| ||||||||||||||
ブラフ18番館、外交官の家(山手イタリア山庭園) |
石川町駅元町口のイタリア山庭園方面出口を出て、郵便局前から急な坂道を上る(大丸谷坂)。途中左方向へ、横浜市立元街小学校、フェリス女学院、カトリック山手教会へ向かう旨の案内板がある。斜面に建て込んだ住宅地の中の狭い階段道と急な坂を上って山手本通りの山手公園北口入口近くへ至る道である。 直進すると右手にイタリア山庭園へ上る門が見えてくる。当地は、横浜ベイブリッジやみなとみらい21地区を一望できる高台で、1880(明治13)年から1886年までイタリア領事館が置かれていたことから、「イタリア山」と呼ばれており、イタリア式庭園が整備された横浜市所管の都市公園になっている。西洋館を2棟移築し、横浜観光のスポットになっている。 「ブラフ18番館」 「ブラフ18番館」は、関東大震災後に山手町のカトリック山手教会に隣接して建てられた木造2階建の外国人住宅で、戦後は山手教会の司祭館として使用されてきたが、1991年老朽化に伴う解体に際して横浜市に部材が寄贈され、山手イタリア山庭園内に移築復元された。居留地時代の番地に因んで18番館と命名したという。1993年より一般公開されている。館内は大正末期から昭和初期にかけての震災復興期の外国人住宅の暮らしを再現しており、2階寝室の家具は、市内の他の西洋館の取り壊しにより寄贈された横浜家具と思われるもの。 |
グラフ18番館全景 |
グラフ18番館・庭の桜 |
1階・リビングルーム |
1階・リビングルーム |
1階・リビングルームマントルピース |
1階・サロン(リビングルーム奥、右はサンルーム) |
1階・サロン(サンルームから ) |
1階・サンルーム(リビングルームとサロンの窓側) |
1階・ダイニングルーム(イタリア庭園側) |
2階・展示室(寝室を再現、1階ダイニングの上) |
2階・談話室 |
2階・談話室マントルピース |
(画像はクリックで拡大します) | |
グラフ18番館・春の植え込み | グラフ18番館・庭のバラ(ブライダル・ピンク) |
グラフ18番館・庭のバラ(はまみらい) | グラフ18番館・庭のバラ(ピンク・ノックアウト) |
「外交官の家(旧内田邸)」 「外交官の家」(旧内田邸)は、1910(明治43)年に外交官内田定槌の邸宅として、東京渋谷・南平台に建築された塔屋付き木造2階建の西洋館であり、1997年横浜市に寄贈され、山手イタリア山庭園に移築復元のうえ一般公開された(同年国の重要文化財に指定)。設計は、立教学校(後の大学)初代校長を務めた米国人、J.M.ガーディナー。 1階は食堂と客間、2階は寝室や書斎が復元家具などにより再現されている。室内装飾には、アール・ヌーボー調がみられる。 |
外交官の家・正面(向かって左に和館が接続されていた) |
外交官の家・庭園側正面 |
外交官の家・庭園側 |
外交官の家・正面玄関(現在は閉鎖) |
外交官の家・間取り図 |
外交官の家・1階内部 |
外交官の家・玄関ホール |
(画像はクリックで拡大します) | |
玄関扉ガラスの装飾(玄関ホール内から) | 玄関ホール入口扉のアールヌーボー調ステンドグラス |
玄関ホールと階段 |
供待部屋(玄関左) |
大客間(左側小客間、正面は出窓) |
大客間(右側玄関ホールからの入口、正面はマントルピース) |
(画像はクリックで拡大します) | |
大客間マントルピース上のステンドグラス | 大客間マントルピース上のステンドグラス2 |
小客間(左側は食堂、丸テーブルは当初からのもの) |
小客間を囲むサンルームの中央(塔の部分庭園側) |
食堂1(小客間側から、左にマントルピース、正面にサイドボード) |
食堂2(マントルピース) |
食堂3(当初からのサイドボード) |
外交官の家・2階内部 |
外交官の家・玄関ホールから2階へ上がる階段室 |
寝室(客用、令息用) |
書斎入口 |
書斎 |
主寝室(奥の塔部分は、夫人のプライベートサンルーム) |
サンルームから庭園を望む |
客用寝室 |
(画像はクリックで拡大します) | |
外交官の家・庭園 | 外交官の家・庭園 |
外交官の家・前庭のバラ | 外交官の家・前庭のバラ |
▲ページのトップへ |
ベーリック・ホール |
英国人貿易商B.R.ベリックの邸宅として、1930年に建設された木造2階建ての洋館である。現存する戦前の山手外国人住宅の中では最大規模のスパニッシュスタイルの建物で、設計は旧丸ビルや旧郵船ビルのほか、この地でも山手111番館と山手聖公会を設計した米国人建築家J.H.モーガンによる。 1956年にフランス系修道会のマリア会に寄贈され、同会が近くの雙葉学園隣接地で運営するセント・ジョセフ・インターナショナル・スクールの寄宿舎として使用していたが、2001年に同校は廃校となった(跡地は三菱地所が取得してマンションになった)。それを受けて、横浜市は隣接する元町公園の拡張用地として2001年に建物底地を買収するとともに、建物についてはマリア会から寄贈を受けた。 復元・改修等の工事を経て、2002年から、建物と庭園を一般公開している。横浜市認定歴史的建造物(2001年度)。 なお、マリア会は東京の暁星学園や長崎の海星学園の運営母体である。 |
ベーリック・ホール全景 |
正面三連アーチ |
正面左サイド、1階が食堂 |
正面右サイド、1階が居間 |
ライオン吐水 |
正面玄関 |
正面玄関扉上部 |
アールデコ調の正面玄関扉内側から |
ベーリック・ホール・間取り図 |
居間 |
居間 |
パールルーム |
(画像はクリックで拡大します) | |
アーチ窓とバラ | アーチ型のライオン噴水上部とバラ |
窓下のバラ | 同左(ローズ・ヨコハマ) |
▲ページのトップへ |
エリスマン邸 |
ベーリック・ホールに隣接する元町公園内の木造2階建ての洋館。スイス人の生糸貿易商フリッツ・エリスマンの邸宅として、1926年に現在地より南東に400mほどの場所に建てられた。設計はF.L.ライトの助手として来日したチェコ出身の建築家A・レーモンド。1982年にマンション建設のため解体されたが、横浜市が部材を買い取り、1990年に元町公園内に移築・復元したものである。2001年には横浜市認定歴史的建造物に選定された。 |
エリスマン邸正面 |
エリスマン邸ベランダ側 |
▲ページのトップへ |
山手234番館 |
関東大震災後、当地の外国人居住者は、神戸などに移住しその数が激減したことに対応して、横浜市は復興事業として山手や根岸に市営住宅を建設した。当山手234番館は、1927年に建設された民間による外国人向けの集合住宅である。木造2階建てで、3LDKの部屋が上下に2戸ずつ配置されていた。設計は朝香吉蔵という建築家だが、経歴等は不詳。 1980年ごろまで外国人向けに賃貸されていたが、1989年に横浜市が歴史的景観の保全を目的に取得し、保全改修工事の上、1999年より一般公開している。正面ベランダは、改修工事前にはガラス戸がはめられ、サンルームのように使われていたが、当初の列柱を復元した。1階の居間(左側住戸)は、創建当時の様子を再現したという復元展示室になっている。寄贈を受けた、昭和初期米国製蓄音機が置かれており、毎月SPレコードの演奏会が行われている。1999年に横浜市認定歴史的建造物に選定された。 |
山手234番館 |
山手234番館玄関(左右が1階住戸入口、正面二つのドアが2階住戸用、直階段を折返しに改修し左は閉鎖) |
テラスと列柱 |
1階居間(創建当時の様子を再現) |
1階居間 |
1階居間・左米国ビクター社1928年製のビクトローラVV8-9型蓄音機(横浜の蓄音機・レコード収集家井上和夫寄贈) |
(画像はクリックで拡大します) | |
ビクトローラスピーカー部 | ビクトローラスプレーヤー部 |
ニッポノホン木製ラッパ付き蓄音機 (大正中期日本コロンビアの前身日本蓄音機商会製) |
1階常設展示室(改修前は旧個室1として、サブ・ベッドルームもしくはダイニングだった) |
1階常設展示室(旧個室2として、メイン・ベッドルームだった) |
2階レクチャールーム(旧居間) |
(画像はクリックで拡大します) | |
建物中央の光庭(採光と風呂の湯気抜きのために設置) | 光庭(2階部分) |
(蓄音器によるSPレコードコンサートプログラム) 2006年から毎月第2金曜日午後に開催。蓄音機は機械ではなく『音を出す楽器』という思いから、"蓄音器"としている |
▲ページのトップへ |
横浜市イギリス館 |
幕末に横浜が開港した際に、現在の港の見える丘公園一帯には、英国軍とフランス軍が駐屯していた。 1937年、英国駐屯地の跡に英国総領事公邸として建てられたのが、現在の横浜イギリス館である。鉄筋コンクリート2階建で、上海の大英工部総署の設計による。 1969年に横浜市が取得し、1階のホールはコンサートに、2階の集会室は会議等に利用されている。2002年からは、2階の展示室と復元された寝室が一般公開されている。また、イギリス館前は"ローズガーデン"として、横浜のバラの名所の一つになっている。そのほか、周辺は花壇や噴水が整備され、四季を通じて散策できるよう、バラを始めとする草花が植えらている。 |
横浜市イギリス館正面全景 |
横浜市イギリス館庭園側全景 |
正面玄関 |
1937年当時の国王ジョージ6世を示す紋章(GRY) |
玄関ホール |
玄関ホール壁の装飾 |
1階ホール(サンルームから) |
ホールのマントルピース |
ホーム庭側の半円形サンルーム |
2階復元寝室 |
2階復元寝室 |
寝室付属の休憩室(丸窓は船の窓をイメージしているという) |
2階展示室 |
2階展示室付属の休憩室 |
▲ページのトップへ |
山手111番館 |
横浜イギリス館南側に建つ、木造2階建て、地下が鉄筋コンクリート造のスパニッシュスタイルの邸宅。米国人両替商J.E.ラフィンが、ベーリック・ホールと同じJ.H.モーガンの設計で1926年に建てた。所有者は数度変わったものの、大切に扱われたため創建当時の意匠はほぼ残っているという。1996年に横浜市が取得し(建物は寄贈)、1999年より一般公開されている。ただし、2階の公開は月1回のみに限られている。同年横浜市指定有形文化財に指定された。 地下部分は、ローズガーデンの喫茶室として利用されている。 |
山手111番館正面(三連アーチのテラス左側が玄関) |
山手111番館全景(右が玄関) |
1階吹抜けホール |
彫刻の施された1階吹抜けホールのマントルピース |
1階居間奥の食堂 |
1階居間奥の食堂 |
1階食堂からローズガーデンを望む |
1階展示室 |
ローズガーデン側地下1階レベル全景 |
▲ページのトップへ |
山手資料館 |
1909(明治42)年に山手町近くの牧場主が建てた和洋併設邸宅の洋館部分で、関東大震災に耐えた横浜市内最古の木造西洋館である(施工は市内戸部の大工という)。 1970年代に取壊されることになったが、隣接するレストラン山手十番館(1967年開業)のオーナー本多正道が買い取り、1977年にその敷地内へ移築したものである。民間の資料館として、日本最初の漫画雑誌「ジャパン・パンチ」など本多の収集になる開港期横浜に関する多くの資料が展示されている(内部は撮影禁止)。 1999年に横浜市認定歴史的建造物に認定された。 |
山手資料館全景1 |
山手資料館全景2 |
玄関 |
ライオン型水道共用栓(馬車道に水道が敷設された際の共同利用の栓で、わが国最初のもの) |
▲ページのトップへ |
旧山手68番館(山手公園管理事務所) |
1870(明治6)年に現在のフェリス女子大学の南側に、外国人居留者のための公園(山手公園)が開園した。日本最初の洋式公園である。また、1876
年に日本で初めて当公園でローンテニスが行われたことから、当地は我が国テニス発祥の地でもある。現在テニスコートは12面あるが、うち6面が市民向けのコートで、他の6面は、1878年に設立されたレディス・テニスクラブが現在に引き継がれた、公園とは別組織の公益財団法人が利用している。 開設当初、一帯には英国人がインドから持ち込んだヒマラヤスギが植えられ、現在も大木が残る鬱蒼とした雰囲気の場所である。 山手公園は、2004年に国の名勝に指定、2009年には、近代化産業遺産に認定された(注)。 (注)「旧居留地を源として各地に普及した近代娯楽産業発展の歩みを物語る近代化産業遺産群」のひとつとして指定。。 この公園の管理事務所は、1934年に山手町68番地(フェリス女学院前)に建てられた木造平屋建ての外国人向け賃貸住宅を、1986年に当地へ移築したものであり、市営テニスコート6面のクラブハウスとして利用されている。 |
山手公園石碑 |
山手公園の桜と旧山手68番館(山手公園管理事務所) |
旧山手68番館(山手公園管理事務所)全景 |
旧山手68番館内部1 |
旧山手68番館内部2 |
旧山手68番館内部3(展示室) |
日本庭球発祥之地碑(テニスクラブ設立100周年の1978年に建てられた) |
横浜山手テニス発祥記念館(テニスクラブ設立120周年の1998年に開設) |
(画像はクリックで拡大します) | |
横浜山手テニス発祥記念館内部1 | 同左2 |
ヒマラヤスギの大木(樹齢140年、高さ20m、1879年に種が植えられた) |
▲ページのトップへ |
カトリック山手教会 |
横浜開港3年後の1862(文久元)年、パリ外国宣教会の神父により、開港後我が国初めての教会「横浜天主堂」が、横浜居留区の中に建てられた。場所は現在の横浜中華街朝陽門(山下公園側)近くであった。長崎の国宝大浦天主堂の3年前である。 1906年、周辺の市街化により現在地に移転し、煉瓦造りの双塔を持つゴシック風の聖堂が献堂されたが、僅か17年後の関東大震災によって完全に崩壊し、1933年に現在のゴシック式鉄筋コンクリート造りの聖堂が再建された。 |
カトリック山手教会 |
カトリック山手教会尖塔と枝垂れ桜 |
(画像はクリックで拡大します) | |
正面上部の装飾 | 塔部のステンドグラス |
構内満開の桜 | 満開の桜とマリア像(1868年フランスから寄贈) |
▲ページのトップへ |
横浜山手聖公会 |
「横浜天主堂」の1年後、1863年にやはり居留地の中、現在の中華街の元町寄り前田橋近くに、「クライスト・チャーチ」と呼ばれる英国国教会系聖公会の聖堂ができた。この聖堂も、1901年に元町公園脇、外人墓地前の現在地へ移転し、鹿鳴館などの設計で知られるジョサイア・コンドルの設計により、尖塔をもつ煉瓦造のヴィクトリア・ゴシック様式の聖堂が建てられたが、関東大震災により倒壊した。現在の聖堂は、J.H.モーガン設計により1931年に再建された。鉄筋コンクリート造の表面に大谷石を貼りつけた構造で、鐘楼のある中世の城砦のような重厚な雰囲気が、ひときわ目立つ建物である。 2005年に、放火により木造の内部が全焼、屋根が焼ける被害を受けた。そのためか、普段は施錠されており、内部には土曜日の午後以外は入れない。 |
横浜山手聖公会聖堂全景 |
正面玄関(祭壇のステンドグラスが見える。内部の石部には火災の跡が残る) |
塔上部 |
元町公園の桜と聖堂 |
▲ページのトップへ |
周辺のスポット |
1 山手80番館遺構(ブラフ80メモリアルテラス) エリスマン邸裏手にある、明治末から大正初めにかけて建設されたとみられる洋館の遺構である。3階建、建築面積180uの鉄筋で補強された煉瓦造りであったが、関東大震災で倒壊した。震災当時外国人夫妻が住んでいたという。"ブラフ80メモリアルテラス"と銘打って残された地下室部分と付属浄化槽を保存公開している。 因みに、明治から大正にかけての煉瓦建築では、鉄材で煉瓦を補強する工法が行われていたようで、横浜でも、横浜正金銀行本店、横浜市開港記念館、赤レンガ倉庫といった著名な建築物が、当時の日本を代表する建築家によって同工法で設計されている。このうち赤レンガ倉庫の一部が損壊した以外、関東大震災に耐えることができている。 |
玄関下部(エリスマン邸側)から奥を望む |
貯蔵庫付近 |
貯蔵庫付近の煉瓦壁とコンクリート部の装飾 |
サロン付近 |
貯蔵庫側からサロン方向 |
(画像はクリックで拡大します) | |
出土したタイルの複製1 | 出土したタイルの複製2 |
2 えの木てい本店 山手234番館が建設された1927年に、同館に隣接して建てられた英国式の洋館(設計は234番館と同じ朝香吉蔵)。米国人が住んでいたが、1970年に現在の所有者の両親が自宅用として取得し、1979年に1階リビングをカフェとしてオープンした。その後、2階も店舗とし、レストランやカフェが殆どないこの地域で、人気のカフェ兼洋菓子店になっている。建物内部の造作等には、殆ど手が加えられていないようだ。 |
えの木てい本店全景 |
正面玄関、左が1階ティー・ルーム入口、2階は洋菓子店で、個室ティー・ルームもある。(Sweet Boutiqu テイクアウトコーナーとある) |
3 麒麟園公園(ビール発祥の地)、ビール井戸 1869(明治2)年山手46番地において、わが国で初めてビールの醸造が居留地外人向けに開始された(山手教会の北辺り)。 国内向けに醸造・販売が開始されたのは1870年で、山手123番地、すなわち現在の麒麟公園の地においてである。1885年にT.グラバーや三菱財閥の経営となり(ジャパン・ブルワリー)、その事業を継承して1907年に現在の麒麟麦酒(株)が設立された。この間、1887年には"キリンビール"が発売された。 1923年の関東大震災で工場は壊滅したため、生産拠点を臨海部の生麦に移転し(現在の横浜工場)、跡地は麒麟公園として残された。場所は、エリスマン邸前の元町公園の交差点から、急な坂道(南坂)を200m程下った北方小学校南側で、麒麟麦酒開源記念碑があるだけの小さな市民公園になっている。同碑文によれば、震災前の工場規模は、敷地7,598坪に及んだとされており、北方小学校や当公園一帯が工場だったと思われる。 |
当初の麒麟園入口(閉鎖) |
麒麟麦酒開源記念碑(1937年1月、竹越與三郎撰、麒麟園開設時と思われる) |
1885(明治18)年頃、ジャパン・ブルワリー時代の工場 |
ビール井戸(ビール醸造に使用した井戸の遺構、当地は良質の湧水が得られた。北方小学校敷地の北端近く) |