長崎・外海2018-2


 長崎 2018

 2018年4月、2年振りに長崎を訪れた。一昨年は、その前年に世界遺産に登録された「明治期の産業革命遺産」と、申請をいったん取り下げた「長崎の教会群とキリスト教関連遺産」候補施設の、それぞれ一部を回った。 (「長崎2016・世界遺産など」.)
 今年は前回の続きといった趣の産業革命遺産「小菅修船場」のほか、ほぼ19世紀の様子が甦ったとされる出島、市内のキリシタン関連史跡、寺町の一部などを散策した。

「長崎の教会群」は、いわゆる「信徒発見」の場とそれ以降に建築された「教会堂」が相当部分を占めていたが、キリシタンが潜伏して信仰を守った、という歴史にこそ意味がある、というICOMOSのごく当然と思える指摘とその指導に従い、潜伏期の「キリシタン集落」を前面に出すとともに構成資産を一部見直しのうえ、タイトルを「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」と変更して再度申請した。昨年9月にICOMOSの現地調査が行われ、この5月4日にはICOMOSから世界遺産登録が適当である旨の勧告が出された。本年6月の世界遺産委員会で登録が決定するものと見込まれる。観光客が増えると歓迎する向きが多いが、静かな環境が壊されないか、懸念は否めない。

(2018年6月30日追記)
 本日、バーレーンの首都マナマで開かれた国連教育・科学・文化機関の世界遺産委員会において、日本が推薦した「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」(長崎、熊本県)を世界文化遺産に登録すると決定した。
 民間ベースで長崎の教会群を世界遺産に登録しようとする運動が始まったのが2001年で、2007年には、世界遺産登録推薦の前提となる暫定リストに掲載された。この分だと近い将来世界遺産登録が実現するのではないかと考え、2008年になかなか行く機会のない五島列島を回った。あれから10年が過ぎた。この間、後発の「産業革命遺産」が先に推薦案件になったり、再申請したりと、紆余曲折の上、漸く登録が実現したことになる。
10年前に五島を訪れた際は、全く考えられないことだが、迂闊にもカメラを忘れた。そのために写真は一枚も残っていないが、写真を撮る手間がなくゆっくり過ごすことができたのは怪我の功名というべきか。数々の美しい教会と本土では見られない碧い海、海岸の墓地など今でもくっきりと覚えている。

見直し版「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」 構成資産位置図



 [ も く じ ]

長崎港内外

 1 世界遺産小菅修船場跡 2 神の島 

長崎市街

 1 二つの県営施設〜長崎美術館、立山防空壕 2 大浦天主堂、南山手 3 出島とその周辺  4 寺 町   

キリシタン関連史跡



 長崎港内外

1 世界遺産小菅修船場跡

 小菅修船場は、2015年に世界遺産登録された「明治期の産業革命遺産」構成資産の一つである。
小菅修船場は、外国船の修理を目的としてグラバーが薩摩藩士小松帯刀、五代友厚らと計画し、イギリスから最新機器を取り寄せ1869年に完成したものである。船舶建造のいわゆる「新造ドック」ではなく、修繕ドックであるが、わが国の民営造船業の嚆矢をなすものと言ってよい。翌年明治政府が買収し、官営長崎製鉄所に編入されたが、同製鉄所は1884年に三菱の経営となった。そして、三菱長崎造船所と改称され、小菅修船場は、その一部門として、1953年まで稼働していた。なお、政府からの正式な払い下げは1887年。
三菱造船所の対岸、ながさき女神大橋の北側にある。
船渠ではなく船舶を地上に曵揚げる船台方式であり、船を載せる台(滑り台)ががソロバン状に見えたため、"ソロバンドック"の名がある。 船台能力は1000トンである。
 また、曳揚げのための動力は、我が国で初めて蒸気機関が利用された。船台の奥に設置された曳揚げ小屋には、英国から輸入したボイラ、堅型2気筒25馬力の蒸気機関、8枚の歯車による曳揚げ装置が当時のまま残っている。曳揚げ小屋は現存する日本最古の煉瓦造り(フランス積み)の建物という。
船台は常時公開されているが、曳揚げ小屋は土日のみ、ボランティアの案内で見学ができる(10〜16時、入場無料)。
 長崎中心部からバスで10分程度と近く、便数も多く大変便利だし、蒸気機関によって初めて産業革命が実現したことを考えれば、世界遺産としての価値は大きいと思うのであるが、観光客は産業(生産)設備など何もない軍艦島を専ら目指し、こちらは閑散としている。
 なお、幕末以降のわが国における煉瓦工法については、横須賀・猿島に関する記述を参照(こちらから)。
長崎における「明治期の産業革命遺産」のうち、三菱長崎造船所に関しては、こちらを参照。
(画像はクリックで拡大します)
   
小菅修船場跡石碑  明治10年頃の船台上の船舶の絵  引揚げ小屋
   
引揚げ小屋内部のボイラーと巻上機  同左  引揚げ小屋内部
フランス積みのレンガ壁
 
引揚げ小屋前から船渠口方向  船渠口から引揚げ小屋を望む
   
中央のレール  滑り台  レールの様子

2 神ノ島

 神ノ島は、長崎港の入口女神大橋手前左の半島のような地域で、先端に入港する船舶のランドマークになっている大きなマリア像があ.ることで知られている。元来は周囲1km程の小さな離島で、江戸時代には、交通不便のため、全島民が潜伏キリシタンの島であったが、1960年代に埋め立てにより本土とつながった。高度成長期に各地で行われた工業団地の造成が目的だったと思われる。現在もかなり未分譲地が残っている。最近は市民プールが出来た。

 神ノ島では、大浦に次いで、1876(明治9)年に教会(仮聖堂)ができたが、キリシタン禁制が解かれた後としては、長崎で初めてできた教会ということになる。その後、木造を経て1897(明治30)年に現在のレンガ造りの聖堂が完成した。外装は、真っ白なセメント塗になっている。
教会の敷地内には、いわゆる信徒発見後、他の信徒と共に命懸けで大浦天主堂へ出かけ、プチジャン神父を島へ案内した西兄弟(島の帳方と水方を務めていた)の墓が安置されている。西兄弟は、外海や佐世保沖の黒島、平戸にまで自らの船を仕立て、神父を案内したという。1871(明治4)年、西兄弟を含め計10人のキリシタンが役人に検挙された。
(画像はクリックで拡大します)
   
神ノ島教会全景  神ノ島教会正面  同左海側側面
   
ルルド  マリア像  西兄弟の墓
 神ノ島教会下の岩礁の上に建てられた高さ約4.6mの大きな聖母像は、フランシスコ・ザビエル渡来400年を記念し、世界平和と船舶の航海安全を祈って1949年(昭和24)に建てられた。現在の像は、1984年に建て替えられたもの。また、岩礁の登り口には鳥居があり、マリア像の後ろに小さな祠がある。
 神ノ島の沖合に見える島が高鉾島で、禁教令が発布されでた3年後の1617(元和3)年、宣教師を匿まった宿主2人が斬首され、禁教令発令後殉教者を初めて出した地となった。その後も島の海岸では多くの信徒が殉教し、付近の海に西坂の丘で処刑された殉教者の遺体とともに投げ込まれたといわれる殉教の島である。
 因みに、吉村昭「ふぉん・しいほるとの娘」は、野母崎の遠見番所が長崎に接近するオランダ船(シーボルトが乗船)を発見する場面から始まるが、当時オランダ船は、すぐには入港できず、厳重な監視の下、この高鉾島でいったん止められたのち、大量の曳船に曳かれて、今は乙女大橋が架かる港口から入港したという。神ノ島の高台からは、オランダ船が手に取るように見えたに違いない。  

 今回は外海の帰途、海岸沿いの国道202号を通って神ノ島に入った。神ノ島の手前に、長崎開港前の一時期、南蛮船の泊地となっていた福田湾がある。湾口が広く、角力灘に面しているので、嵐などを防ぐのに余り適当でなかったのが理解できた。
   
教会下の岩礁  長崎港口のランドマーク
岩礁上のマリア像
  岩礁登り口の鳥居
   
マリア像後の祠  高鉾島  女神大橋を望む
 
神ノ島沖を走る高速船
向こうは三菱香焼ドック
  海上から見たマリア像
(2016年4月撮影)
福田湾の光景

▲「長崎港内外」のトップへ



 長崎市街

1 二つの公営施設〜長崎県美術館、立山防空壕

長崎県美術館
 今回は、初日にかなり強い風雨に見舞われたため、街歩きをやめ、長崎県美術館を訪れることとした。
長崎県美術館は、2002年に閉館した長崎県立美術博物館機能と、その収蔵品であるスペイン美術、長崎ゆかりの近代美術を引き継ぐ形で、2005年4月長崎水辺の森公園の北側に開設された。なお、旧長崎県立美術博物館は、現在の歴史文化博物館の場所に1965年設置された。
因みに、長崎水辺の森公園は、長崎港ウォーターフロント開発の一環として2004年に開園した海浜公園であり、平地の少ない長崎において、貴重な市民の憩いの場となっている。
総ガラス張りに、木質系かと思わせるような縦のルーバーで覆われている斬新な設計は、隈研吾によるもの。
エントランス、ミュージアムショップ、県民ギャラリー等からなるギャラリー棟と展示室のある美術館棟の2棟が、小さな運河を挟んで配置され、ギャラリー棟の2階から"橋の回廊"で運河を渡り、美術館棟に入ると、右側が常設展示室、左側が企画展室になっている。コンパクトな美術館ゆえであろうが、動線がシンプルで分かりやすく、天井が高く開放的ですっきりとしているという印象である。
橋の回廊には、カフェがあり、また、美術館屋上庭園からは、長崎港、女神大橋や市街地を展望でき、夜景も人気スポットになっているようだ(強い風雨のため断念)。
当館の特徴であるスペイン美術のコレクションは、戦前の外交官須磨弥吉郎が生前長崎県へ寄贈したもの。
須磨弥吉郎(1892〜1970)は、秋田出身で、戦前は外交官として諜報活動に注力、枢軸国寄りであったスペインにおいて活動し、戦後はA級戦犯容疑者とされたが不起訴となり、自民党国会議員として活動した人物である。
当美術館のホームページでは所蔵作品が見やすく、かつ詳しく紹介されている。こちらから
(画像はクリックで拡大します)
   
長崎県美術館正面  エントランスロビーの様子  同左
   
2階からエントランスロビーを望む  橋の回廊の様子
(展示室受付を望む)
  同左
(ギャラリー棟方向を望む)
   
カフェ  ギャラリー棟の回廊(光の回廊)  運河前から橋の回廊を望む
立山防空壕
 立山防空壕は、長崎歴史文化博物館北側に隣接する旧長崎県防空本部の防空壕である。
防空本部は太平洋戦争下における県の防空施策の中心的組織であり、空襲警報が発令されると、県知事ら要員が集まり、警備や救援・救護等各種応急対応の指揮、連絡手配に当っていた。
壕内には知事室や警察部長室など防空本部の諸機能の他、防空監視隊本部も配置され、両者は連絡通路(非公開)で繋がっていた。
  1945年8月9日の原爆投下時、当地は爆心地から約2.7km離れているため、爆心地の状況がすぐには把握できず、初めは被害軽微としていたという。その後、爆心地浦上地区の詳細な情報が入ってくるにつれて、甚大な被害状況を国の防空総本部長官などへ発信し続けるとともに、市外各地に救援救護の手配を指令し、県外にも応援を求めた。
防空監視隊は、敵機を早期発見して各機関に通報するのがその任務で、事実上警視庁や府県警察部の指揮監督下にあった。
歴史文化博物館のオープンにあわせ周辺を公園化するとともに、壕内を整備し、長崎原爆資料館の関連施設として2005年から一般公開されている。なお、本数は少ないが、長崎県営バスが歴文博物館〜長崎美術館〜JR長崎駅の間を運行しているので、これを使えば大変便利である。
 それにしても立派な壕である。当時の永野若松知事と同年代同じ内務官僚の島田叡沖縄県知事が、米軍の猛攻に追い詰められ、地元住民や敗残兵と化した日本兵とともに最後の県庁として籠っていた、あの「轟の壕」内の言語に絶する様相を想起し、天と地の違いとは、こういうことを言うのであろう、と思ってしまう。
原爆投下時、島田知事は既にこの世の人ではなかった。島田知事と「轟の壕」に関しては、こちらを参照。
(画像はクリックで拡大します)
   
立山防空壕跡全景
右:防空壕入口、中:同出口
左:防空監視隊入口
  入口  防空壕入口から内部を望む
   
各部屋に面した通路  長官室(知事室)  参謀長(県警察部長)室、奥は参謀室
   
通信室、奥が伝令室 : 防空監視隊入口  防空監視隊室
歴史文化博物館イベント広場
 立山防空壕から県立図書館の前を通って日銀長崎支店側から長崎歴史文化博物館へ入るとイベント広場と称する広場になっている。入って右手奥に「山のサンタマリア教会跡」等の石碑がある。
山のサンタマリア教会は、1600年前後に建てられたが、1614(慶長19)年に破壊され、跡地に幕府大目付・井上筑後守政重の屋敷が建てられ、1673年には長崎奉行所・立山役所が設置されたため、遺構は残っていないが、花十字紋瓦を含む瓦類、陶磁器、メダイ、ロザリオとみられるガラス玉などが出土している。
中央の碑は「明治天皇皇臨皇之址」である。 1872(明治5)年6月に西郷隆盛が随行して来崎、この地に置かれていた県庁を訪れたほか、小菅集船場も視察した。右は、「長中健児ここに在り」の碑である。長中とは、旧制長崎中学で、現在の県立長崎西及び東両高校の前身である。幕末、英語通詞養成のために長崎に設置された英語伝習所が、官立を経て旧制長崎中学として再出発したという歴史を持つ伝統校である。左下の黒い石碑に「英語伝習所址」とあるので、この地が発祥の地と思われる。
(画像はクリックで拡大します)
   
長崎歴史文化博物館イベント広場 : イベント広場の記念碑  長崎奉行所跡から出土した
稲荷社の石灯篭(長中健児碑の前)

2 大浦天主堂、南山手

祈念坂
 大浦天主堂へ行く前に祈念坂を歩くこととした。祈念坂は、グラバー通りの天主堂下、カステラの和泉屋の脇を左へ入り、大諏訪神社と天主堂の間を上る、観光客はまず行かない狭い坂道である。ただ、坂を往復し天主堂下まで戻るとなると、坂の上りはきついことに加え時間も要する。今回は石橋電停先から斜行エレベーターを使って大浦展望公園まで上り、祈念坂上から天主堂裏と長崎港などを展望し、天主堂下まで下るというルートにした。
(画像はクリックで拡大します)
   
斜行エレベーター搭乗入口 : 斜行エレベーターのシャフト内部  南山手レストハウス
(大浦展望公園上)
大浦展望公園から東山手方面を望む(赤い屋根の建物は活水女子大) (クリックで拡大)
祈念坂上(大浦天主堂裏)からの展望、右端ガスホルダーの右上が西坂(クリックで拡大)

   
祈念坂上 : 祈念坂上から見た祈念坂  大浦天主堂のレンガ塀
 
祈念坂下の"祈りの三角ゾーン"
(大浦天主堂、大諏訪神社、
妙行寺が接するポイント)
 : 大浦天主堂下
(正面和泉屋、右大浦天主堂
手前グラバー通り)
大浦天主堂とキリシタン博物館
 大浦天主堂に関しては、一昨年やや詳しく記述した(こちらを参照)。
2017年度下期に全面的な外装美化工事を行い、3月末には完工する予定のところ、強い風雨で足場が崩れるなどのハプニングがあり、未だ工事中であったが、正面の大部分は真っ白に化粧直しをされていた。そのため、中央の日本之聖母像の汚れが目立つ結果になってしまった。"白亜のマリア像"が復活することが期待される。
この工事は、文化庁が、重要な文化財の観光資源と しての魅力を増大させるべく同年度にl制度化した、「美しい日本探訪のための文化財建造物魅力向上促進事業(美装化事業)」による補助金(補助率50%)を得て実行したものである。2018年の世界遺産登録を見込んだタイミングということであろう。
外装美化前(右)と後(左)の天主堂正面
(画像はクリックで拡大します)
   
右旧長崎大司教館
その奥旧羅典神学校
 : 旧長崎大司教館側面  日本之聖母像
 また、この4月、敷地内の旧羅典神学校(国重要文化財)と、旧長崎大司教館(県有形文化財)の2棟をリフォームし、「大浦天主堂キリシタン博物館」を開設した。順路としては、天主堂の横から旧神学校を経て旧大司教館へ入るようになっている(開館して間がないためか、見学客誘導のサイン等が分かり難い)。
旧神学校では、禁教期から信仰復活に至るまでの大浦天主堂を中心とした出来事を紹介しており、浦上の潜伏キリシタンが信仰を告白したプチジャン神父ゆかりのロザリオや、旧神学校の設計に当たったド・ロ神父の十字架とロザリオなどが展示されている。
一方、旧大司教館の展示内容は、日本のキリスト教史を辿るものとなっており、キリシタン大名高山右近の書状や、1622年の「元和の大殉教」で殉教した信徒55人を描いた絵画などが゜展示されている。
このうち、「禁教と弾圧」の部分では「浦上四番崩れ」の流配配先の一つ、津和野藩における「三尺牢」や五島久賀島における「牢屋の窄」が解説されているが、意味の分からない映像と、きれいな解説パネルでは、残酷・凄惨なこれらの拷問の実感を伝えることは難しいのではないかと思った。
 当博物館の意味合いは、世界遺産登録により、今後増加すると予想される観光客の理解に資するためのセンターとして、 これまでなかった長崎を中心とする我が国のキリスト教に関して体系的に展示・解説した場所を用意したということであろう。
(旧羅典神学校)
(画像はクリックで拡大します)
   
旧羅典神学校 : キリシタン博物館入口  キリシタン博物館ウェルカムゾーン
   
ウェルカムゾーンから奥を望む : 26聖人殉教図  転び証文
   
真鍮踏絵(左)と板踏絵(右)
(板踏絵は没収したメダイを 嵌め込
んである)
 : プチジャン神父のルルド参詣記念
ロザリオ
(伊王島の伝導婦に与えたもの)
  ド・ロ神父のロザリオ
(旧長崎大司教館)
   
大司教館展示室入口 : 大司教館テラス  高山右近の書状(複製)
(国外追放前長崎で書いたもの)
   
和服の聖母子像
(最近描かれた絵とのこと)
 : 元和の大殉教  ミュージアムショップ
 キリシタン博物館開館に伴い、大浦天主堂の拝観料金は大人のみではあるが、600円から1,000円に値上げされた。2015年7月に300円から600円に値上げされたばかりなので、急な値上げテンポに驚かされた。前回の値上げは、世界遺産登録を前提に登録教会の維持・保全に多大の費用を要するため、とのことだったと記憶するが、今回は、博物館を独立した施設として考え、その見学料金を加えた、とのことのようだ。そうだとすれば、天主堂拝観と博物館見学を切り離し、天主堂のみ600円、博物館込みで1,000円、という二本立ての料金体系にした方が良いのではないか。実際問題として、天主堂見学が主目的の人が多いだろうし、そのような人たちにとっては、前回の値上げから3年もたたないのに、料金が3倍以上になる、というのは釈然としないのではなかろうか。観光でリピートする人は殆どいない、ということかもしれないが。
マリア園
 天主堂に向かってグラバー通りを右へ徒歩10分弱のドンドン坂上の手前に、児童養護施設マリア園がある。親のない孤児の多さに心を痛めたプチジャン司教の要請でフランスの「幼きイエズス修道会」から4名のシスターが来日、1881(明治14)年に長崎において子ども養育院(センタンファス)がつくられた。その後、1898(明治31)年に修道院(現在の建物)が建設されたのを機に、養育院はここへ移転した。
この建物は、フランス人宣教師の設計によるロマネスク様式の煉瓦造り(北フランス風)3階建てで、3階は屋根裏を利用した木造になっており、アーチ型の白い鎧戸の窓が並ぶ。内部の礼拝堂の評価も高いという。国の重要伝統的建造物保存地区の建造物。
 戦後は、「マリア園」という修道院直系の社会福祉法人児童養護施設として運営してきたが、2007年以降民間の社会福祉法人が運営に当たっている(現在は(福)南山手会)。児童数は、以前の半分程度ながら、小学校から高校まで40名程度という。聖堂では、月1回長崎司教区の司祭による児童向けのミサが行われているという。

なお、マリア園へ向かう途中グラバー通り沿いに、東山手から移築された初代米領事館職員宿舎十六番館がある(1860年築)。遠藤周作は、ここで踏絵を見たことが、「沈黙」執筆の動機となったと書いている。個人所有で、当時は資料館として公開していたようだが、現在は閉館しているとのこと。
(画像はクリックで拡大します)
   
グラバー通りを天主堂下から
マリア園へ向かう(左グラバー園)
 : 同左途中の十六番館  十六番館から先のグラバー通り
   
マリア園正門 : 正門門柱のプレート  正面から見た全景
   
玄関上の大天使ミカエル像 : 3階部分
(外からはこの程度しか見えない)
  ドンドン坂上から見た全景
マリア園聖堂
 実は、2017年にこの建築物を森トラストが買収し、富裕層向けの高級ホテルにする旨発表された(同社のプレスリリースは、こちら)。重要伝統的建造物は、指定文化財と違い、外観を維持できれば良いので、外壁や骨格構造を残して、内部は大改造されるのであろう。聖堂は破壊されるのであろうか、長崎の高級ホテルの一角に、収益性はないが文化財的な価値のある聖堂が保存されている、ということになれば、経営者の見識として評価されるのではないか。ただ、ダイニングかパーティー・ルームに改造される可能性が高いような気がする。
いずれにせよ、耐震対策等多大の費用が見込まれることから、修道会としても維持し得なくなったのであろうし、長崎市への寄付といった話もあったようだが、世界遺産の維持費用に頭を悩ましている現状で、引き受けることはできず、民間への売却となったようである。
今のところ、内部の見学も聖堂に限って可能であるが、いずれ見学は出来なくなるはずなので、今回の計画に盛り込んだ。(追記:売却に伴い、マリア園は2019年4月、規模縮小の上、南山手町町内へ移転した。)
ドンドン坂
 マリア園南側の坂道が、坂の多い長崎でも著名な坂道の一つ通称・ドンドン坂である。雨が降るとドンドン音をたてて流れることからこの名がある。長さ116.9m(資料によっては110m)、側溝を含む幅2.5m、平均傾斜14°程度の狭い急な石畳の坂道であり、一部に居留地時代の雰囲気が残っている。水流の速さを調節するために排水溝の溝の形が上と下とで違う(U字溝→V字溝→矩形)。V字溝(三角溝)は、居留地の外国人が考案したらしく、オランダ溝と呼ばれている。
坂の上からは長崎港と世界遺産造船所の巨大クレーンが見える。

(画像はクリックで拡大します)
   
ドンドン坂上
(右グラバー通り天主堂方向)
 : 坂上から見たドンドン坂  ドンドン坂の様子
 
ドンドン坂の様子 : 同左
   
U字溝 : V 字溝  矩形の溝

3 出島とその周辺

@ 旧県庁と周辺の歴史
 明治以降、出島北側の長崎奉行所跡(現在の江戸町)に長崎県庁が、その更に北(万才町)に、裁判所、検察庁、県警本部、法務局などが置かれ、官庁街をなしていた。そのうち、県庁と県警本部は、2018年1月JR長崎駅南に隣接する新庁舎に移転した。

・県庁のあった場所は、1571年の長崎開港当時は海に突き出した岬であり、ここに波止場が作られた。現在の「大波止」交差点角の文明堂総本店前から旧県庁方向へ少し上ると「南蛮船来航波止場跡」の石碑が建てられている。この辺が船着き場だったのであろう。そして、この近くに小聖堂(サン・パウロ教会=岬の教会)が建てられた。この聖堂は、その後何度か建替えられ、1601年に、長崎最大の教会、「被昇天のサンタ・マリア教会(岬のサンタ・マリア教会)」が建立された。岬の一番高い場所すなわち旧県庁の場所に聳えていたのであろう。
 この間、1,580(天正8)年には、大村純忠が長崎をイエズス会に知行地として寄進したことから、イエズス会領となり、神社・仏閣は全て焼き払われ、この地域にはイエズス会本部、司教館、コレジオ、ミゼリコルディア(注)など、その中心的機能が置かれた。
     (注)ポルトガル商人が、その入植地でつくった貧しい人や病人を救う慈善団体。日本では、ルイス・デ・アルメイダが、
     府内(大分)で初めて発足させた。全て日本人信徒の奉仕で、病院、救貧院などが運営されていた。

大村純忠は、長崎をイエズス会に寄進することにより、佐賀の龍造寺と組んだ周辺勢力の攻撃により長崎が奪われるのを阻止しつつ、交易の利益は確保することを企図したのであろうが、国民国家や国家主権という観念がない時代だとしても、奇策である。
・一方、イエズス会の行動は、他におけると同様の植民地主義的対応に他ならなかったと言わざるを得ない。日本は、独自の高度の文化を発展させているという日本理解をし、それ故に遣欧少年使節派遣を実現したイタリア人の巡察使ヴァリニァーノなどを別として、日本宣教の主体がスペイン・ポルトガル系の宣教師であったことによるとみられる。その典型が、ポルトガル軍人からイエズス会神父に転じたフランシスコ・カブラルであろう。カブラルは、1570年に来日して日本布教の責任者になり、1581年にヴァリニアーノに解任されるまでその任にあった。カブラルは、当時の植民地主義に共通したヨーロッパ中心主義者で、日本人を蔑視する姿勢を保持し続けた。これに対し、ヴァリニャーノは日本のキリスト教徒、キリシタン武将に会った結果、日本における布教の問題点が実はカブラルにあるとの結論に達し、カブラルを解任し、後任に日本文化を尊重し、日本適応主義をとるイタリア人神父トーレスを据えたのである。しかしながら、スペイン・ポルトガル系の植民地主義的な姿勢には、根強いものがあったのであろう。それに輪をかけたのが、後から日本で布教を始めたフランシスコ会である。
 イエズス会領となった長崎の実情に驚いた秀吉は1587(天正15)年、伴天連追放令を発出し、翌年には長崎を直轄領とした。それに伴い、イエズス会関係の施設がすべて破壊された。
なお、追放令から10年後、京都で捕縛したキリシタンの片耳を削ぎ、長崎まで連行したうえ磔刑に処した、「長崎26聖人の殉教」も、フランシスコ会士の行動に怒った(司馬遼太郎「街道をゆく 肥前の諸街道」によれば「狂犬のように」)秀吉が命令したものである。
・徳川時代になると、慶長の禁教令(1612直轄領、翌年全国)後1619年までに、教会や関連施設がすべて破壊された。ミゼリ・コルディアのような、当時としては「破天荒な」(司馬遼太郎前掲書)、日本人の社会奉仕の活動とその観念や、アルメイダの持ち込んだ南蛮流外科など広がることなく、消えてしまったわけである。
また徳川幕府は、寺院をその統治機構の末端に組み込むことにより、宗教支配、信仰支配の鉄壁の仕組み、換言すれば政治による宗教の完全支配を完成させるが(キリシタン対策としての寺請制度が発足)、この間長崎は甚だ血生臭いキリシタンの弾圧あるいは抹殺、信徒側からは殉教の時代の中心地となっていった。

A 出 島
 1636年に完成した出島は、海に囲まれた人工島であったが、明治以降周辺の埋め立てにより島ではなくなった。この間、1922(大正11)年に出島は「和蘭商館跡」として国の史跡に指定された。
長崎市では、1951年から出島の復元に着手し、2016年までに16棟の建物を復元し、19世紀頃の町並みが甦ったとしている。
また、出島への出入りのために、対岸(現在の江戸町通り)との間に、当初4.5m程の木製の、1678年以降石の橋が架けられていたが、1888〜89年ごろに撤去されていた。2017年11月に出島表門橋として鋼鉄製の橋が約130年ぶりに開通した。中島川の川幅が、広くなり、橋の長さは38.5mとなった。
 さて、現地における案内標識を見ると、出島東側の明治時代の建物などがある部分を「明治の出島交流ゾーン」、復元された中央から西の部分を「復元ゾーン」と呼んでいる。
前者が「史跡としての出島」の部分であり、国の史跡指定はこの部分であったに違いない。一方、復元ゾーンは建物が復元され、街並みとして出来あがったが、甚だ綺麗に整備されており、幕末の雰囲気からは遠いのではないかと感じられる。むしろ現代風出島テーマパークの感がある。

 現在の出島には、出島電停側の「水門」すなわち出島の桟橋があった「西側・水門ゲート」と、電停築町、あるいはバスターミナル側の「東側・明治ゲート」の二カ所に加え、昨年竣工した表門橋の「中央・表門メインゲート」の三カ所の出入口がある。
今回は、東ゲートから入り、史跡中心に見学した。以下、主な歴史的建造物・遺構を中心に見ていこう。

(明治の出島交流ゾーンを中心とする遺構など)

旧出島神学校、旧内外倶楽部、石倉
 現在の出島における建築物で、明治期から残っているのは、旧出島神学校と旧内外倶楽部だけである。
旧出島神学校は、現存する日本最古のプロテスタント神学校の建物で、出島で最も古い建物である。この地には、1875(明治8)年に聖公会の教会が建設され、教会に隣接して1878(明治11)年に出島神学校が建設された。教会は、1889年に取り壊され、翌年当時の大村町へ移転し、神学校は1893年に増築されて現在の形になった。因みに、当時の大村町とは、県庁のあった江戸町やその北の万才町一帯を指していた。長崎開港に伴って大村から商人達が当地へ移って来たため、故郷の名で呼ぶようになったようだ。
東側の出島入口として、1階に券売所が置かれている。
旧内外倶楽部は、1903(明治36)年にF.リンガーによって建てられた英国式明治洋風建築である。ここに、グラバーの息子倉場富三郎らの発起によって1899(明治32)年設立された長崎在留の外国人と日本人の社交の場である旧内外クラブが置かれていた。長崎市が1968年に買い上げ、2000年4月9よりレストラン、居留地時代の展示室などとして利用されている。
旧石倉は、開国後建てられた石造りの倉庫で、当時はこの一帯に倉庫が立ち並んでいたという。1956年に西側半分を古写真などにより復元した。大浦天主堂やオルト邸、リンガー邸などを請け負った小山秀之進という棟梁が施工に当たった。「考古館」として、出島から出土した陶器などを展示している。
表門西側の復元ゾーンにある「総合案内所・出島シアター」は、1867年に建てられた石倉を1967年に復元した新石倉である。
(画像はクリックで拡大します)
   
旧出島神学校全景 : 同左
(1階に料金所の看板が見える)
  旧出島神学校西側部分
   
鐘楼 : 出島教会と神学校の碑  旧内外倶楽部
   
旧石倉(考古館) : 同左内部の様子  総合案内所・出島シアター(新石倉)
護岸と桟橋
・出島の海側(南側)の護岸については、これまでの数次に亘る発掘調査で石積みの遺構が発見された。安山岩系の自然石や割石を用い布積みという工法で構築されていたという。
電車通り側のほぼ全域にわたり、南護岸石垣が復元されている。東ゲートの左側には、その東の端の部分について説明板があった。
水門は、出島の西端に位置する門で、桟橋からオランダ船に係る荷物の搬出入に際して通らなければならなかった門で、搬入用と搬出用の二つに分けられていた。重要な施設として、幕府が建設したもので、貿易のないときには閉ざされていた。
現在の水門は、2006年に復元されたもので、出島の西ゲートになっている。桟橋は、当然ながらより低い場所にあったので、現在は地下に埋もれているが、その部分を示すため、前面の国道(電車通り)の当該部分の色を変えて示している。説明板もないので分かりづらいが。
(画像はクリックで拡大します)
   
南護岸石垣東端の部分 : 水門  出島電停前国道の舗装の色を変えた
桟橋部分(オレンジの線で囲まれた部分)
 
南護岸石垣東端の説明板 : 水門の説明図
ミニ出島と周辺
 「明治の出島交流ゾーン」の中島川に面する部分には、ミニ出島やシーボルト里帰り植物などシーボルト関連の展示スペースになっている。
ここのスペースの入口には、復元でない二つの門の遺構がある。ミニ出島の入口の、オランダ石門は、1641年に平戸から当地へ移ってきたオランダ商館の門で、オランダ大使館から寄贈された。史跡「和蘭商館跡」を示す重要な遺構である。また、旧内外倶楽部前の陶製の門柱は、出島居留地の店舗のもので、オランダマーストリヒトで製造された本物である。1954年に長崎市博物館から移管された。
ミニ出島は、シーボルトのお抱え絵師として知られる川原慶賀が描いたとされる「長崎出島の図」を参考に、1820年頃の出島を1976年に15分の1の模型として再現したもの。復元事業が本格化する前に、出島の全貌を示そうとしたものであろう。結構よくできているが、風雨などによる劣化に対応して、近年は長崎工業高校建築科の生徒が改修に取り組んでいる。
(画像はクリックで拡大します)
   
オランダ石門 : 陶製の門柱  ミニ出島
 その他の遺構としては、居留地時代の地番境石が計7カ所残されている。また、ドンドン坂で見られたオランダ溝がここでも使われていた。
シーボルト関連としては、「ケンペル・ツュンベリー記念碑」がある。シーボルトは、1823年にオランダ商館医として来日したが、それに先立って来日した商館医E.Kaempfer(ケンペル、ドイツ人1690年来日)及びC.P.Thumberg(ツュンベリ、スウェーデン人、1775年来日)の業績を顕彰する記念碑を1826年に建立したものである。200年近く経ち碑文は判読し難いが、解説板に紹介されている。この3人は、「出島の三学者」と呼ばれている。
   
地番境石の例 : オランダ溝  ケンペル・ツュンベリー記念碑
(碑文の解説は下記)

(復元ゾーン)
 出島の復元は1951年から始まったとされているが、原爆投下という未曽有の戦禍からの長崎復興という重い課題を抱える中で、優先的な課題とは到底なり得なかったはずである。
出島はそもそも民有地であったため、その公有化から着手することとなったが、本格的な整備事業が立案されたのは、リゾートブームで各地にテーパパークが続々と開園した1990年代で、史跡「出島和蘭商館跡」復元整備計画の策定は、1996(平成8)年である。1992年にハウステンボスが開業し、300万人を超える入園者をみたわけで、その一部を長崎へ誘致すべく、出島をその目玉として考えたであろうことは容易に想像される。
 復元は、出島電停側の東入口から始められ第1期が2000年、2期が2006年、そして2016年に第3期が完成した(ただし、表門は1990年に復元済)。そして、2017年の出島表門橋開通をもって"出島リニューアルオープン"に至ったわけである。表門橋をみれば、到底往時の石橋の表門橋"復元"とは言い難く、リニューアルが正しい表現であろう。冒頭で、現代風出島テーマパークと評した所以である。なお、和蘭商館跡での5棟の建物の復元が残っているが、具体化は未だのようだ。
また、超長期的には、陸続きになった出島の周囲に水路を作り、完全な島として復元する計画になっている。
(画像はクリックで拡大します)
   
復元ゾーンのメインストリートの様子
(西ゲート=水門を望む)
 : 復元ゾーンのメインストリートの様子
(水門前から東ゲート方向を望む)
  復元建物の例「組頭部屋」
(第3期復元事業、2006年完成)
 
内側から見た表門(1990年復元) : 表門橋(2017年完成)
(橋の向こう江戸町通りの奥の
建物は旧県庁庁舎)

4 寺 町

 寺町は、長崎中心部東の風頭山麓の南北に細長い地域で、繁華街に近接しているものの、観光客が余り来ない静かな場所である。
 長崎市の案内図によると、寺町通りに沿って、14の仏教寺院が掲載されている。そして、寺院を宗派別にみると、浄土宗および浄土真宗が各3、真言宗、曹洞宗、黄檗宗が各2、臨済宗、日蓮宗が各1となっている。
また、その創建年は、寺町通りほぼ中央の曹洞宗皓台寺(1608年=慶長13年)を別にすると、他は全て、キリシタン禁教令の出された1612〜1613(慶長17〜18)年以降の創建である。
詳しく見ると、徳川家康将軍の最末期の1614(慶長19)年の大光寺のほかは、2代将軍秀忠の元和年間(1615〜24)と、3代家光の寛永年間(1624〜45)に集中している。
 禁教令発令後のこの時期には、西坂における元和の大殉教をはじめ、江戸、京都、平戸、東北など、各地で苛烈なキリシタン弾圧が行われる一方、、寺院創建を幅広く許可し、寺請制度が固められていった。

 長崎には、他地域では馴染みの薄い黄檗宗の寺院が多く、興福寺・崇福寺・福済寺の三寺院を特に長崎三福寺と呼んでいるが、これらの寺院は寺請制度の実施に伴う長崎在留華僑のための"唐寺"として創建され、隠元来日(1654年)の後、黄檗宗へ移行したものである。なお、長崎駅近くの福済寺は、原爆により壊滅したものの、寺町にある他の二寺は難を逃れることができた。また、一昨年訪れた、長崎歴史文化博物館近くの聖福寺(1667年創建)を含め四福寺と呼ぶこともある。
今回は、雨天で予定が窮屈となったため、正覚寺下電停(注)近くの崇福寺と、楠本イネの墓のある晧臺寺を訪れた。
    (注)正覚寺下電停は、2018年8月より「崇福寺」と改称された。

崇福寺
 1629(寛永6)年、 福建省出身の長崎在住唐人(貿易を業としていた)が、福州の僧超然を開基として創建した、中国様式としては我が国最古の寺院である(山号聖寿山)。福建省の出身者が門信徒に多いため福州寺や支那寺と称せられた。
1655年には興福寺住職の隠元が説法し、その高弟が住職に就いた。
当寺院の第一峰門(1644年築、現在の門は中国より運び1695築)および大雄宝殿(中国から運び1646築)は国宝に、三門(1673築、現在の門は1849築)、護法堂(1731年再建)、当時の船主らが海上安全を祈願して建てた媽祖堂など5件が国指定重要文化財に指定されている。 因みに、長崎県内の国宝は、当寺院の2件および大浦天主堂の3件のみである。
(画像はクリックで拡大します)
   
国指定重文三門(楼門、竜宮門)
扁額「聖壽山」は隠元書
 : 同左内側  三門先からの石段
   
国宝第一峰門(赤門)
扁額「第一峰」は即非書
 : 同左内側  第一峰門上部
軒下扁額周囲の複雑な詰組は
内外に例のないもの
   
国指定重文護法堂 : 同左中央の観音堂  国宝大雄宝殿(本堂)
   
大雄宝殿上層(和様1681年頃付加) : 大雄宝殿下層(黄檗様)  本尊釈迦如
   
国指定重文媽祖門(1827年再建)
(門は他の唐寺にはない。大雄宝殿
と方丈を結ぶ渡り廊下)
 : 県指定史跡媽姐堂
(海上守護神を祀ったお堂
長崎の唐寺だけに見られる)
  同左内部
(右順風耳、左千里眼の立像がある)
   
国指定重文鐘鼓楼(鐘楼と鼓楼)
(1647年頃創建1827年再建)
 : 梵鐘
(1647年鍛冶屋町の鋳物師の作)
  大釜(天和年間の飢饉の際に鋳造)
(4.2斗粥3千人分を炊く、重さ1.2トン)

晧臺寺と楠本イネの墓
 風頭山へ上る2本のヘイフリ坂(幣振り坂)の間にある曹洞宗の寺院。1608(慶長13)年に、風頭山麓に創建され、1626(寛永3)年に現在地に移った。
当寺院は、1633(寛永10)年中浦ジュリアンらとともに穴吊りという惨刑に処され棄教した、イエズス会日本管区長代理クリストヴァン・フェレイラが、沢野忠庵と名を変えて住んでいた寺で、フェレイラの菩提寺とされている。墓はないようだ。遠藤周作「沈黙」では、フェレイラは寺町にある寺に住んでいた、と書かれており、晧臺寺の名前は出てこない。
(画像はクリックで拡大します)
   
ヘイフリ坂沿いの晧臺寺碑 : 晧臺寺総門(勅額門)
(付属幼稚園園児を待つお母さん達)
  山門(仁王門)
 
本殿(万徳寺) : 大仏殿(華厳閣)
 当山の裏山の墓地には、シーボルトの娘楠本イネ(のち伊篤いとく1827〜1903)、 その母である楠本滝の墓がある。隣接の大音寺との間のヘイフリ坂の階段をかなり上った先にあるが、坂に慣れた地元の人でも「あそこへ行くのは大変」と言う場所であり、覚悟して上る必要がある。階段の途中で「↑楠本イネの墓」というプレートが出てくるので、近くへ来たかと期待していると、再びプレートが出てくる、ということを何回も繰り返して漸く「シーボルトゆかりの人たちの顕彰碑」(1998年建立)に到着する。
(画像はクリックで拡大します)
   
ヘイフリ坂入口
(左端寺町通りから入るところ)
 : ヘイフリ坂上り始めはなだらかだが  階段から急角度になる
 楠本家の墓はそこから更に上がった所にある。墓所には楠本滝などを祀る墓石群の置かれた一角とは離れた場所に比較的新しい「楠本家の墓」があり、イネはそちらに葬られている。また、シーボルトが帰国する際(当時イネ2才半)、イネの養育を頼まれ、イネが師と仰ぐ宇和島出身の医師二宮敬作の墓もここにある。二宮は晧臺寺隣の大音寺に葬られたが、イネによりここへ分骨されたようだ。
 また、たまたま居合わせた地元の人から教えて頂いた墓がある。小さな子供を祀った墓について、裏の「山脇一 生後8か月 明治15年2月」とあるのを示し、イネの孫の墓だとのこと。
イネは産科の師石井宗謙に不本意にも犯されて生まれた娘高子がいる。 類稀な美貌の持ち主だったとされる高子(1852〜1038)もイネと同様数奇な人生をおくるのであるが、医師山脇泰助との長女が8か月で亡くなっているのは確かなようだ。
すなわち、高子が71才になって長崎の郷土史家古賀十二郎に語ったとされる「山脇タカ子談」(大正12年11月)(注)によると、山脇との間に子供を3人もうけ、長女初は明治14年7月、8か月で亡くなっている、とされている。名前と、亡くなった年月は、おそらく「タカ子談」の方が信憑性は高いのではないか。墓の裏書は、かなり明瞭で新しいように見えるし、後日これを彫った時の記憶違いか何かではないか。
    (注)吉村昭「歴史の影絵」(2003、文春文庫)による。
なお、この墓の表の中央には、「蘆雪童女」とあるが、この戒名は、滝の姉でやはり遊女になっていた常とオランダ人の子供タマのものである。タマは1836(天保6)年に8才でなくなっている。タマの亡くなったとき、常は既に亡くなっており、滝が引き取って1才年上のイネと一緒に暮らしていた(吉村昭「ふぉん・しいほるとの娘」(1978)による)。そして、右の「春夢孫女」が高子の娘、イネの孫「初」ではないかと考えられる。イネとタマは当然仲が良かったはずであることから、その46年後イネは僅か8か月で亡くなったその孫をここへ葬った、そして戒名に孫という字を入れているところにイネの思いが示されていると思われるのである。
(画像はクリックで拡大します)
   
シーボルトゆかりの人たちの顕彰碑
(平成10年7月吉日)
 : 楠本家の墓
(側面に楠本イネ名がある)
  同左(中央の墓石の左端に滝、
中央に滝の姉常、左端墓石は
滝の父母と9才で亡くなった滝長男)
 
二宮敬作の墓 : 滝の姉常の子タマ、滝の孫の墓
(注)楠本滝、イネ、そして高子をめぐる史実については、不明な点が多い。
一般に流布されている事柄のソースとして有力なのは、吉村昭「ふぉん・しいほるとの娘」(1978)ではなかろうか。そのほか、司馬遼太郎「花神」とそれを基にしたNHKの大河ドラマなどでもイネが重要な登場人物として描かれている。不明な点が多いほど、小説家は創作意欲を縦横に発揮できるわけでもあろうが、いうまでもなく小説やドラマは「歴史」書ではない。にも拘らず、歴史上の人物や事件の認識形成に際しては、あたかも史実であるかの如き大きな影響を与えてしまうのが通例であろう。そのような中、最近上梓された宇神幸男「幕末の女医 楠本イネ シーボルトの娘と家族の肖像」(2018年3月 現代書館)は、おそらく初めての本格評伝である。この著者の丁寧な歴史考証により、これまでの著名な小説家の記述や通説化した事実に虚構とされるものが少なくないことが明らかになっている。
それにしても、高子のことは良く分からない。高子は、片桐重明という医師に強姦され、男子を生んだとしており、吉村もその話を受け入れているが、数々の状況証拠から宇神は、それは虚偽の告白であると断定している。そうなると、「山脇タカ子談」はどこまで信用できるのか、何のためのものか、ということにもなるが、滝、イネ、高子と三代に亘る家族には、現代の我々では測り知れない世界があるのだろうとしか言えまい。

▲「長崎市街」のトップへ



 キリシタン関連史跡

世界遺産登録再考
 冒頭で触れたように、当初世界遺産登録を目指した「教会群」における構成資産は、いわゆる信徒発見の場と禁教令廃止以降に建立された教会堂が相当部分を占めていたが、なぜそれが世界遺産になるのかは、世界を驚かせた信徒発見により明らかになった、250年に亘る潜伏しての信仰の事実との関連付けがなければ説明がむつかしいと感じていた。やはりと言うべきか、ICOMOSもその点を問題視し、再申請の已むなきに至ったわけである。
 そこで、今回は具体的な資産の内容は然程変わっていないが、禁教下において潜伏して信仰を守った「集落」に焦点を当てることにより、潜伏と関連付けるというストーリーに変えたものである。ただ、「集落」に着目して潜伏期の信仰の実態を語るのであれば、何故「浦上村」が外れたのか、理解に苦しむのは、私ばかりではないと思う。当初から浦上天主堂は1954年の建設で、新しいので「遺産」にはならない、という理屈だったようだ。しかしながら、信徒発見の主役はプチジャン神父を訪れた浦上信徒である。加えて、浦上四番崩れという未曽有の弾圧が各国に知られ、その批判が条約改正の障害となってキリシタン禁制の高札が廃止されたという歴史の流れを知るならば、浦上集落を除外することはあり得ないし、復元された天主堂そのものは難しいとしても、「天主堂跡」のような形の登録はあり得るのではないか。ただ、現在の浦上信徒が、世界遺産に登録され、観光客で混雑することを歓迎するかどうかは分からない。
また、密かな祈りの場であった「枯松神社」(次項参照)、「7代の間耐えれば、再びパードレ(司祭)がやってくる」との予言を残した伝道師バスチャンの隠れ家「バスチャン屋敷」などの方がよりストレートに潜伏と結びつくし、禁教により破壊された教会の遺構である「サント・ドミンゴ教会跡」も相応しいのではないかと思うのである。
やはり、この世界遺産登録の筋書きはどこかおかしいのである。

(旧長崎市内)

春徳寺
 新中川町電停の北、シーボルトで知られる鳴滝の西にある、臨済宗建仁寺派の寺院。1630(寛永7)年、現在の立山町に建立された大梅山春徳寺が、1651(慶安4)年この地に、山号を華嶽山と改め、移転したものである。
ここは、長崎開港前年の1569年、ガスパル・ヴィレイラが長崎最初の教会トードス・オス・サントス(諸聖人)教会を建てた場所である。元来は長崎甚左衛門がルイス・デ・アルメイダに与えた土地であった。そこにその後、セミナリオ(小神学校)、コレジョ(大神学校)、金属活版印刷所、修練院が設置されたが、幕府の禁教令により閉鎖され、1619(元和5)年に取り壊された。
 春徳寺境内には、キリシタン時代の井戸が残っており、1966年県史跡に指定された。
長崎市の観光サイトではこの井戸を「外道井」と呼んでいる。現地の石柱には「外道井」とあるからだろうが、キリシタンを外道とする260年に及ぶ禁教政策が浸透し、今なおこの呼び名使われているのだろうか。しかし、公的機関のサイトにこのような表現が使われるのはいかがなものか。寺院が掲げた看板は、「切支丹井戸」となっている。 井戸の横には、教会跡から発掘された大理石の板の上に、マリア像と仏像が並んでいる。大理石の板は、祭壇の一部ではないかと言われてる。
なお、当寺院背後の「城の古址」一帯は、長崎甚左衛門の居城跡とされている。
(画像はクリックで拡大します)
   
華嶽山春徳寺の碑 : 春徳寺山門  トードス・オス・サントス教会、
コレジヨセミナリヨ跡の碑
   
春徳寺本堂 : 庭園入口  切利支丹井戸
   
井戸内部 : 井戸脇のマリア像と仏像  鐘楼(梵鐘は1650年製)
 アルメイダ(1525?〜1583)は、医師の資格を持つポルトガルの商人で、1552年に来日し、多くの富を得る一方、豊後府内(大分)において、わが国西洋医学の嚆矢となる内科、外科、ハンセン氏病科を有する総合病院を建設した(1557年)。また、ミゼルコルディアも発足させた。
アルメイダの名声は、府内にとどまらず、医療活動は九州全域、さらに五島にまで及んだ。とりわけ外科("南蛮外科")に優れていたという。
 修道士としても、各地で宣教活動を行い、長崎においては、ヴィレラに先立つ1567(永禄10)年から翌年にかけて布教を行った。春徳寺を囲む外壁の一角に、その記念碑がある。
1580年にマカオにて叙階され司祭となり、日本へ戻ったが、1583年天草で生涯を終えた。
   
ルイス・デ・アルメイダ渡来記念碑
(春徳寺通りを上り切った正面)
 : 煙草栽培発祥地碑
(アルメイダ記念碑の手前)
  長崎甚左衛門邸跡
(シーボルト通り桜馬場中学入口)
本蓮寺
 長崎駅前、立山の裾野の斜面にある日蓮宗の寺院。この場所には1592(天正19)年ポルトガル船長の寄付によって、ハンセン病患者のためのサン・ラザロ病院が建てられ、イエズス会のミゼリコルディアにより運営されていた。また、殉教した26聖人の一人フランシスコ会司祭バウチスタ神父によりサン・ジョアン教会が建てられた。当時この教会は、 トードス・オス・サントス教会、岬のサンタマリア教会とともに長崎3大教会と言われていたという。教会は、1614年に破壊されたが、病院は1619年まで存続の上破壊された。その跡地に1620年に建立されたのが、当本蓮寺である。
 破壊された際、境内の井戸にキリシタン信者が投げ込まれたとか、焼き討ちにあってロザリオを手に井戸に飛び込み多くの信者がなくなったといった言い伝えがある。本堂右手の日本庭園の中の「南蛮井戸」がその井戸である。また、幕末に再来日したシーボルトはここに止宿し、お滝、おイネと再会したという。勝海舟も境内の太乗院(現在はない)に4年間滞在した。
なお、原爆により全て破壊され、現在の本堂は1954年に建てられた。
(画像はクリックで拡大します)
   
本蓮寺正面
(上の建物は立山頂上のホテル長崎)
 : 勝海舟寓居地碑  サン・ラザロ病院跡、
サン・ジョアン教会跡碑
   
本蓮寺本堂 : 鐘楼  庭園入口
   
南蛮井戸 : 同左  庭園
十字架山と浦上点描
 浦上四番崩れの流配から戻った浦上の信徒は、聖徳寺の檀家として心ならずも行ってきた踏絵に対する贖罪と共に、公に信仰できることに感謝し、1881(明治14)年、浦上天主堂の北東1.2km程の丘(聖フランシスコ病院の北東方向)を購入して十字架を建てた。キリスト・イエスが磔刑にされた丘を想起して「十字架山」と名付けたという。津和野から戻った高木仙右衛門らが発起人となった。
 バス通りから急な階段を相当上った所にある。現在は、丘の頂上周辺まで宅地造成がなされ、住宅地の中になっている。
(画像はクリックで拡大します)
   
十字架山への道(浦上信徒は
ゴルゴダの坂道と呼んだという)
 : 十字架山  同左
 
浦上信徒心の拠り所"浦上天主堂" : 聖徳寺の被爆灯篭(被爆中心地所在)
(爆心地から1.7km、この灯篭だけ
残った)
(外海地区)

天福寺
 天福寺は、長崎から外海に向かうとその手前の海へ突き出た樫山地区に位置する曹洞宗の寺院で、寺請檀家制度の実施により、1688(元禄元)年に建立された。当時この地域の住民の殆どを占めていた潜伏キリシタンたちを檀家として受け入れ、守り続けた寺院として知られている。当地は取り締まりの比較的緩やかな佐賀鍋島藩の飛地だった。
 禁制の廃止後は、カトリックへの復帰により、檀家の激減を余儀なくされ、厳しい時期が続いたが、昭和五十年代初めより、各地区の隠れキリシタンの指導者不在と重なり、天福寺への集団改宗が行われ、正式に仏教徒として新たに生きる人達が生まれたことなどから、現在900を越える檀信徒が当山を支えているという。
当寺院のホームページには、「隠れキリシタンの隠れ蓑の寺として三百二十三年の間寒苦を共に分ち合い生きてきた」、と記載されている。
(画像はクリックで拡大します)
   
天福寺三門 : 国境標石
東北大村領、西南佐嘉領とある
  本堂
 
信徒会館
(ロビーに潜伏キリシタン関連品の
陳列がある(見学に要予約))
 : 鐘楼
外海潜伏キリシタン文化資料館
 2017年3月に黒崎教会下の空き家を改装してオープンした。黒崎地区における潜伏キリシタンの末裔である松川隆治館長(枯松神社保存会会長)が、15年ほど前から収集してきたキリシタンにかかわる品が展示されている。 松川家は、枯松神社を含む一帯の山林を有し、代々帳方という潜伏キリシタンの要の立場にあった。
展示品の数はそう多いわけではないが、かなり貴重なものがあるようお見受けした。
 「信徒発見」の後、大浦天主堂の神父の元へは、各地から潜伏していたキリシタンが訪れ、それぞれの村落へ案内され、密かに信仰復活を図っていたが、その際宣教の記念として、潜伏キリシタンたちに下の写真にあるようなロザリオや十字架が与えられていたという。当然浦上の信徒にも与えられたのであるが、浦上の場合は四番崩れによって、すべて没収されて残っていない。ここにあるロザリオは、黒崎の潜伏キリシタンが隠し持っていたもので、他に例はほとんどなく、松川さんによれば東京の博物館にある重要文化財のそれと同型のものである。
また、当博物館で最も珍しいのは「整骨箱」とのこと。潜伏時代キリシタンたちは、メダイ、十字架などの信仰関係の用具を竹の筒に入れて屋根裏などに隠していたが、右側の竹筒は、この整骨箱を収納していたもので、黒崎のかくれキリシタン宅の解体工事の際、袋戸棚に隠してあったのが発見された。
同様の例として有名になったのが、やはり外海で竹の筒から発見された、「雪のサンタ・マリア」である。17世紀に日本絵師によって描かれたもので、大きな反響を呼んだ。長崎駅前の日本26聖人記念館にある。
(画像はクリックで拡大します)
   
資料館外観 : 内部の様子  バスチャン暦(黒崎地区隣接地区の
かくれキリシタン所有)
   
オラショ
(悲しみ節(四旬節)に唱えるもの)
 : ロザリオ(信仰復活後に与えられた)  十字架(信仰復活後に与えられた)
 
整骨箱 : 竹筒
枯松神社
 いわゆるキリシタン神社である。キリシタン禁制の時代、外海地方の潜伏キリシタンは、現在の黒崎教会近くの山中に密かに集まり、オラショを捧げ伝承してきた。枯松神社は、その場所に明治時代に入ってから建立されたもので、日本人伝道師・バスチャンの師であるサン・ジワン神父を祀っている(現社殿は2003年に全面改築されたもの)。資料館見学後枯松神社への行き方を教えてもらおうかと考えていたが、館長夫人が案内してくださった。
 神社への参道は、神社下の墓地へ向かう道路の途中から細い道を上るのだが、分かり難く、案内がなければ通り過ぎてしまうと思われる。昔のままと思われる足元の良くない参道を上ると、祠の手前に「祈りの岩」と名付けられた大きな岩がある。迫害時代にキリシタンたちは復活祭前の悲しみ節(四旬節)の夜ここへ来て、この岩影で寒さに耐えオラショを唱えていたと伝えられている。世界遺産の話が出て間もないころであろう、松川夫人によれば、ユネスコ関係者が当地を訪れたことがあり、その際教会などには目もくれず、この「祈りの岩」こそ価値がある、と述べたという。
祈りの岩から上がると神社の下に、自然石を置いただけのキリシタン墓がある。実は、この墓はこの地域一帯を所有していた松川家代々の墓所なのである。新しく墓地が出来たため、そちらへ移したが、墓石はそのままにしてあるとのこと。潜伏期の墓参りでは墓石の上に白い小石を十字の形に並べて祈り、その後は見つからないように小石をバラバラにして帰っていたという。現在も墓石の上には白い小石が置いてあり、松川夫人が十字架を作って、それを崩して見せてくれた。  
(画像はクリックで拡大します)
   
枯松神社参道入口
(案内板の前を右へ登る、松川氏製
の参拝者用杖が見える)
 : 祈りの岩のポール  祈りの岩
   
参道の様子 : キリシタン墓(元松川家の)  同左
(小石を十字に並べた様子)
   
枯松神社正面 : 枯松神社内部  枯松神社全景
 神社下にはこの地域のかくれキリシタンの墓地がある。潜伏時代のまま、天福寺の檀家を続けており、墓石も仏式の墓地と変わらない。

 「信徒発見」直後、この地域の潜伏キリシタンは、直ちにカトリックに復帰しようとするグループと、慎重なグループの対立(騒動)があり、禁教令廃止後カトリックに復帰した者(200戸)と、そのままかくれキリシタンにとどまった者(60戸)に分かれ、その後仏教徒になった者の3者に分かれたが、当初の対立がその後長く根強いわだかまりとして残されることとなった。
 このような中、黒崎教会司祭の呼びかけにより、3者がそのわだかまりを超えて潜伏時代の信仰の共通の拠り所に集い、弾圧下で信仰を守り伝えた先祖たちへの感謝と慰霊の祈りを捧げる、「枯松神社祭」が行われてきた(2000年以降毎年11月3日)。カトリック司祭の司式による慰霊ミサ、旧キリシタンによるオラショの奉納が行われ、当初は禁制期に仏教徒を装うキリシタンを檀家として迎えた天福寺の住職も参加していたそうだ。
 ただ、2017年は三者合同の祭儀ではなく、各グループが別々に参拝する方法を取ることになった。黒崎教会では当日午前中に先祖の慰霊ミサが行われており、高齢化した信徒の負担が大きく、参加が困難になったことが理由とのこと。「一緒にやってこそ意味がある」わけで、今後の在り方について、協議を続けるようだが、長年のわだかまりが根にあるような気がする。詳しくは、長崎新聞記事を参照。元の形で継続できるようになることを祈りたい。

▲「キリシタン関連史跡」トップへ




1