DIC川村記念美術館と佐倉探訪

 千葉県佐倉市郊外のDIC川村記念美術館の評判を以前から聞いており、行ってみたいと思っていた。
また、佐倉市内には、佐倉城址をはじめとする旧佐倉藩関連の史跡が残されている他、城跡の一角には国立民俗博物館が設置されている。
神奈川県からだとかなりの強行軍で、もとより丁寧な見学は難しいものの、これらの施設を一通り巡る一日プランを計画した。

 [ も く じ ]

DIC川村記念美術館

佐倉の史跡

国立歴史民俗博物館



 DIC川村記念美術館
 DIC川村記念美術館は、DIC株式会社の創業家である川村家が収集した美術作品を公開するため、1990年5月に千葉県佐倉市の同社研究所の敷地内に設置されたものである。
約30ヘクタールの広大な敷地には、木立の中を数百メートルにわたって続く散策路や池などの配置された庭園が整備されている。樹木200種、草花500種を超え、野鳥や昆虫も数多く生息しているという。
立地している場所は、北総台地と呼ばれる佐倉市の南西端で、農地や雑木林が広がる地域である。車だと東関東自動車道の佐倉インターから10分程度であり、東京都心からのアクセスはそう悪くない。電車だとJR佐倉駅からの送迎バスで20分、京成佐倉駅からだと30分ほどかかり、かなり遠くへ来た、という感じがする。DIC川村記念美術館のホームページはこちら
なお、DIC株式会社は、2008 年までは大日本インキ化学(株)と称していた、印刷インキ業界における世界のトップメーカーである。
(写真はクリックで拡大します。)
   
正門前 飯田善國<動くコスモス>
(1968 ステンレス)
  敷地内へのゲート  佐藤忠良<緑>
(1989 ブロンズ)
   
ゲート前のハナモモ  美術館全景  館内から中庭を望む
 
エントランス前
フランク・ステラ<リュネヴィル>
(1994 ステンレス他)
  清水九兵衛<朱甲面>
(1990 アルミ合金)

(展覧会 ヴォルス--路上から宇宙へ)
当美術館は、近現代美術のコレクションとしては、日本でも有数の規模をもつ美術館と言われている。
常設展示は、年に数回入れ替えているようであり、一回行っただけでは全体のことは分らない。
レンブラントの<広つば帽を被った男>、上村松園の<桜可里>などが 印象に残った。
特別展として、上掲タイトルの展覧会が開催されていた(開催期間2017.4.1〜7.2)。大抵美術館へ出かけるのは、ある作家やテーマを主題にした展覧会の鑑賞を目的とするものだが、今回はDIC美術館へ行くこと自体が目的といった面があり、かつ、寡聞にして、この芸術家の名前は知らなかった。
ヴォルス(1913〜51)は、主としてフランスで活動したドイツ人画家で、写真から、水彩画、油彩画を手掛け、フランスを中心とした、激しい抽象絵画を中心とした美術の動向である「アンフォルメル」の中心人物とされているという。
当美術館は、ロビーを含め全館が撮影禁止であるが、この展覧会だけは、個々の作品を含めフラッシュを使わなければ撮影可、とのことであったので、何枚か撮影した。特に代表作というわけでもなく、目についたので撮影した、といったレベルのものだ。
 
展覧会入口 ヴォルスの写真  アウシュビッツの火葬
炉で殺された女
(写真 1939/79)
   
セーヌ河岸3人の眠る人
(1933/79 写真)
  煉瓦の塔の上に(1939 水彩画)  ミューズ(1939 水彩画)
(庭園)
4月初旬の桜の満開時という日程は良かったものの、生憎の雨で、風も強く、庭園散策に時間をかけられる状況でなかったのが残念だった。それでも、晴天時の庭園の素晴らしさは想像できた。
なお、庭園だけの入場も可能で、料金は大学生以上200円である。
   
美術館エントランスから
白鳥池を望む
  白鳥池  白鳥
   
白鳥池  藤棚付近から美術館を望む  藤棚付近
   
スイレン池とシダレザクラ  シダレザクラ付近の散策路  ヘンリー・ムーア<ブロンズの形態>
広場 (1985-86 ブロンズ)
 
レストラン<ベルヴェデーレ>  送迎バス
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佐倉城址公園内にて(ハナモモとソメイヨシノ)
(クリックで拡大)
 佐倉の史跡
 佐倉は、慶長15(1610)年に、当地の領主となった老中土井利勝が築城した佐倉城を中心とする城下町として成立した。以来、佐倉城は江戸防衛の東の要衝及び西方面より西国大名に江戸が攻撃された際の将軍家の退避処として徳川譜代有力大名たちが封ぜられた。
佐倉藩の歴史の6割弱の間は堀田家が治めており、その石高は概ね11万石だった。幕末の開国派老中として知られる堀田正睦(1810〜1864)は、深刻な財政難に悩む藩を改革により立て直すことに成功し、また洋学を積極的に取り入れ、蘭方医佐藤泰然を佐倉へ招いた。

(佐倉城址公園)
佐倉城は、城郭に石垣を一切用いず、印旛沼を外堀の一部にし、三重櫓(御三階櫓)を天守の代用としていたという。 明治維新後は、廃城令により建物の殆どが撤去され、その後帝国陸軍の駐屯地となった。
城址公園としては、1979(昭和54)年度から本格的な整備が始められ、現在は市民の憩いの場になっており、千葉県内有数のお花見スポットでもある。ソメイヨシノは740本あるそうだ。
また、1983(昭和58)年、明治百年記念事業として、国立歴史民俗博物館が開館した。
遺構としては、本丸、二の丸、三の丸や、その外縁部の多くの郭の形状が広大かつ良好に残る。また、国立歴史民俗博物館建設の際、敷地一帯の発掘調査と整備が行われ、遺構の一部(馬出し空堀・土塁等)が復元されている。

(写真はクリックで拡大します。)
   
佐倉城址公園入口  三の丸手前の空堀  三の丸付近
   
堀田正睦公の像  佐倉城礎石
(陸軍兵舎基礎に転用されていた)
  台所門跡
(本丸跡入口)
   
佐倉城天守跡の碑  本丸跡の広場
(周辺は桜で、花見広場)
  馬出(まいだし)空堀
(歴史民俗博横)

(旧堀田邸)
「旧堀田邸」は、最後の佐倉藩主堀田正倫(正睦の四男)が、明治23(1890)年に旧領である佐倉に設けた邸宅・庭園である。邸宅部分は、伝統的和風様式の木造平屋建て一部二階建て5棟で構成され、全体として武家の邸宅らしい質素な印象である。「旧堀田家住宅」として平成18(2006)年に国の重要文化財(建造物)に指定された。
庭園は、<さくら庭園>の愛称で呼ばれ、広い芝生地を中心とし、明治期の庭園の特質をよく表しているという。
   
旧堀田邸正門  土蔵  玄関棟
   
玄関  畳廊下  家令詰所(展示室)
 
座敷棟(邸内最大の部屋)  廊下から庭園を望む
庭園から邸宅を望む
   
庭園  同左  同左

(武家屋敷)
城址公園南の武家屋敷通りは、江戸時代の旧佐倉藩武家町の雰囲気を色濃く残す土塁と生垣の通りで、5棟の武家屋敷があり、うち3棟が公開されている(「旧河原家住宅」、「旧但馬家住宅」、「旧武居家住宅」)。
全く人通りのない通りだ。通りを挟んで、反対側には児玉源太郎旧宅跡がある。児玉は、陸軍佐倉歩兵第2連隊長だった(1880〜85)。
   
旧河原家住宅(移築一部復元)
(佐倉で最も古い武家屋敷)
  同左  同左
   
旧河原家住宅内部  同左  同左
   
旧但馬家住宅(復元)
(当初よりこの地に建築)
  同左  同左
 
旧武居家住宅(移築復元)
(百石未満藩士の小屋敷)
  同左

(佐倉順天堂記念館)
佐倉順天堂は藩主堀田正睦の招きを受けた蘭医佐藤泰然が1843(天保14)年に開いた蘭医学の塾兼診療所で、明治医学界をリードする人材が輩出された。泰然の後継者佐藤尚中(養子)は、1869(明治2)年、大学東校(後の東京大学医学部)初代校長となり、1873(明治6)年には、順天堂医院(現在の順天堂大学医学部附属順天堂医院)を開設した。
佐倉順天堂記念館は、1858(安政5)年に建てられた「旧佐倉順天堂」の建物の一部を1985年から公開しているものである。
   
佐倉順天堂記念館正門  記念館前庭と佐藤泰然像  同左
   
記念館全景  玄関を入った小部屋から内部を望む
(額の書は、姫路藩医儒者で隷書の
名人とされていた山田安朴書)
  記念館内部
   
手術道具の展示  顕微鏡の展示  廊下奥から玄関を望む
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 国立歴史民俗博物館
・国立歴史民俗博物館は、日本の考古学、歴史、民俗についての総合的な研究成果を展示するベく、1983年3月開館したもので、大学共同利用機関法人・人間文化研究機構が運営している(通称「歴博」)。因みに、上野や奈良、大宰府の国立博物館は、文化庁所管の国立文化財機構の運営である。
場所は佐倉城址公園北の一角で、敷地129千u、延床面積36.6千uと、最も新しい九州国立博物館(大宰府、2005年開館)の30千uを上回る巨大な施設である。また、博物館の南東に、生活文化を支えてきた植物を系統的に植栽し、その理解をより深めることを目的として、「くらしの植物苑」が設置されている。
歴博の元来の性格は、各部門に多数の研究者(教授職等)を擁する大学共同利用の研究機関であり、その成果を博物館という形で公開する、という位置づけになっているのが特徴である(研究機関としては、博物館開館の2年前に開設。初代館長は、当館の設立に尽力された井上光貞教授)。
・我々が見学する博物館としての展示は、 日本の歴史・文化の流れの中から重要なテーマを選び、生活史に重点をおいて構成された「総合展示」(常設展示)の他、随時「企画展示」が行われている。
当博物館の見学は一日仕事だとか、半日はかかる、と聞いていたが、今回ここで割ける時間は2時間程度なので、総合展示の一部を見学することにした。
 総合展示は、第4展示室「民俗」を除き、時代区分により五つの展示室が設けられている。すなわち、第1「原始・古代」、第2「中世」(平安〜安土桃山)、第3「近世」(16世紀末〜19世紀半ば)、第5「近代」(19世紀後半〜1920年代)、第6「現代」(1930年代〜1970年代)である。  このうち、第6「現代」を中心に見学し、第5「近代」は、駆け足の見学となった。
なお、建物は、ロの字型で、周りに展示室を配置する構造になっており、比較的シンプルなのだが、サインに全く工夫がなされておらず、分り難いとの印象が残った。通路等は無機的で役所の中のようだ。研究所としての雰囲気が影響しているのかもしれない。ただ、職員の応対は非常に良かったことは付け加えておきたい。
(写真はクリックで拡大します。)
   
1Fエントランスホールと
インフォメーションカウンター
  エントランスホールから
中地階ミュージアムショップを望む
  1階奥から正面展示室入口方向を
望む
・第6展示室「現代」は、1930年代〜1970年代が対象であり、<戦争と平和>(サンフランシスコ平和条約発効=1952年まで)と、<戦後の生活革命>の二つの部分ならなる。後者は、我々の生きてきた時代であり、懐かしくはあるが殊更珍しいものはない。
前者の展示の「大量殺戮の時代-沖縄戦と原爆投下」というコーナーのうち、1945年3月末に始まった「沖縄戦」に関して目についたもの数点を撮影した。
   
第6展示室「現代」入口  <戦争と平和>  展示室の様子
・一つは、沖縄方言を話す者をスパイとみなし処分する、ことの根拠となる文書である。
沖縄守備隊である第32軍司令部命令綴りの、1945年4月20日のものであり、第5項に、「軍人軍属ヲ問ハズ標準語以外ノ使用を禁ズ。沖縄語ヲ以テ談話シアル者ハ間諜トミナシ処分ス」とある。
この時期は、沖縄戦最大級の熾烈な戦いであり、日米両軍で9万人とも10万人ともいわれる戦死傷者を出し、事実上の決戦とさえ言われた、嘉数台地の戦いの終盤で、日本軍の陥落は目前に迫っていた(同戦闘は4月8日から始まり、23日に米軍がこの台地を奪い終結)。いよいよ、米軍が司令部のある首里に迫ることが現実味を帯びてくる時期である。
そもそも沖縄守備隊32軍は、本土を守るために派遣されたものであり、沖縄の住民に対しては、過度ともいえる不信感を抱いていた。この命令は、このような戦況下で神経過敏になった司令部が、発出したものであろう。ここでは軍人軍属とされているが、一般住民も日本軍兵士に対する対応の中で、方言を使ったため、殺害されたケースがあることはよく知られている。この命令の影響もあると思われる。友軍と思っていた日本軍に、スパイ容疑で殺害された数は、正確には把握されていないものの、およそ1,000人ほどと言われているが、八原作戦参謀の著書によれば、スパイ容疑に関しては、一度も証拠が挙がったことがない、と記されているという(大田昌秀「沖縄戦とは何か」)。
・二番目は、「軍官民共生共死ノ一体化」の下、米軍への恐怖を煽りつつ、投降を禁じ、兵士と同様の行動を求めている軍の現地部隊長による布告文書である。米軍が上陸した読谷村を含む中頭郡における戦闘に言及しているところからみて、4月1日の上陸後間もないころのものと思われる。このような軍の布告・情宣活動が、集団自決の背景となったことは想像に難くない。上陸直後のチビチリガマの凄惨極まる集団自決は、その一例である。他方、同じ読谷村シムクガマに避難していた人たちのように、米軍は、この文書のようなことはなく、一般住民に危害を加えることはない、というハワイ帰りの沖縄出身者の説得により、集団自決を免れたケースもある。
   
沖縄戦のコーナー  1945.4.20付32軍命令書(琉軍會報)  現地部隊長の地元住民への
布告文書