の憩いの場であるが、松山通り沿いに二つの碑がある。
<久米村発祥地 の碑>市内久米地区は、福建省から渡来し、帰化した久米三十六姓と呼ばれる人たちが住んだところである。明の洪武帝(太祖)の命により渡来したという説があるが、いずれにしても14世紀末以降貿易・商売などのために随時渡来し、帰化した中国人の人たちを指す。主として、中国・琉球間の外交や貿易に従事し、18世紀前半に活躍した琉球史上最も偉大な三司官(宰相職) と言われる蔡温をはじめ、多くの政治家や学者を輩出している。因みに、現在の住所では、福州園のある松山通り西側が久米である。
<県立第二高女跡の碑>白梅学徒隊で知られる県立第二高女は、戦前この地にあったが、1944年10月の大空襲で全焼し、そのまま廃校になった。創立80年に当たる1984年、跡地に「白梅の乙女たち」碑が建立された。
久米村発祥地の碑   白梅の乙女たち   広場とガジュマル
久米村発祥地の碑  第二高女跡「白梅の乙女たち」  同左前の広場と大ガジュマル
(映画「カラカラ」のラストシーンはここ)

護国寺、波之上宮(那覇市若狭)
・護国寺は、波の上ビーチのある、若狭地区に現存する沖縄で最も古い寺院(真言宗、1368年創建)。王朝末期には、外国人接見用の施設として用いられた。1846年来琉した英国国教会の宣教師ベッテルハイムも住んだ。ベッテルハイムは、医師でもあり、聖書の琉球語訳などのほか、種痘を広めたことで知られている。8年間滞在し、ペリーと共に渡米した。来琉80年記念碑が、1926年に建てられた。
また、遭難し台湾に漂着した宮古島島民54名が台湾原住民に殺害された事件(1871年)の犠牲者の墓が1898年に建立されている。1874年の台湾出兵の理由とされ、日清戦争後の台湾領有につながる歴史的事件である。
・波之上宮は、王府が建てた琉球第一の神社で、かっては国王も正月には参拝したという。創建時期は不詳であるが、琉球の神社は真言宗の寺院に併置され、社寺同時に創建されていることから、護国寺と同じ時期と考えられよう。護国寺は参拝者皆無なのに対し、こちらは大いに賑わっていた。
護国寺   ベッテルハイム記念碑   台湾遭難者之墓
護国寺  ベッテルハイム博士居住之趾  台湾遭難者之墓
波之上宮   波之上宮
波之上宮一の鳥居  波之上宮拝殿 
久米至聖廟(孔子廟)、明倫堂(那覇市若狭)
孔子廟は、久米三十六姓の人々によって、当初1676年に久米に建てられた。 また、明倫堂は、1718年に設立された久米村の子弟のための教育施設で、琉球における公教育の嚆矢とされているが、いずれも沖縄戦で灰燼に帰した。 現在の施設は、1975年に隣の若狭地区(護国寺隣)に再建されたものであるが、久米地区に戻したいとの要望を受け、2013年3月を目途に、福州園北側隣接地に新たな施設を建設中である。
至聖廟・門   大成殿   天尊廟、天妃宮
至聖廟・門  大成殿(本殿)  天尊廟(手前)、天妃宮(奥)
明倫堂   工事中の新至聖廟
明倫堂  久米地区にて工事中の新至聖廟 
泊外人墓地・ペリー上陸碑(那覇市泊)
離島航路の船舶が発着する泊港の北岸に隣接した場所に、交易や宣教で来琉し、この地で没した外国人の墓地がある。
墓地の一角に「ペルリ提督上陸之地」の碑が建てられている。浦賀に来る3か月前の1853年5月26日、ペリー率いる艦隊が那覇港に停泊し、6月6日には反対を押し切って上陸、首里城に入った。もっとも、これに先立ち読谷で上陸し、番所で休憩した事実があり、また、探検隊が中城を見学し、その築城技術を賞賛しているとの伝えもある。鉄壁のような幕藩体制下の鎖国体制とは趣を異にし、大らかな感がある。
泊外人墓地   ペリー上陸碑   泊大橋
泊外人墓地  ペリー上陸碑  泊大橋
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3. 都市施設と町並み

(県立博物館・美術館)
那覇新都心に2007年11月開設された、博物館と美術館を併せた施設であり、新都心で最も目立つ巨大な建築物である(延床面積23.7千u)。グスクをイメージして設計されたというが、コンクリートの外壁は、グスクの石積みにみられる柔らかな曲線のイメージとはかなり異質で、要塞の感じである。東側は、歩道際まで建てられており、圧迫感を与える。内部は、明るく現代的な雰囲気の空間となっている。
弾痕を残す円覚寺の鐘、万国津梁の鐘(旧首里城正殿の鐘、以上総合展示室=撮影禁止)、港川人の人骨を見るのが主目的であったが、展示内容は非常に充実している。丁寧に見れば、半日コースだろう。
美術館はパンフレットも作成しておらず、入る人はまばらだった。当方も駆け足で回った。 なお、博物館は、首里の県立博物館が規模を拡大し、移転したものである。県立美術館は沖縄で初めて設置された。
正面   エントランスアプローチ   建物東側
正面  エントランスアプローチ  建物東側
エントランスホールの天井   博物館常設展示室入口   港川人人骨
エントランスホールの天井  博物館常設展示室入口  港川人人骨展示コーナー
高倉(屋外展示)   民家(屋外展示)
高倉(屋外展示)  民家(屋外展示) 

(福州園)
那覇市制70周年と福建省福州市との友好都市10周年記念として、1992年、松山公園前に開設したもので、福州の四季を表現した施設で構成された、面積8,500uの中国式庭園(那覇市営)。設計・施工は、福州川の職人により、福州から持ち込んだ資材を使って行われた。
大門   福州の石獅子(大門前)   照壁
大門(正面入口、奥に照壁が見える)  福州の石獅子(大門前)  照壁
照壁裏側   東冶堂   鳥塔
照壁裏側(欧冶池に面し「影嵐光湖」
と刻されている)
  東冶堂
(4本の龍柱をもつ福州の代表的建築)
  鳥塔
(典型的な福州の景観、御影石づくり)
冶亭と瀧   冶亭からの展望   李白像
冶亭と瀧
(福州の名勝「冶山」の水景)
  冶亭から欧冶池、照壁、大門を望む
(欧冶池は福州古城の名勝)
  冶亭下の李白像

(壷屋やちむん通りとすーじぐゎー)
1682年、当時の王の命により、各地の陶工を首里近郊の壷屋地区に集め、焼き物街を造ったのが壷屋焼の始まりである。国際通りの牧志から平和通りの市場街を通過し、アーケードがなくなるとやちむん通りが見えてくる。やちむん通りに入ると、左側に「壷屋焼物博物館」がある。メインのやちむん通りと周辺のすーじぐゎー(路地)一帯が焼き物の街を形成している。
壷屋焼物博物館   壷屋焼物博物館内部   壷屋焼物博物館内部
壷屋焼物博物館  同左内部  同左
ニシヌメー(北の宮)   フェーヌカマ(南ヌ窯)   ウフガー跡の祠
ニシヌメー(北の宮)
(1918年建立の壷屋の守り神)
  フェーヌカマ(南ヌ窯)(王府から拝領の
荒焼専用登り窯、長さ20m)
  ウフガー(共同井戸)跡の祠
この地区は、奇跡的に戦争の被害が少なかったところで、やちむん通りの途中から左の路地に入った「いしまち通り」は、昔からの街並みを残している。この通りがやちむん通りに合流する手前に、壷屋の伝統的建築様式を残す民家として国の重要文化財に指定されている新垣家住宅があり、また、その敷地内に上焼専用の登り窯があるが、いずれも現在保存修理中である(完成2016/3)。
やちむん通りに出ると間もなく東の入口であるひめゆり通りになる。その角に壷屋で最も古いアガリ(東)ヌカーがある。今でも使われているようで、手押しポンプがあり、勢いよく水が出る。
いしまち通り   いしまち通り   いしまち通りの工房
いしまち通りの様子  同左  いしまち通りの工房
ビンジュルグヮー   ビンジュルグヮー隣家のシーサー   新垣家住宅・工事説明板
ビンジュルグヮー(壷屋地区の御嶽)  ビンジュルグヮー隣家のシーサー  新垣家住宅・工事説明板
東ヌカー   やちむん通り入口(平和通側)
東(アガリ)ヌカー(裏はひめゆり通り)  平和通側からのやちむん通り入口 

(さいおんスクエア)
さいおんスクエアは、牧志駅に隣接し、国際通りに面する2.3haの市街地再開発プロジェクトである(組合施行、2010年完成)。敷地内を通る安里川を挟んで安里地区に25階建て住宅棟(161戸)が、国際通りに面する牧志地区に商業施設、ホテル、公民館・図書館からなる業務棟(23千u)が配置されている。参加組合員となった大和ハウスが、ディベロッパーとして中心的な役割を果たしたようだ。かっては川が氾濫したり、火災の危険のある家屋が密集する地域で、国際通りもここまで来るとやや場末的な感があったが、この施設の誕生で面目を一新したようだ。 国際通りに面した広場には、壺屋陶器事業協同組合の組合員が制作した、高さ3.4mの巨大な壷屋焼シーサーが置かれている。 国際通りの安里川に架かる橋は蔡温橋と呼ばれている。蔡温は、土木技術者でもあり、安里川の治水、運河としての整備に尽力したそうだ。
巨大シーサー   業務棟全景   牧志駅との連絡橋
巨大シーサー  業務棟全景、右端が住宅棟  牧志駅との連絡橋

(栄町市場商店街)
現在のゆいレール安里駅東側は、1908年以来県立沖縄第一高等女学校が置かれていた場所である。そして、1915年以降は女子師範が併置されていた。沖縄戦でこの地域も壊滅、瓦礫の山となり、学校が復活することはなかった。
栄町市場商店街は、戦後この地に闇市から誕生したもので、当時と殆ど変わらぬ姿で現存している。かつては那覇市の中心街として栄えたものの、その後すっかり寂れてしまった。近年は、買物客よりも、夜の飲食店中心に来客が増えているという。(2012.1現在85店舗)。この商店街の中にひめゆり同窓会の事務所がある。
栄町市場入口   栄町市場内部   栄町市場内部
栄町市場入口  栄町市場内部  同左
ひめゆり同窓会事務所
ひめゆり同窓会事務所
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浦添ようどれ
(浦添ようどれ模式図)
・浦添、宜野湾、史跡・戦跡
1. 浦添城跡、浦添ようどれ

(浦添城跡、浦添ようどれ)
浦添城は、那覇北方の標高130mの丘の上に位置し、沖縄戦の激戦地となったが、現在は城跡公園として整備されている。
浦添は12世紀後半、舜天王により建国されたと伝えられる、琉球王国(中山)の本拠であり、首里に先立つ都の地である(いわゆる為朝伝説では、舜天は保元の乱に敗れ琉球に逃れた源為朝の子とされている)。次の英祖王統英祖王が歴史的に確認される最初の人物であるが、戦いに勝れていたほか、農民に鉄製農具を与え、農業の振興を行った。そして、その次の察度王朝が、1406年に南部の佐敷(現南城市)から挙兵した尚巴志により滅ぼされた。王宮は首里に移され、浦添城は廃墟となった。1524年に、第二尚氏の尚真王の長男が浦添按司となり、浦添城を居館としたが、尚寧王(浦添出身の王)の時代1609年に薩摩の侵攻を受け焼打ちに会い、以降浦添は政治経済の舞台から外れた農村となった。
浦添が琉球王国発祥の地として再認識されたのは明治以降で、沖縄学の父と呼ばれる伊波普猷の業績による。伊波普猷の墓は、この城跡にある。
浦添城館跡   浦添城館跡   浦添城館跡
浦添城館跡
(展望台がある丘の頂上の平坦地))
  同左  同左
浦添市街地望む   ハナリジーを望む
浦添市街地望む(左沖縄電力発電所)  ハナリジーを望む 
伊波普猷の墓   ディーグガマ(渡嘉敷御嶽)   浦和の塔
伊波普猷の墓  ディーグガマ(渡嘉敷御嶽)
(かって近くにデイゴの大樹があった)
  浦和の塔
浦添ようどれは、英祖王の時代(13世紀後半)に築かれた王陵である。尚寧王もここに葬られた。浦添城のある丘の北側崖下にあることから、沖縄戦で壊滅したが2005年までに復元された。
浦添ようどれへの降り口   浦添ようどれ・王陵へ向かう   王陵への入り口
浦添ようどれへの降り口  浦添ようどれ・王陵へ向かう  王陵への入り口
東室(尚寧王陵)   西室(英祖王陵)   西室(英祖王陵)の復元模型
東室(尚寧王陵)  西室(英祖王陵)  西室(英祖王陵)の復元模型
(浦添グスク・ようどれ館展示)
(前田高地の戦いとハナリジー)
この地域は、戦時中「前田高地」と呼ばれた丘で、1945年4月26日から11日間にわたって「前田高地の戦い」と呼ばれる、猛烈な戦闘が行われた地である。ことに、浦添城跡東端の巨石ハナリジー(為朝岩、戦車機動不可能な絶壁で、米軍呼称ニードルロック)の攻防は激烈を極め、米軍は5日間10回に及ぶ攻撃でようやく占領した。地形も変わってしまったという。日本軍は27千人の犠牲者を出し、嘉数台に続くこの戦いで沖縄戦の事実上の勝敗は決まったのだが、逆に言えば、総崩れにはならなかったゆえ、この後、首里〜南部・摩文仁まで戦いを続けることにもなったと言える。沖縄師範生徒で入隊し、前田高地の戦いを体験した、故外間守善法政大学名誉教授(伊波普猷の後継者とされる沖縄文学・国語学者、1924〜2012)は、戦後60年目にしてその体験を綴った著書において、次のように述べている。
    「・・・嘉数高地、前田高地、せめて首里高地で軍司令部が玉砕か降伏していればあれほど多く
     の非戦闘員である沖縄県民を巻き添えにせずにすんだのだ。」(注)
   (注)「私の沖縄戦記 前田高地・60年目の証言」(角川学芸出版、2006)

浦添城跡からはハナリジーの近くには行くことができないが、浦添グスク・ようどれ館の職員の方が、案内をしてくださった。一旦下の県道に出て丘を回り込み、小さな山道を登って行った墓地の先であり、地元の人でなければ到底行くことのできない場所だった。感謝に堪えません。
ハナリジー(為朝岩)   ハナリジー下の拝所   ハナリジー下から嘉数台を望む
ハナリジー(為朝岩)
(米軍呼称ニードルロック)
  ハナリジー下の拝所  ハナリジー下から激戦地嘉数台を望む
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2. 嘉数台、普天間周辺

(嘉数台高地公園)
・嘉数台(宜野湾市)は、前田高地の北側、文字通り目と鼻の先に位置する標高90mの丘である。首里防衛のための陣地が構築され、南下する米軍を迎え撃った沖縄戦最大級の激戦地である。1945年4月8日から16日間の熾烈な戦闘で、日本軍はここだけで6万人以上の、日米両軍で9万人とも10万人とも言われる戦死傷者を出し、この戦いが事実上の決戦とさえ言われている。
一帯は嘉数台高地公園として整備されており、嘉数集落で戦闘に巻き込まれた屋敷の弾痕の塀から階段を上ると、丘の上に公園のランドマークたる地球儀型展望台の他、良く知られている京都の塔(1964年建立)などの慰霊碑、トーチカなどが残されている。
・米軍海兵隊普天間飛行場至近に位置することから、展望台は同飛行場の恰好の見学場所となっている。昨年来のオスプレイ配備問題で、来訪者が増えているようで、今回の訪問時にも背広姿の一団が訪れていた。多分オスプレイの飛行訓練と関係のある自治体関係者ではないかと観察した。
残念ながらと言うべきか、オスプレイの飛行状況を観察することはできなかった。
弾痕の塀   階段から展望台を望む   トーチカ
弾痕の塀(階段上り口、綺麗に装飾し
過ぎ単なるモニュメントと勘違いする)
  階段から展望台を望む  トーチカ
京都の塔   京都の塔説明文   嘉数の塔
京都の塔  同左碑文  嘉数の塔(嘉数住民の慰霊塔)
(京都の塔の横に建てられている)
普天間飛行場を望む   オスプレイの一群
展望台から普天間飛行場を望む  駐機するオスプレイの一群 

(普天間第二小学校、沖縄国際大学)
普天間第二小学校は、普天間飛行場北端の滑走路のほぼ真下に位置し、航空機の騒音により教育活動が妨げられ、また事故の危険にさらされている例として、よく紹介されているところである。実際に体験すべく寄ったのだが、幸いというべきか、その間航空機の飛来はなかった。他の場所でも、今日は飛行が少ない、との声が聞かれた。
これまで移転の話が何回か出たようだが、基地反対運動の側の「市民団体」からの、基地固定化につながるといった理由で、いずれも頓挫したという。教育環境の改善や児童の安全確保よりも、基地反対運動の象徴がなくなっては困るというのが本音のようで、「市民団体」・「市民運動」にまゝ見られる欺瞞性というほかない。
普天間第二小学校校門   遊具のある校庭の石垣の上が基地   基地のフェンス
普天間第二小学校校門  遊具のある校庭の石垣の上が基地  基地のフェンス
沖縄国際大学は、米軍普天間飛行場の南端に隣接している。2004年8月13日、同飛行場所属の大型ヘリコプターが当大学の本館に墜落・炎上した。同建物は取り壊され、再建されているが、焼け焦げたアカギの木が保存されている他、図書館に「米軍ヘリ墜落事件関連資料室」が設置されている。同室には、宜野湾在住画家真喜志勉氏作「黒い壁画」や、衝突により破壊され焼け焦げたコンクリート壁の一部が展示されている。
沖縄国際大学正門   米軍ヘリ墜落事件関連資料室   墜落時の様子
沖縄国際大学正門  米軍ヘリ墜落事件関連資料室  墜落機の残骸と焼け焦げた本館
(説明パネル)
旧本館の壁と、焼け焦げたアカギの木<br>(説明パネル)   保存されたアカギの木
焼け焦げた壁とアカギの木
(説明パネル)
  保存されたアカギの木 
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鎮魂と平和の鐘
(南風原陸軍病院壕跡前「鎮魂と平和の鐘)
・南部戦跡と史跡
南部戦跡と琉球開闢伝説関連を始めとする史跡の多い南部行きは、今回の最大のテーマだった。
ただし、時間の関係並びに年度末近いこの時期は公共工事が集中するのは史跡の復旧工事でも例外でないらしく、予定した訪問先のいくつかは断念せざるを得なかった。

1. 糸満へ
那覇から南部へは、海岸沿いの国道331号のバイパス(豊見城道路〜糸満道路)が完成したことにより、渋滞回避が図られ便利になった。糸満道路終点先の真栄里の信号を左折し、案内に沿って行けば、白梅の塔まで2km程である(空港近くから30分程度)。

(白梅の塔と周辺)
白梅の塔と壕、萬魂の塔
・県立第2高女学徒隊(白梅学徒看護隊)は従軍看護婦として、第24師団第一野戦病院(八重瀬町)に46名が配属されていたが、米軍の猛攻下、同病院が更に南部へ後退するに際し、1945年6月4日解散し、16名が糸満市真栄里のこの場所(壕)に辿り着いた。
塔に隣接する南禅廣寺お堂の左後方に壕がある。この壕を「下の壕」と呼び、傷病兵の手当てをしていたが、米軍の攻撃(爆弾やガソリンを流し込み火をつける馬乗り攻撃)を受け、ここで自決した。自決之壕の碑が白梅の塔の右側、林の中にある。
他地域で亡くなった隊員を含め、白梅隊は22名が犠牲となった。 白梅の塔は、白梅隊の他教職員、同窓生149名を祀っている。塔の左後方に納骨堂がある。
白梅の塔東100mの山形の塔の左の真山の塔左奥の行き止まりに、軍の資材置き場で、白梅隊が仮眠所として使っていた「上の壕」がある。ここも米軍の攻撃により、白梅隊員の他、軍人、住民が死傷した。
・白梅の塔左手前の萬魂の塔は、地元国吉地区の人たちが、散らばった遺骨を集めて建てた慰霊碑で、4千柱が祀られている。
白梅の塔   白梅の塔(当初)   南禅廣寺
白梅の塔  当初の白梅の塔  南禅廣寺
壕への入り口   下の壕   自決の碑
下の壕への入り(南禅廣寺左脇)  下の壕  白梅学徒援護隊自決の壕の碑
上の壕の碑   上の壕   萬魂の塔
上の壕の碑  上の壕  萬魂の塔
山形の塔、真山の塔
山形の塔が建てられている場所は、多くの山形県出身者で編成された歩兵第三十二連隊終焉の地で、合祀者数は、南方その他の地域の戦没者中心に4万柱である。
山形の塔を左奥へ進むと、真山の塔がある。24師団は、北海道出身者を中心とした15千人規模をもって、1944年7月に沖縄へ配置された。南部各地で戦闘の上、玉砕し、慰霊碑は、各地に建てられているが、真山の塔は、1945年6月17日、この地での玉砕を慰霊するものである。なお、沖縄戦で沖縄県に次いで犠牲者の多いのは北海道出身者である。
山形の塔   歩兵32師団終焉地の碑   真山の塔
山形の塔  歩兵32師団終焉地の碑  真山の塔 

栄里の塔、バックナー司令官碑
栄里の塔は、国道から入り、市街地から農業地帯へ変わる付近の畑の中にある(白梅の塔の約500m東)。歩兵第22連隊(松山)は、沖縄戦最末期には真栄里地区に布陣し、米軍を迎え撃ったが、6月24日この地で玉砕した。この広々とした畑で最後の戦いが行われ、血に染まったのである。戦後この地区の住民が住民・将兵の遺骨12千体を収集しここに慰霊碑を建立したものである。
近くには6月18日、前線を視察中戦死した、沖縄方面連合軍最高指揮官バックナー中将の慰霊碑がある。バックナー中将は第二次世界大戦で戦死した最高位の軍人である。将軍の戦死後の報復攻撃は住民の捕虜を全員銃殺するなど凄まじいものがあった。1954年に米軍が慰霊碑を建て、米軍が管理していたが、復帰後は日本側が管理している。サイトの片隅に、日米両国の沖縄戦犠牲者の慰霊塔が、両国のボランティアにより1985年に建てられている。
栄里の塔   バックナー司令官慰霊碑   日米両国の沖縄戦犠牲者の慰霊塔
栄里の塔  バックナー司令官慰霊碑  日米両国の沖縄戦犠牲者の慰霊塔 

(喜屋武岬、荒崎海岸)
平和の塔
糸満の南側海沿いの地域は、多くの犠牲者を出した沖縄戦最後の激戦地で、一帯は修羅場と化した。真栄里から国道331号を南へ向かうと、喜屋武岬・具志川城跡方面へ分岐するサインがあるので、それに沿って行けばよい。サトウキビが多いが、最近は電照菊の産地になっており、畑に小さな電球が吊り下げられている。車を寄せて見ていると、後ろから来た人が道が分からないのか、と声をかけてくれた。親切な人が多い。具志川城跡を先にみて、喜屋武岬・平和の塔へ向かう。
喜屋武岬は、沖縄本島最南端の東シナ海に面した岬。米軍に追い詰められ、行き場を失った住民や兵士たちがこの断崖から次々に海へ身を投げた。1952年地元の住民により、犠牲となった住民・軍人1万人の霊を弔う「平和の塔」が建てられた。現在の碑は、1970年に沖縄遺族連合会により建てられたもの。
国定公園の表示   平和の塔   平和の塔真下の断崖
沖縄戦跡国定公園の表示  平和の塔  平和の塔真下の断崖 
断崖   荒崎方面を望む
喜屋武岬の断崖  荒崎方面を望む 
荒崎海岸
喜屋武岬の東が荒崎海岸である。ひめゆり部隊の一部と教員は、米軍の攻撃を逃れ、荒崎海岸まで辿り着いたが、米軍の急襲で追い詰められ、10名が手榴弾により集団自決を図った、ひめゆり学徒隊終焉の地である。近年になっても、近くの岩場の隙間などから、遺骨や校章が見つかっているそうだ。ここへ行くには、先にある「平和創造の森公園」を回っていかなければならないが、途中で案内板がなくなり、真っ直ぐ行くしかなくなってしまった。地元で農作業をしている人も知らないようだった。とにかく海岸へ出てみよう、ということで、行ってみると巨大な岩の前だった。これがカサカンジャーと呼ばれる岩なのだろうか。海岸といっても一帯は、切り立った断崖の岩場であり、写真で見た目的地とはかなり違うが、いずれにしても、この近辺の大変なところへ追詰められ、自決したのは間違いない。全く何ということだ、と言葉にはならない。
荒崎海岸の巨大岩   荒崎海岸の断崖
荒崎海岸の巨大岩"カサカンジャー"  荒崎海岸の断崖(降りられない) 

(伊原・米須地区)
伊原第一外科壕
ひめゆりの塔(伊原第三外科壕)の糸満寄り200mほどの国道331号海側に石碑があり(注意しないと見落としてしまう)、国道からサトウキビ畑の中、農道を約100m入ると左側の茂みの中にある。沖縄戦最末期、南風原陸軍病院の撤退に伴い、第一外科がここに避難した。ひめゆり部隊の一部も避難していたが、教職員を含む10名が犠牲になった。観光地化し、観光バスがひっきりなしに来るひめゆりの塔とは対照的に、訪れる人はいないが、それだけに、ここも多くの人が斃れた戦場だったのだ、という当時の様子を偲ばせる雰囲気がある。ここで、森山良子が「さとうきび畑」を唄う映像があった。
第一外科壕入口の標識   第一外科壕跡の碑   壕への降り口
国道沿いの第一外科壕入口の標識  第一外科壕跡の碑  壕への降り口 
壕の上の様子   壕の入口
壕の上の様子  壕の入口 
梯梧の塔、ずゐせんの塔(ひめゆりの塔周辺)
ひめゆりの塔の建つ伊原第三外科壕の犠牲は勿論大きなものであったが、ひめゆりの塔だけが観光地化し、参拝されているのには、ひめゆり学徒の意に沿うものなのか、疑問を持つ。
昭和高女学徒隊(看護隊)、職員、同窓生63名を 合祀している梯梧の塔は、ひめゆりの塔に隣接した駐車場の奥にある。この駐車場は、デイゴ駐車場と称しているが、ひめゆりの塔のための駐車場であり、梯梧の塔の案内は全く見られない。
また、ひめゆりの塔の200mほど先の米須(西)を右折したすぐ右側のずゐせんの塔は、首里高女学徒隊、職員、同窓生98名を合祀する慰霊碑である。いずれも参拝者はいなかった。
ひめゆりの塔   医療人の碑   ずゐせんの塔
ひめゆりの塔  沖縄戦殉職医療人之碑(1948年建立
ひめゆりの塔隣接)
  ずゐせんの塔 
梯梧の塔   梯梧の塔の歌碑
梯梧の塔  梯梧の塔の歌碑 
米須の霊域
国道331号米須(西)を海側へ曲がると、平和創造の森の手前に米須の霊域と呼ばれる場所がある。この地域は北海道、東京、奈良、和歌山、広島、鳥取、島根、香川、大分各県や那覇の開南中学の碑など多くの慰霊碑が建立されており、摩文仁に次ぐ霊域となっている。ただこの地域の崖下は、サーファーにとっては恰好の海のようで、多数の車が道路に駐車しているが、すべて地元のサーファーの車である。霊域は、殆ど人影がない。
<魂魄の塔>
那覇真和志村の住民は戦後この地の収容所に集められたが、そこで村長に任命された金城和信氏が中心となって周辺に散乱したままの遺体35千余体を収集し、1946年2月建立した慰霊碑が魂魄の塔で、沖縄県で最初に建立された慰霊碑である(その後、遺骨は国立戦没者墓苑へ移された)。金城氏は、同年4月にはひめゆりの塔と健児の塔を建てている。
金城和信氏は、敗戦時那覇の大里小学校の校長で、多くの教え子を沖縄戦で失った上、娘2人もひめゆり学徒として戦場で亡くしている。戦後一貫して、戦没者の慰霊と遺族のために尽力した。
魂魄の塔   魂魄の塔   金城和信氏胸像
魂魄の塔全景  同左石碑  金城和信氏胸像 
魂魄の塔碑文   宇野精一教授の碑文
魂魄の塔碑文  宇野精一東大名誉教授の碑文 
<沖縄菩提樹苑>
魂魄の塔の向かいにある慰霊苑。 第二次世界大戦でなくなったすべての戦没者の慰霊のため、ブッダ(釈迦)がその下で悟りを開いたといわれている「ブッダゆかりの聖なる菩提樹」の分け樹がインドから沖縄に贈呈され、2004年に植樹された。 「聖なる菩提樹」のインド国外への植樹は紀元前3世紀以来で、極めて稀なこととのことである。那覇市の医師長嶺信夫氏の努力により、この地への植樹が実現したもの。その後、ブッダの誕生にまつわる無憂樹と涅槃にまつわる沙羅双樹も植樹されている(仏教三大聖樹)。
2009年にはダライ・ラマ14世が来訪、記念植樹が行われた。
沖縄菩提樹苑   菩提樹   ダライ・ラマ法王の記念植樹
沖縄菩提樹苑
(この中に菩提樹が植樹されている)
  植樹された菩提樹  ダライ・ラマ法王の記念植樹 
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2. 摩文仁の丘、平和祈念公園、八重瀬
平和祈念公園手前の健児の塔から摩文仁の丘の頂上まで登り、その後平和祈念公園、摩文仁の丘の霊域を訪れることとした。

(沖縄師範健児の塔、南冥の塔)
沖縄師範健児の塔
・鉄血勤皇隊に動員された沖縄師範学校男子部生徒は、386名で、野戦築城隊(243名)、斬込み隊(57名)、情報通信(22名)などで戦闘に従事したが、うち野戦築城隊は、急造爆雷を抱えて戦車に体当たりするなどして全滅した。残りが摩文仁へ撤退し、壊滅するまで司令部と行動を共にした。戦死者は224名を数えた。なお、鉄血勤皇隊として動員された学徒は、合計1,780名で、沖縄師範が最大の犠牲者を出した。ついで県立一中の210名である。
1946年に、ひめゆりの塔と同じような小さな「健児の塔」が建てられた。その後、ひめゆりと同様、新たな「沖縄師範学校健児の塔」が建てられた。塔のある広場から下がったところ(裏手)に自決した壕がある。説明板等は何もない。自決した壕には、火炎放射器による焼けた跡が残っている
・左側の「平和の像」は、元師範学校生徒の大田昌秀、外間守善両氏の記録を基にした映画「沖縄健児隊」の完成(1953年)を記念して建立された。
ひめゆりの塔周辺の賑わいと、訪れる人を全く見かけない、ここの静寂さがひどく対照的だ。疑問でもある。
沖縄師範健児の塔   平和の像   自決した壕
沖縄師範健児の塔  平和の像  沖縄師範鉄血勤皇隊員自決の壕
南冥の塔
米軍に追い詰められ、逃げ場を失った一般住民、軍人・軍属などが死屍累々といった、文字通り生き地獄の様相を呈していたこの地を通りかかった日系2世の米兵ヤマモトタツオ氏が、その光景が脳裏から離れず1954年に再び沖縄を訪れ、自らの手で付近に放置された遺骨12千柱を集めてこの地に塔をたてたもの。 その後、大部分は沖縄戦没者墓苑に移されている。
場所は、沖縄師範健児の塔へ向かう途中から、右に下って右側100mほどのところ。真っ直ぐに行くと海岸まで降りる。
南冥の塔   米軍兵士の碑   自決の碑
南冥の塔  沖縄戦参加一米軍兵士の碑  南冥の塔下の海岸

(32軍終焉地、黎明の塔、勇魂の碑)
沖縄師範健児の塔の奥の階段を登ると、32軍司令部が最後に立て籠もった摩文仁の丘の頂上まで行くことができる。ただ、急な階段でかつ相当の距離があるので、年配者には不向きであり、心臓に心配のある向きは絶対に止めた方が良い。霊域の奥から登るのがメインルートで、こちらは容易のようだ。
「黎明の塔」は、1952年、第32軍司令官牛島 満大将及び参謀長長 勇中将を祀り、摩文仁の丘の頂上部に建てられた。この下に、沖縄戦において戦没した第32軍司令部将兵及び軍属の人たちを祀った「勇魂の碑」があり、その下の第32軍司令部壕壕において牛島司令官、司令部将校が自決した(6月23日)。牛島司令官については、参謀の提案に任せたというが、首里での玉砕論を退け、本土決戦を少しでも有利にすべく、最後まで頑張ることとしたのであり、軍人として評価する、という見方もあるようだ。沖縄県民の大きな犠牲を極力避ける選択肢もあったはずであるが、自決に際しての最後の命令で、「生きて虜囚の辱めを受くることなく、悠久の大義に生くべし」と述べたことは、その後の戦死者等をさらに増大させることになった。要は、牛島司令官個人の問題というより、端的に言えば、天皇の軍隊が、天皇を守るという日本軍のあり方の問題であろう。いずれにしても、彼には非戦闘員を巻き込んだことに関し、海軍の太田中将とは、著しく対照的だ。因みに、ここからの景観は素晴らしい。
第32軍司令部終焉の壕   黎明の塔   勇魂の碑
第32軍司令官等自決の壕  黎明の塔  勇魂の碑
平和祈念公園を望む   海岸を望む  
摩文仁の丘頂上から
(平和祈念公園を望む)
  同左(下の海岸を望む) 

(平和祈念公園、霊域)
平和祈念公園の施設のうち、入ったことのない平和祈念資料館へ寄ることにした。常設展示は、沖縄戦を中心に、戦前から戦後までの沖縄の動きが分かり易く展示されている。纏めてしっかり理解するのによくできている。そのほか、情報ライブラリーや子供向けの展示などがあり、平和学習を念頭に置いた構成になっている。常設展示のあと、1階ロビーで行われていた「戦没者遺骨収集活動」の展示が目に付いた。今なお3千余柱の遺骨が未収骨になっているという。国内の戦後処理がまだ終わっていないのである。
今回も、霊域循環バスに乗ったが、客は私一人なので、所々で降りながら一周してもらった。国立沖縄戦没者墓苑には、戦没者18万余柱が納骨されている。前日総理大臣が参拝しており、総理の献花がそのまま置かれていた。
沖縄県平和祈念資料館   資料館展望室から   戦没者遺骨収集活動
沖縄県平和祈念資料館アプローチ  資料館展望室から  戦没者遺骨収集活動パネル展
海岸を望む   国立沖縄戦没者墓苑石碑   勇魂の碑
海岸を望む  国立沖縄戦没者墓苑石碑  国立沖縄戦没者墓苑正面参拝所
(奥が納骨堂)

(第一野戦病院壕=白梅学徒看護隊壕)
平和祈念公園の東隣は、八重瀬町になる。第24師団第一野戦病院は、1945年3月から同町の八重瀬岳中腹の壕に置かれていた。ここには、白梅学徒隊46名が配属されていたが、米軍が迫る中、病院の撤退に伴い、6/4解散命令が出され、激戦の中に投げ出されることになった(白梅の塔の項を参照)。
八重瀬岳は600年ほど前に、八重瀬按司が居城を築いた場所で、現在は公園として整備され、南部の桜の名所として知られている。壕は、桜の名所の手前の駐車場の前の階段を上った所にある。
壕の入口から   壕の前   壕の内部
壕の入口から  壕の前  壕の内部

3. 南風原、南城の戦跡

(旧沖縄陸軍病院南風原壕跡、南風原文化センター)
南風原は、那覇の南隣の町で、空港付近から車で30分ほどである。
・第32軍直属の沖縄陸軍病院は当初那覇市の開南中学に置かれていたが、1944年10月10日の那覇大空襲で焼失したため、分院のあった那覇市南隣の南風原国民学校に移動し、さらに、米軍の艦砲射撃開始に伴い(1945.3/下旬)、周辺一帯に造られた30余の横穴壕へ移動した。米軍上陸後は外傷患者が激増し、全診療科を外科に編成替えした。ここに、ひめゆり学徒隊も動員された(生徒222人、教師18人)。
この一帯は、黄金の森と呼ばれる小高い丘であり、女子生徒たちは、米軍の砲弾をくぐって、現在の南風原文化センター下の炊事用の井戸から、飯あげの道と呼ばれる山道を越えて壕まで往復していたという。文化センターの横に上り口がある。
壕は現在第20号壕のみが公開されている。20号壕は、長さ70m、高さ1.8mの人工の横穴壕で第二外科の中心だった。
・司令部の摩文仁撤退に伴い、病院に撤退命令が出され、南部へ移動する(第一外科⇒伊原、第二外科⇒糸洲、第三外科⇒伊原)。その際移動できない重傷患者には、米軍の捕虜になるのを避けるべく、注射もしくは青酸カリの配布等により自決を強要された壕もあった。
当時第三外科に勤務していた長田紀春氏は、青酸カリを与えず、土に埋めさせたという。第二外科も、青酸カリによる自決強要は少なかった(あるいはなかった)が、第一外科は多くの患者が自決に追い込まれた。長田医師によれば、生還可能性のある者にまで無差別に青酸カリを与えた例があるという。(注)
     (注)長田紀春他編「閃光の中で 沖縄陸軍病院の証言」(1992)による。この本は、病院の現場の実態を通じて、
     沖縄戦を知る貴重な証言集である。

・「悲風の丘」碑は、この病院における2,000余の自決者の慰霊碑である。20号壕入口前の「鎮魂碑」は、長田紀春氏の歌碑である。20号壕見学料の受領書には、長田医師の、「切り落とせし兵の脚をば埋めにゆく 女子学生ら唇噛み駆ける」という悲壮・壮絶な歌が記されていた。
陸軍南風原病院壕跡の碑   悲風の丘碑   飯あげの道・登り口
陸軍南風原病院壕跡の碑  悲風の丘碑(1966建、揮毫佐藤栄作)  飯あげの道・登り口
飯あげの道・頂上付近   鎮魂碑   20号壕入口
飯あげの道・頂上付近
(右側に木造階段道が用意されている)
  鎮魂碑  20号壕入口

<壕内部の様子>
坑道内部   医薬品   20号壕入口
坑道内部
(壁や天井が焼け焦げている)
  焼け焦げた坑木  埋められていた医薬品
19号壕への連絡口   24号壕入口跡  
19号壕への連絡口  崩落した24号壕入口跡 
・南風原文化センターには、南風原町における沖縄戦や人々の生活等に関する常設展示と病院壕に関するビデオ上映が行われている(入壕前に見ると理解に資する)。
南風原文化センター   文化センターの展示   文化センターの展示
南風原文化センター正面  同左における展示(模擬壕)
(実際より明るく広く天井も高い)
  同左

(糸数アブチラガマ(南城市))
現南城市玉城地区に所在する全長270mの自然壕。戦時中玉城糸数地区の避難指定壕だったが、沖縄戦の戦場南下に伴い南風原陸軍病院の分院となり、軍医、看護婦、ひめゆり学徒隊が配属された。壕内部は600人以上の負傷兵で埋め尽くされ、脳症患者や破傷風患者も少なくなかった。
5月25日病院が撤退した後は住民と生き残り負傷兵の雑居状態となり、この間、米軍によるガソリン、黄燐弾、大砲などによる数次の攻撃を受け、戦死者も少なくなかったものの、8月22日米軍の投降勧告により壕を出た。。
見学に際しては、天井が低く、ヘルメットは必携で、懐中電灯を頼りに、ガイドさんの案内が不可欠である。所要1時間で、壕内部を丁寧に説明して頂けるようになっている。壕内の生々しい看護や生活の跡が窺え、百聞は、一見にしかずそのものという感じであった。ただし、足元が悪く、傾斜もあるので、年配者は注意した方が良い。
年間見学者数は、減ってきて現在は12〜13万人程度、中学・高校生の修学旅行生が中心で、一般見学者は1%程度とのこと。近くには、定期観光で行ったことのある、沖縄ワールド・玉泉洞があり、一般の見学コースから外れているとは言えまいが、観光資源、消費が優先ということか。
ゆうな(オオハマボウ)   降り口   入口
壕降り口上のゆうな(オオハマボウ)
(ガイドさんの会は"ゆうなの会")
  壕への降り口  同入口
壕へ降りる階段   出口   慰霊碑
壕へ降りる階段  出口  戦没者慰霊の拝所
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4. 糸満・南城の史跡

(具志川城跡)
具志川城(国指定史跡)は、糸満市南端の喜屋武岬近くの東シナ海を望む断崖絶壁の上に築かれていたグスクである。久米島を支配していた按司が本島にわたって築いたと伝えられている。最近の発掘調査によれば、12世紀後半から15世紀中頃のグスクとされ、現在修復工事中である。城門はよく残っており、その海側に二の丸、さらに下がった所の断崖上が本丸になっていたようだ。二の丸には、スーフチミーと呼ばれる潮吹き穴があり、海につながっている。
具志川城跡碑   城門へのアプローチ   飯あげの道・登り口
具志川城跡碑  城門へのアプローチ  城門
二の丸石垣   二の丸石垣   二の丸と本丸を望む
二の丸石垣
(フェンスの中がスーフチミー)
  同左  二の丸と本丸を望む
スーフチミー(潮吹き穴)   本丸   本丸から東シナ海を望む
スーフチミー(潮吹き穴)  本丸  本丸から東シナ海を望む

(南城の史跡)
南城市は、琉球の始祖アマミキヨが降誕したという琉球開闢伝説に因む場所が多数あることや、第一尚氏の発祥の地であることなどから史跡の大変多い町である。なお、地域としては、合併前の佐敷、知念、玉城、大里が分かり易い。

アマミキヨの足跡〜ヤハラヅカサ、浜川御嶽、受水走水
アマミキヨは、知念沖久高島のカベール岬に降り立ち、クボー御嶽を作ったとされている。その後、アマミキヨが久高島を離れ、初めて沖縄本島に上陸したのが、玉城の美しいビーチである百名ビーチである。その意味でここは神聖な場所とされており(今は、パラセーリングのポイント)、それを示すのがビーチ北端の海中に建てられたヤハラヅカサである。満潮時には海中に沈んでしまい、干潮のときにしか姿を現さないようになっている。
ヤハラヅカサの前の崖の上にあるのが浜川御嶽で、ヤハラヅカサに降り立ったアマミキヨがミントングスクへ移るまで仮住まいをしていたとされる所である。浜川とは海辺の湧水の意。
百名ビーチ   ヤハラカヅラ   ハマヒルガオ
百名ビーチ  ヤハラカヅラ
(干潮には程遠く、頭部しか見えない)
  ハマヒルガオ
浜川御嶽   神聖領域のサイン   ビーチから浜川御嶽方向
浜川御嶽  神聖霊域のサイン
(汚す観光客が目立つのであろう)
  ビーチからの浜川御嶽への上り口
受水走水(うきんじゅはいんじゅ)は、百名ビーチ中ほどから少し陸地に入った、木々に囲まれた山裾にある二つの湧水であり、知念大川とともにアマミキヨが初めて稲を植えた琉球稲作発祥の地とされている。拝所でもあり、霊域となっている。毎年旧正月の初午の日に、「親田御願」という田植儀式が行われる。
西側が流れの穏やかな受水で石碑があり、その手前横の水たまりが御穂田(みーふだ)、東側が早く流れる走水で親田(うぇーだ)という田につながっている。比較的観光客が来るようだ。
説明板   走水   親田
説明板  走水  親田
受水   流れ   御穂田
受水  流れ  御穂田
アマミキヨが、浜川御嶽の仮住まいの後住んだとされるのが、玉城地区の「ミントングスク」と呼ばれる小高い丘であるが、今回は時間の関係で割愛せざるを得なかった。また、近くにあり、アマミキヨが築いた沖縄最古のグスクといわれている玉城は、改修工事中で入ることはできなかった。
アマミキヨは、この後、かなり離れた浜比嘉島・シルミチューに住むことになるわけだが、玉城地区が気に入らなくなったのだろうか。人智を越えた神様のことだから、人間には分かるはずもないが、随分引越しの多い神様ではある。なお、国道331号から百名ビーチ(新原ビーチ)方面へ入ってすぐの「カフェ・シーサイド」からの眺めは抜群だった。
玉城城跡の碑   カフェ・シーサイドの眺め   カフェ・シーサイド店内
玉城城跡の碑  カフェ・シーサイドからの展望  カフェ・シーサイド店内
糸数城跡
14世紀前半に築かれたと言われる、玉城地区の中央台地の断崖上の城である。玉城按司が3男を糸数按司として住まわせたという。築城時期は不明だが、14世紀前半と見られている。見事な城壁が残されている。糸数アブラチガマの近く。
城跡の碑   入口付近   入口付近から続く城壁
糸数城跡の碑  入口付近を望む  入口付近から続く城壁
東側の城壁   東側の城壁
東側の城壁  東側の城壁
(犬走りは、危険で上れない)
 

(知念、佐敷の史跡)
知念で最も有名な史跡は、斎場御嶽であるが、今回は知念城跡他を訪れた。

知念城
知念城跡は、国道331号の知念バス停の近くを、案内に従って上がっていけばよい。 知念城は、15世紀尚真王の時代に、知念按司が築いたとされる。新城(ミーグスク)と東の古城(クーグスク)からなる。古城は森の中にあり、「おもろさうし」にも詠われている霊場である。近くにノロ屋敷があることからも分かるように、拝所の性格を持つ宗教色の強い城である。
駐車場の前から降りて行くと、まず「ノロ屋敷跡」がある。久高島遥拝所は、いつごろまでかは分からないが、かっては男子禁制だったそうだ。
案内図   ノロ屋敷跡   ノロ屋敷拝所跡
知念城跡入口前(駐車場前)の案内図  ノロ屋敷跡  ノロ屋敷の拝所跡
ミーグスクを公開しているが、ここも城郭内部は修復工事中のため、立ち入ることのできる部分はわずかで、「火の神の殿」や「友利之嶽」(久高島遥拝所がある)には近づけない。石垣の規模から判断すると、グスクの規模は大きくない。
知念城跡の碑   正門   裏門方向の石垣
知念城跡の碑  正門前(石門の周辺以外の部分は
復元部分(石の積み方が違う))
  裏門方向の石垣
郭内の遺構   焚字炉   郭内の遺構
郭内の遺構
(フェンスの奥が友之御嶽か)
  焚字炉  郭内の遺構
裏門   古城の石垣   久高島を望む
裏門
(フェンスの奥が友之御嶽か)
  崩れた古城の石垣  城跡入り口近くから久高島を望む
知念大川
知念大川(チネンウッカー)は、知念城の西端に位置する、知念城付随の井泉であったと言われている。アマミキヨは、この泉の奥の田にも稲を蒔いたとされており、受水走水とともに、琉球稲作の発祥の地になっている。
知念大川案内板   水溜   拝所
知念大川案内板  格子で囲まれた水溜  中央に拝所

佐敷ようどれ
知念城跡から国道331号を北上し、「吉富」から県道86号へ入ると、高さ80mの陸上に架けられている全長660m の「ニライ橋・カナイ橋」になる。見晴らしの良いドライブコースとして、よく写真で見かけるところだ。「佐敷ようどれ」は、ここから3kmほど先の航空自衛隊知念分屯基地内にある。
琉球三山を統一し琉球王国を建てた尚巴志の父、尚思紹とその家族の墓で、半円形の屋根を持つ籠型の珍しい形をしている。米軍が接収した折、地元の要請により聖域は残すこととしたもので、航空自衛隊も引き継いだ。基地のゲートで申し込めば見学できる。
なお、尚巴志とそれに続く第一尚氏3代目尚忠、4代目尚思達の墓は、遠く読谷にある。第一尚氏が滅び、第二尚氏に変わった時に、首里にあった墓を遠くへ持って行かざるを得なかった何らかの理由がある、ということになる。やはり金丸のクーデターにより、急ぎ墓を首里から脱出させたという伝えに真実味があると言えよう。
佐敷ようどれ   佐敷ようどれ   佐敷ようどれ
佐敷ようどれの碑  佐敷ようどれ正面  佐敷ようどれ
久高島を望む
「ニライ橋・カナイ橋」から久高島を望む
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(今回の行程概要は以下の通り)
第1日
・羽田〜那覇空港
〜牧志方面(蔡温スクエア、浮縄嶽、崇元寺石門)
〜壷屋通り(焼物博物館、東窯、南窯他)〜安里(栄町市場商店街)〜おもろまち
第2日 (浦添、宜野湾)
・安里配水池公園(シュガーローフの丘)
・那覇〜浦添(為朝岩、浦添城跡、浦添ようどれ、伊波普猷墓等)
〜嘉数高台公園
〜普天間第二小学校〜沖縄国際大学〜軽便鉄道跡
〜那覇・泊港(外人墓地、ペリー上陸碑)〜県立博物館・美術館
第3日(首里)
・首里城と周辺(一中健児の塔〜木曳門、西のアザナ、京の内、首里森御嶽、正殿等〜龍潭、円鑑池・弁財天堂、円覚寺跡、第32軍司令部跡等)
〜旧松山御殿等
〜首里城周辺(金城町石畳道〜玉陵等)
第4日 (南部)
・那覇〜糸満の戦跡(白梅の塔、喜屋武岬、伊原第一外科壕跡、デイゴの塔、魂魄の塔、荒崎海岸)
〜摩文仁の丘〜平和祈念公園〜八重瀬24師団病院壕跡
〜糸数城址〜アブラチガマ〜那覇
第5日 (那覇市内史跡等)
・県庁前〜那覇港方面(松山公園、福州園、対馬丸記念館・子桜の塔、護国寺、波上宮、孔子廟等)
〜県庁前〜パレットくもじ〜牧志・蔡温スクエア
第6日 (南部part2)
・那覇〜南風原文化センター・陸軍病院壕〜玉城城跡
〜百名ビーチ(受水走水)〜ニライ橋カナイ橋〜佐敷ようどれ
〜知念道の駅〜百名ビーチ(ヤハラヅカサ、浜川御嶽)〜摩文仁〜空港
・帰京


沖縄の観光案内・史跡等へのリンク
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