横浜の歴史的建築物〜横浜三塔、旧正金銀行本店と周辺の建築物

 横浜港近くには、1910年代から1930年代にかけて、塔を持つ3棟の公的建築物が建設された。すなわち、横浜市開港記念会館(1917)、神奈川県庁(1928)、横浜税関(1934)である。当時、これら3棟の周辺には他に目立つ建物はなく、入港する外国船の船員がトランプのカードに見立て、県庁をキングの塔、税関をクィーンの塔、開港記念館をジャックの塔と呼んだことから、これら3棟を横浜三塔と呼ぶようになったとされている。
 一方、横浜三塔の完成に先立つ1904(明治37)年に、馬車道と呼ばれる地域には、横浜正金銀行の本店ビルが建てられた(現神奈川県立歴史博物館)。正面に巨大なドームを載せたネオ・バロック様式の外観を持つ建物であったが、このドームは関東大震災によって焼失し、戦後の東京銀行横浜支店時代も復元されることはなかった。その後、神奈川県が取得し、県立歴史博物館に向けての改修時に復元されることとなった。2010年以降のようであるが、神奈川県立歴史博物館をより親しみ易いよう、愛称をつけることとなり、"エースのドーム"と呼ぶようになったらしい。
 馬車道から元町・中華街方面へ向かう本町通界隈は、開港後の横浜のビジネス、行政の中心地域であり、横浜三塔や旧横浜正金銀行本店以外にも歴史的な建築物が数多く残されている。東京の中心部の多くが超高層ビルに建て替えられ、通りはビルの谷間になっていることが多いのに対し、本町通りは、ビルのシルエットが視界に入る街並みが残されている。

 [ も く じ ]

キングの塔(神奈川県庁本庁舎)

クィーンの塔(横浜税関本関庁舎)

ジャックの塔(横浜市開港記念会館)

旧横浜商工奨励館、旧横浜市外電話局

横浜三塔近辺の歴史的建築物

 1 旧三井物産横浜支店 2 旧横浜英国総領事館 3 綜通横浜ビル 4 旧三井銀行横浜支店 5 旧露亜銀行横浜支店
 6 旧横浜居留地48番館 7 横浜海岸教会 8 海岸通1-1のビル 9 旧日本綿花横浜支店 

旧横浜正金銀行本店(現神奈川県立歴史博物館)

馬車道周辺の歴史的建築物

 1 旧横浜生糸検査所 2 旧横浜銀行本店別館 3 旧富士銀行横浜支店 4 旧川崎銀行横浜支店 5 旧東京三菱銀行横浜中央支店
 6 横浜郵船ビル 7 横浜指路教会  

新港地区(赤レンガ倉庫とハンマーヘッドクレーン、その他の遺構)

 (最近の新港地区について) 



 キングの塔(神奈川県庁本庁舎)
 「キングの塔(神奈川県庁本庁舎)」については、「東京都庭園美術館(旧朝香宮邸)とアール・デコ調建築物」のサイトに掲載していますので、こちらをご覧ください。

メニュー
県庁 横浜税関 開港記念会館 旧商工奨励館 旧市外電話局 旧三井物産 旧英国領事館 綜通ビル 旧三井銀行 旧露亜銀行 旧48番館 海岸教会 昭和ビル 海洋会館 貿易会館 貿易会館 旧ニチメン
(赤色の線で囲まれた施設名をクリックすると当該施設の記事に飛びます)
 クィーンの塔(横浜税関本関庁舎)
 1859(安政6)年の横浜開港と同時に「神奈川運上所」が設置され、1872(明治6)年に横浜税関と改められた。関東大震災により庁舎が倒壊し、帝都復興事業の一環として1934年に建設されたのが現在の庁舎である。正面玄関の文字は、当庁舎の復興を積極的に推進した、時の大蔵大臣高橋是清の書である。当時の高層建築であった神奈川県庁(49m)と横浜開港記念会館(36m)を上回る高さ51mの建築物としたという。
当庁舎は、1945年8月から1953年まで連合軍総司令部に接収されていた。その間、総司令部が東京へ移転するまでの一時期、マッカーサー元帥が執務していた。因みに、東京税関は1953年に横浜税関から分離されたものである。
(画像はクリックで拡大します。)
(外観と外壁等の装飾)
 
横浜税関本関庁舎クイーンの塔側(象の鼻側)全景  屋上(7階)テラスと塔(県庁屋上から)
 
クイーンの塔最上部  同左の窓部
 
正面全景
(関東地方整備局ホームページhttp://www.ktr.mlit.go.jp/
eizen/shihon/eizen_shihon00000085.htmlによる)
  正面三連アーチ
 
中央アーチ正面玄関  高橋是清書のプレート

(玄 関)
 
玄関扉  玄関
 
玄関扉上の装飾  玄関ロビー
 
玄関ロビーの創建時からの照明器具  羅針盤を想起する玄関天井のクロス装飾

(外壁の装飾など)
 
正面玄関アーチ  象の鼻側玄関
象の鼻側5階特別室ベランダ
外壁上部の装飾(棕櫚の文様、低層部と建物最上部の軒飾り)
 
外壁コーナーのカップ型装飾  正面東側外壁上部の装飾
 2001年から2003年にかけて、大規模な増築と、既存建物の保存改修工事が行われた。
具体的には、当初の景観を維持するべく、街路に面する3方を保存するとともに、必要面積を確保するため、隣接する県警寄りと中庭部分に7階の建物を増築し、見学用の屋上テラスを設置した。この結果、延床面積は、12,184m2から16,049m2へ増加した。
また、創建時貴賓室などの置かれていた3階を、保存室として、修復・復元工事を行った。 

(画像はクリックで拡大します。)
(旧特別会議室(創建時貴賓室))
 
旧特別会議室(創建時貴賓室)  同左
 
照明器具(当初イメージを再現)  天井の通気口の装飾
 
柱、梁の装飾(真鍮製、梁に菊の御紋)
(経年変化で被膜が形成されていたので、酸洗いの上、
アンティーク風の処理<古美仕上げ>をした)
  柱の装飾
 
柱の装飾  暖房器具収納のための窓台
天正遣欧少年使節ベネチア到着の図(寺崎武男作)
(戦前は新港の客船待合室に掲げられていた)

(旧総務部長室(創建時貴賓室次室))
 
旧総務部長室(創建時貴賓室次室)  同左
 
梁を囲む天井の装飾(旧特別会議室以外の天井共通)  梁型(三角部分)の石膏製埋め込み装飾(同左)

(旧税関長応接室(創建時税関長付属室))
 
旧税関長応接室(創建時税関長付属室)  フローリング(1977年補修、デザインは当初に同じ)
 
製造年不明の丸テーブル  天井照明
(旧特別会議室、税関長室以外の照明デザインはシンプル)
(旧税関長室(創建時関長室))
 
旧税関長室(創建時は関長室)  同左
 
税関旗(青が海、白が陸を表す)  マッカーサーが執務したと伝えられる机

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 ジャックの塔(横浜市開港記念会館)
 横浜市開港記念会館は、横浜開港50周年を記念して、1917(大正6)年に建てられた横浜市の公会堂であり、翌年に竣工した大阪中之島公会堂とともに大正期の二大公会堂建築のひとつといわれている。赤煉瓦の間に白い花崗岩の横帯を入れるとともに、時計塔、角塔、八角塔を配し、ドームを架けた建築構成が特徴とされている。
また、技術的には、煉瓦を"碇聯鉄"と称する鉄材で補強するという耐震工法(碇聯鉄構法)を採用した点に特徴を有し、関東大震災に際しても、時計塔と壁体だけを残して壊滅するという大被害を被ったが、躯体は持ちこたえた。設計は、福田重義と、山田七五郎。 この煉瓦工法は、横浜正金銀行本店や赤レンガ倉庫でも採用されている。
1927年に屋根ドームを除く形での復元がなされ、戦後は、1958年まで米軍に接収され、1959年以降横浜市中区の公会堂、「横浜市開港記念会館」となった。その後、創建時の設計図が発見され、1989年にドームの復元が完了、国の重要文化財に指定された。
 この地には、開港期から明治初年まで岡倉天心の父親が支配人を務める越前藩の生糸売込店石川屋があり、天心はこの地で生まれた。
(写真はクリックで拡大します。)
(外観と構造)
 
横浜市開港記念会館(県庁屋上から)  正面
 
時計塔(ジャックの塔)  時計塔(ジャックの塔)最上部
 
時計塔(ジャックの塔)下部  時計塔(ジャックの塔)コーナーの装飾
 
時計塔下本町通り側入り口上部(階段の踊り場外)
(建設当初の"開港記念横浜会館"とある)
  角塔のある北西端(本町通側)
 
南西端八角塔(屋根ドーム)  角塔
 
煉瓦壁断面の碇聯鉄(帯鉄)
(エレベーター設置の際、切り取った外壁の断面'
  碇聯鉄(幅3寸(約90mm)厚さ3分(約9mm)の帯鉄)
(1 階)
 
玄関  玄関ロビー(奥は講堂)
 
玄関ロビー床のモザイク  玄関ロビーのシャンデリア
 
講堂内部  講堂天井照明
 
玄関ロビーからの階段  同左窓装飾
旧貴賓室入口(2階特別室の階下)
(八角塔の下)
(2 階)
 
広間  広間から資料コーナー入口方向
 
広間のシャンデリア(天井装飾は操舵輪をイメージ)  広間ステンドグラス中央(鳳凰)
(宇野澤組ステンドグラス製作所製、関東大震災で焼失し、
1927年に復旧、2009年に修復)
 
広間のステンドグラス左(呉越同舟)  広間ステンドグラス右央(箱根越え)
 
資料コーナー(広間の窓側)  資料コーナー窓(バラ窓風の装飾)
 
特別室(旧貴賓室)  特別室前階段のステンドグラス(ポーハタン号)
(宇野澤組ステンドグラス製作所製)
岡倉天心生誕之地の碑

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旧横浜商工奨励館(横浜情報文化センター)、旧横浜市外電話局(横浜都市発展記念館、横浜ユーラシア文化館)
旧横浜商工奨励館(横浜情報文化センター)
 横浜商工奨励館は1929年に、関東大震災後の復興事業として日本大通りに面して建てられたRC地上4階地下1階建のビルで、震災復興期に横浜市建築課が手がけた震災復興建築の代表的な建物の一つとされている。1階が石張、上層階が擬石仕上げのクラシックな重厚な建物で、内部はアール・デコの影響もみられる。
 1975年に横浜商工会議所が移転した後は長らく空きビルの状態であったが、当ビルと隣接する旧横浜市外電話局ビルの一部を取り込むような形で、中庭に高層棟(12階建)の新館を増築し、2000年に日本新聞博物館と放送ライブラリーを中心とした"横浜情報文化センター"として生まれ変わった(多目的ホールの他、オフィスビル機能を有す)。 増築された高層棟においても外壁に日本大通り周辺の歴史的建造物に多数みられるスクラッチタイルが使用されるなど景観への調和にも配慮されている。
(写真はクリックで拡大します。)
(外観と旧横浜商工奨励館正面玄関)
 
横浜情報文化センター(低層手前が旧横浜商工奨励館、
左旧横浜市外電話局、奥情報センター高層棟(新館))
  旧横浜商工奨励館(本町通側)
 
旧横浜商工奨励館正面(日本大通り側)
(3階正面は、貴賓室ベランダ)
  旧横浜商工奨励館南側("アルテ・リーベ"玄関)
 
旧横浜商工奨励館正面玄関  正面玄関脇の装飾
 
正面玄関ポーチ  玄関ドア中央の柱頭の装飾
 
正面玄関脇の内部(電話室)  本町通側玄関(閉鎖)
 旧館と呼ばれている横浜商工奨励館の日本大通り側の正面玄関を入ると、3階までの重厚な大階段となり、3階には、竣工時に昭和天皇が震災復興状況を視察する行幸時に休憩した旧貴賓室が復元・保存され公開されている。訪れる人は疎らのようだが。 
(旧横浜商工奨励館内部)
 
旧横浜商工奨励館1階正面大階段  同左上り口柱の柱頭と梁の装飾
 
横浜情報文化センター新館2階から旧館2階を望む  旧横浜商工奨励館2階(日本大通り側)
 
旧館2階から3階への階段  同左踊り場から3階を望む
 
旧館3階貴賓室前のロビー  同左照明器具
 
貴賓室前ロビーの柱の柱頭と梁の装飾  同左貴賓室窓の装飾
(貴賓室)
 
貴賓室入口  同左内部
 
貴賓室内部  同左照明器具
貴賓室天井画(復元)
 横浜情報文化センターの玄関としては、本町通り側と、中庭側の二ヵ所設置されている。本町通り側は、隣接の旧横浜市外電話局の1階部分の改造により設置されたもので、三連アーチの下に、旧市外電話局に設置された施設(2003年開設、後述)、みなとみらい線入口(2004年開通)と並んで設置されている(冒頭の画像参照)。中庭(駐車場)のエントランスからは車利用者が新館1階ロビーに直接入ることができる。
(横浜情報文化センター玄関とロビー)
 
横浜情報文化センター本町通側エントランス  駐車場側エントランス
 
1階ロビー  同左放送ライブラリー案内
1階ロビー・旧館との境界部分
(新聞印刷輪転機と吹き抜け)

旧横浜市外電話局(横浜都市発展記念館、横浜ユーラシア文化館)
 1929(昭和4)年に「横浜中央電話局」の局舎として建てられたRC地上4階地下1階建の建物である。同時に建設された隣接の旧横浜商工奨励館と高さを合わせるなど、景観上の配慮がなされている。 設計は横浜出身の逓信省技師中山広吉。
建物は装飾を抑え、窓を規則的に配置するシンプルなデザインで、モダニズム建築への過渡期の建築とされているようだ。
NTTの移転を契機に横浜市の施設として活用することとなり、2001年から大規模改修工事が行われた。タイル貼りの外壁を創建当時のまま残し、電話局時代の大桟橋通り側の第一玄関とその内部を保存の上、2003年から"横浜都市発展記念館"、"横浜ユーラシア文化館"として利用されている。
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(外観)
 
旧横浜市外電話局全景  同左中庭側全景
 
本町通り側  本町通り側三連アーチ(旧電話局時代の第二玄関)
(左が現横浜都市発展記念館・横浜ユーラシア文化館入口
、中がみなとみらい線入口、右が横浜情報文化センター口)
 
本町通り歩道と三連アーチ
(旧電話局時代の第二玄関を示すキーストーン)
  三連アーチ内側(手前が横浜情報文化センター口)
 
大桟橋通り側  大桟橋通り側第一玄関(電話局時代の玄関(閉鎖中))
大桟橋入口交差点向き正面4階コーニスの装飾
(第一玄関内部の保存部分)
 
第一玄関内部  同左事務所扉
第一玄関反対側中庭出入口

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 横浜三塔近辺の歴史的建造物
(以下の施設名をクリックすると当該施設の記事に飛びます)
1 旧三井物産横浜支店  2 旧横浜英国総領事館  3 綜通横浜ビル  4 旧三井銀行横浜支店
5 旧露亜銀行横浜支店  6 旧横浜居留地48番館  7 横浜海岸教会 8 海岸通1-1のビル
9 旧日本綿花横浜支店 
1 旧三井物産横浜支店(KN日本大通りビル)
 日本大通りに面した横浜情報文化センター隣のビルで、1911年(明治44年)竣工(1927年増築)。旧横浜正金銀行本店(1904年竣工)に次ぐ歴史のある建物。当ビルは、我が国最初の全鉄筋コンクリート造(地上4階地下1階)で、設備面でも当初からエレベーターを備えるなど、近代オフィスビルの先駆的な建築として、建築技術史上極めて重要な作品とされている。設計は日本の鉄筋コンクリート造の先駆者遠藤於莵(1866〜1943)(注)
によるモダニズム建築といえようが、コーニスなどにクラシックな装飾もみられる。
    (注)帝国大学卒業後神奈川県技師や正金銀行技師となり、横浜税関倉庫生糸検査所や正金銀行本店建築に関わった。
      事務所を山下町に構えた。

関東大震災でも、当建物は倒壊を免れた。現在はKN日本大通りビル(ケン・コーポ―レーション所有)。
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旧三井物産横浜支店(KN日本大通りビル)全景  同左正面玄関
コーニスなどの装飾

2 旧横浜英国総領事館(横浜開港資料館旧館)
 1859年日米和親条約が締結された場所に建つ旧横浜英国総領事館で、関東大震災により崩壊した後、1931年に建設され、1972年まで領事館として使用された。英国工務省設計で、鉄筋コンクリート造り3階建て。ジョージアン様式と呼ばれるスタイルのようだ。2本のコリント式円柱が立ち、扉まわりのペディメントやアイアンワークなどの装飾が目を引く正面玄関が強い印象を与える作りだ。なお、側面を含め、玄関上部の弓形の破風の上部が切れた部分には領事館時代は英国王室の紋章がついていたという。
1979年に横浜市が取得し、1981年資料館として開館した(現在は、横浜開港資料館旧館)。2000年には横浜市指定文化財に指定。 中庭に植えられている”たまくすの木”は有名なペリー来航時の記録画にも描かれている。当時の木は1866年の大火や関東大震災にて焼失したものの、その度に根元から再び芽を出して元の美しい樹木に育っており、横浜開港のシンボルとされている。
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旧横浜英国総領事館前の”たまくすの木”  旧横浜英国総領事館正面
 
正面玄関全景  正面玄関内部から庭のたまくすの木を望む
 
正面玄関上部  正面玄関最上部、コリント式柱頭
正面玄関脇部分最上部の装飾
 
正面玄関中央部  正面玄関扉と装飾
 
玄関正面の記念ホール
(休憩室として旧館で唯一公開されている部屋)
  同左
 
側面(開港広場側)  裏面(以前は蔦に覆われていたが、除去したようだ)
3 綜通横浜ビル
  江商(現 兼松)横浜支店として1930年に建設された地上5階地下1階の建物。外装はテラコッタタイルで装飾され、設計者は不詳だが、フランク・ロイド・ライトの影響があると言われている。1993年に横浜市認定歴史的建造物に認定された。1995年には、1階から5階までのファサードを残す形で、地上10階・地下2階のオフィスビルに改築された。
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綜通横浜ビル全景  旧綜通横浜ビルょう面ファサード
 
旧綜通横浜ビルファサードの装飾  同左
4 旧三井銀行横浜支店(三井住友銀行横浜支店)
 本町1丁目交差点角に1931年に建設された銀行建築である。戦前建設された銀行店舗で、現在も当時のままの状態で使用されているのはこの建物だけである。 設計は日本橋室町の「三井本館」(国の重要文化財)と同じアメリカのトローブリッジ&リヴィングストン事務所で、三井本館の縮小版とも言われるという。 正面4本、側面2本ののイオニア式円柱が最大の特徴で、上部窓の下の壁面には、帯状にギリシア雷文が彫られている。
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旧三井銀行横浜支店(現三井住友銀行横浜支店)全景  イオニア式柱頭
 
正面玄関  ギリシャ雷文
5 旧露亜銀行横浜支店
 1921年、本町通り沿い(山下町)に露亜銀行横浜支店として建設された。設計はイギリス人建築家バーナード・M・ウォード。イオニア式の大オーダー、半円アーチ窓のキーストーンなど、装飾にクラシックな特徴があるが、鉄筋コンクリート造りであり、関東大震災でも倒壊を免れた市内に残る数少ない建物の一つである。
同行は1926年に我が国から撤退、戦後は横浜入国管理事務所や警友病院の別館として使用された。同病院が1996年に横浜みなとみらい21地区に移転の後、県が所有、2005年に民間事業者による県有財産の活性化の一環として、2011年に結婚式場「ラ・バンク・ド・ロア」としてオープンした(大和地所が事業主体)。2006年横浜市指定文化財に指定された。一般公開はしていないが、県所有の文化財であるのだから、公開の機会を作ってもらいたいと思う。
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旧露亜銀行横浜支店全景  正面玄関
 
正面玄関上部の装飾  正面玄関大オーダー柱頭の装飾
 
上部半円形窓とキーストーン  1階窓の装飾
旧露亜銀行横浜支店側面

6 旧横浜居留地48番館遺構
 KAAT神奈川芸術劇場(NHK横浜放送局)の裏手の歩道上に保存されている。この地に1883(明治16)年横浜最古の洋風建築物とされるモリソン商会の店舗が建設された。建物は、関東大震災で2階部分が崩壊するなど甚大な被害を受けた。その後所有者が変わり、残存した部分が倉庫などとして使用され続けてきたようだ。1978年から県の所有となり、2001年の調査により建築的・歴史的価値の重要性が評価され、神奈川県指定重要文化財に指定された。保存の為の改修工事が行われ、内部のフランス積み煉瓦工法による壁が確認できる。居留地時代唯一の煉瓦建築の遺構とされている。
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旧横浜居留地48番館遺構保存建物  旧横浜居留地48番館プレート
 
48番館内部の様子  48番館内部の様子
 
48番館内部フランス積み煉瓦壁の遺構  フランス積み煉瓦壁の遺構(案内板台座)

7 横浜海岸教会
 1871(明治4)年に日本で初めてのプロテスタント教会が、大桟橋通り沿いで、開港広場に隣接した現在地に建てられた。当地は日本におけるプロテスタント教会発祥の地とされている。
関東大震災により従前の教会堂が倒壊し、1933年に現在の鉄筋コンクリート造り3階建ての建物が建設された。設計は、宮内省技師の雪野元吉。渡辺仁が提案した帝室博物館(現東京国立博物館)の実施設計に関与した人物という。1989年に横浜市歴史的建造物に認定された。
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横浜海岸教会(後ろの高層建築は県庁分庁舎)  横浜海岸教会(普段は施錠され見学は毎月第3金曜のみ)
 
鐘塔部分  正面玄関
 
側面1階玄関  側面全景
8 海岸通1-1のビル
 開港資料館前の象の鼻公園入口から、大桟橋入り口にかけての海岸通1-1の地番に、スクラッチタイルの外壁が特徴的な戦前期のビルが4棟並んでいる。いずれも昭和初期の横浜においてモダニズム建築を残した川崎鉄三という建築家が関与しているもので、この一帯に港横浜のクラシカルないしはレトロな雰囲気を醸し出している。
<昭和ビル>  ビル群のうち、西端の象の鼻パーク入口脇に立つ。1931(昭和6)年に「カスタム・ブローカー・ビル」として竣工した。設計は川崎鉄三。
<横浜海洋会館>  「大倉商事横浜出張所」として震災復興期の1929年に建てられた。同時に建てられた隣の「横浜貿易会館」と連なって横浜にクラシカルな雰囲気を残している。両ビルとも設計・施工は大倉土木。川崎鉄三が施工監理を務めたとされる。
<横浜貿易会館>
 横浜における貿易振興を目的とする”横浜貿易協会”の事務所ビルとして、1929年に竣工した。開港広場前交差点の角に建ち、北欧料理店”SCANDIA”の看板が目立つ建物。
<ジャパンエキスプレスビル>
 ジャパンエキスプレス(注)本社ビルとして、1930年に竣工した。設計は川崎鉄三。鉄筋コンクリート造による直線で構成されたシンプルなデザインで、縦長のガラス窓が規則的に並び、外壁に張られた淡いピンクのタイルと窓周りの白いタイルのコントラストが特徴。
     (注)1927年創業で、横浜港における海運関連業務を担う企業。
       海運集約後の商船三井系であったが、他社へ事業譲渡し現在は存在しない。
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昭和ビル  昭和ビル玄関
 
横浜海洋会館  横浜海洋会館玄関
 
手前横浜海洋会館、右横浜貿易会館  横浜貿易会館
 
ジャパンエキスプレスビル  同左
9 旧日本綿花横浜支店事務所棟、同倉庫
 関東大震災後の1928年 、関内駅直ぐの日本大通り入口に"旧日本綿花横浜支店事務所棟"と"同倉庫"が建てられた。外壁を覆うスクラッチタイルが特徴的で、シンプルでモダンなデザインである一方、頂部コーニス下の半円アーチのロンバルド帯、玄関まわりのレリーフ装飾など、細部にはクラシカルな意匠もみられる。設計は渡辺節。渡辺は、大正から昭和にかけて日本興業銀行本店(1923)、日本勧業銀行本店(1929)など、オフィスビルを多く手掛けた建築家。
いずれも2003(平成15)年に横浜市が取得し、現在事務所棟は横浜DeNAベイスターズが運営する複合施設「THE BAYS」として、倉庫棟は「中区役所別館」として使用されている。 2013年には横浜市指定文化財に指定されている。
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旧日本綿花横浜支店ビル全景(日本大通りから)  同左正面玄関側
 
旧日本綿花横浜支店ビル正面玄関(THE BAYS玄関)  同左玄関周りのレリーフ装飾とプレートを外した跡
 
旧日本綿花横浜支店ビル横浜公園側側面  外壁上部の半円アーチの装飾(ロンバルト帯)
旧日本綿花横浜支店左事務所ビル、右倉庫ビル(現中区役所別館)

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 旧横浜正金銀行本店(神奈川県立歴史博物館)
   旧横浜正金銀行は、1879(明治12)年貿易決済や外国為替業務を行う専門銀行として横浜に設立され、1904(明治37)年に本店ビルが建設された。
このビルは、壁に石材を使用しているが、躯体の主要部分は鉄材で補強された耐震煉瓦造り(碇聯鉄構法)、地上3階地下1階建ての堅固な建物である。コリント式の重厚な石造彫刻の柱頭飾りをもつ大オーダーと、正面に据えられたドームが特徴のネオ・バロック様式とされている。国指定の重要文化財・史跡として横浜を代表する近代建築である。設計は、明治建築界の三巨頭の一人とされる妻木頼黄。もう一人の巨頭辰野金吾は、日本銀行本店を設計した(竣工は1896年)。
 関東大震災では、躯体が崩壊することはなく、1階から3階までの内装と屋上のドームを焼失した。復旧工事が行われたが、ドームは復元されないままで営業が続けられ、第二次世界大戦後は東京銀行横浜支店として使用された。
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旧横浜正金銀行本店正面
(神奈川県立歴史博物館馬車道玄関)
 
旧横浜正金銀行本店正面
(神奈川県立歴史博物館馬車道玄関)
  同左上部
 
旧横浜正金銀行本店正面玄関の行章のキーストーン  同左南仲通り(本町通り寄り)側
 
旧横浜正金銀行本店側面(南仲通り側)  コリント式柱頭の装飾
 
旧横浜正金銀行本店正面玄関  玄関内部旧1階ロビー営業場入口扉と天井照明

 1964年に神奈川県が取得し、ドームの復元などの改修・増築工事を行い、1967年に神奈川県立歴史博物館として開館した。その際、軒高の高い1階につき、床張を行うことにより、現在の2階のスペースを創出した。また、旧正金銀行本店の裏側に鉄筋コンクリート造りの新館を増築し、そちらを博物館の正面玄関とした。馬車道通りに面した旧正金銀行の玄関は、博物館の裏口になり(馬車道玄関と呼ぶ)、入場はできるが、内部の廊下を正面へ回る形となり、ここを使う人は稀のようだ。 一方、博物館正面からはドームが見えないため、"エースのドーム"と言われてもピンとこない、という感じであろうから、この呼称(ニックネーム)は、横浜3塔ほどは一般化しないかもしれない。
 
 
旧横浜正金銀行本店1階営業室(県作成のパンフレット)
正面2階部分に回廊を持つ典型的な銀行営業室。
この回廊のレベルに床を張った。前方右が正面玄関からの
出入口、左の壁の奥に会議室があった。
  1階営業室入口の内側を2階展示室から覗く
(改装時に床を張って2階を作ったことを示す場所、
文化庁指導による)


(写真はクリックで拡大します。)
(2階展示室の様子)
 
2階展示室(旧会議室の床張りした2階部分)  同左と営業室上部分展示室(奥)との壁
 
2階展示室の壁(手前が営業室の上、壁の向こうが会議室
の上 上右画像の裏側)
  扉上の装飾
 
旧営業室入口上からの2階展示室の様子
(右の壁が回廊のあった場所にあたる)
  同左(左の壁は馬車道側)
 
2階展示室の様子(旧会議室の展示室から)  同左

(屋上)
 
屋上で見るドーム  ドルフィンの装飾
ドーム内部

(県立歴史博物館正面)
 
神奈川県立歴史博物館正面  手前歴史博物館新館と奥旧正金銀行本店

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第二合同 旧浜銀 旧富士 旧川崎 旧東京三菱 日本郵船 指路教会 旧横浜正金銀行
 馬車道周辺と本町界隈の歴史的建築物
(以下もしくは上掲マップの赤線で囲まれた施設名をクリックすると当該施設の記事に飛びます)
1 旧横浜生糸検査所  2 旧横浜銀行本店別館  3 旧富士銀行横浜支店  4 旧川崎銀行横浜支店
5 旧東京三菱銀行横浜中央支店  6 横浜郵船ビル  7 横浜指路教会
1 旧横浜生糸検査所
 開国後我が国は、「富国強兵」のスローガンのもと、積極的に産業の育成を図ったが、その際の基幹産業は養蚕・製糸業であり、生糸輸出を通じて外貨獲得の重要な役割を果たした。その中心となったのが横浜港であり、横浜港は日本最大の貿易港になった。
1896(明治29)年、粗悪品の輸出をチェックするべく、横浜と神戸に官立の生糸検査所が設立された。 当初の横浜検査所は、本町1丁目にあったが、関東大震災後の1926年、現在の北仲通(北地区)に地上4階地下1階建ての検査所が建てられた(延べ床面積8,627.32m2)。 設計は日本における鉄筋コンクリート建築の先駆者として知られ、横浜ゆかりの建築家遠藤於莵。同時に建造されたA、B、C、Dの4棟の倉庫、倉庫事務所(帝蚕倉庫)と共に戦前における横浜の建築としては最大規模のものであった。建物はセメントモルタル塗りの外壁に赤いレンガ張りの柱形が並ぶ縞模様の統一的なデザインにより、一大建築群としての景観を形成し、竣工当時は観光名所だったという。
戦後は、1980年に農林規格検査所に統合、1991年には農林水産消費技術センターに改組された。
その後、耐震耐久性の問題から解体され、1993年に高層の横浜第2合同庁舎が建設されたが、その低層部分に旧庁舎の長大なファサードを含む一部が高層部を取り囲むような形で復元された。1990(平成2)年には横浜市認定歴史的建造物に認定されている。
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横浜第2合同庁舎(旧生糸検査所復元低層部と高層部、
左は民間マンション、右奥はホテル)
  横浜第2合同庁舎(旧生糸検査所(復元)の中央部)
 
横浜第2合同庁舎(旧生糸検査所)玄関ポーチ  同左正面
玄関ポーチの装飾
 
正面背後最上部の紋章等の装飾  蛾・蚕・桑・菊の紋・日章旗でデザインされた紋章
(旧横浜生糸検査所附属倉庫、倉庫事務所と北仲通再開発)
 横浜第2合同庁舎、旧倉庫地区とその周辺地域は、北仲通地区と呼ばれ、みなとみらい21計画の一部として再開発が進められており、倉庫の建てられていた場所には、58階建ての超高層マンションが建築された(ザタワー横浜北仲、2020年春完成)。この間、倉庫事務所とC号倉庫以外は取り壊されていた。
 旧倉庫地区の建築物を歴史的文化施設として残したい、との横浜市の意向を反映したのであろう、同マンションの低層部に設けられた商業施設("北仲ホワイト")と接続して約50m超のガレリア(吹抜歩行者用回廊、"歴史広場"と称す)が設置され、"北仲ブリック"と銘打った復元倉庫と倉庫事務所の地域を回遊することができるようにしている。北仲ブリックは、解体して外観を復元したC号倉庫、外観を新築復元したB号倉庫(以上を"北仲ブリックノース"と呼ぶ)、倉庫事務所(同サウス)から構成される。低層部全体は、"北仲ブリック&ホワイト"と総称している(カタカナの名前の付け過ぎだ)。
歴史的文化施設は、料飲施設(C号倉庫)やライブハウス(B号倉庫、2020年7月開業予定)、シェアオフィス(倉庫事務所)として活用しているが、化粧直しをしているB号、C号については、歴史的建築物といった趣を窺うことは困難だ。説明を聞かなければ、マンションに付帯した、単なる外壁がレンガ調の商業施設ができた、というのが一般の受け止め方ではなかろうか。
 このほか、北仲通地区内には、2016年に結婚式場がオープンしており、アパホテルによる2千室を超える超高層ホテルも2019年に開業した。なお、同ホテルは、新型コロナウイルス無症状者及び軽症者の宿泊療養施設として、神奈川県が一棟借り上げを行っている。2020年4月20日から8月末までの予定とのことだが、それまでにその使命を終えることができるか怪しくなっている。県は同様の施設を別途手配することになろうが、適当な施設の協力が得られることを祈りたい(この項2020年7月1日記)。
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ザタワー横浜北仲全景、右下は倉庫事務所
(国道16号から)
  低層部正面
(中央ガレリアを挟み右が復元B号倉庫、左がC号倉庫)
 
倉庫事務所  同左
シェアオフィス入口(倉庫事務所)
 
ガレリア・国道16号方を望む(左復元B号倉庫、右C号倉庫)  復元B号倉庫(国道16号側)
 
復元B号倉庫  復元B号倉庫の紋章
 
C号倉庫  C号倉庫(国道16号側)
2 旧横浜銀行本店別館(元第一銀行横浜支店、日本債券信用銀行横浜支店)
 馬車道で分岐する本町通りとみなとみらい通りに挟まれた三角地にあるビル。1929年に第一銀行横浜支店として旧横浜生糸検査所と隣り合う位置に建てられ、日本債券信用銀行横浜支店を経て、1980年からは横浜銀行本店別館として使用されていたビルの玄関部分で、道路整備に伴い1995年に曳屋工法により現在の場所へ移築されたもの。2003年に隣接の超高層ビル・横浜アイランドタワー建設に際し、同ビルの低層部として創建当初の内外装を復元した。現在はヨコハマ創造都市センター (YCC) の施設として使用されている。 設計は銀行建築の大家として知られる西村好時。建物は古典主義様式の銀行建築で、4本の重厚なトスカナ式円柱が並び、2・3階部分が吹き抜けになっている半円形のバルコニー、コーニスの歯飾りが特徴。
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旧横浜銀行本店別館全景  同左正面
 
玄関正面・コーニス歯飾りとトスカナ式柱頭  玄関正面1階と2階バルコニー
 
側面(本町通側)  側面上部の装飾
 
1階内部(カフェ)  同左
3 旧富士銀行横浜支店(元安田銀行横浜支店)
 安田銀行の横浜支店として本町4丁目の角、馬車道の入口に1929年に竣工した。金融街であった本町通りに残る戦前期の銀行建築の一つ。ルスティカ積みと呼ばれる粗い石積の堅牢な外壁、トスカナ式の巨大なオーダーが特徴で、イタリアルネサンス期のパラッツォ建築に似ていると言われている重厚な建物である。設計は、安田銀行営繕課とのことで、各地に同じような建物が建てられたようだ。1954年に建物南側が増築されているが全体の統一感が保たれている。
2002年に横浜市が取得、2003年には横浜市認定歴史的建造物に認定された。2005年より東京藝術大学大学院映像研究科の校舎として利用されている。
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旧富士銀行横浜支店全景(本町通り側)  旧富士銀行横浜支店全景(馬車道側)
(1954年に南側に増築された)
 
正面玄関  角の石積みとオーダー
正面玄関のギリシャ雷文とプレート
4 旧川崎銀行横浜支店(損保ジャパン日本興亜馬車道ビル)
 横浜正金銀行本店を設計した妻木頼黄に師事していた矢部又吉の設計により、1922(大正11)年に川崎銀行横浜支店として正金銀行の隣に建設された、白い石造りの3階建て、ネオルネッサンス建築である。こちらも1階は、「ルスティカ積み」の仕上げになっている。1988年には、横浜市認定歴史的建造物の第1号として認定されたが、1989年に、馬車道に面する側の全面と、弁天通り側の一部のファサードを保存として9階建てに改築された。
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損保ジャパン日本興亜馬車道ビル全景  同左(県立博物館側)
 
旧川崎銀行横浜支店正面ファサード  同左玄関上部
 
損保ジャパン日本興亜馬車道ビル最上部装飾  旧川崎銀行横浜支店最上部側面装飾
(旧横浜正金銀行本店屋上より撮影)
5 旧東京三菱銀行横浜中央支店
 1934(昭和9)年に、元第百銀行横浜支店として本町3丁目交差点角(アール・デコ建築の横浜銀行協会筋向い)に建てられた鉄筋コンクリート造り2階建ての建物たが、同行が1943年に三菱銀行に吸収合併されて以来三菱銀行の店舗となった。この建物はイオニア式の大オーダーの円柱、コーニス下のクラシックな装飾など,戦前の古典主義様式の銀行建築の一典型とされている。設計は損保ジャパン日本興亜馬車道ビルと同じ矢部又吉。2003年に横浜市 認定歴史的建造物に認定されている。
2009年に近くの東京三菱銀行横浜支店に統合され、ファサードを保存の上高層マンションに改築された。
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旧東京三菱銀行横浜中央支店全景  同左本町通側
 
旧東京三菱銀行正面玄関  イオニア式の柱頭、コーニス下等の装飾
6 横浜郵船ビル
 日本郵船横浜支店の初代ビルは1888(明治21)年に竣工した赤レンガ造りの建物であったが、関東大震災により崩壊し1936年に当ビルが完成した。本町通の北側の海岸通りに面する。設計は和田順顕。16本のコリント式列柱と梁からなる幅50mに及ぶ建物。日本郵船歴史博物館」として一般公開されている。
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横浜郵船ビル全景  コリント式柱頭
 
正面玄関  歴史博物館バナーと列柱
 
側面外壁の装飾  日本郵船歴史博物館看板
7 横浜指路教会
 関内駅から桜木町寄りの尾上町にあるゴシック調建築。当初関内居留地に1974(明治7)年宣教医ヘボンが建設した教会が現在地に移転したが、関東大震災により倒壊し、1926(大正15)年に現在の教会堂が再建された。第二次世界大戦では建物内部が全焼した。横浜市認定歴史的建造物(1988年)。
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横浜指路教会全景  同左正面
 
横浜指路教会正面玄関  同左バラ窓(12枚の花弁は12使徒を示す)

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 新港地区(赤レンガ倉庫とハンマーヘッドクレーン、その他の遺構)
 1859(安政6)年、横浜港は二つの突堤が建設され開港した。そのうち、運上所(現在の横浜税関)前の突堤が弓なりに改造され、"象の鼻"と呼ばれるようになった。1896年には大さん橋が設置された。
その後、大さん橋の東側に1899(明治32)年から1905年にかけて埋め立て工事を行い、1917(大正6)年迄に1号から12号までの岸壁(バース)を築造、現在の新港埠頭地区が誕生した。その間、埠頭に付帯する保税倉庫として、いわゆる赤レンガ倉庫が1913年迄に建設された。また、1914年には英国製の吊上能力50トンの"ハンマーヘッドクレーン"が設置された。当地区の港湾は、税関構内の施設として整備されたものであり、当初は税関埠頭と呼ばれていた。ただ、埋め立て後の港湾地区の整備には、横浜市も費用負担をしているという。
   上の画像は、1910年頃の写真絵葉書を拡大したもので、開港広場から大さん橋へ向かう道路の山下臨港線プロムナード下に
   掲示されている。
   ただし、「赤レンガ倉庫」と表示してある場所は、1号岸壁と、既に建てられていた1号上屋である。その斜め左の位置に
   あるのが2号上屋であろう(下の配置図参照)。赤レンガ倉庫は、それらの上屋の内側で工事中である。
    (原資料は、横浜開港資料館の所蔵。掲示したのは横浜市港湾局であろう。)
 新港地区は、戦後連合国軍に接収されていたが、1956年に解除され貿易港として復活したものの、1970年代以降海運界における急速なコンテナ化等に伴い衰亡の一途を辿ってきた。
その後新港地区は、みなとみらい地区の一部として赤レンガ倉庫の活用、複合商業施設や遊園地、ショールーム、その他の誘客施設の整備が進められてきた。

 みなとみらい地区として再開発される前、すなわち当初の12バースを擁していた時代の新港地区のバースとそれに付帯する上屋の配置は右図のようになっていた。
現況と対比してみると、まず1〜3号は、赤レンガパークの岸壁になっており、1号付近は何らかの手を加えられ消失し、2号と3号の間付近に横浜駅東口と山下公園を結ぶシーバスの乗り場(ピア赤レンガ)が設けられている。岸壁の縁には全て鉄柵が設置され船舶の接岸機能はなくなっている。また、6号、7号及び10〜12号は、みなとみらい開発計画により埋め立てられ消失し、結局4バースが残った(注)
そのうち4、5号(上図のP4、P5)のある突堤はほぼ全体が横浜海上防災基地として利用されており、4号は海上保安庁専用の形になっている。一方、5号については、防災基地とはフェンスで仕切られており、横浜市港湾局客船事業推進課が当バースを利用する船舶の配船調整を行っている。
次に、8〜9号(P8、P9)は、2010年まで客船ターミナルとされていたが、老朽化しタグボートの係留場所となり、事実上遊休化していた。新港地区で残った、先端にハンマーヘッドクレーンがあるこの地域を再開発するものとして、"YOKOHAMA HAMMERHEAD PROJECT"と銘打ったプロジェクトが実施されることとなり、2019年11月に完成をみた。
(注)横浜市港湾局のホームページには、新港埠頭における公共在来船バースとして、2、3、5、8、9の5バースが掲載されている。4号は、現に海上保安庁が使っているが、そもそも国有財産なので横浜市の管理下にはならないということか。バース機能を失っている2、3号が掲載されているのも妙だが、将来復活することあるべしとのことか、それとも除籍手続きがなされていないのか、事情は分からない。

赤レンガ倉庫(旧新港埠頭保税倉庫)
 赤レンガ倉庫は、横浜新港の埠頭に付帯する保税倉庫として、1911年に2号倉庫が、1913年に1号倉庫が建設された。設計は、横浜正金銀行を設計した妻木頼黄で、正金銀行と同様、鉄材で補強した堅固なレンガ造り(フランス積み)であったが、大正期に完成した1号倉庫が関東大震災でその1/3が崩壊し、半分の規模に縮小された。
 1970年代に入り、取扱貨物量は減少し、テレビロケに使われたりするが、保税倉庫としては1989年まで存続した。その後放置されていたが、1992年に横浜市が国から取得、リニューアル工事実施の上、2002年にみなとみらい地区の観光施設として再出発した。すなわち、1号館は展示スペース、ホールなどの文化施設、2号館は商業施設とし、2棟の間をイベント広場として活用すると共に、周囲は赤レンガパークとして整備され、現在では横浜みなとみらい21地区の代表的な観光施設となっている。赤レンガ倉庫は、2007年、経済産業省による近代化産業遺産に認定。2010年、日本初の「ユネスコ文化遺産保全のためのアジア太平洋遺産賞」優秀賞受賞を受賞した。
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(1号館)
 
1号館海側(裏側)全景  同左プロムナード側全景(中央は昇降機塔)
 
1号館昇降機室内部  同左昇降機設備
(モーターは昭和4年日立製とある、奥の巻上機(?)はOTIS製)
 
1号館イベント広場側全景  1号館イベント広場側の窓
 
1号館イベント広場側中央部  出入口
(開口部は全て鋼製二重扉)
 
1号館ガラス階段(イベント広場側東端)
(荷物を滑り下ろす滑り台の上にシースルー階段を設置)
  ガラス階段上り口
(奥の斜面が滑り台、その上の踊り場が下画像上部)
1号館ガラス階段下滑り台(イベント広場側1階東端から)
(一部をガラス張りにして内部を覗けるようにしてある)

(2号館)
 
2号館イベント広場側全景  同左埠頭寄り側面と1階飲食店のサンルーム化
 
イベント広場側中央部  屋根上の避雷針
 
イベント広場側既存出入口  同左リニューアル後出入口
公園側(裏側)全景
 
2号館内部波型鉄板の天井  同左吊下げ式引き戸の防火扉(右へ引く)
 
2号館3階の鉄骨で組んだトラス構造の天井  同左機械室のあった3階上部

(2号館バルコニー)
 
3階バルコニー  バルコニーからの展望
(手前税関事務所遺構、奥旧横浜港駅ホーム)

 
バルコニーの鉄骨支柱  バルコニー側の窓
 
バルコニーに残る水道管  同左消火栓
赤レンガパーク(旧税関事務所遺構、旧横浜港駅ホーム)
 赤レンガ倉庫の周囲は赤レンガパーク"として整備されているが、2号館裏側と横浜海上防災基地のある突堤(4及び5号バースがあり"右突堤"と呼ばれていた)に挟まれた場所には、嘗て初代横浜駅(現在の桜木町、後に貨物駅は分離)から貨物線(横浜臨港貨物線、通称税関線)が引かれ、横浜税関の貨物駅"横浜荷扱所駅"が置かれていた(1911=明治44年供用開始)。1914年には、隣接して"右突堤中央事務所"と呼ばれる煉瓦造り3階建ての税関事務所が建設されたが、1923年の関東大震災で被災し、復旧されないまま埋められてしまい、荷捌き用地になった。そして、赤レンガパーク整備工事に際して、遺構が発見され、花壇として利用しつつ一般に公開することなった。
 
右突堤中央事務所遺構  同左(画面上方は横浜港駅プラットホーム)
 
右突堤中央事務所遺構
(奥は"右突堤"上の横浜海上防災基地の建物)
  同左
右突堤中央事務所(案内板による)
 一方、海外渡航が増加し、新港においても客船利用のニーズが出てきたことから、1920年からは旅客扱いが開始された。そのため、荷扱所駅は"横浜港駅"と改称された。そして、外航客船の出帆日には東京駅から、ボート・トレインと呼ばれる列車が運転された。
1928年には4号バースの外航ターミナルに沿って、全長140mのプラットホームが造られた。今では想像もできないが、この埠頭から旅立つ乗船客と見送りの人達で大変な賑わいであったに違いない。また、皇太子時代の昭和天皇の訪欧(1921年)や観艦式等の際には御召列車が運転されたという。
横浜港駅を出発するボート・トレイン(8620形蒸気機関車)
(東京湾港湾情報局https://tokyo-bay.biz/pref-kanagawa/city-yokohama/kn0344/による)
 新港埠頭地域は、戦後連合軍に接収され、1956年になって漸く返還された。戦後最初の客船となったのは、1957年8月の日本郵船シアトル航路の氷川丸であり、1959年7月の宝塚歌劇団北米公演出発の際は、10両編成の列車を運行し(通常は7両)、5千人を超えるファンが見送りに押し寄せたという。そして、この時が横浜港駅の賑わいのピークとなり、翌60年8月、当埠頭からの出航が最終航海となった氷川丸出航に合わせて運転された列車が最後のボート・トレインとなった。その後も貨物線の駅として存続したが、鉄道貨物輸送の衰退と港湾荷役の形態変化等から昔ながらの当埠頭の役割は終わりを告げ、1982年に廃止された。
残されていた横浜港駅プラットホームは、桜木町寄りの55m程を、赤レンガパーク整備に際して、歴史遺産として保存すべく屋根を復元した。桜木町駅前の日本丸交差点から線路跡を汽車道と称するウッドデッキの遊歩道が整備されており、複合商業施設ワールドポーターズの前を通り、横浜港駅まで、散策することができる。
 
臨港線線路と終着駅横浜港駅ホーム
(複線だが、電化はされなかった。東海道線が電化された後
は、鶴見駅で機関車を蒸気機関車に交代した)
  横浜港駅ホーム(今は休憩所)
(Y字型の鉄柱と屋根は赤レンガパーク整備時のもの)
ハンマーヘッドクレーン
 "ハンマーヘッドクレーン"は、英国製の吊上能力50トンのクレーンで、1914年に8号バースの先端に設置された。明治から大正期にかけて設置された同型のクレーンで、現存しているのは、世界遺産に登録された三菱長崎造船所のジャイアント・カンチレバークレーン(150トン、1909年設置)、佐世保重工の旧海軍工廠時代の250トンクレーン(1913年、国指定登録有形文化財)と、経済産業省の近代化産業遺産認定の当機(1914年)のみであり、世界でも10機しか残っていないという。前2機は現在も稼働しているが、当機は稼働停止した文字通り遺産として保存し、周辺を"ハンマーヘッドパーク"として整備する。
 
8号バース先端部に建てられたハンマーヘッドクレーン  同左9号バース停泊中のダイヤモンドプリンセスを背景
 
埠頭先端まで引き込まれた貨物線レール跡  8号バース先端

(最近の横浜新港について)
 前述の、"YOKOHAMA HAMMERHEAD PROJECT"は、客船ターミナル、ホテル、商業施設、公園で構成されるプロジェクトで、2011年10〜11月に完成をみた。このうち、客船ターミナルは、横浜港における大型客船受入れ態勢強化の一環として、9号バースを11万6千総トン級の客船にも対応できるよう、岸壁を延伸し、水深も9.5m迄浚渫した。第一船は、ダイヤモンドプリンセス(115,875G/T)であった。
(2号、3号バース跡)
 
"ピア赤レンガ"から新港埠頭2号バース跡を望む  同左新港埠頭3号バース跡を望む
新港埠頭2号バース時代の錆びついたビット
(4号、5号バース)
 5号バースの入口には、"香淳皇后御歌"の碑が建てられている。1946年11月から1952年6月まで、すなわち我が国が連合国に占領されていたほぼ全期間にわたって、全米の宗教団体を中心とする団体から、食料を始めとする諸々の救済物資が送られた。その事業主体は、日本を含むアジア諸国に救済物資を送ることを目的とした、"Licenced Agencies for Relief in Asia"(日本語略称"ララ")なる団体であり、その救援物資を"ララ物資"と称した。ララ物資を積んだ第一船が到着したのが新港であり、この碑は、ララ物資倉庫行幸の際の香淳皇后の御歌の碑である。
   ララの品積まれたる見て とつ国のあつき心に 涙こぼしつ
氷川丸などが出航した右突堤4号バース(海上保安庁巡視艇あきつしま"が停泊している)
 
横浜海上防災基地建屋と5号バース
(岸壁は新たなコンクリート壁が造られている)
  5号バースに停泊中のロシアの大富豪所有スーパーヨット
と香淳皇后歌碑

(8号、9号バーース、ハンマーヘッドビル、D.プリンセス)
 
8号バースと横浜ハンマーヘッドビル
(岸壁上に鉄柵が設置され、埠頭機能は停止、ボート用
小規模浮桟橋への出入りのみ可)
  8号バース側ハンマーヘッド全景
(1階9号バース側が新港ふ頭客船ターミナル、8号バース側
と2階が飲食店、3階〜5階インターコンチネンタルホテル)
 
ダイヤモンド・プリンセス号(船主P&O、船籍港ロンドン)
(115,875G/T、L290m、W37.5m、H54m、主機バルケラ他
三菱長崎2004/3就航、2019.11.4新港パークより)
  同左右舷、船尾部分(ハンマーヘッド2階テラスより)
  
  
 
ダイヤモンド・プリンセス号右舷前方部分
(ハンマーヘッド下より)
  同左ブリッジ