広島2019


 広島 2019


はじめに

平和記念公園、原爆ドームと周辺

基町界隈と紙屋町

縮景園、世界平和記念聖堂


はじめに
 広島には、このところ久しく行く機会がなかったが、偶々2019年4月に広島平和記念資料館(原爆資料館、1955年開館)が、大規模な改修の上再開されることを知り、平成が終わった2019年5月、広島を訪れた。
当資料館は、同時期に建設された世界平和記念聖堂(1954年完成)とともに、戦後間もない時期に建設された広島復興のシンボルのような建築物てある。聖堂の方も改修中で、こちらは本年9月に改修を終えるとのこと。
 広島は、原爆により焦土化した中から、奇跡と称されるほどの復興を遂げ、その中心部は1960年代には都市として物的に復興し、新しい街並みに生まれ変わったが、現在のような姿に向かって動き出したのは、基町の広島バスセンターが、1974(昭和49)年に、そごう百貨店との共同事業により面目を一新した頃からでなかろうか。この事業が可能になったのは、以下で述べるように、戦後の懸案であった基町の住宅問題が、基町アパート群の建設という形で、解決の目途が立ったことによるもので、戦後広島の都市整備において大きな意味を持つものといえる。 それまでのバスセンターといえば、平屋建て(一部2階建)の全く見すぼらしく、侘しささえ感じさせるもので、とても県庁所在地のど真ん中の施設とは思えないようなものであった。
 更にこの地域は、平成に入ってから大きく変わった。すなわち、1994(平成4)年、バスセンターに隣接する旧NTT中国支社跡地が、"NTTクレド基町ビル"として再開発された。そごう広島店新館・ショッピングモール"パセーラ"が入居する商業棟と、リーガロイヤルホテル広島が入居する35階建ての宿泊棟で構成されており、宿泊棟は完成時広島で最も高いビルであった(150m)。同年には、紙屋町南の「本通り」と、北部の安佐地区で開発された住宅地とを結ぶ新しい交通手段として、"アストラムライン"(新交通システムとしては日本一の18.4km)が開業した。また、広島城が、二の丸の復元などの改修工事を終えたのもこの年である。
そして広島で初めての地下街が、紙屋町の地下に2001(平成13)年に完成をみた(「紙屋町シャレオ」)。広島は三角州の地域で地盤が悪く、地下街の建設は困難とされてきただけに、驚きを覚えたものである。
 一方、広島の顔というべき広島駅前においては、戦後長年に亘って懸案とされてきた権利者総数642に上る南口駅前再開発が、平成も終わりに近い2017年に漸く全ブロックの完成をみた。広島の戦後が始まったのは駅前の闇市からからで、駅前にはその闇市を起源とする商店・飲食店、いわゆる市場などが昭和から平成を通じて残ってきたが、この再開発の完了により消滅したことから、広島の戦後は、物的には平成をもって終了したと言えよう。ただ、高齢化した心身ともに傷ついた被爆者の人たちの戦後は終わっていないはずだと、敢えて付言しておこう。
しかして、広島駅前は、いずれも似たような感じではあるが、新幹線乗り入れの地方中核都市の駅前らしくなってきたと言えよう。なお、南口駅前の広場は引き続き整備中で、広島電鉄が駅ビルの2階へ乗り入れる計画である。このビルは相当老朽化していると思われるので、大掛かりな改修もしくは改築が必要になるのではないか。いずれにせよ、ここでも"戦後"の風景は大きく変貌することになる。

 平和記念公園、原爆ドームと周辺

平和記念公園
 平和記念公園は、広島の爆心地至近の中島町地区に1954年に開園した総面積12.2haの広大な公園である。この地域を新たに平和記念公園として整備するに際しては、広島平和記念都市建設法という特別立法によることとされた。同法は、1949年5月成立し、憲法95条による住民投票を経て8月6日に施行された。
一方、法律成立の目途の立った1949年4月、設計コンペがが行われ、1等になった丹下健三が公園全体の設計を担当した。丹下は、旧制広島高校出身で広島の復興に並々ならぬ関心を持っていた(注)
    (注)東京帝大建築科の助教授になっていた丹下にとって、広島は第二の故郷と言うべき存在であり、戦災復興院による
       各都市の復興計画立案に際し、広島担当を申し出、"いま広島に行くと原爆症にかかって死ぬ"といわれながら、
       1946年広島に赴き、現地でマスタープランづくりの作業を行った。(「丹下健三 一本の鉛筆から」(1997))。

 公園南端の平和大通り(100メートル道路)と直角に交わる、原爆ドームを起点とする南北の軸線を平和記念公園の中心軸とし、この中央にアーチ状の広島平和都市記念碑を、まず1952年に設置、そして、この南の5万人を収容できるという 広場の先に、公園の目玉施設として位置づけられた現在の広島平和記念資料館本館(1955年開設)が、その東に資料館東館(設計時は平和会館)、西に広島国際会議場(同公会堂)を配置した。資料館本館1階はピロティとし、その前に立てば、記念碑とその向こうの原爆ドームが一望できるように設計されている。
 それから半世紀後の2006年、広島平和記念資料館本館は、前年完成の世界平和記念聖堂(村野東吾設計)とともに、第二次世界大戦後の建築としては初めて重要文化財に指定された。
     [ 文化庁国指定文化財等データベースの記述 ]
     広島平和記念資料館は、広島平和記念都市建設法に基づき最初に着手された平和記念施設で、ピロ
     ティの造形やルーバーの意匠などに建築的特徴がよく示されている。国際的に高い評価を受けた最
     初の戦後建築であり、丹下健三の出発点となる建築として重要である。

 なお、戦前この地域は、広島有数の繁華街であった。本項末尾「被爆前の中島町」を見ると、本川橋から元安橋に至る中島本通りを中心とする中島本町の一帯は、商店・飲食店、旅館、映画館等がひしめく繁華街であった様子が良く分かる。
戦後中島本町地区には多くの簡易住宅が建てられ、開園時にもまだ残っている状態だった。当地の住民は、1958年までに立ち退くことになる。
 ところで、広島平和都市記念碑の碑文「安らかに眠ってください。過ちは繰り返しませぬから」を巡っては、1952年の決定当初から異論も多く、激しい論争が繰り広げられてきた。この碑は、広島が世界平和都市として、人類の恒久平和を祈念して建立されたものであり、この碑文の主語は、"全人類"である、というのが公式見解である(碑文の作者は、自らも被爆者である広島大学教授の英文学者)。
しかしながら、一般には通称の"原爆死没者慰霊碑"で呼ばれるように、何よりも広島の原爆で犠牲になった人たちの霊を祀るもの、というのが市民感覚であろう。そして、この碑を前にしたとき、肉親・親族等を原爆で喪った自らも被爆した人たちや広島市民が、この碑文を祈りの言葉とすることに違和感を感ずるのは自然ではなかったか。

 今回の改修は、耐震化や、被爆の実相をより分かりやすく伝えるための展示更新を目的としたものである。
 これまで来館者は東館から入館し、被爆前の広島などの展示を観覧した後、本館に移動して被爆の惨状の展示を観覧し、本館から退館する、という流れになっていた。この場合、東館で費やす時間が長くなり、本館の見学に割く時間が少なくなっていた。すなわち、平均滞在時間45分のうち、本館における見学時間は、19分に過ぎない、という調査結果になっていた。
改修後は、東館から入場して直ちにエスカレーターで3階へ上がり、導入展示を見て渡り廊下から本館へ入り、「被爆の実相」と名付けられた本館展示を中心に見るように動線を変更している。その後東館の展示に戻り、東館から退出。(広島市「広島平和記念資料館更新計画」(2007)による)
 公園内の緑地等には、多くの記念碑、慰霊碑が建立されており、その数は50を超える。
同じ被爆地である長崎の平和公園と比べると、長崎の場合は起伏を伴う三カ所に分散しているため、一カ所にまとまっている広島の方が規模が圧倒的に大きく、長崎とは随分印象が違う。長崎は、身近な公園へ行くような感覚であるが、広島は川に挟まれているためもあるのか、特別な場所という感じがする。


原爆ドーム
 原爆ドームは、爆心地至近に建てられていた広島産業奨励館(1915年開館)の被爆遺構である。爆心地はドームの東200mの島病院(現在の島内科医院)とされている。米軍の目標は相生橋だったらしい。
 原爆ドームに関しては、長崎の浦上天主堂と共に被爆のシンボルとして知られるようになっていたが、根強い保存運動の中、1960年代に入ると、崩壊の危険などから取り壊しの方向となっていた。そのような状況下、1才で被爆し、白血病で亡くなった少女の、「あの産業奨励館が原爆の恐ろしさをいつまでも訴えてくれるだろうか」という意味の日記が明るみに出たことがきっかけとなり、1966年に一転して保存が決まったもので、1996年にはユネスコの世界遺産に登録された。
米国が、原爆ドームの保存にどの程度関心をもっていたかは不明であるが、取り壊しの方向を歓迎していたことは想像に難くない。一転して保存に決まり驚いたのではないか。現に、世界遺産登録には強く反対した。
真相は必ずしも明らかではないが、長崎の浦上天主堂が、被爆遺構を取り壊し、建て替えられることになったのと対照的であることは、「長崎2016・世界遺産など」 で述べたとおりである。
 本川小学校は、本川(旧太田川)を挟んで平和記念公園西側に位置する爆心地に最も近い(350〜400m)小学校で、原爆により全焼し、400名余りの生徒と教職員約10名が死亡した。全校生徒約1,100名のうち、疎開できない低学年の生徒が登校していた。
遺構として、一部校舎が残され、平和資料館を設置している。
 広島を代表する商店街である本通りの南側、旧日本銀行広島支店裏の袋町小学校(爆心地から460m前後)は、多くの生徒は疎開して難を逃れたものの、当日登校していた生徒160人・職員16人の殆どが亡くなった。
外郭の残った被爆校舎の一部を袋町小学校平和資料館として公開している。外部道路から直接入ることができる。
(画像はクリックで拡大します)     神ノ島教会全景  神ノ島教会正面  同左海側側面

 基町界隈と紙屋町シャレオ

1 基町中央公園と戦後の住宅問題
 広島城を中心とした地域は、広島開基の地との意味で、明治中期に基町と名付けられ、戦前は陸軍の師団が置かれる軍都広島の中心であった。このため、米軍による破壊目標となり、原爆により灰燼に帰した。
基町を含むこの地域一帯には、広島城址に置かれた軍司令部のほか、練兵場、陸軍病院、各種補充隊、幼年学校などの機能が集積していた。その範囲は、下図に示す通り、広島電鉄の八丁堀から原爆ドーム先の相生橋までの電車通り約1kmの北側、城北通までの範囲で、西の太田川、東は広電白島線に囲まれた広大なものであった(注1)
     (注1)主なものを見ると、広島城址の南側、八丁堀から現在の県庁、市民病院、バスセンターなどの一帯は、西練兵場、
      陸軍第一病院、城址北の現在の基町高校を含む地域には陸軍幼年学校が置かれていた。城址西側は堀に接して
      砲兵補充隊が、その西に太田川に面して、北半分が陸軍第二病院、南側は輜重隊補充隊だった。
      城址東側は縮景園手前まで歩兵第一補充隊、師団兵器庫であった(下図参照)。


 戦後逸早い1946年の都市計画により、基町地区の西側は公園にすることとされたが(東側は県庁等の官庁街)、実際には住宅不足への緊急対策として、越冬住宅、十軒長屋、セット住宅といった極めて簡易な公営住宅が建てられた。民間住宅も建ち、事実上住宅地になっていた。下の画像は、1947年のこの地域の様子であり(注2)、公園予定地が、住宅で埋め尽くされている様が良く分かる。
     (注2)当画像を含め、本項の記述は、「広島市被爆70年史 」(2017、広島市)戦後編第2章による。

 また、相生橋東詰から北の三篠橋に至る約1.5kmの太田川沿いの土手筋・河岸には、不法住宅(バラック)が雑然と密集する、別名"相生通り"と呼ばれるスラム街になっていたが、次第に公園予定地内部にまで広がり、1960年頃に900戸、1970年には1000戸に膨れ上がっていたという。被爆者のみならず、引揚者、市内他地域で立ち退きを迫られた住民など、他に行く術のない人たちが、川岸ぎりぎりの河川敷や"土手の上"の水道もないところに住み着いていた。外国籍者も少なくなかった。また、平和公園建設により立ち退きを余儀なくされた中島本町地区の住民70戸も含まれていた。"広島の復興と平和都市建設のために協力せよ"ということでここへ移ってきた人たちである。
驚くのは、わが国が高度経済成長を謳歌し、そのピークと言える1970年にかけてもこの地域の不法住宅は増加し続けていたことである。繁栄に取り残され、結局相生通りに集まってきたのであろう。次の画像は、1970年当時の相生橋からのスラム街の様子である。上方に市営中層アパートが見える。

 この地域は,"基町不良住宅街"と総称されていたが、その住民数が如何ほどであったのか、正確な把握は困難だったと思われる(注1)。いずれにせよ、その解決なくして公園どころではない、一筋縄ではいかない困難な問題であったことは間違いない。"基町を語らずして、被爆地広島の戦後史は語れない"とまで言われる所以である(注2)
 住宅対策は、1955年の市長交代後本格始動し、最終的には広島城址と太田川の間の北側部分を住宅専用地として中高層アパート群を建設するという形の大がかりな再開発事業が行われた(下の画像で青線で囲まれた地域)。不良住宅を全て除却し、高層住宅の完成をみたのは1978年である(注3)
    (注1)いわゆる原爆文学(現代では死語だが)の代表作である、大田洋子「夕凪の街と人と」は、副題に"1953年の実態"
      とあるように、原爆スラム地域の人々の当時の生々しい実態が描かれている。その中に、当時の人口を2万人程度
      とする記述がある

    (注2)広島の復興史に詳しい元広島大学教授石丸紀興氏(中国新聞2016.12.20)。
      本項記述の参考にした「広島市被爆70年史 」(2017、広島市)戦後編第2章は、石丸氏の執筆になるものである。

    (注3)この地域に建設された住宅は、中層住宅930戸(1955年〜1968年、市17棟630戸、県13棟300戸)、
      高層住宅3,000戸弱(1969〜1978)である。また、同時期に公園予定地北の白島地区(太田川沿い)に、県、住宅公団、
      県供給公社による高層住宅(長寿園アパート)が、合計1,550戸建設された。総計4,500戸強の中高層住宅が供給された。

 現在の中央公園(42ha)は、原爆により灰燼に帰した広島の30年以上に及ぶ住宅整備の進捗と並行して整備されてきたもので、現在では広島城址公園、芝生の広場のほか、県立総合体育館(グリーンアリーナ)、ファミリープール、広島市立中央図書館、こども文化科学館・子ども図書館、ひろしま美術館など、さまざまな施設が立ち並ぶ、総合的な市民の憩いの場となっているわけである。多くの施設は、1970年代の建設であるが、子ども図書館の前身、丹下健三設計の児童図書館は、原爆スラムに隣接して1953年に完成している。円形のガラス張りで、中央に大きな柱がある斬新な建物だったが、その柱が天井に向かって広がっており、原爆の「きのこ雲」を連想する人もいたという。建設後25年後の1978年に老朽化により解体され、こども科学館との大規模な複合施設に建て替えられた。

2 広島城
 広島城は、1590(天正18)年に毛利元就が建てた平城である。
原爆で壊滅した中で、唯一倒壊しなかったのが防空作戦室で、ここから被爆の第一報を通信した。
1951年の広島国体開催時に木造の模擬天守が復元されたが、解体された。この地域が城址公園として整備され始めるのは、天守がコンクリート造りで復元された1958年以降である。1989(平成1)年から1994年にかけて、二の丸の復元や堀の浄化作業が行われ、現在の形になったが、全て再建されたもので、かつ本丸跡と二の丸以外は城跡の面影はないと言われている。
 
神ノ島沖を走る高速船
向こうは三菱香焼ドック
  海上から見たマリア像
(2016年4月撮影)
3 ひろしま美術館
 広島銀行の創立100周年を記念して1978年に開館した美術館で、フランス印象派を中心に、ゴッホ、ピカソなどの作品も展示しており、日本の近代洋画の秀作も多く収蔵している。
なお、市内の美術館としては、1968年に中国地方初の公立美術館として、県立美術館が縮景園に隣接して開設されたが、こちらは広島にゆかりのある画家の作品・アジアの工芸品などが中心になっている。
4 紙屋町シャレオ
 

 縮景園、世界平和記念聖堂

1 縮景園
 縮景園は、1620(元和6)年浅野家別邸の庭園として築成されたもので、中国杭州の西湖を模して縮景したといわれ、園中央の池の周囲に山を築き、渓谷、橋、茶室、四阿を配置して回遊できるようになっている。1940(昭和15)年に、浅野家から広島県に寄付され、国の名勝に指定されたが、原爆によって壊滅状態になり、1970年まで復元整備された。 なお、戦前までは「泉邸」と呼ばれており、1951年に縮景園と改称された。
2 世界平和記念聖堂
 縮景園の南にある世界平和記念聖堂は、カトリック教会の聖堂である。この地にあった木造の聖堂も原爆により灰燼に帰したが、重傷を負った当時の主任司祭でドイツ人のフーゴ・ラッサール神父(日本帰化名愛宮真備)は、小さくてもいいから早く聖堂がほしい、という信徒の声もある中、原爆犠牲者の慰霊と世界平和を祈念する大規模な聖堂を建設することを企図した。
 設計に関してはコンペが行われたが、紆余曲折を経て審査員の一人であった村野藤吾が設計し、1950年10月に着工した。
 工事は、折からの朝鮮戦争の影響による資材価格の高騰、資金不足などから中断を余儀なくされつつも、国内外からの支援・募金活動により一応完工し(注)、1954年8月6日に献堂式と原爆犠牲者慰霊祭が行われた。周辺には未だ目立つような建築物のない粗末な建物ばかり場所に、高さ45mの塔を持つ巨大な建築物が出現したのであるから、市民に驚きを与えたにちがいなく、感動した人も少なくなかったのではなかろうか。 竣工時に設置された銘板「聖堂記」には、以下のように記されている。
(注) 祭壇奥のモザイク壁面は作成されておらず、ステンドグラスも嵌められていなかった。これらが完成するのは、1962年のことである。

     [「聖堂記」の銘文]
     「此の聖堂は、昭和20年8月6日広島に投下されたる世界最初の原子爆弾の犠牲となりし人々の追憶
     と慰霊のために、また万国民の友愛と平和のしるしとしてここに建てられたり。而して此の聖堂により
     て恒に伝へらるべきものは虚偽に非ずして真実、権力に非ずして正義、憎悪に非ずして慈愛、即ち
     人類に平和をもたらす神への道たるべし。故に此の聖堂に来り拝するすべての人々は、逝ける犠牲
     者の永遠の安息と人類相互の恒久の平安とのために祈られんことを。昭和29年8月6日」


[ 設計コンペの経緯並びに国内募金について ]
 当聖堂の設計に関してコンペを行うことが発表されたのは、1948年3月である。広島平和都市建設法制定の1年以上前のことで、当時といえば、原爆や空襲により心身ともに深い傷を負った多くの広島市民が猛烈なインフレ下、衣・食・住共不如意な状態にあったろう時期だけに、その速さには驚かされる。聖職者故可能だったのであろう。
 本件コンペは、我が国における戦後初めての大規模な設計コンペとなったが、その要件として「日本的性格、モダン・スタイル、宗教的、記念建築としての荘厳性」の4項目が提示された。コンペには、日本を代表する建築家が多数参加したが、建築技術・建築思想・意匠において優れていても先の4条件を十分満たし、審査委員(8名)が一致して評価する案がなかったことから、一等なし、二等に丹下健三の設計などが選ばれるという結果になった。この結果に関しては、建築界からコンペのあり方としておかしい、といった強い批判の声が上がり、かなり議論になったそうだ(注)
最終的に設計を引き受けることになった村野藤吾は、実質無償でこの設計を行ったが、結果として当聖堂は村野の代表作となり、丹下健三設計になる広島平和記念資料館とともに、第二次世界大戦後の建築としては初めて重要文化財に指定された(2006年)ことは既に述べた。
     [ 文化庁国指定文化財等データベースの記述 ]
     世界平和記念聖堂は,被爆都市広島における世界平和の実現を祈念する戦後復興建築の先駆的建
     築で,堂や塔などの全体構成や量的比例が優れている。  日本的性格と記念建築の荘厳さを備えつ
     つ,新しい時代に適応した宗教建築を実現したことで高く評価され,戦後村野藤吾の原点となる作品と
     して重要である。

 当聖堂建設のための国内の資金集めには、池田勇人蔵相を代表発起人(会長)とする「広島平和記念聖堂建設後援会」が発足し、名誉総裁に高松宮、総裁には吉田茂総理を、名誉会長に一万田日銀総裁迎えるなどして募金活動を行った。また、後援会には、真言宗や曹洞宗の管長も名を連ねた。

 当聖堂建設に関するコンペを含む詳しい経緯等については、石丸紀興「世界平和記念聖堂-広島に見る村野藤吾の建築-」(1988、相模書房)に詳述されている。石丸氏は、東京大学建築科卒、元広島大学教授で、広島の戦後復興史に詳しい都市計画の専門家である。

    (注)世界平和という普遍的な目標を掲げ、多方面からの支援を得て聖堂の建設を推進するには、コンペという方式をとるの
       が良策であったとはいえよう。ただ、ラッサール神父にコンペ実施を慫慂し、更に審査委員を出し、コンペの後援者に
       名を連らねたのが、3年前まで、戦争宣伝を行っていた朝日新聞と聞くと、釈然としないのが普通ではなかろうか。
           

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