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2015 沖縄、史跡・戦跡巡り |
[ も く じ ] |
はじめに |
今帰仁と周辺、古宇利島、屋我地島、名護 |
1.今帰仁城跡、備瀬のフクギ並木 2.運天と古宇利島 3.屋我地島と名護城公園 |
南部の史跡・戦跡 |
1.平和祈念公園 2.八重瀬町の史跡・戦跡 3.南城の史跡 |
那覇と周辺、宜野湾 |
1.那覇と周辺 2.宜野湾 |
(はじめに) 2013年に構想した沖縄史跡・戦跡巡りは、結局3年を要することになった。 今回は北部へ向かい、今帰仁城跡の桜祭り期間中実施されるライト・アップの光景を撮影する他、今帰仁から屋我地島へ直接入れる橋の実現により便利になった古宇利島や沖縄愛楽園の戦跡等を訪ねることとした。 南部は、平和祈念公園、港川フィッシャー遺跡、斎場御嶽など一日行程を組んだ。 |
・ 今帰仁と周辺、古宇利島、屋我地島、名護 |
1. 今帰仁城跡、備瀬のフクギ並木 今帰仁城跡へは復帰直後の1974年の今回とほぼ同時期に初めて訪れた。現在のような歴史文化センター、駐車場など何もなく、山道のような細い道を歩いた記憶がある。 前回今帰仁城跡を訪れたのは2007年なので、もう8年前になるが、既に世界遺産に登録され、周辺施設などの整備が進んでいた。前回以降、「今帰仁村グスク交流センター」という券売所、飲食店、土産物店等の入る、レストハウス的な建物が完成した。 那覇から今帰仁城跡までは、沖縄自動車道利用で、2時間弱を要した。那覇市内の渋滞で自動車道に入るまでかなり時間を要したので、渋滞を避けることが出来ればもっと早く着く筈である。 (今帰仁城跡) ・今帰仁城(別名北山城)は、三山時代の北山支配の中心で、標高100mの山の上に外郭を含め7つの郭を擁する大規模な城である(首里城にほぼ匹敵する規模)。 築城は、13世紀頃から始まったようだ。 運天港が近くにあり、貿易も盛んに行われた。城内からは往時の繁栄を示す、中国や東南アジアなどの陶磁器が多く出土している。 琉球王国統一の過程で、北山国は1416年尚巴志によって滅ぼされ、その後は旧北山地域の統治のために派遣された北山監守がこの城の主となった。その初代が護佐丸であり、読谷に座喜味城を築いて移るまで、6年間駐屯した。 ・ 1609年の薩摩藩による琉球侵攻の際し、同軍は運天港から上陸、今帰仁城は炎上した。1665年に最後の監守が引き上げてからは、祭りを執り行う場所として使用された。 (今帰仁城跡パンフレットによる) |
・「平郎門」と呼ばれる正門を正面に見て左側に広がる場所が「外郭」で、長い石垣が見える。正門に近づくと、左側に城内で最も広い郭で、兵馬の訓練場だった「大隅(ウーシミ)」の大きな城壁が迫って来る。 大隅の解説板には、今帰仁城の城壁について、概略以下のような説明がある。 今帰仁城跡の城壁は、ねずみ色の古期石灰岩で堅牢に築かれており、なだらかな斜面地を利用して 幾重にも連鎖的に連なっている。また、城壁の外側に一定の間隔をあけて突出部を築くことで、城壁に 迫る敵を横、あるいは斜めから攻撃できるように工夫されている。 戦災を逃れた今帰仁城跡の城壁は、その多くがオリジナルの城壁となっている。 ・平郎門は、他のグスクに見られるようなアーチ式でなく四角い門である。左右に門番のための覗き窓が二ヶ所ずつ設置されているのも特徴である。このタイプの門は他では見られない。 |
(写真はクリックで拡大します。) | ||||
外郭と石垣 |   | 大隅の城壁を望む |   | 城跡碑と世界遺産碑 |
大隅の城壁 |   | 平郎門(正門) |   | 同左 |
・平郎門を入ると、右側が「カーザフ」と呼ばれる谷になっており(「カー」は湧水、「ザフ」は谷の意)、自然石が露頭した自然の城壁の役割を果たしていたと見られる。 両側にカンヒザクラの咲く平坦な通路を行くと、「大庭(ウーミヤー)」へ上る階段がある。この階段は、1960年代に整備されたもので、本来の登城口(旧道)は、階段手前から右へ向かう石敷きの狭い道だった。岩盤の谷間を利用し、大勢の敵兵が簡単に入れないように造られている岩がゴツゴツした歩き難い坂道である。ここを通る人は殆どおらず、皆旧道入口の桜を見た後、階段へ戻っていた。 |
平郎門から内部を望む |   | 平郎門から大庭への道 |   | カーザフを望む |
大庭への階段手前・右へ下りて旧道 |   | 旧道上り口 |   | 旧道の様子 |
旧道の様子 |   | 大庭からの旧道下り口 |   | カンヒザクラ |
・「大庭(ウーミヤー)」は、政治・宗教行事を行う、首里城の「お庭」に当たる場所である。正面の一段高い所に「主郭(正殿)」が、左に北殿、右に南殿が配置されていたのも首里城と同じである。 今帰仁城において、最も神聖とされる御嶽が二つあり、その一つが大庭の北西に所在する「ソイツギ(城内下之御嶽)」であり、他が「御内原」の「テンチジアマチジ(城内上之御嶽)」である。いずれも旧暦8月に今帰仁ノロによる祭祀が営まれている。 また、大庭の東南側には「カラウカー」と呼ばれる湧水がある。かって女官たちが髪を洗ったり、水量により吉凶を占った場所という。 ・階段を上がった左手にある「志慶真乙樽の歌碑」は、王が年老いてから王妃に王子が生まれたことを、王の側室である志慶真ムラ出身の評判の美女乙樽が、祝福した歌碑である。 『今帰仁の城 しも(霜)なりの九年母 志慶真乙樽が ぬきやいはきやい』 「霜なりの九年母」とは、稀に時期外れの秋から冬にかけて蜜柑の花が咲き、実をつけることがあることを言うそうだ。 |
大庭から平郎門を望む |   | 大庭 |   | ソイツギ(城内下之御嶽) |
カラウカー |   | 志慶真乙樽の歌碑 |   |
・「御内原(ウーチバル)」は、女官たちの生活の場である。大庭の北側、大隅の上に位置する高台にあり、城跡の中で最も眺望が良い場所にある。 神事は女性が担っていたところから、拝所が多く、東南側にある前述の「テンチジアマチジ(城内上之御嶽)」は、今帰仁城の中で最も神聖な場所で、城の守護神とされていた。 |
御内原 |   | 同左 |   | テンチジアマチジ(城内上之御嶽) |
・大庭の奥の一段高い場所が、正殿の置かれていた「主郭(本丸)」である。残されている遺構は、北山滅亡後の監守時代の建物跡の礎石である。また、監守引き上げ以降、火之神の祠が設置され、さらに中山から派遣された歴代の監守の名前が記されている「山北今帰仁監守来歴碑」が建立され、祭祀を行う場所として利用されていた。 |
主郭 |   | 主郭の変遷に関する説明板 |   | 建物跡の礎石 |
・主郭の裏は天然の要害と言うべき急な斜面になっており、下の平坦な場所に志慶真という城主の身近に使える人達の住む部落があった。志慶真へ向かう門を志慶真門と称することから、この地域は「志慶真門郭」と呼ばれており、4つの建物跡が確認されている。2007年当時は、発掘調査の最中で全体が良く分からなかったが、今回は綺麗に整備されていた。 |
主郭の城壁(内部) |   | 主郭から志慶真門郭への降り口 |   | 志慶真門郭(南側)を見下ろす |
志慶真門郭の建物跡と主郭の城壁 |   | 主郭の城壁と志慶真門郭の城壁 ・建物跡 |   | 建物跡 |
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(今帰仁桜祭り・ライトアップ) ・沖縄では桜の開花が北部から始まるので、本部半島は那覇よりかなり開花が早く、本部八重岳桜祭りと今帰仁桜祭りは1月中旬から下旬にかけて開かれる。今帰仁桜祭りは今年8回目で、歴史は浅いが城跡全体のライトアップが素晴らしく、最近はバスツアーが人気になっているようだ。今回は、8分咲き程度で、観桜に丁度良い状態だった。また、昼間よりライトアップ時の方がずっと人出が多く、平郎門から大庭への桜並木は大変な混雑だった。中国系の団体客が多く、国内ツアー客を圧倒していた。 |
大隅の城壁 |   | 同左 |   | 平郎門 |
桜並木のライトアップ |   | 階段最上部から平郎門方面を望む |   | 桜並木 |
大庭のライトアップ |   | 主郭 |   | 同左 |
志慶真門郭のライトアップ |   | 同左 |   | 同左 |
(備瀬のフクギ並木) ・今帰仁村の西隣は本部町になる。美ら海水族館のある沖縄海洋博公園の北端に接する同町備瀬地区は、遠浅の備瀬ビーチに面した平坦な珊瑚礁で出来た集落で、王朝時代から防風林として整備されたフクギの並木が見られる。樹高15〜20m、最も古いものは樹齢300年という。なお、フクギはフィリピン原産の常緑広葉樹で、沖縄が北限とされている。 元来は、地区全体250戸の各屋敷が台風から守るためにフクギを植えてきたのもので、メインの並木道は1,100mにわたり、本部半島最先端の備瀬岬に及んでいる。碁盤目に整備された砂地(コーラルサンド)の道路は歩き易く、フクギ並木の中の心地よい散策が楽しむことができる。近年は雑誌に紹介されたりTVコマーシャルやロケに利用されたりと、観光地化しており、古い民家を利用した飲食店や休憩所、土産物店、ペンションなどもできている。水牛車や、貸自転車も用意されている。 |
南北のメイン通路 |   | 東西の通路・海方向 |   | 海側の南北の通路 |
海寄り東西の通路 |   | 古民家の宿・食事処 |   | 同左・店舗の様子 |
南北のメイン通路にある拝所 |   | 海洋博公園エメラルド・ビーチを望む |   | 伊江島を望む |
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2. 運天と古宇利島 今帰仁村運天地区は、本部半島の東北端の地域であり、ワルミ海峡を挟んで正面は屋我地島(名護市)である。従来は、今帰仁から屋我地島への陸路は、一旦国道58号を回る迂回路しかなかったが、2010年12月にワルミ大橋(橋長315m)が開通し、今帰仁から直接屋我地島にわたり、2005年に開通した古宇利島大橋を通って古宇利島へ入れるようになった。この結果、美ら海水族館から古宇利島へ向かう回遊ルートが出来上がり、古宇利島観光が一層便利になった。 (運天港と周辺) 運天港は、ワルミ海峡に面する古い天然の良港である。琉球王国の正史「中山世鑑」では、保元の乱に敗れた源為朝が伊豆大島から琉球へ逃れ、「運を天に任せて」辿り着いたのが運天で、地元のノロとの間に生まれたのが、初代琉球王舜天になったとされている(為朝伝説)。薩摩による琉球侵攻の際の上陸港でもある。 現在でも、本島の重要港湾4港の一つに指定されている。 源為朝公上陸之址 運天港に迫る山を越える「運天トンネル」の北側出口に向かって左に入ると、「運天散策道」になる。この一帯は、「運天港園地」として整備されており、案内板が、「源為朝公上陸之址」への上り口になっている。為朝伝説は、琉球王尚氏の権威付けのために創作された伝説のようだ。 明治以降は、日琉同祖論と関連づけて語られる事が多く、この碑は大正時代に、東郷平八郎書にて「国頭郡教育部会」が建てたものである。いわゆる皇民化教育の一環なのであろう。 展望台があり、天気が良ければ、古宇利大橋を見渡す絶景地とのことであったが、残念ながら天気には恵まれず、期待外れだった。 なお、運天トンネルは1924年(大正13)に村人の手によって掘られた、沖縄で最も古い部類に属するトンネル。長さ17.5mながら、山越えの難所を解消した効用は大きかった。1997年に現在のものに築造し直した。 ティラガマ 上陸之址の300m程奥に、為朝が上陸後一時住んでいたという洞窟がある。為朝の手形と伝えられる岩石のくぼみがあるというが、よく分からなかった。今帰仁上りという拝所巡礼地の一つ。 魚雷秘匿壕 運天港には1944年8月に、旧海軍の雷艇隊が配備され、港を中心に魚雷を秘匿した壕が作られた。現在は埋め立てにより、旅客ターミナルビルの広場の奥に壕口が見える。 なお、このターミナルからは伊是名島および伊平屋島へ各々1日2便のフェリーが運航されている。 |
運天港園地案内板 |   | 源為朝公上陸之址 |   | 展望台 |
ワルミ大橋を望む |   | ティラガマ |   | 同左 |
運天トンネル |   | 運天港旅客ターミナル |   | 魚雷秘匿壕 |
(古宇利島) ・古宇利島は、半径約1Km、周囲約8kmの今帰仁村の小さな離島だったが、南側に位置する名護市の屋我地島との間に、2005年2月古宇利大橋(1.96km)が完成し、屋我地島経由で本島と結ばれた。 景観、海の美しさは本島随一と言われ、また琉球の始祖に関する、いわばローカル版の「沖縄アダムとイブ」伝説がある島、別名「恋島(クイシマ)」として知られており、架橋により一挙に観光地化が進んだ。 また、前述のように、2010年12月には本部半島側と結ぶワルミ大橋が完成し、美ら海水族館経由の回遊ルートが整備されたことから、観光客が更に増大し、オーシャンビューを売り物にした大規模な新しい観光施設も開業している。 ・古宇利大橋を渡り、島に入った途端に飲食・土産物店員であろう客引きが路上に立って勧誘しているのは、他の俗化した観光地と変わらない、というのが第一印象である。本島で最も美しいという海と架橋の景観などを期待していたが、強風との雨模様の天候のため、期待外れに終わってしまった。 古宇利大橋の展望 古宇利大橋の展望スポットとして、観光案内などに紹介されているのは、@ 今帰仁側のワルミ大橋手前の「橋の駅リカリカワルミ」という地元農産物等の販売所の駐車場、A 橋手前(屋我地島)の、眺望のためと思われる駐車スペース、B その駐車場の一段高い場所に隣接する「美ら海テラス」というレストランの庭、の3か所であろう。いずれも、好天ならば、美しい海に架かる橋の景観を楽しむことが出来るだろうことは想像に難くない場所である。中でも遠景ならば、@が、近景ならばBであろう。 |
橋の駅リカリカワルミ |   | 橋の駅リカリカワルミから古宇利大橋を望む |   |
レストラン「美らテラス」 |   | 「美らテラス」内部 |   | 「美らテラス」からの古宇利大橋展望 |
島内のスポット ・最近話題になっているのは、2013年にオープンした「古宇利オーシャンタワー」だろうと思われる。展望台を中心に、レストラン、貝の展示館、ショッピングなどの施設を有し、古宇利島のランドマークなどと言われているようだが、今回の天気ではとても行く気にはならなかった(入場料800円)。事業主体は名護パイナップルパークだそうで、下の駐車場からカートに乗って上がるようになっていることや、貝の博物館など、パイナップルパークと似た趣向のように窺える。 ・オーシャンタワーには、それなりに観光客はいたのであろうが、それ以外で人を見かけたのは、島北部の「ハートロック」と、島に入ってすぐの「ふれあい広場」だけであった。 ハートロックとは、島北端のティーヌ浜という海岸にある、見方によってハート形に見える二つの侵食された岩のことで、航空会社のCMで使われてから、「恋島」のハートロックということで、俄然人気となり、観光客が来るようになったものである。「わ」ナンバーのカップルの車が次々に来ていた。 ・ティーヌ浜のすぐ東側に「更新世琉球石灰岩の円筒状空洞地形」なるものが見られる、「トケイ浜」があリ、こちらには興味があったので寄ってみた。こちらには今帰仁村設置の説明板がある。それによれば、この地形は、更新世後期の海岸に形成されたスポットホールを原型とし、その後の海面低下に伴ってポットホールが下方に浸食され、円筒状空洞地形が発達したものと推測されているという。 ビーチでは、岩がゴロゴロしているが、丸い穴の空いた奇岩があちらこちらに見受けられる。ハートロックとは対照的に誰もいなかった。 |
トケイ浜 |   | 円筒状空洞地形 |   | 古宇利診療所前からの展望 |
・古宇利島で一番高い、標高107mの場所に遠見番所跡(トゥーミヤー)がある。周辺は「アマジャフバル農村公園」とされており、島の各所から上り口の案内があるので、標識に沿って狭い農道を登って行く。 説明板によれば、 琉球における遠見番所の設置は1644年にさかのぼり、唐船や異国船が来ると烽火をあげて首里王府へ知らせる通信網の一端を担っていた。沖縄本島では御冠船や帰唐船の場合、一隻のとき一煙、二隻のとき二煙、異国船の場合は三煙が焚かれたという。古宇利島の遠見番所は伊是名島と国頭村伊地から受け、伊江島〜読谷の座喜味〜首里弁ヶ岳と伝達されていた。 東屋があり、東シナ海を望む眺望の良い場所であるが、誰もいなかった。 ・遠見番所から、メインと目される農道を下ると廃校になった古宇利小学校の横を通り、古宇利診療所の前を下ると一周道路に沿いに、ウミナイとウミキイが古宇利島に降り立ったという、沖縄版アダムとイブの伝説に基づく、「人類発祥の島の碑」がある。 「人類発祥の島の碑」の500m東側に「ふれあい広場」があり、観光バス、自家用車が集まっていた。レストランと農産物を始めとする物販店があり、こちらは混雑していた。 |
遠見番所跡東屋 |   | 遠見番所跡遊歩道 |   | 遠見番所跡東屋からの展望 |
人類発祥の島の碑 |   | ふれあい広場 |   | ふれあい広場の販売所 |
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3. 屋我地島と名護城公園周辺 屋我地島は、名護市の中心部から北西約10km の位置にある島で、本島とは屋我地大橋で結ばれている。島一帯はサトウキビ畑で、観光スポット的なものは何もないが、島南部の饒平名(ヨヘナ)の干潟には、高さ10mを超えるオヒルギ(マングローブ)を始めとするマングローブ植物が生息しており、シギ・チドリ等の渡り鳥が飛来する他、周辺の岩礁帯帯ではベニアジサシやエリグロアジサシの繁殖が確認されるなど、生き物の宝庫となっている。 |
屋我地大橋 |   | 屋我地大橋手前から屋我地島を望む |
(沖縄愛楽園と戦跡) ・屋我地島北端に国立療養所沖縄愛楽園という医療施設がある。この施設の前身は、自身が病者でもあったキリスト教聖公会青木恵哉牧師(1893〜1969)が中心となってこの地に開所した療養所を基に、1938年に設立された県立ハンセン氏病患者隔離施設国頭愛楽園である。その後、1941年に国へ移管され、戦後は琉球政府所管を経て、本土復帰により厚生省所管の施設となった。1996年に至って「らい予防法の廃止に関する法律」が施行され、2002年より一般外来保険診療を行う地域医療機関になリ、現在に至っているものである。 現在の外来患者は、退所者と地域住民の割合が略半々という。なお、嘗ては千人以上を数えた入院者は、200人余に減じている。 早田壕、被弾痕 ・早田壕は、沖縄戦に備え、手足が不自由な入所者までも総動員して園内に作られた横穴式避難壕である。当時の園長の名からその名で呼ばれている。 1944年の10・10空襲の際、病棟が軍の兵舎と間違われ、激しい攻撃を受け、施設の大部分が破壊された。翌年4月米軍の本島上陸後も攻撃を受けたが、ハンセン病の施設と知り、攻撃を中止した。この間、爆弾600発、ロケット弾400発、機関銃10万発の攻撃を受けたが、この防空壕のお蔭で被爆による死者は1名のみだったという。しかしながら、壕掘による傷の悪化、壕生活での栄養失調、マラリアなどで、戦後わずか1年で274人が死亡した。 ・早田壕以外で沖縄戦の跡を残すものとしては、小高い丘の上に残されたままになっている被弾した給水タンク及び開所以来の外壁の被弾痕がある。 |
早田壕 |   | 早田壕 |   | 早田壕説明板模式図 |
残されている被弾給水タンク |   | 開業時からの外壁の碑弾痕 |
発祥の地周辺の霊域 16歳で発病した青木恵哉は、洗礼を受けた後1927年(34才)から沖縄で伝道を始め、伊江島で洞窟などに隠れていた患者を発見し世話をしていたが、住民の妨害などから逃れ最終的に屋我地島の北端の岬に上陸し、そこで診療所を始めた。 現在その地に、亡くなっても故郷へ戻れず、ここから出られなかった患者たちの納骨堂(「平安の苑」)や、妊娠した女性患者に堕胎を強制した結果の水子の慰霊碑(「声なき子供たちの碑」)などが建立されており、いわば霊域的な地となっているが、胸が詰まリ、祈らずにはいられない場所である。 |
声なき子供たちの碑 |   | 平安の苑 |   | 青木恵哉像 |
青木恵哉頌徳碑 |   | 発祥地の井戸 |   | "霊域"から古宇利大橋を望む |
(名護城公園) 名護城公園桜祭り 名護城は、14世紀に北山今帰仁城主の弟にあたる名護按司が名護岳(標高345m)に居城として構えていたものであるが、城壁などは残っていない。現在は名護岳一帯が名護中央公園として整備されている。 頂上付近には、展望台があり、名護湾や市街を一望できる。また、桜の名所として有名で、1月中旬から約2万本の寒緋桜が濃いピンクの花を咲かせ、桜祭りが開催される。頂上付近には「桜の園」というゾーンが設定されている。沖縄で唯一「日本さくら名所百選」に選定されている。 国道58号の名護消防署の角を1km程入ったところに中央公園南口があり、名護神社参道(階段)登り口になっている。脇から頂上まで車で登ることも出来る。 |
名護城公園南口広場 |   | 名護神社参道入り口 |   | 名護中央公園太陽の丘入口・ 日時計モニュメント |
"太陽の丘"の桜の様子 |   | 同左 |   | "桜の国"の桜の様子 |
"桜の国"の桜の様子 |   | 同左 |   | "桜の国"の休憩所 |
名護神社階段頂上から |   | 名護神社本殿 |   | 本殿横の名護城跡上り口 |
(ひんぷんガジュマル) ・「ひんぷん」とは沖縄の屋敷正門と母屋との間に設けられた屏風状の塀のことで、外からの目隠しや悪霊を防ぐためのものとされている。 「ひんぷんガジュマル」は、名護城公園南口にほど近い道路上に生育する推定樹齢 280〜 300年、樹高19m、胸高幹周10m、樹冠の広がりは長いところで直径30mの堂々とした市のシンボルたる巨樹であり、町のひんぷんの役割を果たしていると考えられている。海岸沿いの国道58号から市街地に入り、名護十字路を右折するとすぐ見える。 2014年に公開された映画「がじまる食堂の恋」は、この周辺が舞台である。 ・1750年当時、王府の名護移遷論と名護湾から羽地内海(本部半島と屋我地島に挟まれた海域)への運河建設に関する議論があり、これを抑えるため、当時の三司官(宰相)蔡温が建てた石碑(注)がひんぷんのように見えることからヒンプンシーと名付けられ、その近くに生育するガジュマルが、ひんぷんガジュマルと呼ばれるようになった。蔡温が建てた碑は、沖縄戦で破壊され、1962年に「ひんぷんガジュマル」の下(現在地)に復元されたが、現状碑文は判読できない状態だ。 (注)「三府龍脈碑」と呼ばれ、碑文の概要は「首里城は琉球王国の創始者が神の眼を以て首都と定めた場所であり安易に遷都すべきではない。琉球王国は国頭府、中頭府、島尻府の三府全体で一体をなす龍のようなものであり、運河を掘ると龍脈が分断され、龍の勢いが削がれてしまう」(Wikipedia)。 |
ひんぷんガジュマル |   | 名護十字路側から見た ひんぷんガジュマル |   | 蔡温の碑 |
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大嶺政敏 「回想する守護人」(1979) (沖縄平和祈念堂) クリックで拡大 |
・南部の史跡・戦跡 |
1. 平和祈念公園 摩文仁を初めて訪れたのは、復帰間もない1974年だが、当時は丘の斜面に各県の慰霊碑が建てられていただけで、国立沖縄戦没者墓苑など現在の形に整備される前の姿であった。既に平和祈念公園の建設は始まっていたようだが、復帰記念の国家プロジェクトである「沖縄国際海洋博」の工事を急ぐ状況にあり、寺島尚彦が作詞した当時と変わらない「サトウキビ畑」が広がっていたと思われる。 (西村計雄画伯「戦争と平和」) ・平和祈念公園は2007年2月に初めて訪れたが、2013年からは毎年来ている。2007年に訪れた際、平和祈念堂内壁面の、西村計雄画伯(1909〜2000)の連作「戦争と平和」に強い印象を受けた。この作品はその後も忘れ難く、今回の平和祈念公園行きは、この作品をゆっくりと見ることを目的とした。 連作絵画「戦争と平和」は、1978年に着手、1979年2月の第1作「沖縄に熱き想いを」から、以後8年の歳月を費やし、第20作の「あけもどろの花」まで、300号の大作20点を完成した。内容的には、沖縄戦に関するもののほか、沖縄の自然、伝統文化などを画材にした美しい作品群である。 祈念堂内部の撮影は、自由とのことなので、撮影した一部を掲載することにする(祈念堂には架電了解済)。 解説がないと、それぞれの絵が、何を表現しているのか、制作意図は何か、といったことは分からない。全20点の解説は、祈念堂のホームページに紹介されている。 |
平和祈念堂 |   | 平和祈念堂エントランスロビー |   | 平和祈念堂内部・連作絵画 「戦争と平和」の一部 |
「戦争と平和」 第1作「沖縄に熱き想いを」 |   | 第3作「花匂う海」 |   | 第4作「摩文仁の丘」 |
「戦争と平和」 第9作「首里城の夢」 |   | 第10作「聖なる沖縄の空 平和の鐘は四方に鳴りひびく」 |   | 第15作「イザイホウ 久高島の神事」 |
・平和祈念堂開館の9時までの間、平和祈念公園を一周した。 |
祈念堂下から「平和の丘」を望む |   | 沖縄平和資料館 |   | 平和の礎 |
「平和の火」 |   | 摩文仁の海岸 |   | 摩文仁の丘の下の海岸 |
2. 八重瀬町の史跡・戦跡 (冨盛の石彫大獅子) 八重瀬町の国道507号冨盛(ともり)交差点の西側の小高い丘に勢理城(ジリグスク) という城の跡があり、その頂上にある、高さ141.2p、全長175.8pの、村落獅子として最大最古の石獅子である。1689年、八重瀬町の富盛集落で相次いだ火事を沈めようと風水師の助言に基づいて建立されたものであり、フィーザン(火山)といわれる八重瀬岳に向かって建てられている。 1945年6月上旬、退却を続ける日本軍は富盛地区付近に陣地を構え、周辺は激しい地上戦の最前線となったため、数多くの弾痕が残されている。 豊見城の海軍壕には、このシーサーを盾にして戦う米軍兵士の写真がある。 沖縄平和祈念堂のロビーに展示されている、那覇出身の大嶺政敏画伯の代表作「回想する守護神」は、この大シーサーの前で祈る女性を描いたものである(冒頭の画像)。勢理城への入り口には、中間御嶽という拝所があった。 |
冨盛の石彫大獅子 |   | 同左 |   | 同左 |
勢理城(ジリグスク)跡 |   | 勢理城跡の展望台とガジュマルの木 |   | 勢理城入口の中間御嶽 |
(港川フィッシャー遺跡) 港川フィッシャー遺跡は、雄樋川河口近くの採石場で1968年に故大山盛保氏(那覇市)によって発見された、旧石器時代の遺跡である。形態的特長や年代測定の結果から、約1万8千年前のものと推定される完全体に近い形の人骨化石5体分以上が、石灰岩の割れ目(フィッシャー、幅1m、深さ20m)から発見されたもので、「港川人」と名付けられた。那覇副都心の県立博物館に展示(レプリカ)されている。 なお、遺跡は住宅地の中の私有地にあり、普段は施錠されているので、八重瀬町民俗資料館で見学を申し込み、鍵を借りて見学する。場所は国道331号の雄樋川に架かる高架橋(雄樋川大橋)の下に当たり、必ずしも分かり易いとは言えないが、資料館には案内図が用意されているので、それに従って行けば難はない。 |
遺跡入口 |   | 入口内部、上は雄樋川大橋 |   | 港川フィッシャー遺跡全景 |
遺跡近景 |   | 説明板 |   | 県立博物館の港川人の展示 |
(ヌヌマチガマ) ヌヌマチガマは、昨年ガイドさんに案内して頂いた。冨盛の大シーサーの近くなので、今年も寄ることにした。あの500人の重傷を負って移動できない兵士が青酸カリを与えられ自決を強要された、何とも重苦しい気持ちになるガマである。 今回は、ガマへ下りる坂道に階段を設置していた。昨年のこの道は、戦時中のものを多少歩き易くした程度で、確かに足下は悪かったし、大勢の修学旅行生が通れば転倒する子もいたであろうから、階段にしたのであろうが、何の変哲もないコンクリートの階段で、周囲と違和感がある。糸満の轟の壕のような、もう少し自然なものに出来ないのかと思う。 |
白梅学徒看護隊之碑 |   | 新設工事中の階段 |   | ガマの入口 |
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3. 南城の史跡 玉城から知念にかけては、2013年来毎年来ているが、今年はこれまでスケジュール上割愛したところのほか、斎場御嶽をゆっくり見学することを主目的とした。 (垣花城跡) ・眼下に受水走水やミントングスクを見下ろす位置にある、標高120mの深い緑に囲まれた城で、玉城城の東の守り城とされている。築城年代は明確な記録がなく、石垣の積み方、規模等からみて、三山時代のもの(600年以上前)と推定されている。 百名方面から、県道137号を上った頂上付近右側の石碑を入って行くと、城跡の入口になる。 石ないしは小さな岩のゴロゴロした、亜熱帯植物に覆われた道らしきところを登って行くと、サンゴ石灰岩を積み上げた野面積みの石垣が残されている。その先に平坦な場所がある。説明板によると、一の郭と二の郭があったようなので、ここがそうなのであろう。 ・南城市玉城地区にある糸数城址〜玉城城跡〜ミントングスク〜垣花城跡を結ぶ約4kmをグスクロードと呼んでいる。今回で一応全て回ったことになる。 |
県道137号沿いの石碑 |   | 城跡登り口 |   | 登り道の様子 |
石垣 |   | 城郭跡と見られる平坦地 |
(仲村渠桶川) 南城市玉城地区仲村渠集落の共同用水施設で、県道137号を挟んでミントングスクの反対側を下った場所にある。 19世紀初頭から用水施設として使われていたが、木製の樋を据えた程度の施設だったものを、1912年に琉球石灰岩などを用いて造り替えられた。男性用水場(いきががー)、女性用水場(いなぐがー)、広場、拝所、共同風呂、などから構成されており、沖縄の伝統的な石造井泉を代表するものと言われている。 沖縄戦で破壊され、土で埋められたが、その後改修され、簡易水道が敷設されるまで、生活用水として利用されていた。最近は主に農業用水に利用されている。2004年には、1912年当時の姿に復元された。国の重要文化財に指定されている。 |
案内図 |   | 仲村渠桶川正面 |   | いきががー |
いなぐがー |   | 芋洗い場 |   | 拝所 |
共同風呂場 |   | 風呂 |   |
(斎場御嶽) ・斎場御嶽は、尚真王が国家的な祭祀の場として整備したもので、中央集権的支配を信仰面から支える役割を果たした、沖縄本島最高の霊場である。 奥の一角の巨大な岩と岩の間の先に、「三庫里(さんぐーい)の崇拝場所」という礼拝所がある。そこには、海を渡って久高島へ行くことなく、聖地久高島を遥拝する場所が設けられている(それまでは王も久高島へ行っていた)。斎場御嶽も昔は久高島同様男子禁制で、王しか入れなかった。 ・2000年の世界遺産登録後観光客が増えたが、車の増大による渋滞や排気ガス、あるいは道路周辺への違法駐車のために、地域住民の生活や、道路沿いの老人福祉施設への緊急車両の出入りについて支障を来す事が懸念されるに及び、2013年11月より国道331号から斎場御嶽入口に至る道路の進入は禁止された。 また、内部におけるマナーにも問題があるようだ。内部の拝所等には必ず「神聖な場所なので、触らぬように」、「上がらぬように」という注意書き出来ていた。注意書きを必要とする事態が多発したに違いない。神聖な霊場という沖縄の人達の意識と単なる観光地巡りという観光客のギャップに甚だ大なるものがあるということであろう。 ・車両進入禁止の措置により、国道331号から御嶽の入口までは原則徒歩となる訳だが、それに伴い前回2007年に比べると道路沿いに飲食店などの店舗が増えた。なお、斎場御嶽の入場券は、国道沿いの南城地域物産館に用意された自動販売機で買い求めてから出かける必要がある。また、隣接する「がんじゅう駅・南城」では電動自転車の貸し出しもしている(利用している人は見かけなかったが)。 |
入口から御門口(ウジョウグチ) ・斎場御嶽や南城の歴史に関する展示館である、「緑の館・セーファ」という建物に一旦入り、世界遺産の碑と、1981年に建てられた石碑の横から入場する。 御門口へ向かう階段の手前に、「ウローカー」への分かれ道がある。ウローカーとは、琉球王国時代に国王始め斎場御嶽へ入る者が泉の水で身を清めた場所だが、数年前の台風で、参道が崩落し、通行止めになっている。なお、ウローカーへは国道331号を下った所からも参道があるが、こちらも放置されたままで草が生い茂って危険であり、入ることは無理である。 ・御門口は、御嶽へ入る参道の入り口で、琉球王国時代は国王以外の男子及び一般人はこの先立ち入り禁止であった。御門口には、御嶽内の6ヶ所の拝所をあらわす6つの香炉が置かれている。中に入れない者はこの香炉の前で参拝した。 ここから石畳みの登り坂になるが、歩き易いように、防水用砂袋を敷き詰めたり、シートを敷いたりしてあった。観光客の中には高いヒールの靴の人もいるらしく、危険防止の趣旨であろうが、神聖な場所としては違和感は否めない。前回2007年にはなかった。 |
入口の石碑 |   | ウローカー入口 |   | 御門口へ向かう階段 |
御門口 |   | 御門口に置かれた石製の6つの香炉 |   | 御門口から上り坂になる石畳の参道 |
大庫理(ウフグーイ)から寄満(ユインチ) ・大庫理は、御門口から登って行くと左手の大きな岩の下に見える最初の拝所で、大広間や一番座の意味を持ち、聞得大君の即位儀式の際に、中心的な役割を果たした場所である。 大庫理の少し先はT字路になり、「左寄満、右三庫理」という案内標識がある。左へ、鬱蒼とした森の中の道を行くと、右側にくぼみがある。今回は水がなかったが、ここは沖縄戦の際米軍の艦砲射撃による砲弾が撃ち込まれた跡に水が溜って出来た池で、「砲弾池」と称している。当初は、深さ3mあったが、その後落ち葉などで埋まった結果、現在では60cm程度になっているという。 ・寄満は、大庫理のある岩の反対側にある拝所である。寄満とは、台所を意味するが、世界中から交易品の集まる「豊穣の満ち満ちた所」と解釈されているという。 |
大庫理 |   | 寄満へ向かう参道 |   | 砲弾池 |
寄満 |   | 寄満の香炉 |   |
三庫理(サングーイ) ・寄満から戻り、直進すると行き止まりの広場に着く。広場に面し、2本の鍾乳石があり、その下に壷が2つ置いてある拝所がある。鍾乳石から滴り落ちる「聖なる水」を受けるための壷で、奥の壷を「シキヨダユルアマガヌビー」、参道側の壷を「アマダユルアマガヌビー」と呼び、聖なる水なので触らぬように、との注意書きがある。 この拝所の奥に良く知られた自然石による三角の空間のトンネルがあり、この奥に3つの拝所がある。 正面が御嶽の最も奥にある拝所で、その下には金製勾玉などが鎮められていた「三庫理」である。右側の拝所は「チョウノハナ」と呼ばれ、聞得大君と関係があるとされている。また、左側の海を望むところが久高島遥拝所である。 |
鍾乳石と シキヨユダル、アマダユルの壷 |   | シキヨユダル、アマダユルの壷 |   | 三庫理の岩 |
内側から見た三庫理の岩 |   | 拝所のある空間 |   | 三庫理の拝所 |
拝所チョウノハナ |   | 久高島遥拝所 |   | 久高島を望む |
(知念岬公園) 国道331号斎場御嶽入口の与那原寄りにある「がんじゅう駅・南城」の前を奥に進むと、空き地は全て斎場御嶽の車両進入禁止に伴い駐車場化しており、駐車場の先に太平洋が開けてくる。 ここから知念岬の先端まで遊歩道を整備し、知念岬公園公園とした。斎場御嶽の帰りに一休みし、青い海と久高島の景観を満喫する、というわけだ。ただ、ここまで人工的な手を加えて公園化しなければならなかったのか、疑問も感じる。公園の維持費用も嵩むであろうし、市のホームページでは、市民の憩いの場所というが、自然のままでも、十分景観は楽しめるのではないかと感じた。 |
「がんじゅう駅・南城」案内標識 信号を右折して斎場御嶽へ向かう |   | がんじゅう駅・南城 |   | 知念岬公園 |
5. 県営鉄道(軽便)与那原駅舎の復元 1914年、沖縄県営鉄道(軽便、ケービン)の最初の区間となる与那原線9.4kmが開通した。沖縄戦により、糸満線、嘉手納線と共に沖縄のいわゆる「軽便」は全て壊滅し、廃線となった。 与那原町では、与那原線開通100周年を機に、与那原駅の復元を進めてきたが、2015年1月「町立与那原駅舎展示資料館」としてオープンした。 当初は木造駅であったが、1931年に当時としては洒落た鉄筋コンクリート造りに建て替えられた。沖縄戦により破壊され、戦後は跡地をJA与那原支店が使用していたが、同店の移転により、復元されたものである。 当初予定にはなかったが、那覇滞在中にオープンのニュースに接し、寄ることにした。 |
復元された軽便与那原駅舎 |   | 駅名板 |   | 旧駅舎の9つの柱 |
昔の乗車券(実物大) |   | 与那原駅舎展示資料館入場券 |
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波の上ビーチと波之上宮(クリックで拡大) |
・那覇と周辺、宜野湾 |
1. 那覇と周辺 今回は、那覇の街なか、周辺にも時間を割くこととした。 (1) 国際通り界隈と那覇港方面 (てんぶす那覇と周辺) ・国際通りの牧志寄り桜坂中央通りの入口に、イベント広場を確保し、大きくセットバックして建てられているのが、「てんぶす那覇」という施設である(「てんぶす」は、へそ=中心の意)。これまで前は通るが入ったことはなかった。 那覇市の施設で、市の伝統工芸館のほか、ホール、ギャラリー、会議室、IT研修施設などの機能を持つ多目的な生涯学習センターといった感じである。1階には那覇市観光案内所や物産品販売コーナー、休憩スペースなども用意されている。市内を散策し、休憩するのにも良い場所だ。 |
てんぶす那覇 |   | 那覇市観光案内所 |   | 物販コーナー |
・案内板を見ると3階に「那覇市NPO活動支援センター」があるという。関心があるので、アポなしだが寄ってみることにした。突然の訪問にも拘らず、田中センター長が快く応対して下さった。 那覇市は、人口32万人余の県庁所在都市である。会議室の利用等当センターの利用に関しては、他のセンター同様、登録制をとっており現在300団体を越えるNPOが登録している。なお、登録団体の審査について、通常は事務局で行っているが、ややグレーな団体については市当局の見解を求め、NPO活動支援という趣旨から外れる趣味の団体などは排除しているという。 運営は大変しっかりしているとお見受けした。現在指定管理者として運営に当たっているのは、いわゆる事業系NPOで、中心になっているセンター長は、建築設計事務所を経営する傍ら、当該事業系NPOの経営を軌道に乗せている40才前後の起業家である。NPOのあり方にキチンとした見識を持ち、明確な方針のもとに組織を運営していることが窺われた。 運営体制は、リーダーのセンター長の他は、総括コーディネーター 1、コミュニケーター 3、事務・受付 1となっており、大部分は常勤の有給ボランティアで、少数精鋭で相談業務等のNPO支援業務をこなしている。それ以外に、各分野の専門家などをボランティア的に組織化して対応しているのが特徴で、定年退職して何か(自分の好きなことを)やろう、といった「ボランティア」の人はいない。また、8〜9名の大学生のボランティアが所属し、事務作業や大学生向けワークショップの仕事をしている。 休日は、6月23日と年末年始のみで、事実上休日のない事業系NPOらしい運営によって市民のニーズに応えており、市民ボランティアによる運営を標榜しながら、役所並みの休日を設定するといったことはしていない。 なお、この4月から那覇副都心へ移転し、会議室拡充など設備の充実が図られる予定。 |
・てんぶす那覇の裏に小高い丘があるが、ここには戦争中に横穴の防空壕が掘られ、10・10空襲の際近くの住民が避難し、何千人もの人が助かったそうだ。壕は埋められ、「希望が丘公園」になっている。 公園の南側に降りると、正面が桜坂劇場である。いったん閉鎖した映画館が再開したもので、ミニシアター向けの作品を中心に、音楽家のライブなどの各種イベントが行われているようだ。若者が増えているらしい。この近辺が有名な桜坂歓楽街で、劇場前の道は市場街の平和通りへつながっている。 また、てんぶす那覇と希望が丘公園の間に、10月に行われる「那覇大綱挽引」で使われる「那覇大綱」が再現されている。長さ14m、重さ7トンだそうだ(実際に使われるのは、長さ200m、重さ43トン)。 |
希望が丘公園の丘(防空壕があった) |   | 希望が丘公園 |   | 桜坂劇場 |
那覇大綱の再現 |   | 「那覇大綱挽引」説明板 |
(国際通り裏・所有者不明土地) ・沖縄では沖縄戦によって本島、離島を含め公図、公簿類が焼失したが、米軍は占領政策を遂行する必要上、土地所有権を中心とする公図等の早急な再製のため、土地所有権認定作業(1946年〜1951年)を行った。 この間、何らかの事情により所有者が確定されず、登記もされていない土地が所有者不明土地となり現在に至っている。 沖縄戦のために一家が全滅したり、親が亡くなり、その所有していた土地を残された子供が知らない、といったケース等があり、その規模は最近時でも全県で805,490uにのぼり、都市再開発など都市計画の実施等の障害になるとともに、管理費も看過し得ない規模になっているという。管理は、県が行っている。 一方、市町村が管理しているものとして、墓地、社寺用敷地などの所有者不明土地もある。 ・NHK「ETV特集」では、2013.6.22にこの問題を取り上げている。 そこで紹介されていた、観光客で賑わう国際通り中ほどから一歩裏へ入った所にある墓陵跡の所有者不明土地を訪れた(松尾2丁目8番7の奥)。 空襲と沖縄戦により、先祖代々の墓が破壊されるとともに、これらの墓を守っていた家族全員が亡くなり、70年経ってもそのままになっているということで、大通りの殷賑振りと余りにも対照的な、何とも名状し難い荒涼たる墓陵の跡である。 |
国際通りから入る路地 |   | 国際通り裏の通路 |   | 所有者不明の墓地跡 |
(壷屋やちむん通りから与儀公園) ・公設市場のある市場中央通りから平和通りへわたり、国際通りの反対方向へ直進すると壷屋やちむん通りに入る。何軒か窯元のお店に入り、お話をした。結局何も買わなかった。 修復工事中の新垣家住宅(国重要文化財)は、大分完成に近づいたようで、屋根の姿が現れていた。工事は来年3月に終わる予定だが、那覇市によると、公開は2017年を目指している、としている。 ・やちむん通りからひめゆり通り(国道330号)へ出れば与儀公園はすぐだ。桜祭りには、まだ10日ほどあり、1分咲き程度であった。北部との開花時期の違いがよく分かった。 与儀公園に隣接して市立図書館と県立図書館がある。市立図書館で一休みしつつ、数日分の日経新聞を読んだ。 |
姿を現した修復工事中の新垣家住宅 |   | 同左 |   | 工事前の全景 |
与儀公園のブーゲンビレアの大樹 |   | カンヒザクラ |   | ハイビスカス |
(那覇港方面〜三重城跡、波の上ビーチ) ・「三重城」は、那覇港口にあった砲台跡で、現在はホテルロジワールの裏になる。 16世紀後半、倭寇への防御のために那覇港北岸(右岸)の海中道路が延びた先端の岩礁の上に造られた城塞だったが、近世以降は砲台としての役割を失い、那覇港を出港する船の見送りの場所となった。 三重城とは「ミーグスク(新城)」を意味し、対岸の砲台「屋良座森城(ヤラザムイグスク)」の後に作られたことによる名称である。読谷・楚辺村の豪族、王農大親(わんぬうふや)による築造と伝えられる。 石垣が残されている。 小さな神殿や水の神として奉られている遥拝所があり、数人の婦人が供え物を海に向かって置き、熱心に祈っている姿があった。 読谷村の「さんご畑」の沖に突き出した突堤は、NHK大河ドラマ「琉球の風」のセットとして築造されたが、この三重城を模したものである。 ・「波の上ビーチ」は、対馬丸遭難者の慰霊碑、子桜の塔がある旭ヶ丘公園に面した海岸で、那覇市内で唯一遊泳のできるビーチである。海へ突き出た崖の上に波之上宮が建っている。目の前は、自動車専用道路で、景観が良いとは言えないが、スポーツエリアやバーベキューエリアなどが整備され、那覇市民の憩いの場になっている。東側に三重城小船溜り(マリンレジャー向けの港)、西側は若狭海浜公園と一帯がウォーターフロントエリアとして整備されている。 |
ホテルロジワール前の標識 |   | 三重城の神殿 |   | 突堤(先が三重城小船溜りになる) |
大河ドラマ用に築造された 突堤(読谷村、2010 年撮影) |   | 波の上ビーチ |   | 波の上ビーチ上の波之上宮 |
(2) 県立博物館 今回は、博物館もゆっくりと見て回った。前回(2013年)に比べると、他館の所蔵品や当博物館が著作権を有しない写真等を除き原則撮影可能となった。 ひょっとすると展示があるかもしれないとの期待をもっていた「サキタリ洞遺跡」に関しては、発見早々で研究段階なのであろう、展示には至っていなかった。因みに「サキタリ洞遺跡」とは、港川フィッシャー遺跡の北2kmの、「ガンガラーの谷」の洞窟の遺跡であり、2012年から2013年にかけて、12千年前(旧石器時代)の人骨化石、8千年前(縄文早期)の土器破片が発見されたもので、18千年前といわれる港川人後の空白期間を埋めるものであると同時に、九州の縄文文化との交流の痕跡を示すものとして注目されているものである。 |
博物館側ロビー |   | 博物館正面 |   | 博物館エントランスロビー |
円覚寺楼鐘 |   | 万国津梁鐘 |   | 座喜味城模型 |
知念城模型 |   | 進貢船模型 |   | 龍淵橋勾欄羽目(1502年制作のもの 龍淵橋とは龍潭と円鑑池の間の橋) |
円覚寺仏間羽目 (牡丹彫刻、17世紀初期の作) |   | 裏庭のオブジェ(意味不詳) |   | 要塞を思わせる外観(裏側) |
(3) 識名園 18世紀末に、王家の別邸として造営された琉球庭園で、王家一家の保養と中国皇帝の使者である冊封使の接待に利用された。池に中国風のあずま屋とアーチ橋が配され、回遊できる。南側の勘耕台は、冊封使に手入れの行き届いた田畑と内陸部を見せる位置につくられた展望台で、南風原町方面を望む。 ここも沖縄戦で破壊され、復元されたのは1995年である。メインの建物である「御殿(ウドゥン)」は工事中で、囲いがかけられていた。 |
入口 |   | 正門 |   | 番屋 |
育徳泉 |   | 池の風景 |   | 御殿(2007年撮影) |
六角堂 |   | 石橋 |   | 同左 |
舟揚場 |   | 勘耕台 |   | 勘耕台からの展望(南風原町方面) |
唯一咲いていた花(花名不詳) |
(4) 旧海軍司令部壕(豊見城市) 8年ぶりに訪れた。 帝国海軍の沖根(沖縄方面根拠地隊)司令部壕は、米軍の沖縄上陸に備え、1944年10月から12月にかけて小禄飛行場(現那覇空港)を望む標高74mの丘に作られた。現在海軍壕公園として整備されているこの一帯は、1945年6月4日に米軍が小禄へ上陸してから13日までの10日間にわたり、日米両軍の死闘の場となった。 戦後は、泥水で水没状態だったが、1953年以降遺体の収容が行われ、1958年には現地に慰霊塔が建てられた(この間に収容された遺骨は2千数百人という)。 復元し、一般公開したのは1970年である。立派な壕で、これまで見てきた他の壕と余りにも違うという印象であるが、綺麗に復元し過ぎているのではなかろうか。 なお、太田實司令官(中将)の生涯とこの地における戦闘については、田村洋三「沖縄県民斯ク戦ヘリ」(1997、講談社、文庫本は2007、光人社)が詳しい。 まず、壕の入口から地下二十数メートルのレベルへ下りる階段は、全く新しく作ったものである。内部のメイン通路は幅2.5m、高さ2mだったので、骨格構造はそのままであるが、当時は当然のことながら手掘りの跡がむき出しの岩盤を、木枠で支える構造だった。そのような形での復元もあり得たし、ずっと現実味があったと思う。 とにかく、この壕には4千人もの兵士が収容され、末期には通路という通路は負傷兵で埋め尽くされ、その血と膿の匂いが充満していたのが現実なのである。重症兵約300名は,ここでも青酸カリにより自決した。 |
海軍戦没者慰霊塔 |   | 資料館正面 |   | 正面の大田司令官像 |
資料館内部 |   | 同左 |   | 壕へ下りる階段 |
信号室 |   | 作戦室 |   | 同左 |
幕僚室 |   | 同左 |   | 同左 |
司令官室 (大田司令官は6月13日幕僚6名 と共にこの部屋で自決) |   | 暗号室 |   | 下士官室 (立錐の余地なく、立ったまま睡眠を とる状態だった) |
2. 宜野湾 名護からの帰途、北中城で沖縄自動車道を降り、普天間宮と佐喜真美術館を訪れた。 (普天間宮) ・普天間宮は、国道330号普天間交差点北の、国道と米軍キャンプ・フォスター(瑞慶覧)に挟まれた狭い場所にある神社である。琉球王朝時代には、旧暦9月に、国王、三司官を始めとする家臣に加え、一般住民も参詣する「普天間参詣」という行事が行われており、国王の参詣道として首里から浦添を通り普天満宮に至る「普天間街道」が整備された。浦添大公園に残る「当山の石畳道」は、その一部である。 ・本殿の裏に「普天満宮洞穴」という全長約280mの鍾乳洞がある。縁起伝承には首里桃原に出現した女神が普天満の洞窟に篭もったという伝承、その後洞窟より仙人が現れ「我は熊野権現なり」と神威を示さしたという伝承がある。普天満宮はこの洞穴内に琉球古神道神を祀ったことに始まるとされる。沖縄貝塚時代前期後半以後の遺物が多数発掘されている。洞穴の一部が公開されており、申し込むと現地まで案内してくれる(入場無料)。 |
普天間宮正面 |   | 本殿 |   | 女神と仙人 |
普天間洞穴正面拝所 |   | 普天間洞穴正面拝所 |   | 普天間洞穴内部 |
普天間洞穴内部 |   | 同左 |   | 同左 |
(佐喜真美術館) ・佐喜真美術館へは2011年夏、万座ビーチからの帰途に初めて訪れた。 最近館長の佐喜真道夫氏が、「アートで平和をつくる 沖縄・佐喜真美術館の軌跡」という冊子を出されたことを知った (2014.7、岩波ブックレットNo.904)。 佐喜真氏の育ちから美術館建設に至る経緯や、故郷沖縄と沖縄戦への思いが綴られており、読まなければ分からないことも多々あるわけで、改めて訪れてみようと思ったのである。 「沖縄戦の図」は、全体を見、近づいて細かい部分を見、また全体を見る。凄まじい絵だ。 この本を読んで知ったのだが、美術館の建物の前庭側に柱が沢山あるのは、「完成された」ことを示すという意味で12本の柱を設けたのだそうだ。また、庭を挟んで道路側に柱と対応するように12本の松が植えられたが、うち2本が枯れて現在は10本になっている。 実は、戦前までは、普天間宮の参道(普天間街道)6kmにわたって国の天然記念物にも指定されていた、宜野湾並松と呼ばれる琉球松の並木があった。17世紀に植え付けられた歴史のある並木であったが、沖縄戦と普天間飛行場の建設により消滅した。市民の中には、この並木復元を望む声もあるようで、美術館の松は、この松並木を念頭に置いてに植えられたものである。 特別展として、草間彌生展が開かれていたが、よく分からなかった。 |
佐喜真美術館エントランス |   | 12本の柱 |   | 琉球松と亀甲墓 |
佐喜真美術館ロビーの様子 |   | 同左 |   | 同左 |
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沖縄の観光案内・史跡等へのリンク | |